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お菓子の「クールン」の話

【日清フーズの商品「クールン」】
 ある日、スーパーで買い物をしていると、懐かしい商品が目に飛び込んできた。日清フーズの“お菓子百科”「クールン レアチーズケーキ」である。これを小学生時代、年に一度ほど親に買ってきてもらい、自分で調理して食べるのが楽しみだったのだ。あの時の味と香りは、忘れることができない――。スーパーにてついに決断し、「クールン」に手が伸びた。もしかすると十数年ぶりになるのかも知れないが、久しぶりにこれを拵えてみようと思い立ったのである。

 ところで、「クールン」のレアチーズケーキは、いったいいつ頃から発売されていたのだろうか。ネット検索で調べてみると、意外にもどうも、あまりこういった情報が浮かび上がってこない。唯一記してあった情報によると、発売開始は1979年(昭和54年)らしい。これが信頼のおける情報かどうか、私は確認できていない。
 しかし、私が小学生であった昭和50年代に「クールン」を知って食べていたのだから、あながち間違いではないはずだ。だいたいその頃発売されたのだろうと思えばいい。昭和50年代当時、少なくとも私の周囲では、スイーツなどというものはおやつとして贅沢品であった。どら焼きか?鯛焼きか?で大喜びしていたのだから、スイーツはさらにその上のランクの食べ物だ。イチゴのショートケーキですら年に一度食べられるかどうか、そういった今の感覚とは違う古い時代というか古い環境において、「クールン」のレアチーズケーキは本当にありがたいスイーツであったし、夏休みの絵日記にしたくなるような一大イベントなのであった。

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【2つの袋が入っている「クールン」】
 たぶん作り方はほとんど憶えているから、レシピを見なくても作れる――のだけれど、敢えてレシピを確認しながら久しぶりに「クールン」を作ってみた。

 箱を開けると2つの袋が入っている。ビスケットベースとフィリングミックス。昔とまったく変わらない。まず用意しなければならないのは、皿だ。直径15cmの皿。それも少し深みのある皿が好ましいのだが、これにアルミホイルを敷く。箱の裏側には親切なことに、「皿のサイズの目安」といった15cmの“簡易定規”が記してあって、これに合う皿を選べばいい。昔はこんな目安の“簡易定規”など記してなかったはず。
 ボールにビスケットベースを全部入れ、冷たい牛乳を7.5cc入れると書いてある。入れる分量は微量なのだけれど、実はこれがとても重要で、正確に測って入れた方がいい。
【ビスケットベースを皿に敷き詰めたところ】
 この冷たい牛乳をわずかに加えてできた湿り気のあるビスケットベースを、先ほどのアルミを敷いた皿に敷き詰めていくのだが、満遍なく“硬め”に押しつけて敷き詰めるのがコツで、これが食べる時の大事な食感となる。“硬め”に押しつけておかないと、食べる時にビスケットがパラパラと崩れてしまい、歯ごたえのある食感が味わえない。レアチーズの柔らかさとビスケットベースのしっかりとした食感のバランスが「クールン」の命だ。ちなみに私はこの時、少し牛乳の分量を間違え、少し湿り気が足らず、食べる時にややパラパラとしてしまった。
【フィリングミックスに牛乳を加える】
 次。ボールにフィリングミックスを入れ、牛乳を100cc加えて混ぜる。“泡立器”で2分間混ぜ合わせる、とレシピには書いてある。仄かにチーズの匂いが漂う。――子供の頃、「キューピー3分クッキング」で“泡立器”なるものを初めて知見、ごくありきたりに憧れた。その頃母がねりねりねりねり、あんこを拵えて、ねりねりねりねりとおはぎを作るのとはまるで違った風情の“泡立器”。シャカシャカシャカっとサウンドがシャープ。シャカシャカシャカ!シャカシャカシャカ!すこぶる歯切れがいい。ちなみに私、幼児の頃に学芸会の人形劇で“泡立器”くんの役をやった。どんなキザなキャラクターだったのだろうか――。
 先ほどの敷き詰めたビスケットベースの上にこのフィリングを入れ、真っ平らに整える。“泡立器”くんはもういらない。調理自体もこれで終わり。あとは冷蔵庫で30分間以上冷やすだけ。

【完成した「クールン」のレアチーズケーキ。味には満足】
 日清フーズのホームページを見ると、「クールン」を使った“イチゴのタルト”のレシピが掲載されてあったりして、とても見た目が美味しそうだ。冷やして完成したレアチーズケーキの上にいっぱいイチゴを敷き詰め、真ん中にちょこんとミントを添えたシンプルなものだけれど、それなりに豪奢に見える。家庭の子供達はときめくに違いない。
 「クールン」自体は昔と変わらず、モダンなチーズケーキと比べると味がやや淡泊なので、こういったフルーツを加えるとかえって全体の味が引き立つ。私がもし、タルトを作るならば、イチゴ半分バナナ半分を敷き詰め、さらにその上にブルーベリーを加えて鮮やかな紫色にしてしまう。そこにちょっとブランデーかウイスキーのシングルモルトを塗って、大人の香りを演出したい。やり過ぎ?いや、ベリー・アンド・バナナのタルトだからきっと美味しくなるはずだ。

 思えば子供時代は、灰色の曇り空を見上げない。いつも青空の印象がある。ぽかぽか陽気の日曜の午後、ふと青空を見上げると、どこかの商店の宣伝のためにセスナ機が飛んでいた。セスナ機の拡声器から、商品の売り口上。歪んだ声の売り口上が、家々の壁に響いてディレイする。しばし家の周りがフランジング。サイケデリックな日曜日。そんな午後、「クールン」を拵える。そして夜のひとときを、まだかまだかと待ち望んだものだ。
 絶対に、とは言わないけれど、曇り空なんて見なかった。日曜夜の「東芝日曜劇場」など、子供は大人と一緒に観たりしない。それでも杉浦直樹さんの禿げた頭だけは、よく憶えている。「クールン」のレアチーズケーキを頬張りながら、明日は友達と何して遊ぼうか、延々とそればかりを楽しみにしていた、はずである。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

グーグス・ダーダ―知られざる円弧の演劇

初夏を感じる気持ちの良い晴天であった昨日の午後。東京・王子の花まる学習会王子小劇場にて、升味加耀主宰・脚本・演出による「果てとチーク」第2回公演 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』を観た。出演は江花渉(真空劇団)、川村瑞樹(劇団木霊)、高原久美子(劇団くるめるシアター)、福澤香織、升味加耀、秋谷悠太、伊佐敷尚子、島田利行、金澤卓哉、堀紗織。
 どうでもいいことだけれど、私はこの王子小劇場の“穴倉”感が好きである。ビルの雑踏の一角の、誰にも発見されないような一箇所に、まさしくぽっかりと、小さな穴が空いている。――私が子供だった頃、田舎町の商店街の一角に、地下に潜るかのような階段を降りて入口のある、地元では有名なオモチャ屋さんがあった。私はそのお店の、いくつかに分かれて陳列されていた、ガラスケースの中の“超合金ロボット”に眼を奪われたまま、立ち去ることができなかった。〈超合金ロボットが欲しい〉という強い欲望の夢心地。まるでそれは宝石のように輝いていた《モノ》と他愛ない《時間》との瞑想だったわけだが、まず“穴倉”に入るという行為が、もしかすると、そうした夢心地を誘発させる大きな理由だったのではないかと今、ふと思った。王子小劇場の地下階段もまた、子供心をより戻す、一つの装置に違いなかった。
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 『グーグス・ダーダ なになにもなになにもない NO nothing nothing nothing』。何が無いというのか、考えてみるとこのタイトルもなかなか面白い。ちなみに“グーグス・ダーダ”とは、ドイツ語の“Gugus dada!”。赤ん坊をあやす時の、“いないいない、ばあ!”だそうである。これまたちなみに(どうでもいいことだけれど…)、私が赤ん坊だった頃、親がこれをいくらやっても、私はムスッとしてなかなか笑わなかった、らしい。ふん、それがどうした、へん!ってな感じで――。
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演劇『金閣寺』追想

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 これは、と思う演劇に出合うと、その豊潤な余韻が長く尾を引く――。まったく良き酒の酩酊に似ている。  私が観た演劇『金閣寺』は、慶應義塾SFCの高橋拓也主宰公演。演出は早川雅仁(以下、敬称略)。1950年(昭和25年)夏…