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造形憧憬

【『原色学習図解百科』第10巻「新しい造形と美術」】
 幼児教育されているという感覚は、当の幼児にはなかった。そこに広がっていた「世界」は、視覚としての娯楽、聴覚としての豊かな娯楽であった。親から与えられたわけではなく、団地の家の中を徘徊し、片隅に設置された書棚の、何気なく美しいと思われた、ある「本」を手に取ったにすぎない。ただしそれは百科事典であった。「本」を読むというのではなく、その「世界」の閉じ込められた四角張った形状にまず関心があったのだ。
 閉じられていた「本」を開き、パラパラと無数の紙が束ねられているのを美しいと思った。そこには文字と称するもの、そして鮮やかな色彩と記号の数々、さらにはシルクスクリーン印刷によって高精細な画や写真が鏤められていた。そうした無限の色彩と造形の「世界」に、私は――幼児でありながら――酔い心地を覚えた。

 それは未知なる「世界」への出発であった。「私」という一個の人間の《現存》の始まり。モノとコトが交じり合う、果てしなき旅――。もはや、全人生のすべての起点とも言うべきこの時の原初体験から、私の中で生まれ出る「思考」は、宿命的に逃れることができなくなったのである。

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【色彩鮮やかな写真の数々】
 その「本」=百科事典とは、1968年初版本の学研『原色学習図解百科』第10巻「新しい造形と美術」である。この時の原初の体験について、既に当ブログ「新しい造形と美術」で触れている。昭和40年代後半、私が生まれる以前より、『原色学習図解百科』の全10巻は家に有って、団地住まいにおいては片隅の書棚の、下から三段目にそれらは鎮座していた。幼児だった私にとって、最も手の届きやすい位置に、それらが置かれていたことになる。ちなみに、この百科事典の第9巻は、当ブログのトピックスで頻繁に登場させている「楽しい音楽と鑑賞」だ。
 現在私が所有している全10巻は、その当時のものではなく、かなり後年に古書店で買い揃えたものである。もう50年近く経過した百科事典にしては、いまだなかなか状態が良い。しかし、当時家にあった『原色学習図解百科』は、発行からさほど年数が経っていないにもかかわらず、なんとなく痛みが激しかったように憶えている。それは私の想像の“上書き”による思い違いであろうか。初版発行から5年ほどしか経過していなかったはずだが、もしかするとそれらは、どこかの伝手によって中古のセットを手に入れたものだったのかも知れない。

【衣裳スタイルに関するページも鮮やか】
 こうして書いていくと、今以て私はこの古い百科事典に高い関心があり、しかもごく普通に愛読していることになるのだが、第10巻「新しい造形と美術」の存在は特別、かくも鮮烈であったと言っていい。
 幼かったから、「新しい造形と美術」という本の主旨こそ理解し得なかっただろうが、そこに収められた無数のカラー写真や図解は、単純明快に私の視覚を大いに刺戟し、興味を駆り立ててくれた。先に述べた“未知なる「世界」への出発”とは、あながち誇張した言い回しでもなんでもない。まったく見たこともない(生まれて間もないのだから当たり前だが)モノやコトがそこに示されてあって、それがうごめく世界の一部であるとするならば、いったい全体この世界はナニモノなんだろうかという興味、好奇心。あるいは大いなる畏れと不安。漠とした気持ちでそんなことを感じつつページをめくっていき、いくつかのたいへん記憶に残る写真と図解に、私は出くわした。

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 「未来の住宅」という標題のページが、まずそれである。「21世紀における個人住宅の予想図」というイラストを、私はどれほど好んで何度も貪り眺めたか知れない。
 それは、ある都市部の一角と思わしき未来型マンションもしくはコロニー型の個人住宅のイラストである。21世紀の住まいはこんなものだろうという未来予想図。これが実に奇想的で想像を刺戟した。

【貪り眺めた「未来の住宅」のページ】
 イラストを見てみよう。
 左奥に見える住まいでは、家族がホーム・シアターを楽しんでいるのが分かる。70年代当時も8ミリフィルム映写機によるホーム・シアター的趣味は顕在しているが、空間としての趣が、ここでは未来志向でまるで違う。右奥の住まいを見ると、父親らしき人物がシャワーを浴び、隣の部屋で子供と母親らしき人物が音楽を聴きながら自動給水機システムでジュースを飲んでくつろいでいる。手前左の住居でも、同様の自動給水機システムで飲み物を用意し、その奥で男性がいわゆる電子頭脳=コンピューターで何やら勉強しているように見える。ロボットとボクシングを楽しんでいる若者が住んでいるのはその右隣の住居で、父親はテレビ画面で野球を観戦し、別の部屋で女性が電子楽器で曲を弾いている。また別の女性が個室のようなところでモニター画面を見ながら、テレビ電話を利用している。
 テレビ電話なるもの。相手の顔をモニターで見ながら受話器を使って会話をしているが、テレビそのものにマイクロフォンを設置してあれば受話器などいらない――という発想は当時なかったのだろうか。また、話をするのにいちいち顔を映されては、スッピンで着衣が不格好な時に女性が困る、というのが定説になってビジネスモデル以外では不要論が根強い。
【美しいステーショナリー】
 が、それはともかくとして、テレビ電話的なものが1970年代において、どれほど夢物語なコミュニケーション・ツールであったか。私が子供時代、タレントの土居まさる氏が司会だった日曜昼帯のバラエティー番組「テレビ・ジョッキー」において、彼が視聴者に電話をかけるその電話機が、金色もしくは銀色の光沢で輝いていた“プッシュホン”であったのに対し、私はその電話機(という造形物)にどれほどの未来志向の憧れを感じ得ていたか。それを思うと、テレビ電話なるものに対する未来感覚は、さらにもっとえらく、想像もつかないほどの、研ぎ澄まされた憧憬であったのだ。

【広告とタイポグラフィーによる造形美】
 いずれにしてもあれから50年近く経て、これらの未来予想図は確かに、住宅の建築的な箇所はさておき、ほとんど実現してしまった(家庭でボクシングを楽しむという格闘意欲は、さすがに減衰)。むしろ今、さらに複雑で高度なネットワーク社会が成熟していることを考慮すると、この21世紀の未来予想図は単なる空想でも絵空事でもなく、真の意味での予想図であったことが頷ける。これらを遥かに凌ぐ「世界」に我々が今いるのだ、ということを思う時、あの幼児の頃の感動は、まさに“未知なる「世界」への出発”であった。

§

 視覚によって耽美な酔いを覚えた「造形美術」とその百科事典の憧憬については、もっと踏み込んで書くべきなのだが、どこをどう書いても書き足りないような気がするのでここでやめておく。「造形」というのを辞書で調べてみた。「造形」(造型)とは、芸術作品としてのかたちをつくりあげること。「造形美術」は、目に見える形によって美を表現する芸術のこと。絵画、彫刻、建築など。「空間芸術」というのもこれに含まれるようである。以上の調べは三省堂の国語辞典の第七版に拠った。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
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ファミコンの思い出―プロレス

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