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スペース・シアター―大阪万博・鉄鋼館の記録

【アルバム『スペース・シアター:EXPO'70 鉄鋼館の記録』】
 かつて秋田の高校が“大阪万博”へと向かった修学旅行の話「高校生の万国博読本」とは少し趣を変えて、ここでは再び「大阪万博と音響彫刻のこと」に関連し、鉄鋼館の話に立ち返りたいと思う。

 1970年“大阪万博”で前川国男設計の鉄鋼館だった建物は、今もその跡地、つまり万博記念公園のまったく同じ場所に現存している。現在は「EXPO’70パビリオン」と称し、“大阪万博”全体のメモリアル・スペースとなっているようだ。記念館のホームページによると、当時「スペース・シアター」と呼ばれたその円形の大ホールも、いまだ残存しているとのこと。ここは、ガラス越しによる観覧が可能らしい。

 最近私は、当時の「スペース・シアター」の音響を記録した、貴重な音楽アルバムを蒐集した。この音楽アルバムは『スペース・シアター:EXPO'70 鉄鋼館の記録』(ソニー・ミュージック・ジャパン)といい、“期間限定CD”として市販されている。すなわち、1970年発売同名LPの復刻盤である(私はこの2つとも所有することができた)。

 収録曲は、当時の音楽プログラムを再現した3曲。武満徹の「Crossing」、高橋悠治の「Yéguèn」、イアニス・クセナキスの「Hibiki Hana Ma」。3曲とも日本フィルハーモニー交響楽団の演奏録音で、1曲目と3曲目の指揮者は小澤征爾(1970年1月、川口市民会館で録音)、2曲目は若杉弘(1969年11月、日本フィルハーモニー交響楽団リハーサル・ホールで録音)である。
 アルバムのクレジットによると、レコーディング・ディレクターは草刈津三、音響ミキサーは若林駿介氏。おそらくこれらの演奏の録音は、マルチ・トラック・レコーダーを使用したものと思われ、通常のクラシック音楽のレコーディングと変わりはない。ただし、鉄鋼館の「スペース・シアター」は特殊な音響ホールである。ホールの床や天井に設置された千個を超えるスピーカーから音を再生するため、12チャンネル出力のいわゆる“スイッチング・システム”と呼ばれるコンピューターの自動制御装置を使って音像を可変させ、録音された演奏を立体的に再現したのではないか。会場にいた観客は、前方後方にとどまらず、あちらこちらから迫力ある音が発生して度肝を抜かれたはずである。
 しかしながら、これをそのまま現在のオーディオ・システムで再現(再生)することはできない。したがってこれらの3曲は、当時の「スペース・シアター」の音場内で2スピーカー用にステレオ録音されているのだ。

§

 現代音楽の巨匠・武満徹氏の音楽は広く映画音楽で知られ、その独特な楽器演奏手法によってそれが彼の音楽であるとすぐに分かる。1966年の勅使河原宏監督の映画『他人の顔』は私の好きな映画であるが、そのバックグラウンド・ミュージックにおけるある種の不気味な響きが、人間の底知れぬ暗い内面を表しているかのようで、武満氏の音楽的観念の意義が際立つ。「Crossing」はその範疇ととらえていい。1970年“大阪万博”の鉄鋼館を語る上で、武満徹は絶対に外せないキーパーソンである。
 私の関心は、アルバム2曲目の「Yéguèn」に集約される。何故ならこの演奏録音では、鉄鋼館に出展されたバシェの「音響彫刻」が使用されたからだ。しかも作曲した高橋氏の発言によると、この曲の作曲ではなんと、あの“IBM360”コンピューターが使用されたという。“IBM360”とは、IBMの「System/360」(設計責任者はジーン・アムダール)のことで、この「Yéguèn」では、いわゆる曲の構成のシーケンスを制御したものと思われる。ちなみにスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』(1968年公開)に登場する“HAL 9000”コンピューターは、「System/360」の先代シリーズとなる「IBM 704」がモチーフとなっている。こちらはとてつもなく大仕掛けなコンピューターだ。
 21世紀以降の現代の音楽制作において、コンピューターによるシーケンス制御はもはや一般的となってごく当たり前に活用されるが、あの当時、汎用コンピューター・マシンによる作曲プログラムというのはきわめて珍しく、しかも大がかりな、莫大なコストのかかるプロジェクトであっただろう。

 「Yéguèn」の曲を実際に聴いてみた――。
 音像や曲の構成は、意外とシンプルである。10分20秒の曲の構成としては単調で、常にそれぞれの楽器の音(音程)が連続音で鳴り響き、リズムや和声らしきものは感じられない。劇的な扇情の変化や起伏も乏しく、まことにストレートな構成である。
 このステレオ化された音像の中央では、例のバシェの「音響彫刻」の金属音が合間に鳴り響く。ギターの弦を弾くような音でもあり、金属が擦れる瞬間もある。余韻があるので決して心地悪い音ではない。その中央を囲むようにして左右で鳴り響くのは、金管や木管楽器のある種のノイズのような連続音である。トランペットやトロンボーン、ホルンやチューバ、フルートの音などが鳴っているのではないか。これらはすべての音源が同時録音されたのではなく、部分的に録音を重ねて合わせたものと思われる。

【スペース・シアターの内部を写したジャケット裏】
 何度も言うように、これらの曲はあくまでアルバム仕様のための、2チャンネルによる2スピーカー用のテープ録音マスターである。「スペース・シアター」においては当然仕様は異なり、マルチ・トラック・テープによる再生で各楽器編成の音を12チャンネルに振り分け、ホールにある千個以上のスピーカーにソースを振り分けたのだろう。座った客席の位置によって、曲の音像がまったく違って耳に届いたであろうことが想像される。

 しかし、約40分間の3曲のプログラムは、曲の内容からして当時としてはきわめて前衛的であり、場合によっては退屈と受け取られかねない。「スペース・シアター」では、レーザー光線による視覚的演出がなされたようだが、それでもその退屈さを補えたかどうか懸念が残る。
 故に、「スペース・シアター」におけるこのあまりにも斬新かつ実験的な試みを、相対的に理解できた者は、おそらく多くはいなかったであろう。たとえ理解が得られなかったとしても、ホール全体を巨大な音響実験場に設計した試みの最大のねらいが、“スティール・サウンズ”にあるのだとすれば、その様々な「鉄」の響きを聴くことに、観客は感動したに違いない。むしろ未来志向を好むあの頃の人々にとっては、ありふれた生演奏よりも、こうした実験的な装置に張り巡らされた“再生音”や“複製音”を聴く方が、喜びを覚えたのかも知れないのだ。

 あらためて思うのは、47年前に鉄鋼館でおこなれた全容をこうして耳で追体験できたことの不思議さである。考えれば鉄鋼館は、ハイセンスなオーディオ・ファンとその関係者を唸らせる、かなりマニアックなパビリオンだったのだ。そうして願わくば、バシェの「音響彫刻」がすべて修復され、いずれリアルに甦ることを私は夢見ていたい。夢はそう難しいことばかりではない――。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

石内都―Infinity∞

私がトノ・スタノの作品が観たく、『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』が催された東京・銀座の資生堂ギャラリーへ訪れたのは、もう6年も前のこと。それは2010年8月であった(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。それから今年の夏、『Frida is 石内都展』 を観ようと、同じく資生堂ギャラリーを訪れたのだけれど、ギャラリーの手前まで来て急に、“突発”の用事に襲われ、泣く泣く引き返して地下鉄の銀座駅へ落ちていったのである。つまり、私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかった――。
 石内都という写真家の特徴的な作品を、過去、しばし眺める度に、ある2つの作品を必ず思い出す。  一つは映画である。1966年に公開された勅使河原宏監督の『他人の顔』(原作・脚本は安部公房)。そしてもう一つは、文芸雑誌『群像』の2008年3月号に初めて掲載された、大庭みな子著の短篇小説『痣』。これらには共通項があって、それは《喪失》であったり、《傷》といったモチーフで括ることができるだろう。  『他人の顔』は、顔に大きな《傷》を負った男が、別の男の顔の仮面を秘密裡に拵えさせ、他人になりすまし、自分の妻を誘惑するというストーリー。自分が自分という存在を《喪失》し、仮面をかぶってまったく別の人となった時、《喪失》した自分は、その劣等感の反動であらゆる欲望を満たそうと際限なく暴走してしまう悲劇。  『痣』は、原爆が投下された直後の広島の町にて、無残な顔になった友人の恋人に声をかけられず、戦後、友人に再会しても恋人を見かけたことをとうとう告げることができなかった主人公の懺悔。痣とは、ここでは主人公が精神的に負った《傷》と受け取ることができる。
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 私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかったので、彼女の写真集『石内都 Infinity∞ 身体のゆくえ』(求龍堂)を眺めることにした。この写真集は2009年、群馬県立近代美術館にて催された同題の個展をカタログ化したもので、彼女の80年代後半からの作品が数多く収録されている。
 彼女の作品を眺める時、私はどうしてもそこから、《花の匂い》を感じてしまう。それはまったくの気のせいであろうか。  写真集の中で、「1906 to the skin」(1994年)と「A to A」(2006年)の作品について考えてみ…

大阪万博と音響彫刻のこと

久方ぶりに個人的な“大阪万博”熱が再燃するような、そんな興味深い新聞記事に出合い、そのクラウドファンディングの主旨に賛同し、些かの支援の企てをウェブ上で取り計らった。このネット出資が功を奏するかどうかは現時点では分からない――。しかし、“大阪万博”に対する憧憬と抽象音楽への深い関心の交差は、紛れもなく私自身を一瞬にして突き動かした。このプロジェクトが無事に成功してくれることを祈る以外にない。
 私が突き動かされたのは、朝日新聞朝刊5月27日付茨城版の「再び響け 大阪万博の『音』」という記事である。「音響彫刻修復へ ネットで出資者募る」という副題に刮目し、興味を持った。掻い摘まんで記事の内容を説明すると、1970年の大阪万博で出展されていたフランソワ・バシェ(François Baschet)製作の「音響彫刻」を、茨城県取手市の東京藝術大学ファクトリーセンターが修復・公開することを目的とし、その資金200万円をクラウドファンディングで(6月末まで)募っている――というもの。バシェの「音響彫刻」は17作品あって、過去に修復された5台以外の12台がこれに含まれる(一部寄贈された作品があるらしい)。
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 この「音響彫刻」の修復プロジェクトに関しては、バシェ協会のホームページが詳しい。それとは別に、私自身も独自にこの「音響彫刻」について調べてみた。そもそも“大阪万博”でこのようなオブジェがあったのかということに対し、私はこれまで聞いていたような聞いていなかったような、俄に判然としなかったのだけれども、最近、坂本龍一氏のアルバム『async』の中で過去に修復されたバシェの「音響彫刻」が使用されたことを知り、なんとなく朧気な輪郭が見え始めたのだ。そこではっきりと理解するために、当時の“大阪万博”の公式ガイド本(『日本万国博覧会 公式ガイド』)を開いてみた。
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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…