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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
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 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…
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樋口可南子と篠山紀信

お櫃でかき混ぜたご飯を召し上がるその瞬間に、ふわりと漂うヒノキの香りが鼻孔の奥を通り過ぎて、不思議なくらいに《野趣》に富む贅沢な気持ちを味わった。女優・樋口可南子の写真集『water fruit』を眺めていると、そういう体験を想起させてくれる。若い頃では絶対にそんなことを感じ得なかったであろう性愛への惑溺した趣が、今はとても心地良い風となってある種のユートピアの在処をひけらかすのであった。
 先月の16日、朝日新聞朝刊のコラムで、写真家・篠山紀信氏の『water fruit』にまつわる回想録が掲載された。私はそれを読んだ。「猫もしゃくしも『ヘア』 今も嫌」――。  振り返れば1991年、篠山紀信が樋口可南子をモチーフにして撮影した写真集『water fruit 篠山紀信+樋口可南子 accidents 1』が発売された時、“ヘアヌード写真集”が出たということで大変話題になったのを思い出す。当時32歳だった樋口可南子が、篠山氏のカメラの前で“脱いだ”という話題性よりももっと猥雑で露骨な剣幕として、彼女がヘア(pubic hair)までもさらけ出したという、女優としての度胸の意外性に大衆が刮目し、そのことに皆、惚れ惚れとしたのである。  ただし私はまだその頃、19歳であったから、世間の風俗の喧噪に疎く、そこに近づいて興味を持とうという気にはならなかった。あれから28年の歳月を経て、いま私の手元には『water fruit』がある。あの喧噪はいったい何であったのか、『water fruit』とは何ぞや――という長年心に覆われていた靄をいま、取り払ってみたくなったのである。  ちなみに、私が所有しているのは、“1991年3月15日第3刷”で、当時、帯に記され一般に浸透していたタイトルらしき“不測の事態”の文字は、この本の中の刊行データには記されていない。だからここでは、“不測の事態”という言葉を敢えて扱わないことにする。
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 作者と表現者の思いとは裏腹に、この写真集は徹頭徹尾、“ヘアヌード写真集”と流布されて知れ渡った。“ヘアヌード”とは造語であり、「陰毛が映っているヌード」という意である。  日本では戦後、民主主義憲法の下、「表現の自由」(憲法第21条)を謳いながらも性表現・性描写に関しては規制が厳しく(刑法175条)、欧米の基準とは異なって、露骨な性表現・性描写…

三代目「二才の醸」の味わい

ここぞとばかりに日本酒を味わう――。20代の若者だけで造ったという珍しい酒がある。人肌恋しくなる甘さのベースが口に広がると共に、若々しい果実の、その鮮麗とした味と香りが、口腔から喉の底へと落ちていく、絶妙な感覚――。  我が地元、茨城県古河市の蔵元である青木酒造の酒「二才の醸」(にさいのかもし)。この春売り出したばかりの純米吟醸である。まさに青春の瑞々しさを象徴し、己の心に若き新風が入り込むという情趣。日本酒の深々とした伝統の巧を想う。目を瞑ってこの酒に酔いしれていると、青年期の仄かな記憶が甦ってくる。まさに「二才の醸」の名にふさわしい悦楽の酒である。平成の最後の夜に呑み、明けて令和となった日の夜もまた、この「二才の醸」の若き香りと味に、私はすっかり感慨に浸り、心酔してしまったのである。
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 この酒は、新聞に掲載されていたのだった。4月8日付の朝日新聞朝刊(茨城版)。「3代目『二才の醸』 若者の情熱 結晶」という見出し。「青木酒造(古河)専務や学生らお披露目」という小見出しも付け加えられていた。  古河市の蔵元・青木酒造は天保2年創業である。一昨年の10月、当ブログ「夜の夢の銘酒―御慶事」で同蔵元の特別本醸造酒「御慶事」について書いた。「御慶事」の特別本醸造は甘口の類ではないが、私はこの酒のひっそりと隠れた淡い甘さが好きである(酒米「日本晴」、精米歩合60%、日本酒度+5、酸度1.3)。青木酒造の大本命、「御慶事」は、甘口から辛口まで(純米、特別純米、純米吟醸、純米大吟醸、醸造アルコールを加えた特別本醸造、大吟醸など)バリエーションがあるので、この一つの銘柄においても様々な味の広がりが愉しめるのだ。  話を「二才の醸」に戻す。新聞の写真は、その完成した「二才の醸」のほか、一升瓶を抱えて中央に位置した専務の青木知佐さん。傍らの若者達は、この「二才の醸」の酒造りにかかわったという筑波大の学生さん達だ。  記事を要約する。2014年に初代の「二才の醸」が、埼玉県幸手市の蔵元、石井酒造で誕生した。この銘柄は20代の若者だけで造る。蔵元が30代になったので、昨年の春、新潟市の宝山酒造に引き継がれた。さらに今年、三代目「二才の醸」が青木酒造に引き継がれたということである(専務の知佐さんは、29歳)。
青木酒造の三代目「二才の醸」の酒造りには、筑波大や上智大などの大学生ら2…

『洋酒天国』と世界の酒盛り

最近、“モフモフ”という擬態語=オノマトペが流行っているようだ。某テレビ番組のタイトルにも使われたりしていた。一昔前ならフカフカと言ったもの、あるいはモコモコと言ったものをもっと可愛らしく表現したのが、“モフモフ”ということらしい。それで、あくまでこれは個人的な意見であるが、先月から(いや、もっと以前から…)私が断続的に飲んでいるアイルランドの黒スタウトのビール=ギネス(Guinness)の舌触りというのは、これまでフカフカでもモコモコでも言語表現しきれなかったのに、今まさに“モフモフ”というオノマトペに出合ったとなれば、このビールに対してこの表現が一番相応しいではないか、声を出して言いたいのである。〈モフモフ! ギネス! モフモフ! ギネス!〉。世界中で流行って欲しいのでございます。
 ということでお酒の話題から、ヨーテンの話題へ推移しようと狡猾に策略したのだけれど、今回はそのアイリッシュではなく、おフランスなのである。フランスと言えばワイン、日本語で古風に言うと葡萄酒――。ワインは普段、私はあまり飲む機会をこしらえていなかった。ただし今、南仏「レゾルム ド カンブラス」のカベルネ・ソーヴィニヨンを美味しくいただいている。まあ、この話題はまた後にしよう。何はともあれヨーテンへ、いざ、出発進行――。
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 壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第6号は、昭和31年9月発行。表紙はお馴染み、坂根進氏のペーパークラフト。冊子の扉を開くと、柳原良平氏のちょっと官能的なイラストがあって、《水は外に 酒は内に 女は床に!…》と古代ローマ、ペトロニウスの「トリマルキオの饗宴」の箴言の引用テクスト(原文を読んでいないから詳しくは不明)。「トリマルキオの饗宴」は青柳正規氏の解説でいい本が出ているようだ。関心があるので、後でそれを買って読もうと思っている次第である。  昭和31年の世俗を一つ挙げてみる。千葉の公団稲毛住宅初入居、というのが当時のニュースになったらしい。入居者は、“関東団地族”と称されてはしゃいだらしいとか。団地(正式名は日本住宅公団地)という俗称は、昨今あまり世間で飛び交わなくなってきたが、私も幼少の頃、“団地族”の一員であった(当ブログ「ボクの団地生活」参照)。
 昭和の団地暮らしというのは独特なもので、ほぼ同程度の所得層が集う、基本的には和やかな雰囲気の半集団…

映画『幻魔大戦』―愛と新宿とポカリのパースペクティヴ

17歳の高校生の主人公・東丈(あずまじょう)が、新宿の街の場末でポカリスエットの缶を蹴る――。取るに足らないシーンのようでいて、どういうわけだか私は、それを見て〈これはただ事ではない映画だ〉と感じた。むろん、そこにいたる前のシークェンスも、ただ事ではない不穏な《予兆》を想起させてはいたが、自身の過去の記憶をめぐり、その理由が次第に判明していくのだった――。
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 映画『幻魔大戦』を観た。1983年公開の角川映画。キャラクター・デザインを務めた大友克洋の作画に魅了される。冒頭のシークェンスでトランシルバニア王国の第一王女プリンセス・ルナが登場する。彼女はテレパシストの16歳の少女――ということになっている。16歳の少女…。16歳というまだあどけないはずの面影は、そこからは微塵も感じられない。  さらに後々、東丈が登場する。彼もまた、どう見ても17歳の高校生男子には見えない。おでこが広い。おでこが広いということは、髪が薄いということである。実に東洋人的な面持ちであり、その無表情に押し込めた感受性の乏しい気怠さが重く感じられ、直ちに悪者を懲らしめてくれるような漲る正義感は、彼のこのおでこの広さからは想像できず、その性格のひ弱さに心が打ちのめされてしまっているようで、街から一歩も出そうにない。ちなみに彼は、高校の野球部のレギュラーから外されてしまい、只々そのことに屈伏し、世の中の沙汰に服従しようとしているだけであった。
 しかしながら不思議なことに、東丈には恋人がいた。彼の恋人とされる沢川淳子は、不思議な魅力を持った女性である。その魅力の根源がいったいなんだかよく分からないという魅力である。目つきがきりりとしている。考えてみれば彼女も同じ高校生なのだ。まったくそうは見えない。あまりに大人びてしまって、将来咲き乱れるであろう可憐な花の蕾――花咲く前夜という予期する期待感はまるでなく、もはや咲いた花びらの一片は散らんばかりの、詫び寂すぎた様相である。すべてが熟れすぎてしまっているこの呈は、いったいなんだろうか、と思った。  不気味な大人達のようでもある、大友克洋の描くこの世界の有り様は、私が認識している地球物理とは違うアングルで進行しているとしか、言いようがない。1年の月日は、ここでは彼らを5歳も年を取らせているかのようである。少なくとも彼ら高校生らの、ごく当たり前の純然…

寺山修司―三分三十秒の賭博とアスファルト・ジャングル

今年に入って、寺山修司の文筆と映像の世界にどっぷりと浸かり始めた。この世界の、至る所から漂う臭気とは、いったい何か――。それは決して花の香りでも、柑橘系の香りでも、ない。乾いた土に雨が降り始めた時のあの匂い。授業参観が終わった後の、教室にしつこく残った母親達の安っぽい化粧品の匂い。あるいは鉄サビに指をこすりつけてしまった時の憤怒の匂い…。いや、そういうのではない。いずれも当て嵌まらない特殊な何かの匂いが、この世界から漂ってくるのは、確かなのである。  彼の著書『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)を読んだのだった。貪り読んだと言っていい。当ブログ「ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話」で触れたように、私が所有している角川文庫のそれの、平成22年改版の本の装幀は、淡い緑色をしていてまったく目に付きやすい。そしてこの装幀カバーの裏面には、こう書かれている。 《平均化された人生を諦めとともに生き、骨の髄まで慣習の虜となってしまう前に、まずはすぐさま荷物をまとめ家を出よ、実行あるのみ――。人生に逃げ場はない。覚悟を決め、想像力を働かせよ。眠っている血はいつか、目をさます。家出の方法、ハイティーン詩集、競馬、ヤクザになる方法、自殺学入門。時代とともに駆け抜けた天才アジテーターによる、日常からの「冒険」のすすめをまとめた、クールな挑発の書!》 (角川文庫『書を捨てよ、町へ出よう』装幀より引用)
 この本は、光を失った《影》の空間において、たちまち黒みを帯びた濃い緑色に変貌する。緑色の特性というのは不思議なもので、明るい緑色は純真無垢な《少年性》をふるった明朗なる象徴となり、暗く深めの緑色は落ち着きを払った大人達の、“重い沈痛のうろたえ”を微かに含んだ《静寂》の象徴となって視覚にうったえる。アイルランドの三つ葉のクローバーには、“重い沈痛のうろたえ”が背後に潜んでいることを忘れてはならない。  むしろこうした緑色の変幻は、寺山修司という人の人格の、あるいは作家としての品格と言い換えてもいい、その両端の根源を表しているかのようでもあり、これ自体が寺山の象徴のアイテムとなっている。まことに優れた装幀である。私はこの本を手に取るのがやや恐ろしく感じる。寺山の世界とは、心地良い視覚的色彩のハレーションでありながら、単純には《猛毒》の根源であって、なおかつ蛾や蝶の「鱗粉」に触れた時のよ…

WHITNEY―卒業式の日のハーレー

高校時代の卒業式の日の話――。それはもう28年も前の話であって、何ら他者から共感を得られるとはこれっぽっちも思っていないけれど、今、どういうわけだか、そのつまらない話を書いてみたくなったのである。本当にありきたりな、どうでもいい話なのだけれど――。

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 私の母校は茨城県内の工業高校である。ありがちではあるが、女子生徒は極端に少ない。私のクラスには一人もいなかった。その手の逆説的な思い出話はこれ以上、ここでは書かないことにしたい。  母校のホームページを閲覧してみると、3月の行事予定のテクストに、《3/1 卒業式》と記されてあった。これがまた随分飾り気のないシンプルな行事予定のページであった。この高校の卒業式は、案外早いのだ。机の引き出しを開き、高校時代に付けていた日記帳を開いて確認したところ、やはりと言うべきかどうか、その日は「1991年3月2日土曜日」となっていた。
 あの日の記憶は比較的鮮明で、雨は降っておらず、多少風が冷たかった。晴れだったか曇りだったかのどちらか。なんとなく畏まった気持ちで校内の駐輪場に自転車を置き、普段は気にも留めない制服の乱れを正した後、校舎の玄関口に向かうと、そこに電気科の30代そこそこのK先生が神妙な面持ちで立っていて、卒業生ら生徒達を迎え入れてくれていた。心細い感じの弱い音声で私は、「おはようございます」と挨拶をした。K先生は軽く頷いてそれだけだった。この単純な所作のうちに、〈この日がここへ向かう最後の日なのだ…。K先生ともこれでお別れだ…〉という思いが高校生らしく熱く込み上げてきた。
 教室に入ってからの情景は、日記にこうある。
《教室に入ると、やはりいつもと変わりないように思えるけども、それでもどこか違うような空気が少しばかりあったと感じました》――何かそわそわした雰囲気。幾分、何気ない会話が詰まり、わざと明るく取り繕ったりするようなこともあって、式典の前のこの教室の中は、一人一人寂しさを隠してそれを他人に悟られない、言わば気取った空気があったのかも知れなかった。私が書き残した日記の言葉の羅列はあまりにも幼く、いま読んでもどきりとして戸惑ってしまうのだが、それらの言葉は何らひねくれていないし、素直なのである。
 体育館にておこなわれた卒業式典は、それなりに粛々とした厳かな雰囲気のある、静かなものであった。特に印象に残ってい…

ガラス板の中の青年―「郷愁と彼方の非線形」

これ以上はないと思われる百科事典たる荘厳な体裁その情趣。なおかつほとんどヴィンテージと言っていい古めかしい『世界大百科事典』(平凡社、1965年初版)で「写真」をひいてみた。まことにたいへんな長文であった。  冒頭のトピックは、「写真術の発明と発達」となっていて、1727年ドイツの医師シュルツェ(John Heinrich Schulze)が炭酸石灰と硝酸銀などの原料を用い、ガラス瓶の中に透過された光によって黒紙の模様を現出させた実験の内容から論述が始まっている。それから、フランスのダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre)の話へと続き、湿板写真の発明云々の後、ようやく乾板とフィルムについての論述となる。これらの学術的内容は、興味を示す者にとっては実に博学的な、そうでない者にとってはちんぷんかんぷんな言葉の羅列であり、写真の発明と原理についての硬質とも言える文体の科学的論法こそ、『世界大百科事典』に似つかわしい格調高い風情なのであった。
 それはそうと、私がここで述べようとしているのは、写真乾板についてである。写真乾板の発明は、1871年イギリスのマドックス(Rechard Leach Maddox)による。ゼラチンの溶液に臭化銀を作ってガラス板に塗布し乾かしたものを用い、湿式ではほとんど不可能であった動体撮影が、乾板では可能となった。そうして感光乳剤を塗布していたガラス板の素材が、やがて感光性フィルムに置き換わって技術的進歩を遂げた、その恩恵をめいっぱい授かった20世紀末までが、フィルム現像方式の全盛期であり、以後、ピクセル画によるデジタル・カメラが主流となってその役目が終わる。ここから話を写真乾板に戻す――。
 私が今回おこなった実験的試みは、古びた写真乾板のデジタル画像変換(デジタル・スキャニング)である。故あって、というか自身の音楽制作(「郷愁と彼方の非線形」)に関連し、そのモチーフの画像を得るためにこうした試みをおこなったわけだが、写真乾板のデジタル画像変換は、既に経験として別の乾板で2年前にもおこなったことがある(当ブログ「乾板写真―家族の肖像〈1〉」参照)。  ガラス板に光を投射し、塗布された感光乳剤によって印画された像を、デジタル画像に変換して記録すること。これには、スキャナーを用いる。こうした方法をより科学的に精確に…

さようならヨーカドー

かなり思い出の詰まった“ローカル”な話――。去る2月17日、わが地元の市民に長年愛されてきた総合スーパー「イトーヨーカドー古河店」(茨城県古河市雷電町)が惜しまれて閉店。知り合いに聞けば、閉店日当日は駐車場がほぼすべて満車。多くの人が詰めかけて大盛況であったという。  実は昨年中の早い時期に、“古河のイトーヨーカドーが来年、閉店になる”という話を知人から聞いていた。閉店という言葉にある種の驚きはあったものの、ああ、いよいよヨーカドーもそうなるのかという深い溜息に近い気持ちであった。以前より、実際に店内で買い物をしていてもなんとなく客足が薄まっているように感じられたし、どこか活気に乏しいところがあった。しかも市内にはいくつかの大型スーパーがあって、そちらに客を取られている感は否めなかった。〈ここにきて閉店はやむを得ない〉という消沈。
 そうして今年の1月、茨城新聞の9日付の記事の見出しで「ヨーカドー古河店閉店へ 2月17日、売り上げ低迷」と出る。
《JR古河駅近くの中核的な商業施設として長年親しまれてきたが、近年の売り上げ低迷などを理由に撤退が決まった。同ホールディングスの担当者は「お客さまのニーズの変化に対応できなくなってしまった」と説明した》
(2019年1月9日付茨城新聞より引用)
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 あれよあれよと日々の生活の忙しさにかまけて、気づけば明日が閉店日なのだと気づいた時はもう遅かった。個人的に店舗を訪れる機会を完全に喪ってしまったのだった。今年はせめて一度だけ最後に訪れようと思っていたにもかかわらず。もう一度あそこで、あの店であれを買おう。その念願を果たせないまま、閉店の日が過ぎてしまった。クローズである。やるせない無念さが込み上げてくる――。
 地元に「イトーヨーカドー古河店」ができたのは、42年前の1976年(昭和51年)5月である。私はまだ4歳だった。
 あの頃、売り場面積の広い大型の総合スーパーなんていうものは他になくて、ヨーカドーのオープン直後、日曜日になるとそこへ家族5人で買い物に出掛けるのが、お決まりの休日イベントであった。買い物をした後に店内のレストラン街で昼食をゆっくりと楽しむ。私はもちろん、泣く子も黙る王道のお子様ランチ。ぽっくりとお山になったチャーハンの頂に日本の国旗。ピーピー鳴る笛が付いていて、黒っぽいカラメルのソースがたっぷりとかか…

ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話

新宿…シンジュク…Shinjuku――と、かの時代の新宿に思いを馳せてみる。1960年代から70年代にかけての新宿。その頃私はまだ生まれていなかったから、1980年代以前の新宿の空気を知らないし、あまり話にも聞かなかった。知らなかった頃の昭和の新宿が、たまらなく知りたくなる。当面はまず、机上の空想でその頃の新宿という街を読み解いていくしかない。
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 机の上に資料を並べた。グラスに琥珀色の酒を注ぎ、その薫香を味わいながら、新宿の、今よりももっと“図太かった”街の様子を、大雑把に想像してみる。地下階段から這い出た東口付近の通りの、歩く人々の交差とネオンの夜景。どこまでも世相が反映する人々の服装、化粧、身につける装飾品。そして今でこそ、大事そうに片手に抱えるケータイからSNSに夢中になる人々のうつろな眼差しというものは、あの頃には、まったくなかった。そのことは、逆に不可思議な想像と映るかも知れない。思う存分、そんな昔の新宿の街を、心にしみるまで想像してみた――。  昭和の新宿への懐古的空想は、まるで古びて黒ずんだ幻燈機の放つ、妖しい光のように淡く切ない。ゆらめく光が幻影を作り出し、幻影と幻影とが交錯し、《記憶》の襞を刺戟する。  新宿という街は、どこか人々の《記憶》を曖昧にしてしまう負の力がある。特有の後ろめたさが、心の裏側にこびりついて失うことがない。私がかつて、学生時代に街を歩いて目撃した新宿の所々には、60年代から70年代にかけての新宿の幻影なるものが、二重写しのようになって残存していたように思われる。この時既に、私が見た街の記憶は、事実と虚構の境界線をゆらゆらと行き来するような曖昧なものであった。
 新宿は、闊達とした街である。時代の変化を感じさせない文化的スケールがある。どういうわけだか今、私は、新宿という街を愛してしまっている。繰り返し繰り返し、そのことを追想している。  確かに中学生の頃は、新宿という街の猥雑さに憧れた。国籍を問わず多種多様な恰好をした大人達が、主体性もなく街をさまよっていることに憧れた。が、街への憧れと愛着はさほど長くは続かなかった。いま再び、新宿という街について思いを馳せてみると、やはり少年時代に見た新宿の、あの大人びた、どこか汚らわしくそれでいて少し寂びて枯れた心持ちの、なんとも言えないざわざわとした雰囲気が、たまらなく脳裏に甦…

嵐の活動休止宣言―3つのカウントダウンという大翼

1月27日の夜、マスメディアに衝撃が伝わった――。スマートフォンのニュースアプリが通知音を鳴らして“速報”をポップアップ。それは、アイドルグループ「嵐」の活動休止を伝えるニュースであった。青天の霹靂(へきれき)とはまさにこのこと。嵐のメンバーはその夜、揃って会見を開いた。翌日付の朝日新聞朝刊には、《アイドルグループ「嵐」が2020年いっぱいでの活動休止を発表した》という文言から始まる記事が掲載され、珍しく一般紙としては、ただならぬ波及の事態を伝えていた――。
 記事の見出しは、「嵐の決断『5人じゃないと』」。小見出しは2つ、「大野さん提案 話し合い重ねる」「ファン『言葉出ない』」
 読んでみると、全体の内容は嵐の会見の要約となっており、リーダーである大野智さんが一昨年の6月に他の4人(櫻井翔、相葉雅紀、二宮和也、松本潤)に話を持ちかけ、嵐の活動を終えて自由な生活をしてみたい、と対話をしたこと。昨年の2月には所属事務所(ジャニーズ事務所)に報告し、その年の6月に活動休止を決断した、とあった。そうだとすると、嵐のメンバーの5人は、ずっとそのことを固く閉ざして胸に秘めたまま、年が明けた27日まで、諸処の活動の仕事をひたむきに続けていたことになる。あらためて事態の大きさを思った。

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 今これを書いている私自身が、こうしてジャニーズのタレントである嵐のメンバーの去就について書いていることを、たいへん不思議に思っている。端的に言って、私の守備範囲のトピックではないし、それをこのブログに書いている非常に奇妙な感覚に、正直、鳥肌が立ってしまっている。
 私はアイドル・タレントの追っかけをしたという経験がない。特段、嵐のファンであることを隠していた、ということでもない。さながらこの日本にいて、今回のニュースを知った時、誰しもが感じたであろう“時代の裂け目”を想像したのである。嵐が芸能界に君臨していた平成の時代――。彼らにとってそれは、いったいどういう時代であったのだろうか。そしていよいよ、その終焉を迎えるらしいことが分かり、人々の心の戸惑いも想像できる。もしかするとこれから、何か、大きな流れでモノゴトが変わっていくのではないかという、世の中の漠とした不安と心配と、幾分かの期待――。

 嵐は1999年のデビュー以来、言わば“国民的アイドル”の地位を確立し、あどけない表情が魅…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈七〉

2019年、ついに“ライカ・ウイルス”感染――。昨年はデジカメのLEICA X2(レンズはELMARIT 24mm F2.8)を買ってしまったけれど、症状はやや沈静化していたのだった。それが突然、今年になって猛威をふるったのは、mas氏の幻のウェブサイトのせいである。10年以上前に抹消されていたと思われていたサイトは、実はそうではなく、ネット上にひっそりと生存し、眠り続けていたことを知った。ついこのあいだ私は、それを発見してつい有頂天になった。  気がつけば、“ライカ・ウイルス”の恐るべき脅威の餌食となっていた。もう手遅れであった。私の目の前には今、ぽつねんとその主人が、座り込んでいるではないか。そう、去年とは別人様のライカ――バルナックのIIIcである。
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前回お伝えしたmas氏の幻のウェブサイト[msbcsnb]に紐付けされたリンク先から、今回は「ライカ片手の新宿」(2000年)を紹介してみよう。私はこのテクストと彼が撮影した写真4カットを、確か2004年頃に何度も眺めていたのだった。30代の頃である。あれから14年の歳月を経て、忘却の彼方に追いやられていた「ライカ片手の新宿」の随筆を、あらためて精読してみた。
《二十世紀がそろそろ終わるので感傷的に過去の思い出に浸ろうというわけではもちろんないし、これらの写真を不特定多数の人に見て貰いたいというわけでもない。ずっと新宿という街が好きだった、それなのに何故か写真を撮ったことはほとんどなかった、ただそれだけのことだ。  学生時代、この街は僕にとってジャズそのものだった。中学時代に填ったジャズだけど、高校になって、生音とかレコードを聴きにこの街に来るようになった。紀伊国屋裏のピットイン、ジェイ、ニューダグ、ナルシス。二十歳を過ぎてゴールデン街という存在を知った。シラムレン。そのころ、大陸系マフィアがどうのこうの、なんて騒がれ始めた頃で、風林会館前の横町にあるばるぼらの前で中国人が青龍刀で殺されたりした。ジャズと深くかかわり始めると、世の中全てのものが「ジャズ」か「ジャズでないもの」になってしまう。そして、新宿はまぎれもなく「ジャズ」だった。  あれから十年も経っていないのに、僕の好きな新宿はポツポツと消えていってしまっている。その消えつつある僕の好きな新宿をカメラ片手にめぐるのが今、無性に楽しい》 《left to r…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈六〉

サブカルで私淑するmas氏のウェブサイトが、ネット上で見つかった。奇跡の発見。過去に抹消されたと思われていた一部のページが、まだサーバーに残っていたのである。思いがけぬハプニングに、私は今、とても昂揚している――。

 ウェブサイト[msbcsnb]http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)。mas氏がかれこれ20年ほど前に耕していたウェブサイトであり、ラスト・アップデートは2008年4月15日となっている。つまり10年ほど前に最後の更新をして以来、ずっとそこに、ネット上で眠り続けていた、ということになる。この10年間、私はまったくそのことに気がつかなかったのだ。
 mas氏のウェブサイトは他にも[mas camera classica]というのがあったが、どうやらそれはこのドメインのディレクトリには残っていないらしい。もともとドメインが別のため、そちらはおそらく、もう現存していないかも知れない。
 この度発見した[msbcsnb]トップのインデックスのページには、彼愛用のクラシック・カメラとレンズによって撮影されたと思われる、奥さんと可愛い娘さんの当時の画像がそのまま残って掲載されている。残念ながらこのサイトは、オーナーであるmas氏とコンタクトを取ることができない仕様になっているが、ともかく私個人の感覚としては、不思議な気がしてならないのである。何故なら、もうこれらはこの世に無いと思われていたのに、本当はそこに在ったのだから――。

 発見したのは、まったくの偶然であった。前回の「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈五〉」の原稿を書く直前、mas氏に関連したワードを試しに検索したところ、このサイトがヒットしたのだった。まさに瓢箪から駒である。トップのインデックス・ページから紐付けされたページはけっこう多く残っているので、どれを閲覧しても懐かしい思いがする。mas氏の撮影された写真を眺め、テクストの隅々までを私はかつて、何度もアクセスして耽読したのだった。
 実を言うと、私自身がプライヴェートで付けている日記を調べたら、mas氏のサイトに関する記述が膨大に見つかった。およそその記述は2004年から2009年にまで及び、彼のサイトに関する感想が短文で記録されていたのである。そのテクストを参考にして今回、あるワードを…