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さようならヨーカドー

かなり思い出の詰まった“ローカル”な話――。去る2月17日、わが地元の市民に長年愛されてきた総合スーパー「イトーヨーカドー古河店」(茨城県古河市雷電町)が惜しまれて閉店。知り合いに聞けば、閉店日当日は駐車場がほぼすべて満車。多くの人が詰めかけて大盛況であったという。  実は昨年中の早い時期に、“古河のイトーヨーカドーが来年、閉店になる”という話を知人から聞いていた。閉店という言葉にある種の驚きはあったものの、ああ、いよいよヨーカドーもそうなるのかという深い溜息に近い気持ちであった。以前より、実際に店内で買い物をしていてもなんとなく客足が薄まっているように感じられたし、どこか活気に乏しいところがあった。しかも市内にはいくつかの大型スーパーがあって、そちらに客を取られている感は否めなかった。〈ここにきて閉店はやむを得ない〉という消沈。
 そうして今年の1月、茨城新聞の9日付の記事の見出しで「ヨーカドー古河店閉店へ 2月17日、売り上げ低迷」と出る。
《JR古河駅近くの中核的な商業施設として長年親しまれてきたが、近年の売り上げ低迷などを理由に撤退が決まった。同ホールディングスの担当者は「お客さまのニーズの変化に対応できなくなってしまった」と説明した》
(2019年1月9日付茨城新聞より引用)
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 あれよあれよと日々の生活の忙しさにかまけて、気づけば明日が閉店日なのだと気づいた時はもう遅かった。個人的に店舗を訪れる機会を完全に喪ってしまったのだった。今年はせめて一度だけ最後に訪れようと思っていたにもかかわらず。もう一度あそこで、あの店であれを買おう。その念願を果たせないまま、閉店の日が過ぎてしまった。クローズである。やるせない無念さが込み上げてくる――。
 地元に「イトーヨーカドー古河店」ができたのは、42年前の1976年(昭和51年)5月である。私はまだ4歳だった。
 あの頃、売り場面積の広い大型の総合スーパーなんていうものは他になくて、ヨーカドーのオープン直後、日曜日になるとそこへ家族5人で買い物に出掛けるのが、お決まりの休日イベントであった。買い物をした後に店内のレストラン街で昼食をゆっくりと楽しむ。私はもちろん、泣く子も黙る王道のお子様ランチ。ぽっくりとお山になったチャーハンの頂に日本の国旗。ピーピー鳴る笛が付いていて、黒っぽいカラメルのソースがたっぷりとかか…
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ぐだぐだと、寺山修司と新宿風月堂の話

新宿…シンジュク…Shinjuku――と、かの時代の新宿に思いを馳せてみる。1960年代から70年代にかけての新宿。その頃私はまだ生まれていなかったから、1980年代以前の新宿の空気を知らないし、あまり話にも聞かなかった。知らなかった頃の昭和の新宿が、たまらなく知りたくなる。当面はまず、机上の空想でその頃の新宿という街を読み解いていくしかない。
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 机の上に資料を並べた。グラスに琥珀色の酒を注ぎ、その薫香を味わいながら、新宿の、今よりももっと“図太かった”街の様子を、大雑把に想像してみる。地下階段から這い出た東口付近の通りの、歩く人々の交差とネオンの夜景。どこまでも世相が反映する人々の服装、化粧、身につける装飾品。そして今でこそ、大事そうに片手に抱えるケータイからSNSに夢中になる人々のうつろな眼差しというものは、あの頃には、まったくなかった。そのことは、逆に不可思議な想像と映るかも知れない。思う存分、そんな昔の新宿の街を、心にしみるまで想像してみた――。  昭和の新宿への懐古的空想は、まるで古びて黒ずんだ幻燈機の放つ、妖しい光のように淡く切ない。ゆらめく光が幻影を作り出し、幻影と幻影とが交錯し、《記憶》の襞を刺戟する。  新宿という街は、どこか人々の《記憶》を曖昧にしてしまう負の力がある。特有の後ろめたさが、心の裏側にこびりついて失うことがない。私がかつて、学生時代に街を歩いて目撃した新宿の所々には、60年代から70年代にかけての新宿の幻影なるものが、二重写しのようになって残存していたように思われる。この時既に、私が見た街の記憶は、事実と虚構の境界線をゆらゆらと行き来するような曖昧なものであった。
 新宿は、闊達とした街である。時代の変化を感じさせない文化的スケールがある。どういうわけだか今、私は、新宿という街を愛してしまっている。繰り返し繰り返し、そのことを追想している。  確かに中学生の頃は、新宿という街の猥雑さに憧れた。国籍を問わず多種多様な恰好をした大人達が、主体性もなく街をさまよっていることに憧れた。が、街への憧れと愛着はさほど長くは続かなかった。いま再び、新宿という街について思いを馳せてみると、やはり少年時代に見た新宿の、あの大人びた、どこか汚らわしくそれでいて少し寂びて枯れた心持ちの、なんとも言えないざわざわとした雰囲気が、たまらなく脳裏に甦…

嵐の活動休止宣言―3つのカウントダウンという大翼

1月27日の夜、マスメディアに衝撃が伝わった――。スマートフォンのニュースアプリが通知音を鳴らして“速報”をポップアップ。それは、アイドルグループ「嵐」の活動休止を伝えるニュースであった。青天の霹靂(へきれき)とはまさにこのこと。嵐のメンバーはその夜、揃って会見を開いた。翌日付の朝日新聞朝刊には、《アイドルグループ「嵐」が2020年いっぱいでの活動休止を発表した》という文言から始まる記事が掲載され、珍しく一般紙としては、ただならぬ波及の事態を伝えていた――。
 記事の見出しは、「嵐の決断『5人じゃないと』」。小見出しは2つ、「大野さん提案 話し合い重ねる」「ファン『言葉出ない』」
 読んでみると、全体の内容は嵐の会見の要約となっており、リーダーである大野智さんが一昨年の6月に他の4人(櫻井翔、相葉雅紀、二宮和也、松本潤)に話を持ちかけ、嵐の活動を終えて自由な生活をしてみたい、と対話をしたこと。昨年の2月には所属事務所(ジャニーズ事務所)に報告し、その年の6月に活動休止を決断した、とあった。そうだとすると、嵐のメンバーの5人は、ずっとそのことを固く閉ざして胸に秘めたまま、年が明けた27日まで、諸処の活動の仕事をひたむきに続けていたことになる。あらためて事態の大きさを思った。

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 今これを書いている私自身が、こうしてジャニーズのタレントである嵐のメンバーの去就について書いていることを、たいへん不思議に思っている。端的に言って、私の守備範囲のトピックではないし、それをこのブログに書いている非常に奇妙な感覚に、正直、鳥肌が立ってしまっている。
 私はアイドル・タレントの追っかけをしたという経験がない。特段、嵐のファンであることを隠していた、ということでもない。さながらこの日本にいて、今回のニュースを知った時、誰しもが感じたであろう“時代の裂け目”を想像したのである。嵐が芸能界に君臨していた平成の時代――。彼らにとってそれは、いったいどういう時代であったのだろうか。そしていよいよ、その終焉を迎えるらしいことが分かり、人々の心の戸惑いも想像できる。もしかするとこれから、何か、大きな流れでモノゴトが変わっていくのではないかという、世の中の漠とした不安と心配と、幾分かの期待――。

 嵐は1999年のデビュー以来、言わば“国民的アイドル”の地位を確立し、あどけない表情が魅…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈七〉

2019年、ついに“ライカ・ウイルス”感染――。昨年はデジカメのLEICA X2(レンズはELMARIT 24mm F2.8)を買ってしまったけれど、症状はやや沈静化していたのだった。それが突然、今年になって猛威をふるったのは、mas氏の幻のウェブサイトのせいである。10年以上前に抹消されていたと思われていたサイトは、実はそうではなく、ネット上にひっそりと生存し、眠り続けていたことを知った。ついこのあいだ私は、それを発見してつい有頂天になった。  気がつけば、“ライカ・ウイルス”の恐るべき脅威の餌食となっていた。もう手遅れであった。私の目の前には今、ぽつねんとその主人が、座り込んでいるではないか。そう、去年とは別人様のライカ――バルナックのIIIcである。
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前回お伝えしたmas氏の幻のウェブサイト[msbcsnb]に紐付けされたリンク先から、今回は「ライカ片手の新宿」(2000年)を紹介してみよう。私はこのテクストと彼が撮影した写真4カットを、確か2004年頃に何度も眺めていたのだった。30代の頃である。あれから14年の歳月を経て、忘却の彼方に追いやられていた「ライカ片手の新宿」の随筆を、あらためて精読してみた。
《二十世紀がそろそろ終わるので感傷的に過去の思い出に浸ろうというわけではもちろんないし、これらの写真を不特定多数の人に見て貰いたいというわけでもない。ずっと新宿という街が好きだった、それなのに何故か写真を撮ったことはほとんどなかった、ただそれだけのことだ。  学生時代、この街は僕にとってジャズそのものだった。中学時代に填ったジャズだけど、高校になって、生音とかレコードを聴きにこの街に来るようになった。紀伊国屋裏のピットイン、ジェイ、ニューダグ、ナルシス。二十歳を過ぎてゴールデン街という存在を知った。シラムレン。そのころ、大陸系マフィアがどうのこうの、なんて騒がれ始めた頃で、風林会館前の横町にあるばるぼらの前で中国人が青龍刀で殺されたりした。ジャズと深くかかわり始めると、世の中全てのものが「ジャズ」か「ジャズでないもの」になってしまう。そして、新宿はまぎれもなく「ジャズ」だった。  あれから十年も経っていないのに、僕の好きな新宿はポツポツと消えていってしまっている。その消えつつある僕の好きな新宿をカメラ片手にめぐるのが今、無性に楽しい》 《left to r…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈六〉

サブカルで私淑するmas氏のウェブサイトが、ネット上で見つかった。奇跡の発見。過去に抹消されたと思われていた一部のページが、まだサーバーに残っていたのである。思いがけぬハプニングに、私は今、とても昂揚している――。

 ウェブサイト[msbcsnb]http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)。mas氏がかれこれ20年ほど前に耕していたウェブサイトであり、ラスト・アップデートは2008年4月15日となっている。つまり10年ほど前に最後の更新をして以来、ずっとそこに、ネット上で眠り続けていた、ということになる。この10年間、私はまったくそのことに気がつかなかったのだ。
 mas氏のウェブサイトは他にも[mas camera classica]というのがあったが、どうやらそれはこのドメインのディレクトリには残っていないらしい。もともとドメインが別のため、そちらはおそらく、もう現存していないかも知れない。
 この度発見した[msbcsnb]トップのインデックスのページには、彼愛用のクラシック・カメラとレンズによって撮影されたと思われる、奥さんと可愛い娘さんの当時の画像がそのまま残って掲載されている。残念ながらこのサイトは、オーナーであるmas氏とコンタクトを取ることができない仕様になっているが、ともかく私個人の感覚としては、不思議な気がしてならないのである。何故なら、もうこれらはこの世に無いと思われていたのに、本当はそこに在ったのだから――。

 発見したのは、まったくの偶然であった。前回の「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈五〉」の原稿を書く直前、mas氏に関連したワードを試しに検索したところ、このサイトがヒットしたのだった。まさに瓢箪から駒である。トップのインデックス・ページから紐付けされたページはけっこう多く残っているので、どれを閲覧しても懐かしい思いがする。mas氏の撮影された写真を眺め、テクストの隅々までを私はかつて、何度もアクセスして耽読したのだった。
 実を言うと、私自身がプライヴェートで付けている日記を調べたら、mas氏のサイトに関する記述が膨大に見つかった。およそその記述は2004年から2009年にまで及び、彼のサイトに関する感想が短文で記録されていたのである。そのテクストを参考にして今回、あるワードを…

司馬遼太郎の『ニューヨーク散歩』

昨年中より、ざわざわと司馬遼太郎の本を読み返すようになった。圧倒的な熱量で彼の著書の歴史関連を漁り、幕末から明治維新以後の、近代の日本を読み解くのに夢中になっていた、私の20代半ばから後半にかけては、その中でも特に『街道をゆく』シリーズが最も望ましい賛助であった。  この街道シリーズは、単に土地土地の歴史に触れるだけでなく、その歴史を刻んだ生々しい息吹をひとたび現世に甦らせ、古代人の風雨入り交じる土着の臭気を、活字の中から嗅ぐことができる。司馬さんの民俗学的な視点が、隙間なく多分に入り込んでいるせいである。こうした稀有な読書の体験は、なかなか他では得られるものではないだろう。再び街道シリーズを乱読した昨年は、そうした司馬遼太郎の著書ならではの、読後感の醍醐味を思い出したのだった。
 あの当時、毎週通っていた馴染みの書店があった――。逐一、その書店で『街道をゆく』シリーズの好きな紀行編を買い求めるようになった。朝日文庫の書棚と岩波文庫の書棚が隣同士だったから、そのあたりに立ち止まってしばし時間を忘れ、両隣の文庫本を手に取って活字を散読する習慣ともなっていたのである。今、その書店は町に存在しない――。数年前にたたまれてしまった。  私の記憶には、まだ店内の雰囲気がありありと鮮明なカラー写真のように残っているけれど、そこで買った街道シリーズは、数えてみると全43冊のうち、16冊であった。後々、ワープロを使って街道シリーズ43冊の書名リストを作成し、読み終わった紀行編にペンでチェックを付けておいた。そのリストは今も手元にある。したがって、不足の(買っていない)紀行編がどれだかすぐに分かるのである。リストを参考にして昨年、おもむろに「ニューヨーク散歩」と「南蛮のみち」(Ⅰ、Ⅱ)、「台湾紀行」、「中国・閩のみち」を買い足した。現在のところ、所有するのは計21冊となった。
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 さて、昨年の春頃からずっと乱読していたのが、「ニューヨーク散歩」である。土着の臭気を漂わせていた街道シリーズにおいて、このニューヨーク編は少々、他と違い毛色が明るめで、羽毛のような軽量感がある。つまりアメリカとニューヨークの歴史における物事の瑣末がそれほど、深く沈殿していないのである。  しかし、1950年代以降の好きなジャズを聴いていると、盛んだったのはパリかニューヨークか、と大まかに言ってよく、…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈五〉

「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」。このお題目のシリーズは、どうやら今後も続きそうな気配。不定期で綴っていきたい。
前回は、中国茶の「武夷肉桂」(ぶいにっけい)を嗜み、mas氏の曾祖父の話を書いた。煎茶を追い求める明治生まれの遠州男の話であった。大袈裟に言えば、お茶はアジアが誇る画期的な飲み物である。おお、excellent! その時の気分によって、好んでお茶を飲むのがいい。
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 例えば紅茶もお茶の種の一つである。
 ついこの前、ペットボトルの「午後の紅茶」を思いがけず飲んだ。これが妙に美味しかった。紅茶は約1年半もご無沙汰していたのだけれど、束の間の休息を心から和ませてくれた。ほんの少し、紅茶について調べてみた。辞典では以下のような記述になっている。

《チャの若葉を摘み取って、萎凋 (いちょう)・揉捻(じゅうねん)・発酵・乾燥させて作った茶。煎汁は澄んだ赤茶色になる。一七世紀に中国茶が西洋に伝わり広まった。インド・スリランカが主産地。日本には明治以降伝わった》
(三省堂『大辞林』第三版より引用)
 日頃飲み慣れているコーヒーと、ちょっとしたお気楽のための中国茶。それに紅茶。そうだ、これからも事ある毎に紅茶を飲むことにしようではないか。この発酵した茶葉の、明るく快活なる味わいは、何たるものぞ――。私は紅茶という独特な香味の、ふくよかな快楽を、すっかり忘れかけていたのである。そういえばいつだったか、若い友人に、「紅茶花伝」のロイヤルミルクティーが美味いのだということを教えられたことがあった。それを思い出したから、今度気儘に買って飲んでみよう。
 寒空が続くこの冬の午後を過ごすのには、ぽくぽくと温かな紅茶を一服するのが、いちばんいいかも知れない。それもカジュアルな雰囲気を持続したまま――。茶というものを疎かにせず、それを嗜む心を養いたいと願う。飲み物として、奥が深くて、心強いから。尤もこれは、紳士淑女の基本的心得なのだろう。肝に銘じなければならぬ。

 ところで、言葉の話。
 英米では、単にtea(ティー)と言うと、紅茶を指すのだそうだ。煎茶の場合はGreen Teaと言い、紅茶をあらたまって言うとなると、Black Teaである。“茶を入れる”は、make teaなのだが、小学館の『ランダムハウス英和大辞典』(第2版)によると、wet the teaともあった…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
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 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

『洋酒天国』―南米の葡萄酒と罪と罰

当ブログの2014年5月27日付でヨーテンの第44号を既に紹介している。「『洋酒天国』とペルノー」である。最近、懐かしくなってその第44号を手に取って読み返してみた。その中身の内容の充実さと比較して、自分が書いたブログの本文が、随分と物足りないものに思えた。4年前の本文では、サガンとフランスのリキュール酒ペルノーの話に終始しており、粗末とまでは言わないが、ヨーテンの中身の紹介としては、ちょっと天然すぎて調味料的旨味が足りないし味気ない。悔いが残るというか、気分的にもこのままでは体に悪い。ならば――再び第44号を紹介しようではないか、ということで、異例なことながら今回は、『洋酒天国』第44号“再登板”なのである。 §
 壽屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第44号は昭和35年3月発行。この年(1960年)を振り返ってみると、ちょうど安保闘争が最高潮に過熱していた頃で、4月にはサドの小説『悪徳の栄え』で猥褻表現が問題視された訳者の澁澤龍彦が起訴されている。いわゆる“サド裁判”である。さらにこの年は、西田佐知子さんの「アカシアの雨が止む時」が流行。いま聴いてもこの歌はいいし、この人の声はとてもチャーミングで男心をくすぐる。西田さんと言えば、いまでも容易に、庶民派の日本酒“菊正宗”のコマーシャル・ソングでその美声とコブシを聴くことができる(曲名は「初めての街で」)。
 昭和35年に日本公開された映画を一つ挙げる。ウィリアム・ワイラー監督のアメリカ映画、チャールトン・ヘストン主演の『ベン・ハー』。これは、ユダヤの青年を主人公にしたキリスト誕生に絡む冒険譚で、言わば泣く子も黙る大長篇映画であった。上映時間は212分。約3時間半と恐ろしく長い。  『ベン・ハー』については、中学校時代の鈍色の思い出がある。おそらく卒業式間際だったのだろうと記憶しているが、正規の授業をほとんどやらない3学期のいずれかの頃、教室で『ベン・ハー』を観る羽目になった。実はその日一日、3学年の授業は限りなくほったらかし状態となったのである。“自習”という授業の名目で、午前から午後にかけて、教室のビデオデッキに『ベン・ハー』のビデオテープがかけられた。担任の先生がレンタル・ショップから借りてきたビデオテープと思われる。  授業を長くほったらかしにするには、何かビデオを流せばいい。それも…

赤いパンツの話〈二〉

前回の赤いパンツの話の続き。今回は少々深い話で、長い。  たかがパンツ、されどパンツなのである。パンツを侮ること勿れ。パンツ(=アンダーウェア)というものは、穿いている本人と日常生活を共にする《所縁ある所有物》であるから、その穿いているパンツの柄やデザイン、形状によって、その人の「品格の指向性」を占うことができるのではないかと私は思っている。  その一方で、特に男子にありがちだけれど、パンツに対していくばくかの妙なこだわりがありつつも、自己の所有物とするにしてはあまりに節操がない無頓着な選択――柄なんかなんだっていいのさ…。2枚組で500円なんて手頃な値段じゃないか…。よしこれを買っておこう――に陥る場合が多い。  この手の所有物は、そもそも“他人に見せるべきものではない”から、どんな柄のパンツを穿いていたって構わないだろう、という考えに落着してしまうのが常である。壮年期を過ぎるとまさにその土壺にはまる。言うなれば、ショップ側の消費者に対する「過度な情愛」に消費者が甘えるかたちでの、ありふれた構図なのである。
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 余所の他人が自分のパンツを見たりする機会は滅多にない。少なくともしげしげと見られることはないだろう。たぶん。奥さんや恋人、自分の息子娘にパンツ姿を見られることはあっても、自分とそのパンツの「隠密な関係」を暴露されることはない。その視線は秘匿の可視である。旦那のパンツは私が買い与えたのだから、という場合は別にして。  ともかく自分は、自分のパンツをよく見る。当たり前のことのようだが、自分のパンツは自分で確実に目視する。それは自分でそのパンツを穿いているのだから。  自分で選んで買ってそのパンツを穿いている以外に、奥さんや二号さんに買い与えられたパンツを穿いている場合においても、ほとんどの場合、そのパンツに盗聴器や隠しカメラが巧妙に仕込まれていることはおそらくない――。自分とそのパンツとの関係は、実に隠密なものであって、《所縁ある所有物》への親近感はいささか奥さんとの関係と比較しても、なかなかどうして、穿いていたそれなりの期間のうちに充実した性愛の企みをしつこく帯びているはずである。実はこのことが、とても重要なことであると、私は気づいたのだった。
 パンツにおける「品格の指向性」とは、パーソナリティのことである。厳密に言うと、その人の個性というより、その人…

赤いパンツの話〈一〉

思いがけずパンツの話をしたい。  今年の春から夏にかけて、「健脚ブリーフ」なんていうエレクトロ的解釈で盆踊り風? の曲を作ったのがきっかけとなり、実際にパンツを穿いてアートワークに励む、といった作業を経験する中で、あらためて下着=パンツって奥が深いなと思ったりした。  パンツとは、本当に奥が深いのだ。健康面とデザインと履き心地の研究、及びそれらの絶妙なマルチプリケーションによって、人間にとってなくてはならぬ生活上の必需品=パンツというものを、世界中のメーカーが日々努力を重ねて開発しているのだと思い知る。個人的な感覚においての“パンツへの思い”=“パンツ愛”を総ざらいすることにもつながり、パンツについて考えるとは、実に面白い試みでもあり、人類学的サブカルだとも実感した。  そうして「健脚ブリーフ」が完成し、一息ついて〈できうるなら第2弾でも後々作りたいなあ〉とコーヒーを飲みながらぼやいたのも束の間、なんだか突然、そういう機会がリアルにやって来た。まことに事の流れは急速である。
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 偶然ながら目に付いたのは、今月10日付の朝日新聞夕刊の記事であった。「過疎の町『赤パン』でエネルギー」。宮城県丸森町の町おこしの一環で、二人の若者(高野真一さんと豊田拓弥さん)が起業して男性用の赤パンツを販売しているという話。これがちょっと変わったボクサーパンツなのである。  伸縮性のある生地で、フリーサイズ。色は真っ赤。それだけではなく、穿くのに前と後ろの区別がない。これにはちょっと驚いた。ウエストのゴムもなく、体を締め付けないと、ホームページには記されている。  製作したのは、丸森町で会社を設立したザミラ株式会社(代表取締役は高野真一さん)。何やら記事を読むと、この赤パンには、股の内側に奇妙な文字のプリントが施されているのだという。ラテン語の「memento mori」。上下を反転させれば、その文字が「memento vivere」に。日本語に訳すと、“死を想う”が“生を想う”になる――? いったい何なんだ、この赤パンは――。
 私はすっかり、この赤パンの謎めいたコンセプトに惚れ込んで、一つ買ってみることにしたのだった。  本音を言うと、もう既にこの記事を読んだ直後に「健脚ブリーフ」の第2弾はこれだ! と決めていたのである。が、実物が届いてみないことには、何ともし難く、その企画制…

私はデュシャンの「泉」を観た

先月23日――。JR上野駅の公園口を出ると、空はまったくの濃灰色に染まっていた。まもなくぽつぽつと雨が降り始め、私は足早に公園内を通り抜けた。そそくさとライカのカメラをバッグにしまい込みながら――。  向かうは東京国立博物館(東博)。東博の平成館にて催された、“東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展”なる冠の『マルセル・デュシャンと日本美術』を観覧したのである。  率直に言って今回の目的を述べると、私はその特別展で、“便器”(urinal)が観たかったのである。皓々と光に照らされ恥ずかしげな面持ちの、urinalの姿。それを粛々と見届けたいという思い。デュシャンの、最も有名な“男性用小便器”が暗がりの中で浮かび上がっていた。
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 念願の、urinalを観る目的は達せられた――。  1917年、デュシャンの「泉」(Fontain)。フィラデルフィア美術館所蔵、1950年のレプリカ。磁器製小便器。  そもそもデュシャンの作品を知ったきっかけは、20代の半ばである。彼が「フランス生まれ」であるとか、「20世紀現代美術の巨匠」であるとか、「抽象主義」であるとか、「チェスが得意」であるとか、そういった情報は頭の中にからきし無かったあの頃、偶然にして唯々その一点のみ、つまりそのurinalの写真を、ある本の中で目撃したのだった。  その本とは、宝島社の『図説 20世紀の性表現』(編・著は伴田良輔)である。しかしあくまで私は、その本で、1900年代の性表現クロニクルの位置づけとして、デュシャンの作品すなわちあの真っ白な磁器製のurinal=「泉」の写真を見たに過ぎなかったのだった。何故これが性表現に値するのか理解せず、むしろ通り一遍の解釈を用いようとすれば釈然としない写真でもあった。その時代のクロニクルとしては、モンパルナスのモデルのキキ(Alice Prin)の存在の方が、遙かに重要に思われた。  当時の私の頭の中では、こういうことが駆け巡っていた。何故このurinalが、デュシャンの「泉」という作品なのか。また本来、小便器として実際に設置して使用する場合の向きは、その有名な「泉」の写真を見れば分かるとおり、被写体urinalの正面中央に当たる排水口の部分が底部になければならず、それをわざわざこのような向き(横向き)にして作品とした意図とはいったい何なのか…

お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈四〉

前回からの続き。言わずもがな、お茶とサブ・カルチャーにまつわる話。  中国茶の「武夷肉桂」(ぶいにっけい)を取り寄せたので飲んでいる。このお茶は、福建省の武夷山が産地で、山肌の岩に生育することから岩茶と言われ、青茶すなわち烏龍茶の一種である。文春新書の『中国茶図鑑』にはこのように書かれている。 《葉は長めの楕円で肉厚。茶葉は黒ずんだ緑でツヤがある。果実あるいは乳の香り》 (文春新書『中国茶図鑑』「武夷肉桂」より引用)
 武夷の岩茶は香り高く、「武夷肉桂」は口に含む際に仄かなキンモクセイの香りがすると言われる。このような香りは、日本の煎茶にはない。実際に私も「武夷肉桂」の茶葉に湯を注いでみたのだが、花の香りで一瞬心がよろめき、なんともたまらない幸福感を味わった。高貴な気品が感じられ、味もまたとても青茶らしく奥深い。  前回紹介した中国茶「平水珠茶」は、その乾いた茶葉のエロティックな装いを礼讃したのだけれど、「武夷肉桂」もその姿がエロスを連想させてくれる。肉桂とはシナモンのことで、その香りに似ているというところから名付けられたようだが、この細く丸まった茶葉の縮れ具合を見ていると、まるでそれが女陰の小陰唇のように思えてならないのだ。  女性の慎ましやかな陰門の香りを愉しむ――といった淫らな“あるまじき”心の片隅の欲望は、あながち精神性への蔑み、冒涜、離叛の対象にはならないのではないかとさえ思う(むろん女性に対しても)。老子の古典を読んでいても、イスラムのアブー・ヌワースの『飲酒詩選』を読んでいても、これは私自身の雑感としてとらえられた感覚の傍証に過ぎないけれども、微量のエロスの抱合はかえって物事を(その多くは男と女の関係を)豊かにするものである。そうでなければ中国茶の真髄も軽やかさも理解できないに違いない。
 そういったことを踏まえてみても、中国茶は私にとって休息を愉しむための飲み物であり、精神修行の嗜みの一つである。いや、精神修行と言うのはあまりにも仰々しい。言わば、サブ・カルチャーにどっぷりと浸かるための心の準備体操、そのリブートのための精神的沐浴にすぎないのだから。尤も、体内には実際、茶のエッセンスが流れ込むわけだから、身体は純然とその養分で潤う。茶を飲んで心を清廉に、落ち着かせる――。これは酒を飲むのとは違う種類の、生きる歓喜である。歓喜の種は、いくつかあった方が…