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映画『スペースキャンプ』のこと

“少年時代の心を思い起こそう”というのが、ここ最近の私の座右の銘だ。自分が何を見て感動し、何に憧れたのか――。  我がホームページ[Dodidn*]「今月のMessage」は、毎月衣替えしているコラムなのだけれど、今月7月は「『スペースキャンプ』を観た夏」を掲載した。1986年公開のアメリカ映画『スペースキャンプ』を、あの頃中学2年生だった私は、映画館で存分に観た。大いに感動した。サントラ盤のLPも買った。そのことを思い出し、今回再び『スペースキャンプ』を、二十何年ぶりかで観た。少年の心のようにときめかせて――。  すっかり忘れていた感動があった。この映画について書いておきたい。「今月のMessage」は、翌月には上書きされ、文章が変わってしまうので、「『スペースキャンプ』を観た夏」の文章を以下、全文引用しておく。
《7月。文月。子供達の嬉しい(?)夏休み到来。  先月27日、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の小惑星探査機「はやぶさ2」が、小惑星“リュウグウ”に到着したというニュースを知りました。今後、「はやぶさ2」ではいろいろなミッションが始まります。大人だけではなく子供達も関心が高いのではないでしょうか。 
 私が中学2年だった1986年の7月、友達と映画館に行き、2本立ての映画を観たのを憶えています。一つはジム・ヘンソン監督の『ラビリンス/魔王の迷宮』(主演はジェニファー・コネリー、デヴィッド・ボウイ)、もう一つはハリー・ウィナー監督のSF映画『スペースキャンプ』。主演はケイト・キャプショー、リー・トンプソン、そしてリーフ・フェニックス。リーフ・フェニックスはホアキン・フェニックスであり、子役で出演していました。  この映画の音楽を手掛けたのは、“スターウォーズ”や“インディ・ジョーンズ”のテーマを作曲したジョン・ウィリアムズ。莫大な制作費をかけたのですが、当時興行収入はあまり伸びなかったようです。
 ですが、私自身はとても興奮しながら観た映画です。NASAのスペースキャンプにやってきた少年や若者達が、ひょんのことで本当にスペースシャトルで大気圏を突入してしまい、宇宙空間で無重力状態を体験します。講師の女性宇宙飛行士の手腕により、危機一髪で地球に戻ってくるのですが、子どもの夢を掻き立てるSF作品で、この夏はもう一度観てみたいなあと思っています》
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千代田の学校―吹き込んだ風の追憶

梅雨が明けた先月末。その日は猛暑で暑苦しく、歩くのが億劫であったけれど、日差しの強い昼下がり、東京台東区下谷1丁目にかつて所在した、私の母校の千代田工科芸術専門学校の跡地を久しぶりに訪れた――。  私は、たびたび散歩してその跡地を訪れる。数年に一度の頻度でそこを歩き、90年代の在りし日の学校の姿を思い浮かべる。思い浮かべているのは、学校であり生徒であり、その頃の自分自身の姿である。紛れもなく言えることは、そこは私にとって、とても懐かしい場所=空間であるということだ。
千代田の母校については、もう何度も書いてきた。当ブログの2010年9月には「学生必携」、同年11月には「学校の広告」、卒業記念CDアルバムについて記した「アルバム『collage』のこと」、2011年2月には「入学式回想録」、卒業証明書に関しては2012年4月に記した「証明という感触」、講師でジャズ評論家のいソノてルヲ先生に関しては「いソノてルヲ先生―わが青春の日々」といった具合に、こと母校に関しての記述は枚挙に暇がない。ぜひ、ブログのラベルの“千代田学園”をクリックして参照していただけるとありがたい。  5つあった校舎は2000年以降次々と壊され、私が最後に見たのは、2002年頃のカトリック上野教会の裏手にあった1号館で、そこは主にデザイン写真課程の授業で使用されていた7階建ての校舎であった。  1号館の屋上には、鉄製の電波塔(テレビ塔)が設置されていた。これがまた千代田の学校のシンボルでもあった。1957年に学園が発足し、64年には1号館が完成。もともとそこは「千代田テレビ技術学校」であった(放送技術の学校、デザイン系の学校、電子工学系の学校が統合され「千代田工科芸術専門学校」となったのは1980年)。面白いことに、昭和の東京を撮り続けた加藤嶺夫氏の写真集の、昭和46年のこの界隈を写した写真の中に、小さくこの電波塔が映っていたりするのを発見した――。かつてマンモス校であった面影は、限られた写真の中でしかもはや見ることができない。おそらく2002年頃までには、すべての校舎が取り壊されたはずである。そしてその後、私は、何度もこの界隈を訪れた。今そこは、巨大なマンションが建ち並んでいるけれど、私の眼には学校の姿しか映っていない――。
 学校法人千代田学園 千代田工科芸術専門学校の音響芸術科に私が入学し…

引き出しの中に眠っていた剣道クラブの写真

“1982年10月11日”は月曜日であった。その古い写真には、撮影した日付が刻印されていた。コンピュータに入力すれば、今は簡単に過去の日付の曜日を割り出してくれる。とどのつまり、前日の10月10日体育の日が日曜日なので、翌日が振替休日であったということである。――その日、つまり36年前の10月11日月曜日。場所は思い出せない。もしかすると茨城県内の、境町の高校か総和町の県立高校(背景の校舎が私の母校の高校によく似ている)あたりではなかったかと思うのだが、ともかくそこでその日、剣道大会が催された。この写真は、その時の記念写真である。  自宅の、今はすっかり使うことのなくなった古びた木製の鏡台を片付けている際、引き出しの中から、この写真が出てきた――。その日からそう遠くない日に写真が現像され焼き増しされ、皆に配られ、ほんの僅かの時間だけこの写真を見てこの日のことを振り返った後、家族のうちの誰かが鏡台の引き出しにしまったに違いない。
 引き出しの中にしまわれたまま、おそらくそれ以降一度も手に取って眺められることもなく、ただただ猛烈な時間が過ぎ、猛烈な年月が経ち、家族は猛烈に歳を取っていった。そしていよいよ鏡台が処分されようとした瞬間、長らく開かずの間であった引き出しの扉がなんの前触れもなく漠然と開かれた。眠っていた36年前の古びた写真は、今ようやく21世紀の空気を吸い、私の眼に触れられた。稀有に生き長らえた写真、ということになる。写真という存在は、いつも惨めでそこはかとない悲しみを背負い、豪放磊落かつ純真な明るさを放ったためしがない。それが写真というものの、暗い宿命なのだ。
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 そうして写真を見て、思い出すわけである。1982年――。36年前、小学4年生だった私は、地元の剣道クラブに所属していて、週に一度道場に通い、剣道に励んでいたのであった(写真では最後方の左から3番目が私)。  そう、その前――小学1年生から3年生頃まで――は、別の大所帯の少年団で剣道をしていたのだ。そもそも父が、剣道の指導員をしていたので、小学校入学と同時に剣道を習い始めたのである。おそらく小学4年の初め頃、この写真のちっぽけな剣道クラブに、父も私も移籍したのではなかったか。私にとっては、友達が急に変わって非常に辛労な思いをした。
 剣道というのは、いくつかの防具を身につけて竹刀を振り回す。…

嘘っぱちの世界の共犯者である僕たち―perrotの『雲をたぐって天まで飛ばそう。』

先週の21日、花まる学習会王子小劇場にてperrotの演劇公演『雲をたぐって天まで飛ばそう。』(作・演出はいわもとよしゆき)を観劇。perrotの公演は昨年3月の『今日は砂糖の雨が降るから』以来約1年ぶりであり、前回の公演を私は当ブログ「perrot第4回公演の過剰でとてもおいしい演劇」で書いた。それも併せて今回の稿を読んでいただけるとありがたい。
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 昨年の公演『今日は砂糖の雨が降るから』の総評を、前稿で私は「とてもおいしい演劇」と称したうえで、perrotの演劇はオープン・ワールドの虚構の世界で繰り広げられる、観客が「アクセス」する、「採集」する演劇、と述べた。ただ観客がストーリーの結末を追うだけでは済まされない、劇の空気感や皮膚感覚を「採集」する体感型の演劇であったし、人それぞれ「採集」したモノやコトによって劇評が大きく変わるおそれのある、非常に刺戟的な実験でもあった。  今回の公演『雲をたぐって天まで飛ばそう。』も、そのスタイルから逸脱することなく、観客が「採集」する演劇であったわけだけれど、幾分違うのは、『雲をたぐって天まで飛ばそう。』は「言葉」に力点を置いた歴史劇であったことである。以下、perrotホームページにあるあらすじを引用させていただく。
《世界を巻き込んだ戦争が終わった。主人公=ニニギは占領軍の司令官として自分の故郷だった日ノ国を訪れる。占領にあたって最も大きい問題は日ノ国の統治者である【鳳凰】を裁くか否かであった。ニニギは連邦諸国の意向を受けて鳳凰の戦争責任を追及することを決定した直後、幼馴染であり想い人だった皇女=チヨが戦中に鳳凰として即位していたことが明らかになり…。》
 さらに劇の内容をイメージし易くすべく、主宰で作・演出のいわもとよしゆき氏の挨拶文を借りる。 《本作は国譲り神話と昭和史を二重重ねにした虚構の歴史劇です。(中略)言葉で語れぬものにふれるため、言葉で語れることを全て語り尽くす情報過多な作品です。僕はこれを『現代“文語”演劇』と自称することに決めました》 (「劇作家より皆様へご挨拶」より引用)
 敢えて、古代なのか近未来なのか、あるいは彼方の未来なのかは定かではないとしておこう。この、演劇として語られた虚構の“ある時代”の歴史物語は、登場人物たちのまくし立てる「言葉」と「言葉」と「言葉」と、それ以外の「言葉」と「言葉」…

パリと若者の夢―ベルトルッチの『ドリーマーズ』

一つの映画を語る時、溢れんばかりに「映像」と「言語」と「音」の記憶が明滅し、際限がなく収まりがつかない、ということがしばしばある。思考から思索へ、思索はさらに別の思索へと裾野を広げ、その「映像」と「言語」と「音」の世界を駆け巡った挙げ句、グラスの底に沈殿した奇妙な液体の何たるかについて、思索への旅はとどまることを知らない。  映画とは、そういうものである。映画を観るとはすなわち、野生のフグを食らうかの如く、非常に危険な行為であって、その危険と隣り合わせの内心において、執念深く用意周到に、毒のしびれに耐えつつも、すべての部位を食らうことに深い情趣がある。体験的に、我が身の神経はすべて視覚と聴覚にそそがれる。その瞬間こそ、映画体験の醍醐味である。毒を食らうかも知れぬ苦痛の先に、無垢なる「光」が存在する。映画とは、その「光」への、盲目的な思索の旅である。  昨今、陰鬱な大人の色恋沙汰映画『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris)で“泥酔”した私は、その先の「光」を浴することになる。言わばそれは、『ラストタンゴ・イン・パリ』の大いなるオマージュであり暗唱――。同じベルナルド・ベルトルッチ監督の2003年の映画『ドリーマーズ』(The Dreamers)。今回語るのはこの映画である。
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 私が『ドリーマーズ』を久々に観たのは、先月の半ばのこと。「フランス デモ連帯に影」という朝日新聞の報道記事を読んだのが5月4日。すなわちこの二つから想起されるのは、パリの5月革命(1968年5月、パリで起きた反体制のゼネスト及び学生運動。5月危機とも称される)であり、今年はちょうど5月革命から50年に当たる。  そう、私はこの映画を思い出したのだった。『ドリーマーズ』は、パリの5月革命が背景となっているベルトルッチらしい映画狂の傑作。描き出しているのは、荒々しい騒動の只中の、ある若者達の、偏愛とセックスの情事――。
 なんと言ってもまず、この映画のトップ・シークェンスに刮目せよと言いたい。高らかなギター音で始まるジミ・ヘンドリックスの「Third Stone From The Sun」。エッフェル塔の鉄骨をバックにクレジット・ロール。そのエッフェル塔の手前に、主人公の若者――サンディエゴから来た20歳のアメリカ人留学生青年――マシュー(マイケル・ピット)が…

薩摩治郎八と藤田嗣治の『洋酒天国』

ご無沙汰いたしておりました。ヨーテンこと『洋酒天国』の話題です…。振り返ると前回は、今年の1月末の「八十頁世界一周の『洋酒天国』」。パリか、ニューヨークか――で閉じていた。あれから半年、せっせとなんとか不足分(未入手号)を何冊か入手して増やすことができたので、これからまた逐一、ヨーテンを紹介していきたいと思う。  壽屋(現サントリー)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第10号。昭和32年1月発行。この頃の世相については、第11号(昭和32年2月発行)で書いてしまったので、ここでは省かせていただく。  10号とまだ既刊数が少なく、毛が生えそろっていない“初心な”頃の編集部は、やはり中心となっていた編集者・開高健のセンスと力量に頼る面が多かったのだろうか。ヨーテンの創刊自体は、柳原良平や坂根進らのアイデアも加味され、骨格がほとんど出来上がっていたようだが、さすがに毎号の具体的な内容については、開高健の趣味嗜好に依るところが大きかったのではないかと推測される。このまだ数をこなしていない頃のヨーテンの内容は、ほとんど西欧文学に重きを置いた、知的水準の高い文化人的嗜好と潮流の《匂い》がムンムンと漂ってくる。言うなればまだこの頃は、西欧風の襟を正した《気品》があった。ここからだんだんと号を重ねるうちに、それが少しずついい意味で脱線していき、緊張感がほぐれ、格好の風俗の度合いが濃厚となっていく。
 ともあれ、第10号の表紙扉の見開きは、ボーヴォワールの詩である。 《パリで飲むマルティニとニューヨークで飲むマルティニとには、黒板に手で描いた円と理想上の円ほどの違いがある》。  ほらやっぱりね。パリでしょ、ニューヨークでしょ。ニューヨークをけなしてパリを持ち上げても、やはりどちらも捨てがたい文化の街の潮流が感じられる。この感覚は大人の世界のヨーテンには絶対欠かせないのである。
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 この頃だと『忘却の花びら』なんていう映画に出演していた東宝の女優・安西郷子さん。そのポートレート。写真は松島進氏。澄ました表情がなんとも美しい。歌劇団(彼女は大阪松竹歌劇団)出身の女優さんはみなスタイルが良く、画が映える。
 今号の冒頭の翻訳物は、ポーの「アモンティラアドの樽」。訳者は谷崎精二氏。ある男に恨みを抱えた主人公が、謝肉祭(カーニバル)の日の夜に復讐を遂げる恐ろしい話。ポーの作品の面目躍如。…

科学万博のダイエー館―13歳への未来

近頃、様々な思いに駆られる。何故か、記憶の薄い中学校時代の思い出を、必死に思い起こそうとしている。この試みの本質は、いったい何なのだろうか。ドストエフスキーの『地下室の手記』を読んでいたら、“水晶宮”という言葉がちらりと出てきた。“水晶宮”とは、1851年のロンドン万博で英国の建築家ジョセフ・パクストンが設計した鉄とガラスでできた大建造物のこと。要するに小説ではそこで、合理的な未来の社会はひどく退屈だ、《人間は馬鹿だ》、《手のつけられない阿呆だ》と罵り、万国博覧会といった人類の「科学と文化」の発展と繁栄を軽妙におちょくり、皮肉り、メタファーとしているのである。
 というところからなんとなく、万国博覧会すなわち万博というワンダーランドにすこぶる憧憬の念を抱く70年代生まれの私にとって、思春期真っ盛りの中学1年生で体験した、33年前の科学万博へのノスタルジアの凄まじさは、半端ではない。当時あの会場を訪れた者でなければ、そのノスタルジアの意味するところを理解することはできないのではないか、と思う。  つくづく隔世の感あり。それはつまり、あの80年代にほんの僅かにおいても、人類の「科学と文化」の発展と繁栄を信じていた試みが、21世紀の今日の日本を培養したとはとても思えないほど、矛盾に満ちた、どうしようもない知恵遅れの、まるで真逆の方向に突き進んでいることの賞賛と皮肉――まさにドストエフスキーの《人間は馬鹿だ》、《手のつけられない阿呆だ》に行き着いてしまったのは、いったいどういうことなのか。そういう疑問符だらけの今日の日本の有り様に、ただただ驚くばかりである。  過去を顧みない愚かさ。人間の叡智を軽んじた罪悪。今日のネットワーク社会の功罪にどっぷりと浸かり、科学の本質の変容、文化的理知の恐ろしいほどの後退を、ここまで予見した者は果たしているだろうか。それはある種、未来への「科学と文化」の夢物語を見世物にしていた時代とは、まるで体温の度合いが違う。あらゆる集合体の危機と崩壊への確信を、そして個人の自由の不条理を、いよいよもって痛感せざるを得ない。少なくとも今日の日本は、あらゆる分野と文化において、世界の感覚から乖離し、堕落と没落の一途を駆け下りている。
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 過去の万博の想い出が、頭から離れない。  33年前の科学万博(正式名称は国際科学技術博覧会。EXPO’85)―つく…

愛するカメラ遍歴―ライカのコンデジ

普段写真を撮るという実務レベルにおいて、RICOHからSONYのコンデジ(コンパクト・デジタルカメラ)に替え、ツァイスのレンズいいでしょ、と書いてみたのは、去年の春(当ブログ「愛するカメラとは何か」)のこと。それから1年――。何の不自由もなく、外歩きの散歩カメラとして、SONYのDSC-RX100M4(レンズはツァイスのバリオ・ゾナー)で満喫していたのであるが、今年の春、偶然手にしたある雑誌の記事より、アンリ・カルティエ=ブレッソンと多木浩二の写真作品を見てしまったのがきっかけとなって、ライカ――というキーワードが頭から離れなくなった。 §
 おやおや――。“ライカ熱”再発である。気がつけば、ウェブで手頃なライカのコンデジを探し求めだし、数十日間の“ライカ熱”に対抗する心理的格闘(〈ライカなんてやめてしまいなさい!〉と念仏を唱える解熱剤的効力)は見事に空振りに終わり、その無力な、朦朧とした数日後、気がつけば――もはや手元に一つの可愛らしいライカが、ちょこりと鎮座していたのであった。LEICA X2(レンズはLEICA ELMARIT 24mm F2.8)である。  このカメラの中古価格は、およそ市場に出回っているM3のボディと同じくらい。非常に親切な価格、で入手できたのではないか。OLYMPUS製のビュー・ファインダーで覗いて使ってみたら、あらま、こんな手に馴染むボディも珍しいなと思ったくらい、“初めて触った”感覚ではなかった。ひょっとして、もともと自分のカメラだったのではないか、と馬鹿げたことを思ったりしたほどである。
 そうしてよく晴れた日、テスト撮影をするため、自宅の庭に出てみた。もう何の手入れもしていない鬱蒼と雑草が茂った小さな原野。ぽつりぽつりとシャッターを切って、その場でフォーカスの具合だの、露出の調子だのを確認する。そして後でじっくり画像を確認してみたら、やっぱりライカのレンズ特有の“味わい”が滲み出ていた。  これなんだなあと思った。と同時に私は、あらためて自分は、写真とカメラが好きなんだなということを思った。ちょっと無茶して衝動買いしてしまえるのは、カメラ以外にないのだ。
 ――もう14年も前、京都の清水寺を訪れた際に修学旅行に来ていた“中学生3人”をスナップ(当ブログ「カフェと京都と散歩」)したけれど、あの頃は少し大振りなデジカメを持参して…

レトロスペクティヴ―私立探偵・濱マイク

もしこの映画を小学生の頃に観ていたとしたら、〈僕も私立探偵になりたいなー〉と本気で思ったに違いない。…な、わけねーだろ!と通りすがりの人にツッコミを入れていただきたいのであるが、林海象監督の1994年の作品、永瀬正敏主演の私立探偵・濱マイクシリーズ第2弾の映画『遙かな時代の階段を』(製作はフォーライフレコード、映像探偵社)をつい最近観た。何故最近この映画を観たのかについては、3月の当ブログ「永瀬正敏の私立探偵・濱マイクのこと」で書いたのでそれを読んでいただきたい。 §
 この映画『遙かな時代の階段を』について語るのは、やはり短めの言葉の羅列で充分であろう、と思うのである。私自身、東京で言えば新宿のベルク(BERG)、新橋のカフェテラス・ポンヌフの懐かしげなナポリタンとプディングに“憧れ”を抱くのだけれど、それと似たような感覚で、(この映画のロケ地である)横浜の映画館「横浜日劇」にかつて“憧れ”を抱いた人は、少なくないのではないか。この場合の“憧れ”とは、かなり強烈な回顧臭を漂わせた、古びた風景への《郷愁》を指す。だからその思いのなんたるかを言葉で表すには、長い説明は無用なのである。
 主人公の私立探偵・濱マイクを演じているのは、言わずもがな、永瀬正敏。横浜・黄金町のレトロな映画館「横浜日劇」の2階に探偵事務所を構え、萎凋する街の住民からの、しがない請負仕事で細々営んでいるチンピラ探偵である。彼はアメ車(AMC製のナッシュ・メトロポリタン!)を乗り回す。街には彼の仲間達がいるが、白タク運転手の星野くん(南原清隆)は濱マイクの右腕的存在だ。刑事役の麿赤兒、濱マイクの師匠役の♠宍戸錠、「横浜日劇」のもぎり嬢を演じる千石規子が好演。  この街に、昔自分と妹の茜を捨てて出て行ってしまった母親・リリー(鰐淵晴子)が突然戻ってきたことで物事がざわめき始め、暴力団組織・黒狗会のきな臭い暗躍に巻き込まれていくというのが筋。そして川の利権を支配する恐ろしい男=“白い男”(岡田英次)と濱マイクとの強烈なる対峙シーンが、この映画のハイライトとなっている。映画の後半、“白い男”アジトに向かうシーンは実にノスタルジックで幻想的だ。戦後のヤミ市とスラム街の陰影がフィルムアートと相まって折り重なる。  映画『遙かな時代の階段を』は、ハイテンポなアクションシーンの連続、音楽の演出もまた素晴らし…

人間と人間以外のもの―『蓮沼執太: ~ ing』

東京・銀座の資生堂ギャラリーにて、先週、蓮沼執太の展覧会(インスタレーション)『蓮沼執太: ~ ing』を体感してきた。私が資生堂ギャラリーに訪れたのは約2年ぶりで、前回は『Frida is 石内都展』(当ブログ「石内都―Infinity∞」参照)、と言いたいところなのだけれど、その時は資生堂ビルの前まで来て突発の所要のために引き返したため、中へ入った前回は――厳密に言うと、トノ・スタノ(Tono Stano)の写真を鑑賞するために訪れた8年前の『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)になる。その直後に私は、ほんの僅か、この資生堂ギャラリーと福原信三についても書いている(当ブログ「資生堂ギャラリーのこと」参照)。
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 蓮沼執太という人に対して、私自身、思い入れがここ数年濃密になってきている。敬愛する“若き音楽家”というリスペクトの範疇を飛び越え、彼のその多彩な活動は《芸術》という総体にまで及んでいることから、“1983年生まれ”の一回り下の年代、という意識がありながらも、崇拝する雲の上の人、なのである。しかも、同じ《今日》という時間に生き、地球のどこかで確実に寝起きし、様々な心境のうちに魂を揺さぶりつつ、《芸術》という総体に身を置いて活動し、Prophetたらんと日々、精進してさながら時を刻んでいる。そう、同じ世界を見わたしているのだ。
 同じ世界に生きながら、これはもちろんのこと、人それぞれ見方や感じ方が違う。世の中に対してあどけない冷然とした態度をとる人もいれば、がっつりと正面から熱く、社会と政治に対峙する人もいる。蓮沼執太という人にとっては、その感性を、《芸術》の総体の一角の「音と音楽」のカテゴリーに収斂していくことが、最も得意なのであろう。

 一方の私――という自己にとってもそれはまったく同様である。まことに恐縮ながら、銀座の資生堂ギャラリーという環境を伝って、リスペクトする蓮沼執太の創作の、ある一つの言わば《音の出るオブジェ》の装置に実際に足を踏み入れ、小さくひ弱な音を発して、それを自身の耳で聴き入れることができた悦びは、作者と演者によるバーチャルなジャム・セッションを完遂した充足感に近い。ここでは単に現代アートを眺めて鑑賞するのではなく、創作者による《触覚的な楽器》を借用し、それを用いて(そこに…

京都へ―二条城と天龍寺の庫裏〈二〉

前回〈一〉からの続き。  今にも雨が降り出しそうな曇り空だった4月17日の午後。二条城。観覧の順路に従って、私は二の丸庭園から東橋を渡って本丸櫓門をくぐり、本丸庭園を鑑賞した。この庭園の風雅なよすがは、中学校時代の修学旅行で訪れた記憶を呼び覚ますものと思われたが、当時もまたこの庭園を眺め、そぞろ、目に飛び込んできた緑の美しさを思う以外に、この先の進路であるとか、そういったことはいっさい考えもしないで、ただひたすら、クラスが離れてしまった友人のことを想起するのにとどめられた。内心はおそらく、落ち着いて旅行を楽しむ気分にはなっていなかったのではないか。
 内堀に囲まれた本丸庭園の角には、天守閣跡がある。パンフレットのガイドを読むと、かつてここには伏見城から移された天守閣があったようだ。今は高い石垣が残されているだけである。思い切って段を上がってみた。ここから北東を覗き込めば、京都の街の片鱗が窺える。晴れていればもっと爽快な青空が見えたはずである。  本丸御殿の西側は少し広々とした広場のようになっていて、いかにもここに、学生らの団体が一時的な“集合場所”として利用できそうな所である。それでも尚、私の記憶の中には、二条城で何を見、クラスメイトの間で何を喋った、といった思い当たる場面が一つもなく、あれは本当に無色透明な修学旅行であったのだと、あらためて思った。ただし、これには補遺がある。宿泊先での夜、くだらない悪ふざけをして、クラスメイト一同先生に怒られ説教された、という苦い経験だけは、唯一というべきの想い出であろうか。
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 西橋を渡り、休憩所にて温かい缶コーヒーを飲み干す。ずっと歩き通しであったから、ここで少し足を休ませることにした。  同じようにして、この場で休息を営んでいる周囲の観光客は、皆外国人である。そもそも京都の街に踏み入ってから、ほとんど外国人しか見ていないのではないかとも思った。確かにその日泊まったホテルの、翌朝の朝食のラウンジでは、日本人はほぼ私一人だったようである。そういう外国人向けのホテルであったのか、どこのホテルでも同じ様な光景なのかは分からないけれども、日本の京都でありながら、日本の京都ではない奇妙な錯覚があった。  ――まだ雨は降っていない。屋根のある休憩所のベンチに身を任せ、ちょびちょびとコーヒーを喉に通す際、ふと想像してみた。もしあの時…

京都へ―二条城と天龍寺の庫裏〈一〉

鳩居堂の話の次は、二条城である。二条城へは、地下鉄東西線の烏丸御池駅から一つ目の駅、二条城前駅で降りた。慶長8年(1603年)に徳川家康が築城。264年後の慶応3年(1867年)には、江戸幕府15代将軍の慶喜がここの二の丸御殿で大政奉還を表明し、歴史の舞台に躍り出る。明治以後は皇室の別邸として二条離宮となり、昭和40年には清流園が造成される。ユネスコの世界遺産に登録されたのは、1994年のことである。  こんなように、二条城にまつわる史実をここでつらつらと書くつもりはない。あくまで個人的なことを書きたい――。
 少々、話を蒸し返すけれど、そもそも鳩居堂で文房具――便箋と封筒――を買ったのは、実は長年音信不通となってしまっている中学時代の同級生に、手紙を書こうと思ったからである。できうるなら、限られた友人ら少数で同窓会を開きたい。手紙を書こうと思っている相手の同級生――Tという――については、7年前の当ブログ「白の絆」で詳しく書いた。
 私自身、学生時代の記憶というものは、徐々に薄弱になってきてしまっている。いまだに脳裏に刻まれた濃密な想い出が多い小学校時代と比べ、中学校時代のそれは、筆舌に尽くしがたいほど無残な、情緒の乏しい、主体性のない、精神的に苦痛に満ちた、無色透明な3年間であった。故に、教室や校内の出来事に関しては、3年間の記憶が甚だ定まらない。茫々としてつかみどころがない。自分が何を考え、何をしたのか、自我そのものが喪失した3年間であった。  中学校での3年間は精神的に苦痛、と述べたけれど、苦痛のうちでも唯一、心が和らいだのは、Tと知り合えたこと。“心友”と呼べるのはTだけであった。Tの存在が、私の、3年間における精神的な支えとなっていた。私は中学校に入って程なくして演劇部に所属したのだが、その時の演劇部の部長が、Tの姉だったのだ。  記憶が薄弱となり、事実性が喪われつつあることは、恐ろしい。そうした昔のことを思い出すのがだんだん億劫になりつつもある。だからこそ今、記憶が残っている限りにおいて、書き残しておこうという渾身の思いがある。母校の中学校の卒業アルバムを開いてみた。ここから少しでも記憶をたどる以外に方法はない。
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 確認すべき卒業アルバムの後半には、ぶっきらぼうに「修学旅行」とだけタイトルの付いた見開き2ページがある。これが、私があの時修学旅行に…

京都へ―8年ぶりの鳩居堂

4月17日、京都の街をぶらり散策した。お目当ては、鳩居堂本店と二条城を訪れること。日中のあいにくの曇り空から夕刻には雨が降り出したこの日、別段、私の心には、それを憂う気持ちはなかった。天候などどうでもいい。お天道様の気儘さには逆らわない。すべて受け入れる。雨もよかろう。風情がある。こうして唯々、8年ぶりに京都に“帰ってきた”という思いが、感極まる何よりの悦びであり、その他に何もいらなかったのである。
8年前の京都散策を振り返ってみる。2010年3月30日と翌31日。――桜の花が咲き乱れる下鴨神社あたりから歩き始めた私は、およそ半日かけて街中をぶらぶらしたのだった。今出川通から百万遍、それから銀閣寺(慈照寺)へ。そして法然院、南禅寺とまわり、琵琶湖疎水のあたりから三条京阪へ。翌日は、河原町三条の寺町通にある鳩居堂へ。そこで文房具の土産物を買い、先斗町方面を歩いた。そうして作家・平野啓一郎の小説に出てくる高瀬川の面影を脳裏に刻みつつ、喫茶ポワレの佇まいを横目に、四条河原町界隈へと抜けた――。
 近いうちに京都へ、そしてまた鳩居堂へ訪れよう、と決心したものの、それから8年もの歳月が流れてしまった。愕然としてしまうほど長い時間の隔たり。この間、愛して已まない京都へ一度も足を運ぶことができなかった理由は、多々あった。2011年3月に東日本大震災。旅行どころではなくなった。そうしてその頃、思いがけずかつての演劇時代の旧友と再会を果たした。もう一方では、自らの音楽サイトの立ち上げというせわしい日々。旅行そのものが煩わしいと思う日々が、ずっと続いたのだ。京都が実に、私にとって縁遠かった。
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 京都駅に着いて、しばし、駅構内の勝手が分からず右往左往したのだけれど、徐々に記憶が甦ってきた。記憶というより身体感覚である。京都タワーを見上げて、その感覚が戻ってきた。やはり京都という所は、やってきた、のではない、“帰ってきた”なのである。  地下鉄烏丸線の烏丸御池駅で東西線に乗り換え、京都市役所前駅で地上に上がった私は、加賀藩邸跡とされる付近の高瀬川を眺めた。8年前の心に残る、懐かしき高瀬川。せせらぎすら聞こえない、このこぢんまりとした小川の雰囲気がなんとも堪らない。このすぐそば、漱石の句碑がある。が、私はその時、句碑の存在にまったく気づかなかった。 《木屋町に宿をとりて川向の御多佳さ…