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昭和の「おむすび探偵団」のこと

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【小学生時代に買った「おむすび探偵団」がひょっこり家の中から発見された】  古い歴史を持つマンカラ(mancala)のボードゲームについて見識を拡げようとしていた矢先――。  自宅の雑貨類を整頓している棚の奥から、ボードゲーム「おむすび探偵団」(野村トーイ)が出てきてすこぶる驚いた。「おむすび探偵団」は、小学4年生だったか5年生の頃におもちゃ屋で買い、その頃はよく友達と遊んだものだが、もう何十年も経ってから、〈そう言えばそんなゲームがあったな〉と思い返すたびに、〈あれはいったいどこへしまってあるのだろう〉と、保管場所が分からないでいたのだ。古い物である以上、既に処分してしまったのだと思い込み、実物を確かめることは諦めていたのだけれど、こういう時に発見されるとは思ってもみなかった。  この間、幻の「おむすび探偵団」を、オークションサイトで手に入れようと企てたこともあった。ところがこれが、たいへんレアなアイテムとなっており、ほとんど出回ることはなく、稀に出品されていたとしても、入札価格が高値すぎて手が出せずにいた。今にして思えば、買わずにいてよかったということになる。 ➤風流なおむすびの知的なゲーム  「おむすび探偵団」は、いったいどんなゲームであったか――。   《カンと推理でおむすびの中味を当てるおいしいゲーム》 とパッケージに記されているこのボードゲームは、1984年に野村トーイから発売された。1984年というと国内では、自民党の中曽根内閣の頃で、3月には江崎グリコ森永事件の最初の事件が勃発し、夏にはロス五輪が開催された。熊本の「からしれんこん事件」というのもあって、その事件の生々しい報道については、かすかに記憶に残っている。  ちなみに近年、「おむすび探偵団」はAndroidやiOSのアプリで再販され、若い人にもこのゲームの存在が認知されているようなのだが、とどのつまり、元祖は84年のボードゲーム版なのである。  パッケージの素材が、リアリスティックというかユニークなのであった。今でこそ主流ではないが、古式所縁の竹細工を模した、プラ製のおにぎりかご(おむすびかご)。  元は竹細工であるこの入れ物には、確たる名称がないようだ。おにぎり入れ(おむすび入れ)とか、おにぎりケース(おむすびケース)と呼んだりすることもある。いつの時代からか、竹細工のおにぎりかごが再び息を

懐かしい「催眠術のカセットテープ」

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【これが幻の「催眠術のカセットテープ」】  何もかもが捏造された流行に先導されていく現代の、そのグローバルな社会構造への警句として、カウンター・カルチャーのうねりが、かつてと比べてとても弱いと感じるのは、私だけだろうか。言うなれば、人が自律的に情報のインプットとアウトプットを相互転換していく過程において、「上書き(Overwrite)」する概念があまりにも忘れ去られてしまっているからなのだろう。  これを簡単に説明する例としてあまり相応しいとは思わないが、学校で使う自分の教科書に、誰かが悪戯して何ヵ所も“落書き”されたとしよう。そういう経験を私自身も持っている。その“落書き”の「先生の似顔絵」には、鼻毛が強調されている。そのうち、私の教科書の“落書き”が評判となって、先生は“鼻毛先生”と揶揄されるようになってしまったのだった。  これはいったいどういうことなのか――。つまり、この教科書は、本来の教科書としての役割以外に、特殊な喧伝の媒体効果をもたらしたということである。“落書き”の視覚的効果によって、他者への軽微な(あるいはもっと実害を及ぼす)心理的影響に関与する新たな情報源として「上書き(Overwrite)」された――ことになるのだ。  こういったことの蓄積が《文化》であり、大雑把に述べれば、これが《文化》というものの必然的カオスなのである。現代のデジタル社会の大きな弱みあるいは欠点は、このカオスが非常に乏しいということ。物事を「上書き(Overwrite)」していくエネルギーが減り、単にコピペするだけで押し通す状況が社会的に増えたということだ。2000年代からの近々の20年間は、そういう意味で、まことに“アレンジ力の乏しい”時代であったと私は感じている。 【少年雑誌などにあったホビー通販広告(めいこう)】 ➤「催眠術のカセットテープ」  話は変わる――。私が小学生だった80年代前半、愛読していたコミック月刊誌の広告にあった、ホビー通販(アイデア通販)の商品カタログの中に、眩いばかりのアイテム「催眠術のカセットテープ」があった。私はそれが欲しく欲しくてたまらなかった。  ちなみに当時は、一般の家庭でオンライン・ショッピングなど全く無い時代である(企業間の取引や国鉄の乗車券販売などは別)。当ブログ 「『月刊少年チャンピオン』のホビー通販」 で紹介した、めいこうの広

ダニー・ボイルがやらかした『ザ・ビーチ』

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【ダニー・ボイル監督の映画『ザ・ビーチ』。主演はレオナルド・ディカプリオ】  挫折感を味わった挙げ句、将来の自分への可能性に絶望し、共感者や理解者が皆無――。そんなふうに私自身が、“独りよがり”な心持ちに打ち拉がれていた“2000年”のあの頃のこと――。  PHSの端末からインターネットに接続し、ほそぼそとワールド・ワイド・ウェブやメーラー・アプリを立ち上げて、なんとか逃げ場としての“コミュニティ”の糸口を図ろうとしていたのは健気だった。しかし、ある映画の主人公が、自分と同じような境遇と心持ちでアジアを旅し、その楽園で快楽の絶頂を極めるのだけれど、そんな快楽は長く続くわけがなく、最後に主人公は、とんでもない痛い思いをして人生の辛苦をなめる――を目撃した時、私は何か、“吹っ切れた”というか、突破口を見出したような気がしたのだった。私がその時観た映画は、ダニー・ボイル監督の『ザ・ビーチ』(“The Beach”)である。 ➤『ザ・ビーチ』との邂逅  『ザ・ビーチ』のあらすじを、DVDにあった紹介文を引用して、掻い摘まんでおく。 《バンコクを旅するリチャードは、安宿でダフィと名乗る奇妙な男と出会った。ダフィは“伝説のビーチ”についてとり憑かれたように語った。そこは、美しすぎるほど美しく、日常のすべてから解放される夢の楽園――。その翌日、一枚の地図を残しダフィは変死していた。手にした地図をコピーし、“伝説のビーチ”行きを決意したリチャード。しかし、それは狂気に満ちた世界の始まりだった――。大ベストセラー小説をダニー・ボイル監督(「トレインスポッティング」)が映画化。斬新な映像と音楽で描くサバイバル・サスペンス》  話が前後するけれど、後年、ピーター・グリーナウェイ監督の映画『ピーター・グリーナウェイの枕草子』(“The Pillow Book”/1996年)を鑑賞し、主演のユアン・マクレガー(Ewan McGregor)がヴィヴィアン・ウーや緒形拳らと共演して、そのエキセントリックかつエキゾチックなストーリーを体当たりで演じていたのに、私は度肝を抜かれたのを憶えている。なんとそのストーリーは、ヴィヴィアンやユアンの裸体に、セイショウナゴンめいたニホンゴの毛筆字体が、つらつらと書き塗られていくのであった。  ダニー・ボイルは、『トレインスポッティング』(“Trainspott

新藤兼人監督の映画『心』

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【新藤兼人監督の映画『心』(アートシアター・パンフレットより)】  今にして思えば、私が幼少期を過ごした昭和の時代(昭和47年以降の1970年代)には、独特の空気が漂っていた。ここでいう空気とは、時代の雰囲気、あるいは気配といっていいのだけれど、少なくとも今の時代より賑やかであったし、そうしたものの象徴として、やや屈折した表現で喩えると、それは、「美しいどぶ」のようなものであった。どぶとは、言うまでもなく、雨水や下水を流す溝のことだ。  私が幼少期の頃に住んでいた団地の、その周囲で流れていたどぶというのは、新興住宅地であったからまだ新しく、清らかな川のせせらぎのようで、ある種の風流を思わせるものであった。底に苔生した碧のゆらめきが艶めかしく見える、それらのどぶは、決して汚い下水という印象はなく、全くもって美しい人工の川だったのだ。――雨の日の昼下がり、とある住宅地の、坂道の片側に流れるどぶを立ち止まって見ていた幼少の私は、これがこの世の人工的な美しさだと直感した。こうしたことが、象徴的な昭和の原風景として、私の眼窩に刻まれている。  話は変わる――。成長して小学生となったのち、その頃テレビの連続ドラマや映画になって話題となっていた、日露戦争を描いた「二百三高地」に心酔した時期があった。それは忘れもしない。「二百三高地」から多分に影響を受けて、私は、乃木将軍(乃木希典)の《殉死》と向き合ったのである。まったく少年期としては、いささか破廉恥な、あるいは不都合な観念の重々しい倫理の皮相に直面していたのだった。  ちょうどその頃、関東圏のローカル放送局(UHF)でたまたま放映されていた、新藤兼人監督の映画『心』(1973年、日本アート・シアター・ギルド)を観た――。原作は夏目漱石の 『こゝろ』 である。その映画における、心理的緊張感を漂わせた映像美に惹かれ、瞬く間に私は、激しい《困惑》を覚えた。何故ならば、そこで描かれていたのは紛れもない、たった一人の純朴な青年が、無惨にも恋と友情に同時に裏切られ、《自死》した姿だったのだから。 【新藤兼人監督(アートシアター・パンフレットより)】 ➤不穏な映画として  林光氏の流暢な音楽が、冷たく、五感を震わせる――。初めてこの映画を観た時、私はまだ小学生であったが、直感したのだった。ひどく不吉な、不均衡な、不調和な映画であると。主演の松

アイリッシュ・ウイスキーとジョイスの話

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【世界最古の蒸留所が誇るアイリッシュ・ウイスキー「キルベガン」】  朝日新聞が毎月第1日曜日に発行する特別紙面[朝日新聞グローブ](GLOBE)のNo.245は、興味深いウイスキー特集だった。その紙面のトップページにあった写真に、思わず私は眼を奪われたのだ。それは、ウイスキー・グラスに注がれた琥珀色の液体が、揚々たる深い海と化し、そこに突き出た南極大陸の氷山を思わせる氷の塊の、なんとも美しい風景――。  この世に存在する桃源郷とは、そのようなものなのだろうか。写真の下に、それとなく村上春樹氏の言葉が添えられていた。 《あらゆる酒の中ではウィスキーのオン・ザ・ロックが視覚的にいちばん美しい》 (『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)』新潮文庫)。  私はしたたかにこのウイスキー特集を読んでから、ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の本を開いた。ウイスキーのオン・ザ・ロックがこの世で最も美しい酒の姿であるとするならば、ジョイスの小説は、男にとっても女にとっても、破廉恥で最も穢らわしい毛皮をはいだ自己の内面の姿を、目の前の鏡の中に見出す瞬間を与えてくれるものであり、その傍らに寄り添うウイスキーは、みすぼらしい本当の《私自身》と“親しい友”でいてくれる、最良の飲み物なのである。  ゆえに私は、心からウイスキーを愛している。 【[朝日新聞グローブ]No.245「ウイスキーの時間」】 ➤GLOBEの「ウイスキーの時間」  特別紙面のウイスキー特集のメインテーマは、「ウイスキーの時間」。コロナ禍で「家飲み」が増えたという。どの国においても、家族や友人知人と共にバーやレストランなどで酒を飲み交わす機会が減ったというわけだ。そんなご時世でも尚、ウイスキーは世界的なブームだそうである。むしろビールやワインとは違い、ウイスキーはもともと孤独を愛する人々が嗜む酒の代名詞であったから、「家飲み」の需要が底上げしたのかも知れない。  とは言いつつも、ウイスキーは近頃、ハイボールという飲み方でもたいへん愛されてきているから、女性が好んで“軽くウイスキーを飲む”という機会が増えているせいなのだろう。  紙面全体の内容を大雑把に要約すれば、スコッチの生まれ故郷以外の国でも――勿論日本も含まれる――新しいウイスキーが次々と誕生しているという。  ここでいう新しいウイスキーとは、伝

陳平さんのエロい『ユーモア・センス入門』

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【ついに手にしてしまった野末陳平著『ユーモア・センス入門 学校職場・家庭を笑わそう』】  その頃私は初代タイガーマスク(佐山聡)の大ファンで、新日本プロレスの試合を中継するテレビ番組「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日系列)を毎週欠かさず観ていた。初代タイガーマスクがデビューしたのは1981年4月23日であるから、当時私は小学3年生になったばかりの頃ということになる。  その頃の新日本プロレスの試合をテレビで観ていると、リングサイドの椅子席に、眼鏡をかけた野末陳平氏が腰かけているのを、よく確認することがあった。プロレス愛好家の有名人――というファースト・インプレッションは次第に氷解していって、彼は歴とした政治家(当時は新自由クラブ所属の参議院議員)であるという認識を持つようになり、度々テレビやラジオで活躍する彼を見る機会があったのだ。  ところで野末氏については――それくらいの知識しかない。やはり、プロレス好きの有名タレントという印象が強く、あとは、個人的に本屋へ行くと、どういうわけか野末氏のヘンテコな著作本があちらこちらにあるなあ――といった謎めいた印象が付け加えられるだけで、好きとも嫌いともそういう感情を抱いたことは一度もなかった。  今、Wikipediaを参照すると、彼の本名は野末和彦といい、1932年生まれの静岡出身、早稲田の第一文学部東洋哲学科を卒業した後に、放送作家になられた云々が記してあって、つまり、政治家になる前はそういうことをしていたのだと、今さらながら初めて知ったわけである。  こうして私が小学生時代に入り浸っていた本屋さんでよく目にしていた、野末氏の数々のヘンテコな本を、いまとてつもなく読んでみたくなった――わけである。これは理屈を抜きにした、ちょっとした好奇心だ。あの頃は全く手に取って読むことさえなかった野末氏の本を、ちらりと今、ささやかに冒険してみたくなったのである。 ➤陳平さんのワニの本  その頃よく本屋さんで見わたしていたのが、KKベストセラーズの“ワニの本”シリーズであった。ここに今、シリーズ102の『ユーモア・センス入門 学校職場・家庭を笑わそう』がある。むろん著者は、野末陳平氏である。  初版が昭和43年ということで、意外も何も相当古いと思った。本の外見の体裁は実に慎ましやかに、しかも小綺麗なのである。当時私はまだ生まれていな

『アメリカン・グラフィティ』の夜

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【ジョージ・ルーカス監督の映画『アメリカン・グラフィティ』】  つい先日、ロン・ハワード監督の1995年のアメリカ映画『アポロ13』(“Apollo 13”)を観たばかりであった。その精緻な演出――時代考証であったり人物描写であったり、アポロ13号のミッションで起きた諸々のアクシデントに係わる子細なやりとりを、実に丹念に描いていてお見事と思うのだけれど、ついついそのロン監督の面影が、“メルのドライブ・イン”(Mel's Drive-In)の店内なりネオンなりをバックにした、あるひと組のカップルの若き青年の姿にフラッシュバックしたりすると、もう一度“あの映画”が観たくなる――という衝動に駆られるのだった。  それはつまり、私自身が母校の高校の視聴覚室で『コクーン』(“Cocoon”)の映画を観た時の、〈え? あのスティーヴ青年がこの映画を作ったの?!〉という度肝を抜かれた衝撃は、同じようなフラッシュバックを伴うものであって、ご本人にはたいへん恐縮な話なのだけれど、私の中では今日においても、ロン・ハワード監督は「若き青年のまま」であり、“メルのドライブ・イン”でハンバーガーを食べているスティーヴ青年の印象しかないことは、いかに“あの映画”が強烈であったか、言うなれば、劇薬的なノスタルジーの仕業だとしか、思えないのである。  “あの映画”とは、1973年公開のジョージ・ルーカス監督のアメリカ映画『アメリカン・グラフィティ』(“American Graffiti”)のことである。ちなみにプロデューサーは、フランシス・フォード・コッポラ。製作費は当時にして78万ドルほどの低予算映画だった。 ➤ルーカスが描いた青春群像劇  むしろ今、日本人の若い人は、USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)の“メルズ・ドライブイン”のそれ――と思い出す人の方が多いかも知れない。いかにもアメリカンな、ベーコンチーズバーガーなどをほおばった後になってから、『アメリカン・グラフィティ』を知ったりするのではないか。  現代においてそういう疑似体験の中で、あの映画の世界を堪能できるとは、まことに羨ましい限りである。ちなみに私が、小学生の時分でこの映画を初めて観、〈これは“アメ車”の映画だ〉――という感想しか思い浮かばなかったのは、ちょっと致し方ないというのか、愚かしいというのか、やはり時代の差