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琥珀色の少年

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2003年付「琥珀色の少年」より)。

 専門学校に通っていた頃の話である。
 学校の帰り道、駅の高架線の下で、懐かしい中学校時代の友人と久しぶりに出くわした。
 それ以前に何度か彼の姿を目撃していたものの、傍に寄って声を掛け合ったのは、5年ぶりのことであった。もっとも、挨拶程度の会話で、時間にしてほんの数秒たらず。表情はお互い緩んだものの、それ以上の会話はやはり弾まなかった。

 彼との付き合いは、同じ小学校と中学校の9年間にわたる。中学1年くらいまでの彼は、小柄で可愛らしいという印象が強く、その可愛らしさは、小声が特徴的だった内面性からにじみ出たものであった。
 さすがに思春期に差し掛かると、その印象は少しずつ変化していき、むしろ内面性の変化は大きかった。
 小声なのは変わらなかったが、その音声は低くなり、彼自身、周囲に漂う可愛らしいという評判が少しずつ減っていったのを感づいていたはずだ。自分らしさとは何かを、無心になって引き出そうとしていた彼の痛々しさが伝わってくる中学校時代であった。

 だが、久しぶりに再会した時の印象は、さらに変化の一途をたどっていた。
 もうあの頃の面影はまったくないというのが、その時の私が抱いた率直な気持ちである。何よりその時の彼は、昔と比べてさらに頬が痩けてしまっていた。
 内面はどうであろう。あの頃とは変わったのであろうか。
 いや、私はそこまで考えるゆとりがなかった。
 何せその時の風貌は、頭からつま先まで、70年代に流行したサイケデリックな服装だったのだから。もともと彼は、すぐ流行に飛びつく性癖ではあったが、推測するに、彼の日常生活は、そういう流行にのっとった生活観に支配されているのかもしれない。

 私にとって、小学校、中学校、そして高校の学校生活というのは、急流に飲まれつつも、次第に緩やかな下流に向かって流れていった一括りの時代である。少なくとも高校卒業後、しばらく経っても、あの時代の思い出に関しては、それなりの鮮度を保って記憶していた。だが、その後10年という年月が人を丸飲みしてしまうと、学生時代の記憶など、かなりいい加減なものに朽ちるようである。
 まるで昨日の出来事のように鮮明であり続けた記憶は、いつの間にか、バケツ一杯の墨汁をぶっかけられたように真っ黒になり、映像としての品質が保てなくなっていた。気が付くと私は、あの学校時代以上の急流を下りながら、膨大な実時間の旅をしたのであった。

 旅はまだまだ続くのであり、緩やかな下流など、私の視界には到底差し掛かってきていない。

 彼、の話に戻る。
 子供の頃、童顔でしかも頭が良く、さっぱりとした性格であった少年は、中学生になって、ちょっぴり世間に対して抗え、その勢いが尽きる直前にバンドを始めた。当時、まだまだ自分の諒恕内にあった彼は、20歳を過ぎて、一つの世界観を築いた。それはあくまでも私の推測である。彼の良識の境目など、私が知るよしもない。が、あの時代、同じ激流を下った私と彼との間に、何らかの共通した観念が生まれたと仮説をたてても、決して荒唐無稽な話にはならないだろう。私は過去を必要とはしないけれども、彼もまた過去を必要としていないのではないか。そうした観念があったからこそ、あの時の挨拶が木訥としたもので終わったのではないのか。
 旧友との「再会」を考えるに、この出会うという抽象的な模擬は、憮然と過去の記憶をたどってしまう。二人は何気なく出会い、そして悠久の時間に逆らうことなく従順したまま、その場を去るのである。友人との関係というのは、密接な何かに偏るよりも、激流の中ですれ違うような、一瞬のきらめきにこそ意味があるのではないかと、私は思う。

 彼、曰く、
「頑張ってね。じゃ」

 人にとって不可欠なのは、平穏ではなく、明らかに事件性である。感情や憶測の集合体ではなく、心情を絡めた厳然たる物理的な事象を求めている。その事象の一つ一つの粒が結合した時、自分の本当の存在価値がみえてくるのではなかろうか。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…