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90年代のフェティシズム―スピリチュアル・ヴァイブスとトリス

今宵は、酒と音楽と恋の話で妄想したい――。こんなテーマが、野暮で冗長でありふれた戯言すぎることを私はよく知っている。それでも尚、このテーマから背くことができないような気がする。好きな音楽、好きな酒、そして熱い恋の話。どう転び回って語り尽くしたとしても、それは陳腐極まれり――なのだけれど、もはや逃れることが不可能なようだ。酒場の片隅で友人にとうとうと語るというより、むしろ、踊り子達が退けた深夜の裏通りか何かで、ぽつりぽつりと雨が降り出した挙げ句、にわかに思い出して呟き始める過去の記憶のようなもの。網膜に映った一瞬一瞬の、そんな蒼茫たる調子の無益な話だと思って、潰せる時間があるのなら是非読んでいただきたいと願う。
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 酒と音楽と恋に関して、まったくの個人史的な眺望から、“90年代”の10年間を振り返ってみたのだった。すると、前半の5年間は演劇活動にどっぷりと浸かり、後の5年間は、音楽活動で喘ぎ苦しんだ、という2本立てとなる。そのうちの後半のいずれかの頃、酒の本当の旨味というものをようやく知り始めた――ということになるのだろうか。ここで敢えて述べておくけれども、クリエイターにとって酒と音楽と恋とは、常にそれぞれが雑多に連動し、切り離せないものであるということを、確信を持って私は言いたいのである。  閑話休題。どちらかというと、後半の5年間の方が、心理的にも泥沼であったなということを思い返す。しかしながら、これら10年間をいくら振り返ってみても、客観的な「幸」と「不幸」を判断することはできないのだ。また、そんなレッテルを貼ってみたところで、ものの数秒で価値観はたちまち変わり、やはりすべて「不幸」であったと投げ遣りに思いかねないのだけれど、見方を変えれば、すべて「幸」であったとも思えるのである。決して不幸せな時間が長くは続いてはいなかった、と信じられる10年間であった、とも言える。だから、その手のレッテル貼りの判断は、よした方がいい。
 私が90年代に出会った音楽などは、すべからく自身の創作活動の肥やしとなっていたことは確かだ。ところで、ぴょこりと90年代半ばに現れた、一組のユニット、竹村延和(Nobukazu Takemura)氏とヴォーカリストの野中紀公子さんの「スピリチュアル・ヴァイブス」(Spiritual Vibes)に対しては、ある種の偏見とジェラシーと怨…

蔵と柳の町

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2004年12月28日付「蔵と柳の町」より)。
〈一〉私とEOS Kiss
 銀塩一眼レフカメラ「Canon New EOS Kiss」を買ったのが、1998年の暮れ。滅多に体調を崩さない自分が、珍しく大風邪でダウンしたのでよく憶えている。翌年、その真新しいカメラを引っ提げて、栃木県栃木市を歩いて撮影。さらにその翌年の2000年、もう一度訪れて、栃木市の町を撮影している。  正直に言ってしまおう。一、あの当時は金がなかったこと。二、“イオス・キス”だなんて、口にするのは恥ずかしいし、カメラのボディも女性向けに感じたこと。三、一眼レフカメラなんて、怖々使っていたし、何を撮っていいのか良くわからなかったこと。
 「写真を撮る」ということと「歩く」ことが同義であるとすれば、栃木市に行ったことは、私にとって始めの一歩であったし、本格的に写真を撮る原点であったと言っていい。「本格的に」というのは、何を指しているのか。つまり、何かを心に秘めて、その心を写真というかたちで表現したいと志したこと…を指している。
 皮肉屋が皮肉屋に対して訊く。じゃあ今は、何かを心に秘めて、それを写真というかたちで表現したいのか、と。  その「何か」って、いったい何なんだい?  いったい、どんな心なんだい?  皮肉屋は、言葉に窮すわけでもなく、にやりと笑うわけでもなく、ただひたすら、あの時訪れた栃木市の町の風景を思い起こそうとしていた。
 少なくとも私は、あの時、買ったばかりのEOS Kissで、最もおぞましい「作例写真」を撮るために、そこへ訪れたわけではなかったことは、何よりも救いではあった。買ったカメラが良いカメラか悪いカメラかを知るために、風景を撮ったのではない。もう少し単純な、その瞬間の風景に居合わせていた自分を見つけたくて、そこへ行ったのではなかったか。  やはり当時お金がなかった私は、その町の風景を写真に収めたお礼の代価として、その町にお金を「落とす」こともせず、まるで無言で素通りしていく素っ頓狂な男を演じ切り、その町を去ったのである。そう、旅人でもなく、また招かれた客人でもなかった。
 どこでそんなことを覚えたのか、私はあの最初に買った一眼レフカメラを、3年目に寝かし込み、やがて別のカメラを買うために、下取りしてしまっ…

写真に残すということ

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2004年12月8日付「写真に残すということ」より)。
 昔、よく買いに行った駄菓子屋がある。  昔、よく通った道がある。
 数年前の写真、数十年前の風景…。  そしてその記憶。  その頃、何をして遊んだかについては、記憶として具体性に欠けるのだが、学校が終わって、友達の家に行き、そしてどこかの場所へ移動して、めいっぱい遊んだという、漠然とした身体の名残はある。時間を忘れて遊ぶものだから、気がつくと、あたりは薄赤い夕焼けに染まっていて、それが帰る時間だということを教えてくれた。
 小学校高学年にもなると、そういうふうに外をかけずり回る遊びはしなくなり、もっぱら室内でパーソナル・コンピュータ(当時はマイコンと呼んだ)に夢中になるのだが、遊び場の記憶というのは、意外と残っているものなのではないか。そこで何をしたかは思い出せない。しかし、そこに何があったか、どんな人がいたかは、思い出せる。誰かが、あるいは小学生であった自分が、カメラを持って、自分たちの遊びを写真に収めていたら、それはどんなに痛快で、価値のあるものであるかを大人になって気づかされるだろう。
 小学校の卒業アルバムには、畏まった自分たちが、教室の中で整列し、あるいは何気ない給食の風景をとらえてくれていたりするものの、放課後のことは何も教えてくれない。誰の卒業文集を読み返しても、そうである。修学旅行へ行ったこと、自分の学習態度がどうであったかということ、中学へ行ったら何をしたいかということ、作文の趣を変えたとしても、クラブ活動がどうだったかということが関の山で、自分が放課後に、誰とどんな遊びをしたかは、誰も書かなかったのではないだろうか。
 学校という場から抜け出た、もう一つのフィールド。それは書き残してはいけないことだったのか。遊びは、記憶から忘れてよいもの、排斥してよいものだったのか。自分たちの遊びの風景を、もし誰かが写真で記録していたとしたら、それは本当に価値あるもの、貴重な自分史となったのではないか。  残念ながら、私の手元にそのような記録物はないから、その頃遊び回った場所の風景を、今更ながら写真に収めたりして、何とかその記憶を呼び起こそうとしている。