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5月, 2005の投稿を表示しています

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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
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 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

蔵書森―松本清張と恩師を知る旅

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2005年5月26日付「蔵書森―松本清張と恩師を知る旅」より)。

1.旅行く前の余波
 学校法人・千代田学園の大まかな沿革はこうである。
 1957年、その母体である「千代田テレビ技術学校」が開校発足。1971年には、「千代田ビジネスカレッジ」開校。専修学校として認可されたのは1980年のことで、「千代田工科芸術専門学校」「千代田ビジネス専門学校」(のちに「千代田海洋科学ビジネス専門学校」と校名変更)となる。マンモス校と呼ばれる。
 2002年、経営破綻により、民事再生案の手続きを申請。校地校舎を無届けで売却した資産保有義務違反によるもの。2004年、最後の学生達200名以上が卒業。同年12月17日、東京都は私立学校審議会の答申を受け、学校法人・千代田学園の解散を命令。
 私はその千代田学園(千代田工科芸術専門学校)の卒業生である。  在籍していた2年間のうち、最初の1年でマスコミとジャーナリズムについての授業を受けた。その授業の講師は、元朝日新聞記者でエッセイストの秋吉茂先生であった(主な著書には、『美女とネズミと神々の島』『遙かなり流砂の大陸』がある)。  私のノートには、その時の授業の内容がびっしりと書き記されており、そのノートは現在も大切に保管してある。ジャーナリズムの狭義と広義、人格権、プライバシーについて、少年法、肖像権、情報公開法、誤報・虚報などが講義テーマに挙げられていた。印象に残っている講義は、新藤兼人監督の映画『裸の十九歳』のモチーフになった、昭和43年の「連続短銃魔事件」である。この時の秋吉先生の講義は、実に冷静で力強く、学生達に訴えかけるものであった。
 先生は1917年(大正6)福岡生まれである。白髪で、骨太を思わせるずっしりとした体格。普段は、か細い眼でクシャッと笑顔を見せる。が、真剣な話になると、その顔が一変してきりりとと引き締まった。甲高い声はどこか九州人らしい特徴を持っていて、その声の印象も忘れることができない。
 私が在籍していた1992年当時では、75歳であったろうか。  ある講義の冒頭で、秋吉先生は、自身の中央アジアへの旅について話していただいた。その時のことについて、当時の私の日記には以下のような記述があったので引用する。
〈平成3年10月11日:…秋吉先…

鉄道について考える―JR福知山線脱線事故から

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2005年5月26日付「鉄道について考える―JR福知山線脱線事故から」より)。
観客を楽しませる術と作法の問題
 鉄道という乗り物を「映画」に見立てる。  人や物を輸送する映画、という意味ではない。  人や物が移動する際の、その時間の、ありとあらゆる夢想を膨らませてくれる「映画」なのである。
 そう考えると、誰が「作り手」で誰が「見る側」かはっきりする。  作り手には、作るための術があるし作法があり、見る側にも術があって作法があるべきだ。
 福知山線脱線事故。  双方にとって、上映フィルムが途中で切れてしまうということはあってはならないことだ。  フィルムが切れて見えなくなってしまえば、映画は台無しだからだ。  だがその事故は、フィルムが切れるばかりでなく、その切れたフィルムの片が観客の首筋を切り裂いて殺すような、夢想を膨らませるどころではない、凄惨な現場となってしまった。
 鉄道を映画に見立て、あの事故をそのようなたとえ話にすること自体、不謹慎であるのは承知である。  だが判りきったはずの術と作法が、無造作に踏みにじられたということは、たとえばなしをしないとわからない人間が、この世の中に生きているということでもある。  それは、自分自身かもしれない。
 松本清張の『点と線』の中で、鉄道は殺人トリックに利用され、真の犯罪者を霧の中に隠蔽させた。  鉄道は、それほど深い霧の中に存在するのだろうか。