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さだまさしの「軽井沢ホテル」

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自分の学生時代の頃のことを思い出すのは、身悶えするような切なさを伴う。同じ地べたを踏み歩いてきた幼き頃の自分――というのとは少し感覚が異なって、まったく《異世界》に居た、別人に近い自分に思えるからである。世の受験シーズン、卒業シーズン、そして入学シーズンの話題を聞くようになると、そうした学生時代の過去の一幕を無為に振り返ってしまうのは、大人の悲しい性である。時には思い出さなくいいことまで、余計に思い出してしまうこともあり、記憶とは、泥にまみれた水滴の残滓、という言い方がこの場合は好ましい。
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 私が中学・高校生だった頃は、夜ともなれば、AMやFMのラジオ番組に夢中になっていて、あちらこちらのラジオ局の、お気に入りの番組に耳を傾けていたように思う。そうしてそこから、情趣ある音楽のそこはかとない世界に迷い込むことが多かったのだけれど、35年前に買ったレコード――さだまさしさんが歌う「軽井沢ホテル」――には、中学校時代の個人的な情念が深く入り込んでしまっていて、いま聴くと、苦くて切ない。そうした切なさの香りは、喜怒哀楽を現実のものとして氷解させ、呼び起こすことにもなるのだった。  35年前の1985年(昭和60年)。私は中学1年生だった。気心知れた小学校の旧友とは離ればなれとなっており、クラスメートの大半はほとんど初めて出会う男女であった。それだけでも多分に、息苦しかった。初めて見る顔に戸惑いを覚えた、と辛い記憶しかない。
 初めての学校、初めての教室、初めての担任に、初めてのクラスメート――。違和感だらけであった。真後ろの席の男子とは、すぐに仲良くなった。しかし、全体の違和感の溝は、なかなか埋まらない。授業が始まっても、なんとなく気持ちが上の空で身が入らないのだった。  落ち着く先を見つけるため、旧友が入部したという演劇部に入った。やはり旧友と部活の中で話をすると、心が和む。しかも演劇部の部長が、何気に美しかったのである。部長は3年生の女子で、なんと聞けば、自分のクラスの、真後ろの席の男子の姉だったのだ。これでいっそう愉快な気分となった。演劇部は居心地が良かった。中学1年の私は、演劇部の部長に仄かな恋をした。
 さださんがパーソナリティをやっていた「さだまさしのセイ!ヤング」という文化放送のラジオ番組(毎週土曜の夜11時放送)を聴いていたのは、その頃のことである…

門司港を歩く

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※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2005年6月23日付「門司港を歩く」より)。
 JR小倉駅から鹿児島本線で15分ほど行くと、JR門司港駅がある。
 門司港を散策して思ったこと、感じたこと。  それは、本当に子供じみてどうしようもない思いなのだけれど、〈自分の住む町が、こんな町だったらなあ…〉ということだった。関東平野のありきたりな、殺風景な町に住んでいる、という自虐的な思いが以前からあった。まるで砂嵐のような風を凌ぎながら書店へ行くと、欲しい本が店頭に無いということがしばしばある。苛つく瞬間である。海もなければ山もない、田圃はあるが、大したことはない。無い無いづくしで嫌になるのだが、車の往来ばかりが多くて、風景と言うべき片隅の美しさが感じられない、そこは「私の住む」町なのである。
 そんなふうに思っていたから、門司港を歩いて愕然としてしまったのだ。港というのは、人と物と情報とが行き交う「先端」の場。かつ、そこには長い歴史がある。当然のことながら、その長い歴史の中で、負の歴史という一面もあるのだろう。だが人間が努力して、今日に至る街並みを築いていったのだと思うと、やはり人の「粋な心」を感じないわけにはいかない。  旧門司税関を見学して、窓から外の港の風景をぼんやりと眺めた。ぬぐい去ることのできない「私の住む町」に対する自虐的な思いが、涙を誘発するくらい悲しい気分にさせられる。
 嘘でもいいのだ。本気で他人に、門司で生まれました、と言ってみたいのである。北九州がぐっと自分の胸に近づいているのだが、地元の人間はよそ者である私を、許してはくれないだろう。