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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈九〉

約半年ぶりになる当ブログの不定期シリーズ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」。前回は今年の5月。mas氏が2001年に訪れた上高地への旅行記であった。今回はmas氏の「中国茶のオルタナティブ」から。それも恐縮ながら、「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈五〉」の“復習編”なるもの。初心に戻って中国茶を飲み、茶の精神論について雑学的に語っていきたい。  ちなみにmas氏に関しては、当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈一〉」をご参照いただき、「中国茶のオルタナティブ」は彼が2000年から2001年にかけて、ネットのホームページで更新していたコラムのことであり、私が当時、そのコラムを読んで中国茶についての深い造詣をつまみ取り、なおかつmas氏の“クラシック・カメラ愛”を初めとする数々のサブカルに私淑したことを敢えて冒頭で述べておく。残念なことに、mas氏の「中国茶のオルタナティブ」のホームページは、とうの昔に削除されてしまっており、現在、ネット上にそれにあたるミラーサイトは存在しないものと思われる。
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〈五〉で紹介した、「中国茶のオルタナティブ」のその六。「『茶』をどのように発音するか。誤読の歴史。」。その復習のため、もう一度ここに全文を掲載しておく。
《中国では、チャー、インドではチャイ、日本では、チャ/サ、イギリスでは、ティーTea、フランスではテThe、ブラジルではシャーcha。  もちろん、いずれも語源は同じ、中国人が「茶」を発音した音。  しかし、発音した中国人はどこの地方で、何世紀だったのか? その音をアルファベット表記した者の母国語は? そして、そのアルファベット表記をさらに違う母国語を持つ者が読み、その音をアルファベット表記したらどうなったのか? そんな誤読の歴史の中で似てるけど違う表記/発音が生まれた。  そして、飲み方についてもしかり。ミルクを入れてみたり、バターを入れてみたり、石臼で挽いてみたり、焙煎してみたり、そんな誤読の歴史の中で茶であることは変わりのないのに様々なスタイルが生まれた。  初めてミルクティーを作った人なんかはかなり変人だったと思う。それとも、すごく猫舌で手元にあった冷えた牛乳を入れてみたとか、そんなもんだったのかな。あ、あれはチャイの変形版か。インドだと水より牛乳か。。。  そういえば、香港あたりのファミレスふう大衆食…

門司港を歩く

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2005年6月23日付「門司港を歩く」より)。
 JR小倉駅から鹿児島本線で15分ほど行くと、JR門司港駅がある。
 門司港を散策して思ったこと、感じたこと。  それは、本当に子供じみてどうしようもない思いなのだけれど、〈自分の住む町が、こんな町だったらなあ…〉ということだった。関東平野のありきたりな、殺風景な町に住んでいる、という自虐的な思いが以前からあった。まるで砂嵐のような風を凌ぎながら書店へ行くと、欲しい本が店頭に無いということがしばしばある。苛つく瞬間である。海もなければ山もない、田圃はあるが、大したことはない。無い無いづくしで嫌になるのだが、車の往来ばかりが多くて、風景と言うべき片隅の美しさが感じられない、そこは「私の住む」町なのである。
 そんなふうに思っていたから、門司港を歩いて愕然としてしまったのだ。港というのは、人と物と情報とが行き交う「先端」の場。かつ、そこには長い歴史がある。当然のことながら、その長い歴史の中で、負の歴史という一面もあるのだろう。だが人間が努力して、今日に至る街並みを築いていったのだと思うと、やはり人の「粋な心」を感じないわけにはいかない。  旧門司税関を見学して、窓から外の港の風景をぼんやりと眺めた。ぬぐい去ることのできない「私の住む町」に対する自虐的な思いが、涙を誘発するくらい悲しい気分にさせられる。
 嘘でもいいのだ。本気で他人に、門司で生まれました、と言ってみたいのである。北九州がぐっと自分の胸に近づいているのだが、地元の人間はよそ者である私を、許してはくれないだろう。