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プディング妄想そしてプリン三昧

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芸能人の不倫ほど、食えないものはない。見苦しく、おぞましく、その非難の惨状を取り繕うのに必死な当事者は、家庭人としての体裁と社会への扉があっけなく閉じられようとする瞬間に、己の貧相と終始向き合わざるを得なくなる。  そうした人間の醜さゆえに不倫という。またそれが、仰々しくも侘びの沙汰――出会ってしまったが為の逃れられぬ恋慕――の身の上に生じた不倫であれば、どこか文学的で暗がりの野良猫の徘徊にも似た悲哀が感じられ、人間は所詮善人ではなく、そうした愚かな過誤を一生のうちにふと一度か二度、犯しかねないものである――という諸説入り乱れる含蓄と啓蒙に富んだ、近世の西洋人の警句のたぐいを思い返したりして、例えばまた、そういう調子の映画(堀川弘通監督の映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』)を観たりして、人生の破滅的な断罪やら教訓を反面教師的に心に打ち付けることができるのだけれど、その不倫の現場が――とあるビルディングの地下駐車場の“多目的トイレ”となると――あまりに異様な、とても文学的と称するわけにはいかなくなるのである。
 ここでいう文学とは、純文学のことである。つまり、“多目的”=multi-purposeの意味を履き違えた異形の不倫というよりは、単にお互いが、“もよおして遊ぶ”キュートなフェティシズムの乱遊に興じていたに過ぎなかったのではなかったか。この性癖には、近世のインテリジェンスな西洋人も、言葉を失って頭を抱えてしまうであろう。
 不倫。あちらこちらの小学生がついつい、学校でこんな不謹慎な話題を持ち出しかねなかった。「あのさ、多目的トイレでフリンって、結局、トイレで何すんの?」――。彼らは思春期の余りある好奇心をたえずくすぐられている。性欲の快楽に関する疑問に、半ば騒然とする心持ちを抑えつつも、おもむろに図書室へ行って、厳かに古びた国語辞書を手に取るに違いないのであった。また知性ある女子は、そんな男子の興味本位な話題にはつゆほども関心を示さないふりをしつつ、家に帰ってから、その漠然としたモヤモヤ感を払拭しなければならなかった。その最適な所作として、自身の勉強机の隅に置かれた国語辞書(誕生日に買ってもらったりしたことを思い出しつつ)を、開くであろう。――フリン。そこにははっきりとこう記されているのだ。 《既婚者が、別の相手と性的関係を結ぶこと。【類】密通・姦通・…

門司港を歩く

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※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2005年6月23日付「門司港を歩く」より)。
 JR小倉駅から鹿児島本線で15分ほど行くと、JR門司港駅がある。
 門司港を散策して思ったこと、感じたこと。  それは、本当に子供じみてどうしようもない思いなのだけれど、〈自分の住む町が、こんな町だったらなあ…〉ということだった。関東平野のありきたりな、殺風景な町に住んでいる、という自虐的な思いが以前からあった。まるで砂嵐のような風を凌ぎながら書店へ行くと、欲しい本が店頭に無いということがしばしばある。苛つく瞬間である。海もなければ山もない、田圃はあるが、大したことはない。無い無いづくしで嫌になるのだが、車の往来ばかりが多くて、風景と言うべき片隅の美しさが感じられない、そこは「私の住む」町なのである。
 そんなふうに思っていたから、門司港を歩いて愕然としてしまったのだ。港というのは、人と物と情報とが行き交う「先端」の場。かつ、そこには長い歴史がある。当然のことながら、その長い歴史の中で、負の歴史という一面もあるのだろう。だが人間が努力して、今日に至る街並みを築いていったのだと思うと、やはり人の「粋な心」を感じないわけにはいかない。  旧門司税関を見学して、窓から外の港の風景をぼんやりと眺めた。ぬぐい去ることのできない「私の住む町」に対する自虐的な思いが、涙を誘発するくらい悲しい気分にさせられる。
 嘘でもいいのだ。本気で他人に、門司で生まれました、と言ってみたいのである。北九州がぐっと自分の胸に近づいているのだが、地元の人間はよそ者である私を、許してはくれないだろう。