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漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
§
 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

不思議な少年の話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年12月30日付「不思議な少年の話」より)。

 本日が私にとっての“仕事納め”の日でした。この1週間近く、仕事に集中していたために、新聞のコラムすら読みのをためらうくらい、朝はせわしく、夜は疲労でぼんやりとしていました。
 家の中の整理整頓――つまり大掃除というやつは、既に先月くらいからやり始めていて、せわしい年末にそれをやるのは無理なので、例年はいつもそうしています。
 さて、岩波書店発行の小冊子『図書』1月号の新連載で、大江健三郎氏の「親密な手紙」が始まり、大いに昂奮しています。私はむしろ、大江先生の書物に疎い方であるけれども、朝日新聞朝刊の「定義集」の連載と共に、親しんでいる『図書』の中で彼のコラムを読むことができるというのは、幸運であるとさえ思います。
 その連載第1回目では、哲学者ガストン・バシュラールの文章を9つに行分けして引用し、その引用文から想起されたタイトルを大江先生は「不思議な少年」としています。すなわち、バシュラールの『空と夢』からの文章に対してです。
 私自身も、このコラムを読んでいくつか想起した思い出があります。
 「不思議な少年」。
 たぶんその時の私が、視力が低下している結実として眼鏡をかけ、その視界を尖鋭に見通していたら、彼をそのように見る(憶える)ことはなかったでしょう。
 もう10年以上前になりますが、大好きな東京国立博物館の本館の中で、「不思議な少年」を見ました。自分と同じ20代にして仏像や宝物を丁寧に拝観している一人の青年の姿。彼は緑色のカジュアルな上着を着衣していたので、私はずっと彼を《緑衣の青年》と定義していました。
 けれども私は彼の顔をはっきりと見ることができなかった。裸眼でその存在をぼんやりとしてしか見ていなかったから。
 その瞬間から彼は、私の内面の抽象的な存在となりました。そう、大江先生のコラムの結びと同じ言葉で言い表せます。生き方の「窮境」に立たされていた20代の若者であった自分は、自分に問いかけてくれる何者かを欲していたのだと。私はその博物館にいた《緑衣の青年》と対話し、腹を割って自分をさらけ出したかったのだと。
 その幾年か前、私は自己を顧みることができず、ある年上の女性からの、まさに「親密な手紙」の幾通かを、厳しい眼差しで破り捨てた…

我がジミー・スミス!

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年12月21日付「我がジミー・スミス!」より)。
 FF13にはまりっぱなしの若者にはまるで素っ頓狂な話になりますが、「大人」というのは自分だけの空間を持ちたいもの。私の叶わぬ夢は、どこかのワンルームにPA用のラージスピーカーと真空管アンプを据え置き、ジミー・スミスのオルガンを聴きながら、据え置かれたビンテージのピンボールを楽しむというもの。ボルドーのワインを飲みながら…。
 部屋いっぱいに彼のジャズを鳴り響かせることはできますが、ピンボールを据え置くというのはちょっと無謀です(笑)。しかしそれにしても、ジミー・スミスのオルガンが絶妙なほどピンボールのプレイのBGMに合うのは、どういった理由なのでしょう。
 ともかく、叶わぬ夢を少しでも実現させようということで、Windowsのソフトウェアからリストアップしてピンボール・ゲームを探しているのですが、さてどうなるか。
 閑話休題。エンジニアであるルディ・ヴァン・ゲルダーについて詳しく知っている方に是非とも訊いてみたいことがあります。
 中山康樹著『超ブルーノート入門完結編―4000番台の至福』(集英社新書)の中で書かれてあること。4005番の『HOLIDAY FOR SKINS VOL.2/ART BLAKEY』のページですが、ルディ・ヴァン・ゲルダーが1本のテープからステレオとモノラルの2つのミックスをつくった際、スタジオには1本のスピーカーしかなかったと書いてある。
 結局、私は彼のレコーディングのすべてを知りたいのだけれども、彼がどのようなセッティングを行い、どのような音場をつくり上げようとしたか、それはステレオとモノラルそれぞれのミックスでどう解釈されたのか、大変興味深く、また謎めいています。
 ブルーノートをすべて聴け! という答え以外到達しようがないのかもしれませんが、少しでもレコーディングを知っている者なら、1本のスピーカーでステレオミックスをつくることが、いかに荒唐無稽であるかがわかり、またそれはいかに神業であるかがわかると思います。(オシロ使うのかな…というのが私の勘。)
 私にとってはブルース・スウェディンを研究するより面白い研究になるはず、と確信しています。

ユリノキ参詣

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年12月16日付「ユリノキ参詣」より)。

 今月初め、手持ちの「Olympus E-P1」のボディを下取りしてもらい、「E-P2」のブラックを購入。ついでにレザーのカメラーケースも購入。こうなると、付属のストラップでは見栄えが悪いことに気づきます。なにか、レザー製で良いストラップはないかと探し求め、結局、数日間迷って迷って回り道してOlympusサイトのロングストラップを購入。言わば正規ストラップ。ペンは本当にレザーが似合うなあと思います。
 けれども、これも欲しかった。「Camera People Store」で売られているレザーのストラップ。使いやすそうだし、カメラも引き立ちますね。写真を撮るのが楽しくなりそうなストラップです。
 我が旧サイト「Photos Symphony」の中で“ユリノキ”の写真を紹介しています。これは東京国立博物館の中庭にあるユリノキ。  どういうわけかここ数年、正月になると東京国立博物館を詣でる、参詣するといった私個人の行事があります(笑)。  そして何よりまず、このユリノキを見上げる。  幹から枝葉への無数の複雑な流線が、まるで動物の毛細血管のようで、しばしうっとりとしてしまうのです。私は勝手に、これが博物館そのものの“ご本尊”だと思っています。
 というわけで来年の初っぱなには、博物館を訪れようかなと。冬空の上野の公園をちまちまと散歩するのも、私の大好きな行程です。  もちろん、オリンパスペンを片手に!

アランの『定義集』

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年11月25日付「アランの『定義集』」より)。
 久々に新宿の紀伊國屋書店に立ち寄ることができ、目的の『柳宗悦 民藝紀行』(岩波文庫)を買おうと中をパラパラとめくった次の瞬間、『アラン 定義集』(神谷幹夫訳・岩波文庫)が目に入り、結局そちらを持ってレジへ向かいました。今考えれば両方買えば良かったのに、何故か後者の内容に惹かれ、前者を忘却してしまいました。
 話は少し脱線しますが、ちょうど10年ほど前、PHSを利用していた私はシャープの「MI-P1」(通称:ザウルス・アイゲッティ)のブリリアントブルーの方を買って、インターネットを初めて経験しました。 ケータイ端末、しかも料金課金制なのでつなぎっぱなしはできません。ウェブの更新時だけネットに接続(長くて1分程度!)し、それ以外の閲覧の時は接続を切って“オフライン”でウェブを見ていました。ブロードバンドや24時間接続などまだ夢だった頃の話です。
 やはりその頃のネットの楽しみとしては、見知らぬ者とのメール交換が最たる目的でした。私とほぼ同い年の、北海道に住むとある女性とメル友となり、頻繁にメール交換をしました。
 彼女が日常の機微に触れる時、よく『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫)を引用してくれました。さて今、私の自宅の書棚のどこかに、この箴言集が在ったような気がしたのだけれど、記憶が曖昧です。
 ともかく、往々にして何かに毒した時―それは大抵三種の欲望のうちのどれかですが―箴言集の中にこうあります…、と彼女が制して(宥めて)くれて解決しました。これは本当にインターネットの“古き良き時代”の話なのです。
 さて、いま私は『アラン 定義集』を片手に、まず真っ先に「時間(TEMPS)」の項目(アランが定義したカード)を刮目します。ここでアランはデカルトの言葉を引用して、〈神自身も、起きてしまったことを起きなかったようにすることはできない〉と書いています。写真を見る限り、エミール・シャルティエはまったく夏目漱石と瓜二つであるけれども、彼はこの言葉を引用することで、定義集の大原則を述べた、語ったと私は解釈し、この定義集を信託します。自らは神でないこと、神もまた神でないことの静観です。
 しかしそれが「時間」を語っているという点で非常に深い。この本の解説で…

文学熟読論

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年11月11日付「文学熟読論」より)。
 昨日、組み立て用のキットから本棚を2つ拵え、ようやく新しい書棚が誕生しました。組み立てるのに3時間、差し入れる本を整理するのに3時間。結局、家中の書棚の整理となってしまいました。
 新しい書棚には、当然ながら段ボール箱に放置されていた『岩波講座 日本通史』全25巻を、それから調べ物用のコーナーを設置すべく辞典類を、そして摩天楼化していた本のタワーを分別した後、購入してからまだ読んでいない諸々のシリーズ本(ほとんど岩波現代文庫)を差し入れました。
 他の書棚を整理していると、奥行きのある棚の奥から、買った覚えのない本が何冊か出てきたのには驚きましたが、それは単に忘れているに過ぎないのだけれども、鈴木大拙とかエトムント・フッサールの『ブリタニカ草稿』とかが、手に取りやすく並んでいるプロレス本の真裏の見えないところに隠れていたりすると、精神衛生上気まずいので逆に差し替えたりして体裁を整え…(笑)。
 あ、ベンヤミンの『パサージュ論』、読みたいなあと思い買ったまま何年も読んでいない。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』しかり。
 結局今、熟読してしまっているのは、先日書いた『街道をゆく 36 本所深川散歩、神田界隈』なのです。神田界隈の編で論語が登場するのですが、それ以上に大好きなのが、森鴎外やら夏目漱石やら藤村操の自殺やら岩波茂雄らが登場するあたり。藤村が自殺して岩波が雑司ヶ谷の一軒家で泣いた――を読めば読むほどその場を想像できて喜劇的に感じられる(きっとわんわん泣いたのでしょう!)。
 ここで「哲学書肆」という言葉が登場するのですが、ともかく私は何故か、このくだりを延々と今読んでいる。何度も読み返している。本当に馬鹿げているのですが、「哲学書肆」の言葉で折り返して、また岩波茂雄が雑司ヶ谷で泣いた云々を読み返しています。
 果たしてこういうのを、熟読と言えるでしょうか(笑)。

毒ガスの島上陸

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月7日付「毒ガスの島上陸」より)。

 9月5日のブログ「毒ガスの島」でも紹介した大久野島に、先月29日に上陸することができました。広島駅を早朝6時半頃に出発して、呉線の電車に乗り込んだものの、大雨の影響で断続的にストップ。忠海の駅に着いたのは10時前でした。
 その間、車窓はずっと雨の風景だったので、これでは島を見て回るのは無理かなと思い、もし無理なら忠海の港だけを見て引き返そうと思っていたのですが、幸運なことに、忠海駅を降りると雨がほとんど降らなくなり、島上陸を決行することにしました。
 大久野島は昭和4年5月、忠海兵器製造所として開所します。毒ガス製造に関する詳しい情報は、他のサイトに譲ります。ともかくこの周囲約4キロの島に、当時はイペリットやルイサイト、ホスゲン、塩化アセトフェノンなどの製造工室が散在していたということです。
 フェリーを下りた桟橋から少し歩き、隧道を脱けると、発電所跡があります。この発電所跡は、フェリーが海岸に接近すると島外から見えます。これほどの状態で外壁が残っているというのも驚きです。
 発電所から北へのぼって歩いて行くと、北部砲台跡があります。当時、その東側には倉庫になっていたようです。
 砲台跡をさらに北へ行き、島の端に着くと、北西に島の半島部が見えます。当時ここは点火試験場と毒物焼却場があった所です。
 ここから斜面を下っていくと、そこは長浦地区と言われた所で、倉庫やボイラーがあったようです。上の写真はその貯蔵庫です。
 貯蔵庫の隣に、おそらくこれは当時の便所ではないかと思うのですが、これもこうして残っています。
 休暇村として大久野島に来る観光客にとって、こうした遺跡はほとんど関心はないと思います。現在の休暇村施設の付近に、多くの製造工室があったようです(三軒屋地区)。

壁に記された伝言

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月5日付「壁に記された伝言」より)。
 袋町小学校の「伝言」について、私が初めて知ったのは、何年か前に放映されたNHKのドキュメンタリー番組だったと思います。詳しくは、袋町小学校平和資料館のサイトをご覧になってみてください。
 私が資料館に訪れた先月の28日の午後は、雨がぱらついていて、気分的にもひどく落ち着かないものでした。資料館の入り口に踏み入れた時、受付の席には誰もいず、はて、ここは入館料があったっけ…としばしその場で留まっていましたが、靴を下駄箱に預けて廊下を進み、教室に入ったところで初めて、資料館のガイドの方(おじさん)に出合いました。
 ところで私は広島駅に着いた瞬間から、東京とは気温の差が激しく、雨空のもと、ものすごく蒸し暑さを感じていたのですが、そのガイドの方と被爆当時の話を聞いた小一時間、いわゆるその「西校舎」の窓から入ってくる心地よい風に、思わず私は何とも言えない感動を覚えました。
 雨空のもとの心地よい風と共に、新しい校舎の中から元気な子ども達の声が聞こえてくる。頭では昭和20年に思いを馳せているのに、身体の方は、どうしようもなく「いま」の感触と感覚に反応していました。
 爆心地に近いこの小学校で何がどうなったか。そして被爆後の救護所としての仮場の中で、人々が何を思ってそこに伝言を託したか。そうした未曾有の惨事の細部を、いま私が想像しうることは到底不可能です。
 あの時の古い校舎の一部が、保存されそこにあるということ。
 唯一、私に想像できるのは、ここにそれがある限り、それ自体が平和を希求する「伝言」となるだろうということです。
 おじさん、いろいろ教えていただき、ありがとうございました。

広島の町。街。

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月3日付「広島の町。街。」より)。
 母方の実家が広島県の呉市にあるので、物心ついた頃には、「ヒロシマ」という単語はかなり早く覚えた単語の一つです。
 そうして少なくとも過去2度は広島へ訪れているのに、その記憶が漠然としたものでしかない。しかし部分的には強烈な記憶として残っている風景もある。それらがちぐはぐに頭の中をかすめて、今までやり過ごしてきた、という感じがします。
 しかし厳密には、記憶としてではなく、なんとなく撮られたスナップ写真の中の光景が記憶の中にインプットされているだけなのかもしれません。小学3年生の夏休みに訪れた広島の、それは呉だったか、吉浦だったかの小さな川の畔で、漁船の傍で強烈な潮の薫りを嗅ぎながら、じっと川の流れを見ていた記憶。母方の実家の、2階のベランダから、朝方の靄のかかった通りの、家並みを眺めた記憶。
 確かに曖昧だけれど、そうした漠然とした空気のように無色透明な記憶の断片を、ずっと胸の中にしまっておきたいと思えば、今この町に訪れることは意味のないことだったかもしれません。しかし、日本の戦後の、大復興した街の中で最も辛酸をなめてきたのが沖縄であり、長崎であり、広島なのです。少なくとも、幼い頃から「ヒロシマ」という言葉を聞いてきた私にとっては、まったく無縁であった町とは思えない、思いたくないのです。

読書の秋に思うこと

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年9月23日付「読書の秋に思うこと」より)。
 来週は広島へと旅行するので、ここ数日間、スーツケースの中の荷物を用意したり整理したりして旅の空想に浸っています。
 いわゆる随筆集の小冊子である岩波書店発行の『図書』は、私の旅のお供をする必須アイテムになっていて、電車の中で随筆を読んだり、岩波書店の新刊・既刊の目録から欲しい本を探したりして、旅先の書店へ駆け込む重要な情報源なのです。
 私が個人的にインターネットを利用し始めてもう10年以上経過していますが、インターネットが読書に与えた影響ははかりしれません。
 例えば、一つの本を読んで何かしらの着眼点を発見し、メモをとる。インターネットがなかった時代(学生時代)では、ここでしばらく――いや、とんでもなく長い時間――メモはメモのまま沈滞してしまう。ところが、ネットがあるとそこで沈滞せずに検索をかける。すると新たな発見があり、別の本や人物に着眼してしまう。モノと人との情報が次々と繋がっていくので、発見は際限がなくなる。結果、読む本が何倍も増えていくのです。
 私が最近読み終えた本、村山富市・佐高信著『「村山談話」とは何か』(角川書店)の中で、〈穂積五一が主宰する至軒寮〉という記述に目が止まりました。私はここで「至軒寮」に興味を持ったのです。あの「村山談話」が生まれる背景には、当然、村山富市という人の生い立ちと経歴が底流としてあるわけですが、彼がその至軒寮にいた、というのであれば、そこでどんなことを吸収したのだろう、という興味と関心が生まれます。
《東大教授で憲法学者の上杉慎吉が大正時代に創立した私寮…》
《穂積五一が引き継ぎ、寮長となった…》
 至軒寮は今の新星学寮ですが、「天城山心中」だとか「穂積精神」「アジア」などといったキーワードに次々と繋がっていきます。こうなると、単純な興味の発端はやがて複雑細分化していく“調べ”となり、興味と欲求が尽きるまで、枚挙にいとまがありません。
 言葉の繋がりはモノや人との繋がりである、ということを考えると、読書における小さな叡智は、紙一重で毒にもなり幸福にもなるのではないでしょうか。

マーク・ロコと聖者サント

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年9月20日付「マーク・ロコと聖者サント」より)。
 かなりブログの内容がプロレスに染まってきています。それも初代タイガーマスク中心。懐かしい入場曲を思い出してみたり、その頃読んだ本を敢えて入手して貪り読んだり、とにかく執拗なまでに初代タイガーマスクに固執して、彼が活躍していた頃を思い出そうとしています。
 もちろん私が初代タイガーのファンであることは言うまでもありませんが、プロレスにのめり込んだきっかけとして、そのアイドルとして、タイガーマスクを追うことで自分の忘れていた子供時代の記憶を思い出したかったからです。
 昭和58年(1983年)の8月、タイガーマスクが事実上の引退をして、佐山聡に戻った。素顔をあらわした。タイガーマスクはもう見ることはできないのかというファンの未練と寂しさ、そして何故彼は引退してしまったのかという疑問、さらには佐山聡に期待すること、そういう一緒くたになった思いが、プロレス・アルバム『TIGER MASK Forever』の中に詰まっているような気がします。
 さて、このアルバムの中で、私が小学生の時分に見て、とても好きだった写真が2カットあります。
 左の写真は、サミー・リー時代にイギリスで闘うはずだったマーク・ロコとの対戦告知記事、右の写真は、シルバーのマスクを被ったエル・サントとのツーショットです。マーク・ロコは初代ブラック・タイガーであることは言うまでもありません。エル・サントとのツーショットの方は、どういう経緯でそれが実現したのか私はわかりません。うーん、もう一度コミック『プロレススーパースター列伝』を読めばわかるかも(笑)。

毒ガスの島

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年9月4日付「毒ガスの島」より)。
 つい何ヶ月か前に、朝日新聞朝刊の記事で、広島県竹原市の瀬戸内の島、「大久野島」について知りました。かつては“毒ガスの島”と呼ばれていた島です。
 そうして私は毒ガス島について興味を持ち、今月末、大久野島に行く旅行を計画しました。母方の実家が広島なのですが、私自身は高校の修学旅行以来、原爆ドームと平和記念公園を見ておらず、もう22年ぶりとなります。今回は“戦争”を旅行のテーマにして、大久野島と広島市内を歩くつもりです。
 まずは大久野島周辺区の地形図(2万5千分の1)を買い求め、武田英子著『地図から消された島 大久野島毒ガス工場』(ドメス出版)を読了しました。これで大久野島の地形に沿って、かつてはどのような施設が配置されていたかがわかります。さらに本を読んで大久野島における軍事史、戦前では多くの近隣住民がこの島で従事したこと、そして毒ガス傷害を負った被害者の経過のこと、国や自治体関係の補償問題などを大まかに知ることができました。
 8月15日付の私のブログで紹介した、岩波現代文庫の戦争関連書籍10冊。そのうち、『戦後日本の大衆文化史―1945~1980』と『ルポ 戦後縦断―トップ屋は見た』を抜かした8冊を先月購入しました(その2冊を抜かした理由に他意はありません)。
 それから、村山富市・佐高信著『「村山談話」とは何か』(角川書店)も購入。旅行の前にすべてを読めるわけではありませんが、近代の戦争史については、学習しておきたいと思っています。

プロレスって何だろう

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月26日付「プロレスって何だろう」より)。
 『ケーフェイ』(佐山聡著、NAYUTA BOOKS刊)を読み終えました。
 端的に言えば、これを告白した25年前の佐山聡氏が、今日のリアルジャパンプロレス立ち上げへ至るまで、人生の中でいかに推移したかということに尽きると思います。
 こんなことを今の子供達にまねされたくないのですが、正直、小学生の頃あるいは中学生の頃、私達(私とその友達)はよく“プロレスごっこ”をして遊びました(危険ですのでやめてくださいね!)。
 プロレスの技は、相手がその技を「受ける」あるいは「補助」しないかぎり、成立しないものが多いのです。“プロレスごっこ”を通じて私は、そのことを経験的に知りました。則ち、プロレスはスポーツでも格闘技でもない、別の「何か」だということへの直感でした。
 そして、“プロレスごっこ”をして遊んだ友達も、非常に柔軟な心でそれに対応した、感じていた、と私は思います。だから会話の中で、「あのレスラーのあのタイミングで出すあの技が好き」とか、「昨日のあのレスラーの反則は少しやりすぎだ、客が引いている」というような話題が生まれてきたのでしょう。
 しかし私達は、プロレスが成熟しきった黄金期をリアルタイムで見続けた世代という幸運もあって、少なくとも日本人レスラーにおいては、それを“役者”だと見ていたのではなく、やはり彼らは素晴らしい“プロレスラー”だととらえていました。シューティングというかたちに限らず、プロレスラーは根っこの部分でそうした特訓をし、試合ではそれを一切見せず、ヘボなレスラーに対してはお灸を据えることもある、と思っていました。
 ところがプロレスが近年、どちらの方向に進んでいったかということが問題です。プロレスがスポーツでも格闘技でもない、別の「何か」であることは変わりないが、プロレスラーとしての根っこの部分が有るのか無いのか疑わしいレスラーが日本人の中で増えた、と思ってしまうのは誤解なのでしょうか。
 また、『ケーフェイ』の中で佐山氏が語っているように、シューティングは「強くなりたい」という意識が大事なのだ、という意味においても、プロレスラーは根っこの部分でシューター(シューティングの精神と技術を会得した選手という意味)であるべきだし、「…

燃えろ!吠えろ!ブルー・アイド・ソウル

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月22日付「燃えろ!吠えろ!ブルー・アイド・ソウル」より)。

 8月8日のブログで書きましたが、ビル・ロビンソンの入場曲「ブルー・アイド・ソウル」のレコード見つかりました!
 しかしレコードは意外なところに…。自分の記憶では、「隣の部屋の棚の奥」に、十数枚のレコード盤がまとめて置いてあったように覚えていたのに、いざ探してみると、そこにはない。はて、捨てた記憶はなかったので、どこかにあるはずだと、偶然、自室の机の引き出しの中を覗いてみたところ、なんとありました!
 つまり、このブログを書くためのパソコンの、わずか1メートル圏内にそれがあった、ということになります(笑)。
 これをプレーヤーにかけて聴くのはまた別の機会にしますが、他にも、初代タイガーマスクの入場曲であった「燃えろ!吠えろ!タイガーマスク」も見つかりました。なんとあの古舘伊知郎氏が歌っているのです。ジャケットのタイガーマスクを見ればわかりますが、“牙付き”ですので、撮影自体は1981年頃ということになるでしょうか(発売は82年)。
 さて、この「燃えろ!吠えろ!タイガーマスク」のB面の曲「約束したよ」は、古舘伊知郎氏が甘い声で歌うバラード。これがまた、心がとろけてしまうほどいい曲なのです。
 竜真知子作詞、幸耕平作曲、南郷達也編曲(3分27秒)。
 何故かこの曲を聴くと、『ケーフェイ』の中の写真で見た、はにかんでいた佐山聡少年を思い出します。とは言いつつも、当時子供だった私は、佐山少年の顔なども知らず、マスク越しに見た素顔の青年を想像し、その遠い幻影としての「少年性」を見ていたに過ぎません。
 ともかく、当時の私はそれくらい、単なる入場曲のB面にすら、心を締め付けるくらいタイガーマスクへの憧憬を抱いていたのかもしれません。

ケーフェイ

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月21日付「ケーフェイ」より)。
 すっかりプロレス観戦及びテレビでのプロレス中継から遠のいてしまった私にとって、今、もし再びプロレスの醍醐味を味わうのだとしたら、初代タイガーマスク=佐山サトル氏のリアルジャパンプロレスを見るしかないでしょう。
 9月11日金曜日、後楽園ホールにて『BREAK OUT』が開催されるとのこと。この日はほぼ見に行くことはできなくて残念なのですが、いずれ、リアルジャパンプロレスの生観戦は実現させたいです。
 今、『ケーフェイ』(佐山聡著、NAYUTA BOOKS刊)を読み始めようと思っています。まだ先日入手したので、ざっと眺めた程度ですが、1985年発売当時、私は中学1年でまさにプロレスにのめり込んでいた頃です。当時からこの著書の存在は知っていましたが、敢えて読もうとは思いませんでした。
 書かれてあることを大雑把に言い切ってしまえば、佐山氏の経験論と主観論による、“プロレス”と“シューティング”の違いについてです。昔、ターザン山本氏が「週刊プロレス」の編集長だった頃、ある号の誌面に「骨法」と「プロレス」の相違論のような内容を掲載していたのを覚えています。そして私は当時、それをワープロで完全に写し書きしました。
 しかし、『ケーフェイ』は、“佐山聡”の幼年時代からタイガーマスク時代までのスナップ写真を幾枚か紡いだ、彼の「青春ノート」だったと、今ようやく気づきました。何ともあどけない柔道着姿の佐山少年、応援団での学ラン姿、父親や母親とのスナップ。何故『ケーフェイ』にこれらの写真が必要だったのだろう、と思い馳せた時、それはきっと、アイドルとしてのタイガーマスクでもない本当の自分自身への邂逅のために用意された、大事な「扉」であったのだと気づいたのです。
 まったく気障な言い方になってしまうのですが、佐山聡=佐山サトル=初代タイガーマスクは、私にとって、永遠の《吟遊詩人》です。

岩波現代文庫

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月15日付「岩波現代文庫」より)。
 今日8月15日は64回目の終戦記念日です。
 NHKや民放各局の戦争関連のTV番組をここ2週間ばかり、ちょこちょこ録画して見ているのですが、毎年8月になるとそんなふうに恒例化しています。アジア、太平洋に広げたあの戦争の史実と悲惨さを冷徹に見つめるには、まだまだ私自身学習が足りないと思いますが、岩波書店の[夏のミニフェア]と題した戦争関連書籍もまた充実しています。まとめて大人買いするのも良し、1冊ずつ揃えるのも良し(以下、岩波書店発行誌「図書」より参考)。
■岩波現代文庫[夏のミニフェア]
《戦争》
『昭和天皇・マッカーサー会見』(豊下楢彦著)
『戦争責任』(家永三郎著、澤地久枝解説)
『日本人の戦争観―戦後史のなかの変容』(吉田裕著)
『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』(松本健一著、竹内洋解説)
『戦争』(大岡昇平著、野村進解説)

《戦後》
『戦後日本の大衆文化史―1945~1980』(鶴見俊輔著、鷲田清一解説)
『占領戦後史』(竹前栄治著)
『ルポ 戦後縦断―トップ屋は見た』(梶山季之著、藤本義一解説)
『戦後保守党史』(冨森叡児著)
『昭和天皇 一九四五―一九四八』(高橋紘著)

格闘技大戦争

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月11日付「格闘技大戦争」より)。

 YouTubeを検索したら、「マーク・コステロ対佐山聡」の試合があったのでびっくりしました。本当に貴重であり驚きです。
 昔、少年サンデー・コミックスの『プロレススーパースター列伝』という漫画があって、小学生だった私は貪るように読み耽りました。そのうちの初代タイガーマスクのシリーズで、コステロ対佐山戦が登場します。
 漫画の中では、いくつもの創作的な謎かけをして、タイガーマスクの正体をはぐらかしていますが、結局、コステロ対佐山戦を過去をさかのぼるストーリーの展開部で出した点、修業時代の「サミー・リー」が登場する点で、暗黙のうちにタイガーマスク=佐山聡氏であることがわかってしまいます。子供だった私にとっては、暴露本に近い漫画でした(笑)。
 1976年にデビューした佐山氏が、翌年11月の梶原一騎主催「格闘技大戦争」で格闘技戦を行います。それが対コステロ戦です。
 私にとっては、プロレスファン歴以来、タイガーマスクデビュー以前の佐山氏の活躍を探る(=試合を見る)ことは到底不可能だと思っていたのに、YouTubeはそれを実現させてくれました。昨日紹介した「サミー・リー」しかり、「対コステロ」戦しかり。映像所有者の方に、感謝いたします!

初代タイガーマスクの話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月10日付「初代タイガーマスクの話」より)。

 小学4年生頃だったと思いますが、自分自身がはっきりと熱狂的なプロレスファンになったきっかけが、初代タイガーマスクのデビューでした(1981年4月23日蔵前国技館、対ダイナマイト・キッド戦)。
 初代タイガーのDVDを全巻持っていますが、やはりデビュー戦の衝撃は忘れることができません。プロレスの基本的なロックアップや手四つとは別のスタイル(マーシャル・アーツと言うべきか空手と言うべきか?)を取り入れていた点で、梶原一騎原作の『タイガーマスク』とも違っていたためです。
 全体としてはプロレスだけれども、ローリング・ソバットやミドル・キック、ハイ・キックの攻撃が多く、見慣れていたプロレス技の動きがむしろ控えられていた中で、フィニッシュのジャーマン・スープレックス・ホールドという結び目を見た瞬間、これがタイガーマスクなのだと、当時、直感的に思いました。
 デビュー以降、ヒールとしての小林邦昭やダイナマイト・キッド、ブラック・タイガーとの試合を通じて、タイガー自身のスタイルが(かなり見慣れたプロレス寄りになって)洗練されていくのがわかります。
 それから、タイガーマスク全集DVDの中で佐山聡さんがコメントを残しているように、「タイガーマスク・スタイルの原型は、イギリス時代のサミー・リーだ」という話は、“目から鱗”モノです。おそらく、当時の子供ファンにとって、噂に聞くサミー・リーについてはまったく謎だったからです。

「ブルー・アイド・ソウル」

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月8日付「『ブルー・アイド・ソウル』」より)。
 プロレスラーの入場曲として私が個人的に大好きだったのは、ビル・ロビンソンの「ブルー・アイド・ソウル」(「Blue Eyed Soul」又は「人間風車」)です。個人的な嗜好としては、先に紹介した「カリフォルニア・ハッスル」と双璧です。
 確か、ビル・ロビンソンの入場曲といったジャケットでEP盤を持っていた…はず。今度探してみます(^^)。これも今となっては入手の難しいレアものでしょう。
 Wikipediaの「ビル・ロビンソン」の項では、“ビリー・ライレー・ジム”についても触れられていますが、懐かしい響きです! ああいった堅固なテクニック&ラフのスタイルが、今の若手日本人レスラーにどれだけ浸透しているか、ちょっと興味あるというか不安です。

「カリフォルニア・ハッスルのこと」

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月7日付「『カリフォルニア・ハッスル』のこと」より)。

 小学生時代からの根っからのプロレスファンでありながら、ここ最近のマット界の動向にはすっかり無頓着になってしまった私はいま、YouTubeなどで懐かしい試合を楽しんだり、プロレスのTVゲームで試合を“シミュレート”したりして、プロレス熱は決して冷めていない“小康状態”プロレスファンなのです。
 ところで、中学生の時、カセットテープ版で所有していた『プロレス大全集』。知っている方いるでしょうか? これは、1980年代の全日本プロレスに登場した内外の選手の入場曲を集めたレアなアルバム。ここ数週間、このカセットテープを急に思い出したのですが、既に家にはありません。捨てたか、なくしたか…。
 さて、このアルバムを思い出して、ジャンボ鶴田の「J」だとか馬場さんの「王者の魂」を聴きたくなった、というのではありません。
 聴きたくなったのは、チャボ・ゲレロの入場曲となっている「カリフォルニア・ハッスル」。(Amazonで視聴できます。)プロレスファンでこの曲を知っているのは、やはり30代後半以上の年代のマニアックなファンだけでしょう。すごくアップテンポで大好きな曲でした。
 この曲、調べてみたら、TVドラマの『白バイ野郎ジョン&パンチ』(原題『CHiPs』)と関連あることがわかりました。ドラマの方のテーマ曲や挿入曲もなかなか良くて、ドラマも見たくなってしまいます。

当時、チャボ・ゲレロの試合はほとんど見てません。対大仁田厚の試合で、当然チャボ・ゲレロはこの曲で入場するのですが、あのアップテンポな曲とは裏腹に、ニヒルでのっそりのっそりとチャボは入場するのです(笑)。

写真の裏側

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年8月3日付「写真の裏側」より)。
 写真を撮るための、「感性を磨く」ということはどういうことであろうか、ということを私は常々考えます。
 結論を先に言えば、いかなる性能を持ったカメラを駆使しても、自分自身の「感性」を飛び越えることはできない、ということだと思います。そしてまた、カメラやレンズに優劣をつけるのと同じように、自分自身の「感性」に対しても、優劣をつけるのも、間違いなのだとも思います。
 街の中のガヤガヤとした所でスナップ撮影した時、シャッターを切った瞬間にはまったく視覚としてとらえていなかった細かな情報すらも、出来上がった写真の中に、それらが含まれている――。撮る側の意志とは無関係に。
 例えば、婚礼写真を撮り終えて、後でその写真を眺めた時、自分の意志の結果として撮った中心人物の新郎新婦のその背景に、好意を持たずにはいられない「女性」が写り込んでいたとしたら、その写真の意味合いや価値は大きく変わります。つまり、単なる知り合いの婚礼写真ではなくなり、自分の心理的影響を及ぼす重大な写真として、おそらくずっと(ひっそりと)所有していたくなるでしょう。
 現実として、過去から現在、そして未来へと時間が移っていく時、すべての事象が変形・変化・変動していきます。モノも生き物も、場所も、世界も。
 写真はそのうちの一瞬を切り取り、そこに写り込んだ写実は、決して変形・変化・変動しません。しかし、それを撮った者、それを見る者の心は、その限りではありません。そこが面白い、悩ましい…と私は思うのです。何故なら、撮った者あるいは見る者は最大の権力をふるい、その写真を遺すか、捨てるかの意志決定ができるからです。
 写真を撮った者として、単に出来が悪かったから捨てたのとは別に、他の理由によって捨てる写真というのもあります。いかなる心によってそれを捨てたか、あるいは思いとどまって遺すことにしたか、客観的に考えると、それらのことは、やはり写真を撮るための、「感性を磨く」ということにどうしても繋がっていくのです。