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10月, 2009の投稿を表示しています

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消えゆく写真

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【FUJIFILM X-T3で試し撮り。被写体はLEICA IIIc】  元日の午後、手持ちのカメラ(FUJIFILM X-T3、レンズはFUJINON XF18-55mm F2.8-4.0 R LM OIS)でアンティークと化したLEICA IIIc(レンズはCanon SERENAR 50mm F1.9)を被写体に試し撮りをおこなった。ここ数日間続いた日本海側の寒波の煽りで、関東地方は異常なほど冷え込み、ただただ日光が神々しく、温かく、優しさをも醸し出しているかのようで、直接光と間接光に包まれたアンティークの被写体は何か、その機械的な佇まいの中に、微睡んでいるようにも見えた。  しかし一方で、いずれ消えゆくかも知れないアンティークの宿命の儚さもまた、写真という風雅の物悲しさを表している。《所有》とは、実に悲しげな行為なのである。ともあれ、個人的なクラシック・カメラの思い出は尽きることがない。私の記憶は、およそ20年前のウェブへといざなわれる――。 ➤写真とカメラを教示したmas氏  20年前のインターネットがきわめて遠い事象となりつつある、コロナ禍を経た時代の流れ。世相流行の移ろいはともかく、社会生活全般の隔世を感じるのは、私だけであろうか。今こうしてブログに文章を書いていることも、自身のウェブサイトをいくつか構築し、音楽や映像や写真などのポートフォリオを細々と展開しているのも、およそ20年前より私淑していた、mas氏のウェブサイトをお手本にしたものなのである。インターネットとのかかわり方、その作法や流儀について、詫び寂の何たるかまでも教示されたように思える。  20年前、彼に倣ってクラシック・カメラ遍歴(別の鋭い言い方では「クラシック・カメラ・ウイルス」とも言う)にどっぷりと浸かり、写真とカメラによる悦楽の日々を送っていたあの頃が、ひどく懐かしい。  mas氏に関しては、昨年の 「思い出のmas氏―池袋のお馬さん」 やそれ以前に多くテクストを書き連ねているので、ここでは詳しく書かない。  今はネット上に現存していない、彼の旧ウェブサイト[mas camera classica]では、洒脱な文章でカメラや写真についてとくと語られていて、その内容に私も感心したのだった。一部をコピーしてテクストファイルとして記録していたのもとうに忘れ、それをPCのハードディスク内か

毒ガスの島上陸

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※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月7日付「毒ガスの島上陸」より)。 フェリーにて大久野島上陸  9月5日のブログ 「毒ガスの島」 でも紹介した大久野島に、先月29日に上陸することができました。広島駅を早朝6時半頃に出発して、呉線の電車に乗り込んだものの、大雨の影響で断続的にストップ。忠海の駅に着いたのは10時前でした。  その間、車窓はずっと雨の風景だったので、これでは島を見て回るのは無理かなと思い、もし無理なら忠海の港だけを見て引き返そうと思っていたのですが、幸運なことに、忠海駅を降りると雨がほとんど降らなくなり、島上陸を決行することにしました。 発電所跡  大久野島は昭和4年5月、忠海兵器製造所として開所します。毒ガス製造に関する詳しい情報は、他のサイトに譲ります。ともかくこの周囲約4キロの島に、当時はイペリットやルイサイト、ホスゲン、塩化アセトフェノンなどの製造工室が散在していたということです。 貯蔵庫跡  フェリーを下りた桟橋から少し歩き、隧道を脱けると、発電所跡があります。この発電所跡は、フェリーが海岸に接近すると島外から見えます。これほどの状態で外壁が残っているというのも驚きです。  発電所から北へのぼって歩いて行くと、北部砲台跡があります。当時、その東側には倉庫になっていたようです。  砲台跡をさらに北へ行き、島の端に着くと、北西に島の半島部が見えます。当時ここは点火試験場と毒物焼却場があった所です。  ここから斜面を下っていくと、そこは長浦地区と言われた所で、倉庫やボイラーがあったようです。上の写真はその貯蔵庫です。 便所跡?  貯蔵庫の隣に、おそらくこれは当時の便所ではないかと思うのですが、これもこうして残っています。  休暇村として大久野島に来る観光客にとって、こうした遺跡はほとんど関心はないと思います。現在の休暇村施設の付近に、多くの製造工室があったようです(三軒屋地区)。

壁に記された伝言

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月5日付「壁に記された伝言」より)。  袋町小学校の「伝言」について、私が初めて知ったのは、何年か前に放映されたNHKのドキュメンタリー番組だったと思います。詳しくは、 袋町小学校平和資料館 のサイトをご覧になってみてください。  私が資料館に訪れた先月の28日の午後は、雨がぱらついていて、気分的にもひどく落ち着かないものでした。資料館の入り口に踏み入れた時、受付の席には誰もいず、はて、ここは入館料があったっけ…としばしその場で留まっていましたが、靴を下駄箱に預けて廊下を進み、教室に入ったところで初めて、資料館のガイドの方(おじさん)に出合いました。  ところで私は広島駅に着いた瞬間から、東京とは気温の差が激しく、雨空のもと、ものすごく蒸し暑さを感じていたのですが、そのガイドの方と被爆当時の話を聞いた小一時間、いわゆるその「西校舎」の窓から入ってくる心地よい風に、思わず私は何とも言えない感動を覚えました。  雨空のもとの心地よい風と共に、新しい校舎の中から元気な子ども達の声が聞こえてくる。頭では昭和20年に思いを馳せているのに、身体の方は、どうしようもなく「いま」の感触と感覚に反応していました。  爆心地に近いこの小学校で何がどうなったか。そして被爆後の救護所としての仮場の中で、人々が何を思ってそこに伝言を託したか。そうした未曾有の惨事の細部を、いま私が想像しうることは到底不可能です。  あの時の古い校舎の一部が、保存されそこにあるということ。  唯一、私に想像できるのは、ここにそれがある限り、それ自体が平和を希求する「伝言」となるだろうということです。  おじさん、いろいろ教えていただき、ありがとうございました。

広島の町。街。

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※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月3日付「広島の町。街。」より)。  母方の実家が広島県の呉市にあるので、物心ついた頃には、「ヒロシマ」という単語はかなり早く覚えた単語の一つです。  そうして少なくとも過去2度は広島へ訪れているのに、その記憶が漠然としたものでしかない。しかし部分的には強烈な記憶として残っている風景もある。それらがちぐはぐに頭の中をかすめて、今までやり過ごしてきた、という感じがします。 【自分でシャッターを切った吉浦の町】  しかし厳密には、記憶としてではなく、なんとなく撮られたスナップ写真の中の光景が記憶の中にインプットされているだけなのかもしれません。小学3年生の夏休みに訪れた広島の、それは呉だったか、吉浦だったかの小さな川の畔で、漁船の傍で強烈な潮の薫りを嗅ぎながら、じっと川の流れを見ていた記憶。母方の実家の、2階のベランダから、朝方の靄のかかった通りの、家並みを眺めた記憶。  確かに曖昧だけれど、そうした漠然とした空気のように無色透明な記憶の断片を、ずっと胸の中にしまっておきたいと思えば、今この町に訪れることは意味のないことだったかもしれません。しかし、日本の戦後の、大復興した街の中で最も辛酸をなめてきたのが沖縄であり、長崎であり、広島なのです。少なくとも、幼い頃から「ヒロシマ」という言葉を聞いてきた私にとっては、まったく無縁であった町とは思えない、思いたくないのです。

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