投稿

10月, 2009の投稿を表示しています

☞最新の投稿

家庭の医学―新赤本のこと

イメージ
昭和50年代初め、私がまだ幼少だった頃、団地住まい(当ブログ「ボクの団地生活」参照)の部屋の片隅で、真っ赤に染まった分厚い本を開いて眺めるのが、私は好きであった。それは、『保健同人 家庭の医学』(保健同人社)という本である。これを通称、“新赤本”と呼ぶ。ネットで情報を共有するのが当たり前になった21世紀の今日においても、各家庭に一冊、この手の医学書が書棚に据え置かれている世帯は、決して少なくないのではないか。  ――昭和50年代初めというと、たいへん古い話で恐縮である。その頃、女性アイドルグループのキャンディーズ(伊藤蘭、藤村美樹、田中好子)の全盛期であり、テレビなど各メディアで大人気・大賑わいだった彼らが、突然解散発表をするのが昭和52年の夏。翌年の春に東京の後楽園球場にて、いわゆる伝説の“ファイナル・コンサート”をおこない、お別れするのだが、まさにその頃、キャンディーズを映していたブラウン管の隣に、我が家ではどういうわけか、分厚く重たい百科辞典が数種、書棚に鎮座していたのだ(当ブログ「新しい造形と美術」参照)。それらに連ねて“新赤本”がそこに、置いてあったわけである。
 もちろん、幼少だったから、字が読めるわけではなかった。“新赤本”を開くと、あらゆるところに図表やイラストがあり、モノクロの写真が掲載されていた。私は主に、視覚に飛び込んでくるそれらを眺めて楽しんでいたのだった。写真などは特に、医学書の特性として省くことのできない、少々グロテスクな被写体が刺戟的だったりするのだけれど、それ以外にも、書籍としての体裁の部分において、例えばレイアウトの軽妙さであったり、色彩の調子がちょっと心理的に心地良かったり、そういう部分でも視覚に飛び込んでくるディテールの情報として、大いに楽しんでいた――ということになる。  こうした体験が結局、幼少期の感覚的な体験の記憶となって、大人になっても忘れられずに残っていて、ごく最近、それが懐かしくなってこの本を古書店から買い求めてしまい、再びあの体験を復号する喜びを味わえたのだった。いったい“新赤本”=『保健同人 家庭の医学』とは、どのような本だったのか、紐解いてみたい。
§
 1954年(昭和29年)に日本で初めて“人間ドック”という検診システムが開発され、その後徐々に、この画期的な新しい検診システムが一般に浸透していった功績が、最も有名…

毒ガスの島上陸

イメージ
※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月7日付「毒ガスの島上陸」より)。

 9月5日のブログ「毒ガスの島」でも紹介した大久野島に、先月29日に上陸することができました。広島駅を早朝6時半頃に出発して、呉線の電車に乗り込んだものの、大雨の影響で断続的にストップ。忠海の駅に着いたのは10時前でした。
 その間、車窓はずっと雨の風景だったので、これでは島を見て回るのは無理かなと思い、もし無理なら忠海の港だけを見て引き返そうと思っていたのですが、幸運なことに、忠海駅を降りると雨がほとんど降らなくなり、島上陸を決行することにしました。
 大久野島は昭和4年5月、忠海兵器製造所として開所します。毒ガス製造に関する詳しい情報は、他のサイトに譲ります。ともかくこの周囲約4キロの島に、当時はイペリットやルイサイト、ホスゲン、塩化アセトフェノンなどの製造工室が散在していたということです。
 フェリーを下りた桟橋から少し歩き、隧道を脱けると、発電所跡があります。この発電所跡は、フェリーが海岸に接近すると島外から見えます。これほどの状態で外壁が残っているというのも驚きです。
 発電所から北へのぼって歩いて行くと、北部砲台跡があります。当時、その東側には倉庫になっていたようです。
 砲台跡をさらに北へ行き、島の端に着くと、北西に島の半島部が見えます。当時ここは点火試験場と毒物焼却場があった所です。
 ここから斜面を下っていくと、そこは長浦地区と言われた所で、倉庫やボイラーがあったようです。上の写真はその貯蔵庫です。
 貯蔵庫の隣に、おそらくこれは当時の便所ではないかと思うのですが、これもこうして残っています。
 休暇村として大久野島に来る観光客にとって、こうした遺跡はほとんど関心はないと思います。現在の休暇村施設の付近に、多くの製造工室があったようです(三軒屋地区)。

壁に記された伝言

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月5日付「壁に記された伝言」より)。
 袋町小学校の「伝言」について、私が初めて知ったのは、何年か前に放映されたNHKのドキュメンタリー番組だったと思います。詳しくは、袋町小学校平和資料館のサイトをご覧になってみてください。
 私が資料館に訪れた先月の28日の午後は、雨がぱらついていて、気分的にもひどく落ち着かないものでした。資料館の入り口に踏み入れた時、受付の席には誰もいず、はて、ここは入館料があったっけ…としばしその場で留まっていましたが、靴を下駄箱に預けて廊下を進み、教室に入ったところで初めて、資料館のガイドの方(おじさん)に出合いました。
 ところで私は広島駅に着いた瞬間から、東京とは気温の差が激しく、雨空のもと、ものすごく蒸し暑さを感じていたのですが、そのガイドの方と被爆当時の話を聞いた小一時間、いわゆるその「西校舎」の窓から入ってくる心地よい風に、思わず私は何とも言えない感動を覚えました。
 雨空のもとの心地よい風と共に、新しい校舎の中から元気な子ども達の声が聞こえてくる。頭では昭和20年に思いを馳せているのに、身体の方は、どうしようもなく「いま」の感触と感覚に反応していました。
 爆心地に近いこの小学校で何がどうなったか。そして被爆後の救護所としての仮場の中で、人々が何を思ってそこに伝言を託したか。そうした未曾有の惨事の細部を、いま私が想像しうることは到底不可能です。
 あの時の古い校舎の一部が、保存されそこにあるということ。
 唯一、私に想像できるのは、ここにそれがある限り、それ自体が平和を希求する「伝言」となるだろうということです。
 おじさん、いろいろ教えていただき、ありがとうございました。

広島の町。街。

イメージ
※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年10月3日付「広島の町。街。」より)。

 母方の実家が広島県の呉市にあるので、物心ついた頃には、「ヒロシマ」という単語はかなり早く覚えた単語の一つです。
 そうして少なくとも過去2度は広島へ訪れているのに、その記憶が漠然としたものでしかない。しかし部分的には強烈な記憶として残っている風景もある。それらがちぐはぐに頭の中をかすめて、今までやり過ごしてきた、という感じがします。
 しかし厳密には、記憶としてではなく、なんとなく撮られたスナップ写真の中の光景が記憶の中にインプットされているだけなのかもしれません。小学3年生の夏休みに訪れた広島の、それは呉だったか、吉浦だったかの小さな川の畔で、漁船の傍で強烈な潮の薫りを嗅ぎながら、じっと川の流れを見ていた記憶。母方の実家の、2階のベランダから、朝方の靄のかかった通りの、家並みを眺めた記憶。
 確かに曖昧だけれど、そうした漠然とした空気のように無色透明な記憶の断片を、ずっと胸の中にしまっておきたいと思えば、今この町に訪れることは意味のないことだったかもしれません。しかし、日本の戦後の、大復興した街の中で最も辛酸をなめてきたのが沖縄であり、長崎であり、広島なのです。少なくとも、幼い頃から「ヒロシマ」という言葉を聞いてきた私にとっては、まったく無縁であった町とは思えない、思いたくないのです。