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11月, 2009の投稿を表示しています

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酒と女と『洋酒天国』

今年に入って時折、シェリー酒なんていうのを飲んだけれど、その他はほぼ確実に、毎夜、ウイスキー一辺倒である。スコッチとアイリッシュである。スコッチは、シングルモルトのグレンリヴェットが美味かったし、いま飲み続けている12年物のザ・バルヴェニーも、スコッチならではのコクがあって美味い。思わず唸ってしまう。  アイリッシュはオールド・ブッシュミルズのブレンデッド。こちらはつい先日、空瓶になった。酒に関しては、日本酒の地酒よりもアイリッシュのラベルの方が親近感がある。おかげでここ最近は、サントリーのトリスも角瓶も遠のいてしまっていて、ジャパニーズ・ウイスキーを忘れてしまっている。あ? そう、かれこれしばらく飲んでいない「山崎」も「白州」の味も、もうてんで憶えちゃいないんだな、これが…。とここはひとまず、肴にもならぬウイスキー談義で嘯いておこう。
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 お待ちかね壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第4号は、昭和31年7月発行。表紙はお馴染み、坂根進氏作のフォト&イラストのコラージュ。  昭和31年(1956年)は、“太陽族”や“ゲイボーイ”といった言葉が流行った年である。ちなみに“太陽族”(タイヨウゾク)とは何のことでございましょう? もはや死語に近いと思われるので、語源について書いておく。  同年、第34回芥川賞を受賞した石原慎太郎の短篇小説『太陽の季節』が新潮社から刊行された。この短篇小説は大いに物議を醸した。そこから“太陽族”という言葉が生まれたのだけれど、ここでは敢えて、Wikipediaからその意を引用してみる。
《『太陽の季節』の芥川賞受賞を受けて『週刊東京』誌で行なわれた石原慎太郎と大宅壮一の対談で、大宅が「太陽族」との言葉を用いたことから、特に夏の海辺で無秩序な行動をとる享楽的な若者(慎太郎刈りにサングラス、アロハシャツの格好をしている不良集団)のことを指す言葉として流行語化した》 (Wikipedia“太陽の季節”より引用)
 “太陽族”のみならず、社会の乱れた風紀を取り締まる、という公安的気概が、この時代にはあった。時代の要請でもあった。私は溝口健二監督の遺作映画『赤線地帯』(主演は京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子)が好きである。あれも5月に公布された“売春防止法”に絡んだ話であった。この年の7月には、横山光輝の「鉄人28号」が月刊『少年』(…

アランの『定義集』

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年11月25日付「アランの『定義集』」より)。
 久々に新宿の紀伊國屋書店に立ち寄ることができ、目的の『柳宗悦 民藝紀行』(岩波文庫)を買おうと中をパラパラとめくった次の瞬間、『アラン 定義集』(神谷幹夫訳・岩波文庫)が目に入り、結局そちらを持ってレジへ向かいました。今考えれば両方買えば良かったのに、何故か後者の内容に惹かれ、前者を忘却してしまいました。
 話は少し脱線しますが、ちょうど10年ほど前、PHSを利用していた私はシャープの「MI-P1」(通称:ザウルス・アイゲッティ)のブリリアントブルーの方を買って、インターネットを初めて経験しました。 ケータイ端末、しかも料金課金制なのでつなぎっぱなしはできません。ウェブの更新時だけネットに接続(長くて1分程度!)し、それ以外の閲覧の時は接続を切って“オフライン”でウェブを見ていました。ブロードバンドや24時間接続などまだ夢だった頃の話です。
 やはりその頃のネットの楽しみとしては、見知らぬ者とのメール交換が最たる目的でした。私とほぼ同い年の、北海道に住むとある女性とメル友となり、頻繁にメール交換をしました。
 彼女が日常の機微に触れる時、よく『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫)を引用してくれました。さて今、私の自宅の書棚のどこかに、この箴言集が在ったような気がしたのだけれど、記憶が曖昧です。
 ともかく、往々にして何かに毒した時―それは大抵三種の欲望のうちのどれかですが―箴言集の中にこうあります…、と彼女が制して(宥めて)くれて解決しました。これは本当にインターネットの“古き良き時代”の話なのです。
 さて、いま私は『アラン 定義集』を片手に、まず真っ先に「時間(TEMPS)」の項目(アランが定義したカード)を刮目します。ここでアランはデカルトの言葉を引用して、〈神自身も、起きてしまったことを起きなかったようにすることはできない〉と書いています。写真を見る限り、エミール・シャルティエはまったく夏目漱石と瓜二つであるけれども、彼はこの言葉を引用することで、定義集の大原則を述べた、語ったと私は解釈し、この定義集を信託します。自らは神でないこと、神もまた神でないことの静観です。
 しかしそれが「時間」を語っているという点で非常に深い。この本の解説で…

文学熟読論

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年11月11日付「文学熟読論」より)。
 昨日、組み立て用のキットから本棚を2つ拵え、ようやく新しい書棚が誕生しました。組み立てるのに3時間、差し入れる本を整理するのに3時間。結局、家中の書棚の整理となってしまいました。
 新しい書棚には、当然ながら段ボール箱に放置されていた『岩波講座 日本通史』全25巻を、それから調べ物用のコーナーを設置すべく辞典類を、そして摩天楼化していた本のタワーを分別した後、購入してからまだ読んでいない諸々のシリーズ本(ほとんど岩波現代文庫)を差し入れました。
 他の書棚を整理していると、奥行きのある棚の奥から、買った覚えのない本が何冊か出てきたのには驚きましたが、それは単に忘れているに過ぎないのだけれども、鈴木大拙とかエトムント・フッサールの『ブリタニカ草稿』とかが、手に取りやすく並んでいるプロレス本の真裏の見えないところに隠れていたりすると、精神衛生上気まずいので逆に差し替えたりして体裁を整え…(笑)。
 あ、ベンヤミンの『パサージュ論』、読みたいなあと思い買ったまま何年も読んでいない。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』しかり。
 結局今、熟読してしまっているのは、先日書いた『街道をゆく 36 本所深川散歩、神田界隈』なのです。神田界隈の編で論語が登場するのですが、それ以上に大好きなのが、森鴎外やら夏目漱石やら藤村操の自殺やら岩波茂雄らが登場するあたり。藤村が自殺して岩波が雑司ヶ谷の一軒家で泣いた――を読めば読むほどその場を想像できて喜劇的に感じられる(きっとわんわん泣いたのでしょう!)。
 ここで「哲学書肆」という言葉が登場するのですが、ともかく私は何故か、このくだりを延々と今読んでいる。何度も読み返している。本当に馬鹿げているのですが、「哲学書肆」の言葉で折り返して、また岩波茂雄が雑司ヶ谷で泣いた云々を読み返しています。
 果たしてこういうのを、熟読と言えるでしょうか(笑)。