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小学館の学習雑誌の思い出と未来へのファンタジー

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団塊ジュニアの世代にとって、少年少女だった80年代前半は、様々な意味合いで特別な思いに駆られる時代であったと思われる。LSIゲームの普及、自前でプログラミングが可能なパーソナル・コンピュータが大流行し、子どもたちの遊びのスタイルが劇的に変化した時代。“子どもは外で遊べ”――という大人からの強い要求との衝突、及びその葛藤が、その頃の子どもたちの悩みの種となっていたはずだ。  まず何より、子どもの数が多かった。  ということで言うなれば、確かに、日常的につるんで仲良しになる仲間も多かったのだ。Wikipediaの記述によると、団塊ジュニアは、1971年から1974年までに生まれた世代を指し、73年生まれが210万人と最多であり、それ以前の“団塊の世代”の1949年生まれの270万人よりは、少し少ないとあった。
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 今の若い人達に、その頃子どもだった団塊ジュニアの、学校と家庭における日常的な情景を想像してもらうことは、決して容易いことではないのかも知れない。  現代のように、手持ちの通信端末で無言でSNSに明け暮れることもなく、自転車を乗りまわした子どもたちが町中の至る所に溢れ、賑やかに声を上げてはしゃぎ、ほとんど空き地のような場所で好きなように遊び、立ち入り禁止の場所を見つけると、むしろ喜んで入り込んで探検を試みた。  見つけてくるものと言えば、壊れたラジカセであったり、ヌードの艶めかしいカレンダーであったり、エロ本であったり、束になって棄てられていた聖書であったり。あるいはそうでないとしても、地域に点々と存在していた小さなショップ(雑貨商)に入り浸り、ちょっとしたお菓子を買い食いしながら、子ども同士のコミュニケーションを楽しんでいたのが日課であったし、それ以外の楽しみがあるわけがなかった。  テレビの中の王様は野球にプロレスにドリフの全員集合。高木ブーがいかりや長介にビンタされてゲラゲラ笑っていた頃。はて、女の子はどうだったのだろう。どんなテレビを楽しんで見ていたのだろうか。ともかく、テレビの中はテレビの中。自分達は自分達。そういう常識で外で遊び回っていたのが常であったし、今の時代と大きく異なるのは、その頃の子どもたちには、大人がまったく介在しない子どもだけの秘密の時間が毎日あった、ということである。
 団塊ジュニアにおける、子どもたちが仲間と落ち合うための唯…

銀閣の謎

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年4月10日付「銀閣の謎」より)。

【銀閣寺の庭園】
 まだまだ京都の話題は尽きません。
 同志社大からずっと歩き続け、大好きな“喫茶店休憩”もなく、今出川通に寄り添う鹿ヶ谷疎水道が見えてきて、浄土寺小橋、浄土寺橋、西田橋、銀閣寺西橋、銀閣寺橋を過ぎ、銀閣寺へと辿り着きました。

 生け垣を通り抜け、中門をくぐると、わんさかと観光客。

 まず庭園の写真を撮ろうとしたところ、「シャッターを押してもらえませんか?」と家族連れのお父さんにつかまり、銀閣を背景に、家族が整列。逆光で顔が真っ黒になりはしないかと不安ながら他人のカメラのシャッターを押しました。他人のカメラほど恐ろしいものはない(笑)。へたな写真を撮って一生恨まれそうです。

 気分を取り直して、東求堂前庭をぐるりと回り、東求堂を庭園奥から眺めました。義政にとって、東求堂とは何かと考えてみると、それは人生の最終盤のための、「秘密基地」だったと思うのです。政治の煩わしさから解放され、自分にとって最も心地よい場所、童心に戻れる場所、ではなかったでしょうか。

 私が小学生の頃、自宅の目の前に、電機店の粗大ゴミ置き場のような私有地がありました。そこには壊れた家電製品や梱包用の段ボール箱、発泡スチロールなどが無造作に山ほど溜められていて、子供にとっては格好の遊び場に。秘密基地など簡単に出来ます。

 今思い出すと恐ろしくなるのですが、廃棄された蛍光管なども山積みされていて、それをアスファルトに叩きつけてガシャーンと破裂するのを楽しんだ…。それでいてほとんど怪我をしなかったのだから不思議なものです。

【銀閣寺】
 閑話休題。
 3月15日のブログで、昭和47年初版の『学習百科大事典』より、銀閣の写真を載せましたが、私も同じような構図で銀閣を撮ってみました。

 これらを比べてみて、あることに気づきました。銀閣そのものは変化がないのですが、その背後の松の木(?)が無いんですね。百科事典の方の写真では、銀閣の右上に青々とした松の枝葉があるのに、現在の銀閣のそこには、枝葉はありません。

 これはいったい?

 旅の続き「京都での散策写真」

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