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「ひだまりのうた」について

2018年1月、私は「ひだまりのうた」という歌を作る。作り始める――。これについて二三、作る際のまえおきとして書き残しておきたいことがある。この曲のテーマは、“どこへ行ってしまったか分からない《昔》の友に贈るブルース=応援歌”ということになっているが、個人的に、この曲を作ろうと思ったきっかけとなった、「ある友人」について(充分考えた末に思い切って)書いておきたいのである。  実際のところは――「失踪」ではないのだろう。だが私にとって、この長い年月の果て、友人=彼が居なくなった状況を「失踪」ととらえて今日まで認識している。昔からの仲間であった周囲とのネットワークを断ち、結局ほとんど誰も彼の居場所を知らない有様なのだから、ある意味において「失踪」と言えるだろう。彼は私のかつての「友人」であったし、その昔所属していた劇団のリーダーでもあった。
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 10年前の秋に発刊された、ある演劇雑誌の取材記事には、当時の彼の飄々としたプロフィール写真が掲載されている。無論、その記事は劇団のプロモーションを目的とした内容である。母体の劇団のリーダーとして座し続けた余裕と自信に満ちた態度が、そのプロフィール写真に滲み出ていた。雑誌の取材を受け、とうとうとした語り口であったろうことが想像される彼の言葉には、劇団に対する「情熱」と「希望」と「夢」と、底知れぬユーモアのセンスが鏤められ、「ナンセンス・コメディ」を標榜する劇団の旗印としてのイメージは、すこぶる健やかなものであった。  10年前といえば、私はとうの昔に劇団を脱退した人間だったので、彼と会う機会はまったくなく、こうした業界雑誌を通じての所見ではあるものの、その頃の彼は元気そうで紛れもなく絶頂期の「演劇人」であったろうし、「信念」を変わらず貫いているという感があった。  それから数年後、彼は劇団とメンバーとのあいだで「いざこざ」を起こす。そしてまもなく「失踪」してしまった。6年ほど前のツイッターの書き込みを最後にして以降、彼はほとんどすべてのSNSの更新を断絶し、ネット上から姿を消した。だから、仲間内でも彼の居場所を知らない――と私は認識している。この認識が間違っているかどうか分からないが、少なくとも今、彼という存在が周囲からいっさい消えた「空白」の、途上の最中にあって、双方にとってとても穏やかな、波風の立たない期間が経過してい…

土と空の記憶

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]「土と空の記憶」より)。

 下記は、2001年に随想として書いた雑文である。
 子どもの頃、化石や遺跡が好きでそういう子ども向けの読み物をよく読んだ。
20代後半、たまたま遺跡発掘の短期アルバイトの募集広告に目が止まり、興味本位で参加した。
 あっけなくアルバイトの期間は過ぎたが、仲間との交流を記録しておこうと、コクヨの原稿用紙に筆を走らせた。文中の遺跡の画像は、当時デジタルカメラの黎明期で38万画素たらずの安価なデジタルカメラを使って撮影したもの。

打ち上げの日のこと

 2001年2月16日。この日、午前中だけの半日出勤で、羽黒遺跡における作業はとりあえず終了した。1週間後には事務所近辺の整頓作業が残っているが、私はそれを任されていない。昼頃になって強い風が吹き始め、午後からの作業がどうなるのか多少心配しながらも、私はすぐさま現場を離れた。

 午後から、散髪に出かけた。強風の中をわざわざ出かけるのはかなり億劫だった。しかし、約束していた飲み会が夜に行われるため、今のうちにさっぱりしてしまおうと思ったのである。
 夜になり、待ち合わせの時間より少し早く、私はK電機店までとぼとぼと歩いていった。飲み会の会場は、K駅北側の居酒屋「S屋」で、K電機店にて待ち合わせという計画だった。当然、私は夕食を摂らないでいた。
 それにしてもこの日はすこぶる寒かった。昼頃から吹き始めた強風は、まったく止む気配がなく、上着を貫通してその鋭利な風が全身の皮膚に突き刺さってくるのである。私は何となく不穏を感じた。

 羽黒遺跡の発掘作業は、来年もう一度引き継がれるという。来年の冬、またあの同じ場所で同じ作業が行われるのである。話によると、今回作成された作業員の名簿の中から、再び招集される者が出てくるとのこと。ある種の郷愁がそれを容易に受け入れてしまう可能性はあるが、私の場合、それは郷愁のままで伏せておきたい気がする。
 ともかく、〈今日はまるで学校の卒業式みたいだな〉と思った。ある意味、この1ヶ月でうち解けた仲間との別れが、卒業式のようでもあった。果たして、こんなにも切ないものがあるのかと、胸にこみ上げてくる異様な寂しさを反芻しては、驚きを膨らませていった。

 風は一向に弱まらず、しばし砂埃が目に入るほどだった。迎えに来るT君の車が現れるまで、私はK電機店の店内を散策してやろうと思い立った。その後、時間がゆるりと過ぎていき、店内の散策も退屈になったので、今度は表で到着を待ってみることにした。
 都合良く自動販売機がそこにあって、私はホット・コーヒーを買って飲み干した。そろそろ来る頃ではないか、と何度も思ったが、予想に反して彼の車は現れてはくれなかった。最初に抱いた不穏がここにきて現実となり、店の駐車場の車がまばらになってくると、その不穏が強固になって一気に押し寄せてくるのだった。
〈やがて閉店時間がやってくる…それでもずっと、この場に居なくてはならないのだろうか――〉
 やがて時間は、7時45分を過ぎた。あと15分ほどで閉店となり、シャッターも閉まる。明かりも当然消えるだろう。いやな状況だった。気がつけば、体が冷たくなっており、顔も寒さで膠着していた。時計を逆算すると、その場に立ちすくんでからおよそ40分以上経過したことになる。
 風はさらに強まっていった。突き刺さるような冷たさは肉体の奥まで染みていた。そうしてとうとう、肉体的な限界と、心理的な限界とが相重なった。
 その場に居ることが辛くなった私は、道路の向かいにある、新装開店間もないラーメン屋に駆け込んだ。店内は明るく、暖房がよく効いていて、体が緩むように暖かさに馴染んでいった。

 私は躊躇することなく「味噌ネギラーメン」を頼んだ。外食においてほとんど食べたことのない味噌ラーメンを頼んだ動機は、一体何だったのだろうか。待ちぼうけの末、ただただ腹が減り、身の哀れさが内側から感じられた。とにかく、何かを食わずにはいられなかったのである。
 言うまでもなく、既にこのとき、私は打ち上げに参加することを諦めていた。連絡の取りようが無かったせいもあるのだが、何らかの手段を講じて、会場に向かうといった行動力が、これから触感に訴えかけてくるであろう「味噌ネギラーメン」を前にして、完璧に消え失せていた。
 そのうち目の前に現れた「味噌ネギラーメン」は、どういうわけか湯気を起こさなかった。箸で麺を突くと、中から濃厚な味噌の香りが舞い上がった。私は一気に、この乳白色に近い味噌絡めのスープを口にたっぷりすすり込み、舌の奥で柔らかな甘みとコクを味わった。
 油で炒めたニンニクとネギは香ばしく仕上がっていて、それがまたスープによく合っていた。そして十分に茹で上がった太い麺は、喉をすうっと通り抜けて、私の空腹の胃の中へ少しずつ落ちていった。

 その後、店を出てすぐ、私は全く反対方向に歩き出した。向かうは本屋であった。ラーメンを食べながら結論に行き着いたのは、本屋で時間をつぶそう、ということだった。
 ところでその頃、実は自宅に数回ほど、電話がかかっていた。自らの行動の意図ですらこの日は喪失していたから、機転を利かして自宅を中継地点にする、などという考えはまったく浮かばなかったのである。
 結局、本屋で30分時間をつぶしたのだが、その後自宅に戻ると、数回ほど電話があったことがこの時初めてわかった。そうして何が何でも会場へ向かわねばならぬ情況になり、自転車に乗って何百メートルかを走り回った。しかし、ほとほと疲れ果てて私は、ほどなくして帰宅したのである。

 翌日、T君から詫びの電話があった。私も、その場に居続けなかったことを詫びた。聞けば、その打ち上げは実に4人ほどの会席で、私が思い描いていた打ち上げの現場とは、かなりスケールが違っていたのである。惜しいことをした、というのが率直な気持ちであった。
「また何かの機に、酒でも飲みたい」
 私は、そのようにT君に伝えて電話を切った。本当に惜しいことをした、と思った。それは心の底から湧き出てきた、たった一つの雑感に違いなかった。

S事務所へ

 2001年2月19日。この日、私は再びS事務所に訪れた。
 既に仕事は先週の金曜の時点で終了していた。が、給与書類に必要な印鑑を押し忘れたとの電話連絡があり、早朝、いつもの時間にM町へ向かったのである。
 事務所の着くと、見慣れた情景が目に飛び込んできた。それは私にとって予想外の情景だった。閑散としているだろうと思われた駐車場には、何台もの自家用車が並んでいて、仕事の準備に取りかかっているのは、紛れもなく見覚えある顔ぶれだった。
 ある者は、靴を長靴に履き替えている。またある者は分厚い防寒具をすっぽりかぶり、無言で歩いている。
 私は呆気にとられながらも、事務所を訪れ、印鑑の件を済ませた。しかし、その最中ですら、事務所には何人かの人間が出入りして、さもこれから現場へ向かおうという様相だった。「先週、仕事が終わった」という事実が、まるで嘘であったかのように思えたが、無論これは錯覚ではない。

 この日、ここに来ている彼らは、事前に電話連絡を受けて、完了できなかった計測の作業を行うのだった。そのような臨時の日程計画は、以前何度か聞いていた。
 そういった業務上のカラクリはともかく、誰もいない閑散とした事務所に訪れたのではない、いつもと変わりない情景の中に飛び込んで、そこに最後の足を踏み残せたことが、何とも代えがたい幸福な気持ちにさせられた。
 あそこにいた彼らは、私が去った後、黙々と作業を続けるだろう。あの土と泥と水にまみれた地で、鋤簾を手に取り、コテを手に取り、メジャーを片手に、完掘を計測し、図面にぢりぢりと線を書き込んでいくだろう。
 おそらく10時になれば休憩である。小屋では女性陣の笑い声が響き、茶を飲みながら持ち込みの菓子をほおばるに違いない。そう、あの時いただいた小さなチョコレートの一片は、体がとろけるくらい温かく甘かった。
 私は昼飯をほおばっている彼らの様子を見たことがない。何故なら、とうの私自身は、道路を渡った先の、十字路の角にあるコンビニで、いつもパンとコーヒーを買って昼休みの時間をつぶしていたからである。
 思えば、コンビニの駐車場のアスファルトには、どうしても靴にこびりついている泥が落ちてしまい、敷地の一角を汚してしまうのだった。だからいつも申し訳ないなと思っていた。

 さて帰り際、道路から事務所の方に体を反転させて、デジタルカメラのシャッターを切った。
 数日後には当然、ここには誰一人いなくなってしまう。そんな情景を写しても意味はなく、今まさに現場へ向かおうとする彼らの後ろ姿こそ、残存させるべき最後の瞬間である。この日、帰り道となるありとあらゆる風景を撮影して走った。
 結果、事務所の小屋を写した写真には、様々な情報が詰まった。白い車の形――あれはまさに、直前に現場へと向かった主のものだ。その主こそ写っていないものの、現場の活気がそれなりに伝わってくる。
 私はその1枚が、他とは違うオーラを発しているように思え、少したじろいだ。さらに時間が経過し、再びこの写真を覗いてみれば、果たしてそこに、何が見えてくるのだろうか。
 あの車の主は、永遠に現場へと向かおうとしている。いつまでも作業を続けている。

コメント

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

古河駅130年と伊勢甚

旧国鉄東北本線で唯一茨城県に停車した“古河駅”の歴史を紹介する企画展「古河駅130年とまちのすがた」が古河市歴史博物館にて催され、先日私はこの博物館を訪れた。この駅にまつわる個人的な小学校時代の思い出は、当ブログ「駅の伝言板」で書いた。今回もそれに関連した話を綴りたい。
 古河市中央町にある歴史博物館は、入館こそ初めてであったものの、十数年前にこの近くを訪れたことがある。とは言え地元であるから、それこそ数えきれぬほど周辺は歩いているが、歴史博物館の周辺は、かつての古河城下における出城だった場所で、土塁らしき傾斜が今でも点在しており、その十数年前、新品の銀塩一眼レフを買ったきっかけで試し撮りの風景写真を撮りに、そういった堀の跡を見て歩いたことがあったのだ。
 その時歴史を見て歩いたつもりが実は薄っぺらいものであったこと。それが今回の入館でよく分かった。博物館の展示を観覧し、これまで何ら地元の歴史を知らなかったことや、目から鱗が落ちる発見などがあり、意外なほど知識欲を掻き立てる材料となって地元の町の見方が変わった――と言い切ってかまわない。
 館内では、江戸時代後期の古河城下の復元模型が展示してある。これがまた広大である。  渡良瀬川に面した長細い土地の周囲を堀で囲み、言わばそこが中洲の城下となって、入り組んだ掘割を船で往来するという風景が想像でき、堀外に整理された武家屋敷と町家を含めた城下全体の趣は、都市空間としてさぞかし風光明媚であったかと思われる。古河藩主、土井利厚(としあつ)と利位(としつら)を仕えた家老で蘭学者である鷹見泉石の稀有な存在も、この城下の鉛色の文明的な輝きに伴って、頗る際立っている。
 土井利位と言えば『雪華図説』で名を知られているが、私の母校の小学校では当時、それに肖って、雪華の多角形をなぞった噴水装置の水場が校内に拵えられ、子供らだけで水遊びをした思い出がある。
 こんな水遊びをした。まず蛇口から水をじゃーじゃー流し続ける。やがて多角形の外周水路から水が溢れ出る。これ幸い、土砂を手で掻き分けて川を模し、土砂と小石を集めてきてダムを造る。ダムをせき止めたり開いたり、川と川をつなげたり。こうなるともう夢中になって時間を忘れて遊びにのめり込んでしまう。  噴水から溢れ出た水が大きくどこまでも流れていく様を見て、私は渡良瀬の河を想った。今思えば、…

モニュメンタルなオザケン

ごくごく近いある夜、バッカスがお呼び立てした「宴」が急遽中止となり、ぽかんとした気分でいたところ、俄にその中止の原因が、水面下による、人間の心の疚しく愚かしい《嫉妬》の仕業だと知り、私は心許なく落胆した。水入りである。  出席者同士の対立というのではないのだ。その人にとって不都合な、不条理と思える局面を理性によって目視静観することのできない利己的な「不安」と「気弱さ」が、事の推移を有為に堰き止め、出る杭を事前に打って抑えつけたのである。こうなると、歌によって何事かを表現することが使命の私にとっては、真っ白になってしまう。何もできない。混迷の一瞬とはまさにこのことであり、舞台の板を外されること、あるいはマイクロフォンのケーブルを外されることは、不本意ながら、私の最も怖れる事態なのである。
 直感というのは恐るべき妄想を生む。そうした顛末の渦中、遠い彼方にいるオザケンのことを想った。私はあまりオザケンのことをよく知らない。知らないが、ただ、1995年のあの曲だけは、特別だ。その頃のテレビ・ドラマ『部屋においでよ』(うちにおいでよ。主演は清水美沙、山口達也)で主題歌だった、「それはちょっと」。なんて懐かしい、22年前の曲。久しぶりにそれをプレーヤーにかけて聴いたのだった。  想えばその時以来、私の関心事はオザケンに及ばなかった。いつの日にか気づいた頃にオザケンは第一線から消えてしまった。その消えた理由について、何かそこには不条理な、愚かしい《嫉妬》であるとか、出る杭が打たれ舞台の板を外されただとか、そんなことがあって憤りを感じたのではないかと、私は勝手に妄想したのだ。この裏打ちのない妄想は心のどこかで共鳴し、反復した。言うなれば負となる不条理に、その消えたオザケンに、シンパシーを感じたのである。
 オザケンの「それはちょっと」と言えば、筒美京平だ。この曲の作詞は小沢健二、作曲は筒美京平、編曲が小沢健二&筒美京平。たまたま近頃、往年のグループ・サウンズ“ヴィレッジ・シンガーズ”を調べていたところ、ここでも筒美京平が絡んできて、独特の“筒美サウンズ”が耳の内側を心地良く叩き、ヴァイブした。「それはちょっと」は8分の4拍子のリズムで小気味いい音色によるイントロ、オザケンの“イチ、ニ、some shit!”というハッスル・シャウトがフレーム・インして始まる。が、いかにも筒美…