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土と空の記憶

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]「土と空の記憶」より)。

 下記は、2001年に随想として書いた雑文である。
 子どもの頃、化石や遺跡が好きでそういう子ども向けの読み物をよく読んだ。
20代後半、たまたま遺跡発掘の短期アルバイトの募集広告に目が止まり、興味本位で参加した。
 あっけなくアルバイトの期間は過ぎたが、仲間との交流を記録しておこうと、コクヨの原稿用紙に筆を走らせた。文中の遺跡の画像は、当時デジタルカメラの黎明期で38万画素たらずの安価なデジタルカメラを使って撮影したもの。

打ち上げの日のこと

 2001年2月16日。この日、午前中だけの半日出勤で、羽黒遺跡における作業はとりあえず終了した。1週間後には事務所近辺の整頓作業が残っているが、私はそれを任されていない。昼頃になって強い風が吹き始め、午後からの作業がどうなるのか多少心配しながらも、私はすぐさま現場を離れた。

 午後から、散髪に出かけた。強風の中をわざわざ出かけるのはかなり億劫だった。しかし、約束していた飲み会が夜に行われるため、今のうちにさっぱりしてしまおうと思ったのである。
 夜になり、待ち合わせの時間より少し早く、私はK電機店までとぼとぼと歩いていった。飲み会の会場は、K駅北側の居酒屋「S屋」で、K電機店にて待ち合わせという計画だった。当然、私は夕食を摂らないでいた。
 それにしてもこの日はすこぶる寒かった。昼頃から吹き始めた強風は、まったく止む気配がなく、上着を貫通してその鋭利な風が全身の皮膚に突き刺さってくるのである。私は何となく不穏を感じた。

 羽黒遺跡の発掘作業は、来年もう一度引き継がれるという。来年の冬、またあの同じ場所で同じ作業が行われるのである。話によると、今回作成された作業員の名簿の中から、再び招集される者が出てくるとのこと。ある種の郷愁がそれを容易に受け入れてしまう可能性はあるが、私の場合、それは郷愁のままで伏せておきたい気がする。
 ともかく、〈今日はまるで学校の卒業式みたいだな〉と思った。ある意味、この1ヶ月でうち解けた仲間との別れが、卒業式のようでもあった。果たして、こんなにも切ないものがあるのかと、胸にこみ上げてくる異様な寂しさを反芻しては、驚きを膨らませていった。

 風は一向に弱まらず、しばし砂埃が目に入るほどだった。迎えに来るT君の車が現れるまで、私はK電機店の店内を散策してやろうと思い立った。その後、時間がゆるりと過ぎていき、店内の散策も退屈になったので、今度は表で到着を待ってみることにした。
 都合良く自動販売機がそこにあって、私はホット・コーヒーを買って飲み干した。そろそろ来る頃ではないか、と何度も思ったが、予想に反して彼の車は現れてはくれなかった。最初に抱いた不穏がここにきて現実となり、店の駐車場の車がまばらになってくると、その不穏が強固になって一気に押し寄せてくるのだった。
〈やがて閉店時間がやってくる…それでもずっと、この場に居なくてはならないのだろうか――〉
 やがて時間は、7時45分を過ぎた。あと15分ほどで閉店となり、シャッターも閉まる。明かりも当然消えるだろう。いやな状況だった。気がつけば、体が冷たくなっており、顔も寒さで膠着していた。時計を逆算すると、その場に立ちすくんでからおよそ40分以上経過したことになる。
 風はさらに強まっていった。突き刺さるような冷たさは肉体の奥まで染みていた。そうしてとうとう、肉体的な限界と、心理的な限界とが相重なった。
 その場に居ることが辛くなった私は、道路の向かいにある、新装開店間もないラーメン屋に駆け込んだ。店内は明るく、暖房がよく効いていて、体が緩むように暖かさに馴染んでいった。

 私は躊躇することなく「味噌ネギラーメン」を頼んだ。外食においてほとんど食べたことのない味噌ラーメンを頼んだ動機は、一体何だったのだろうか。待ちぼうけの末、ただただ腹が減り、身の哀れさが内側から感じられた。とにかく、何かを食わずにはいられなかったのである。
 言うまでもなく、既にこのとき、私は打ち上げに参加することを諦めていた。連絡の取りようが無かったせいもあるのだが、何らかの手段を講じて、会場に向かうといった行動力が、これから触感に訴えかけてくるであろう「味噌ネギラーメン」を前にして、完璧に消え失せていた。
 そのうち目の前に現れた「味噌ネギラーメン」は、どういうわけか湯気を起こさなかった。箸で麺を突くと、中から濃厚な味噌の香りが舞い上がった。私は一気に、この乳白色に近い味噌絡めのスープを口にたっぷりすすり込み、舌の奥で柔らかな甘みとコクを味わった。
 油で炒めたニンニクとネギは香ばしく仕上がっていて、それがまたスープによく合っていた。そして十分に茹で上がった太い麺は、喉をすうっと通り抜けて、私の空腹の胃の中へ少しずつ落ちていった。

 その後、店を出てすぐ、私は全く反対方向に歩き出した。向かうは本屋であった。ラーメンを食べながら結論に行き着いたのは、本屋で時間をつぶそう、ということだった。
 ところでその頃、実は自宅に数回ほど、電話がかかっていた。自らの行動の意図ですらこの日は喪失していたから、機転を利かして自宅を中継地点にする、などという考えはまったく浮かばなかったのである。
 結局、本屋で30分時間をつぶしたのだが、その後自宅に戻ると、数回ほど電話があったことがこの時初めてわかった。そうして何が何でも会場へ向かわねばならぬ情況になり、自転車に乗って何百メートルかを走り回った。しかし、ほとほと疲れ果てて私は、ほどなくして帰宅したのである。

 翌日、T君から詫びの電話があった。私も、その場に居続けなかったことを詫びた。聞けば、その打ち上げは実に4人ほどの会席で、私が思い描いていた打ち上げの現場とは、かなりスケールが違っていたのである。惜しいことをした、というのが率直な気持ちであった。
「また何かの機に、酒でも飲みたい」
 私は、そのようにT君に伝えて電話を切った。本当に惜しいことをした、と思った。それは心の底から湧き出てきた、たった一つの雑感に違いなかった。

S事務所へ

 2001年2月19日。この日、私は再びS事務所に訪れた。
 既に仕事は先週の金曜の時点で終了していた。が、給与書類に必要な印鑑を押し忘れたとの電話連絡があり、早朝、いつもの時間にM町へ向かったのである。
 事務所の着くと、見慣れた情景が目に飛び込んできた。それは私にとって予想外の情景だった。閑散としているだろうと思われた駐車場には、何台もの自家用車が並んでいて、仕事の準備に取りかかっているのは、紛れもなく見覚えある顔ぶれだった。
 ある者は、靴を長靴に履き替えている。またある者は分厚い防寒具をすっぽりかぶり、無言で歩いている。
 私は呆気にとられながらも、事務所を訪れ、印鑑の件を済ませた。しかし、その最中ですら、事務所には何人かの人間が出入りして、さもこれから現場へ向かおうという様相だった。「先週、仕事が終わった」という事実が、まるで嘘であったかのように思えたが、無論これは錯覚ではない。

 この日、ここに来ている彼らは、事前に電話連絡を受けて、完了できなかった計測の作業を行うのだった。そのような臨時の日程計画は、以前何度か聞いていた。
 そういった業務上のカラクリはともかく、誰もいない閑散とした事務所に訪れたのではない、いつもと変わりない情景の中に飛び込んで、そこに最後の足を踏み残せたことが、何とも代えがたい幸福な気持ちにさせられた。
 あそこにいた彼らは、私が去った後、黙々と作業を続けるだろう。あの土と泥と水にまみれた地で、鋤簾を手に取り、コテを手に取り、メジャーを片手に、完掘を計測し、図面にぢりぢりと線を書き込んでいくだろう。
 おそらく10時になれば休憩である。小屋では女性陣の笑い声が響き、茶を飲みながら持ち込みの菓子をほおばるに違いない。そう、あの時いただいた小さなチョコレートの一片は、体がとろけるくらい温かく甘かった。
 私は昼飯をほおばっている彼らの様子を見たことがない。何故なら、とうの私自身は、道路を渡った先の、十字路の角にあるコンビニで、いつもパンとコーヒーを買って昼休みの時間をつぶしていたからである。
 思えば、コンビニの駐車場のアスファルトには、どうしても靴にこびりついている泥が落ちてしまい、敷地の一角を汚してしまうのだった。だからいつも申し訳ないなと思っていた。

 さて帰り際、道路から事務所の方に体を反転させて、デジタルカメラのシャッターを切った。
 数日後には当然、ここには誰一人いなくなってしまう。そんな情景を写しても意味はなく、今まさに現場へ向かおうとする彼らの後ろ姿こそ、残存させるべき最後の瞬間である。この日、帰り道となるありとあらゆる風景を撮影して走った。
 結果、事務所の小屋を写した写真には、様々な情報が詰まった。白い車の形――あれはまさに、直前に現場へと向かった主のものだ。その主こそ写っていないものの、現場の活気がそれなりに伝わってくる。
 私はその1枚が、他とは違うオーラを発しているように思え、少したじろいだ。さらに時間が経過し、再びこの写真を覗いてみれば、果たしてそこに、何が見えてくるのだろうか。
 あの車の主は、永遠に現場へと向かおうとしている。いつまでも作業を続けている。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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