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樋口可南子と篠山紀信

お櫃でかき混ぜたご飯を召し上がるその瞬間に、ふわりと漂うヒノキの香りが鼻孔の奥を通り過ぎて、不思議なくらいに《野趣》に富む贅沢な気持ちを味わった。女優・樋口可南子の写真集『water fruit』を眺めていると、そういう体験を想起させてくれる。若い頃では絶対にそんなことを感じ得なかったであろう性愛への惑溺した趣が、今はとても心地良い風となってある種のユートピアの在処をひけらかすのであった。
 先月の16日、朝日新聞朝刊のコラムで、写真家・篠山紀信氏の『water fruit』にまつわる回想録が掲載された。私はそれを読んだ。「猫もしゃくしも『ヘア』 今も嫌」――。  振り返れば1991年、篠山紀信が樋口可南子をモチーフにして撮影した写真集『water fruit 篠山紀信+樋口可南子 accidents 1』が発売された時、“ヘアヌード写真集”が出たということで大変話題になったのを思い出す。当時32歳だった樋口可南子が、篠山氏のカメラの前で“脱いだ”という話題性よりももっと猥雑で露骨な剣幕として、彼女がヘア(pubic hair)までもさらけ出したという、女優としての度胸の意外性に大衆が刮目し、そのことに皆、惚れ惚れとしたのである。  ただし私はまだその頃、19歳であったから、世間の風俗の喧噪に疎く、そこに近づいて興味を持とうという気にはならなかった。あれから28年の歳月を経て、いま私の手元には『water fruit』がある。あの喧噪はいったい何であったのか、『water fruit』とは何ぞや――という長年心に覆われていた靄をいま、取り払ってみたくなったのである。  ちなみに、私が所有しているのは、“1991年3月15日第3刷”で、当時、帯に記され一般に浸透していたタイトルらしき“不測の事態”の文字は、この本の中の刊行データには記されていない。だからここでは、“不測の事態”という言葉を敢えて扱わないことにする。
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 作者と表現者の思いとは裏腹に、この写真集は徹頭徹尾、“ヘアヌード写真集”と流布されて知れ渡った。“ヘアヌード”とは造語であり、「陰毛が映っているヌード」という意である。  日本では戦後、民主主義憲法の下、「表現の自由」(憲法第21条)を謳いながらも性表現・性描写に関しては規制が厳しく(刑法175条)、欧米の基準とは異なって、露骨な性表現・性描写…

教科書のこと

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年11月11日付「教科書のこと」より)。※2018年12月13日に加筆修正しました。

 筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』という高校3年時の国語教科書が今でも書棚に残っている。表紙の抽象的なデザインの、その索漠とした印象と「秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編」という文字が妙に重々しい。昭和63年3月31日(文部省の)改訂検定済の表記がある。実際に私が高校3年時にこの教科書を使ったのは、1990年(平成2年)のことだ。
 私が当時この教科書を捨てずに残そうと思った明確な理由は、今となっては判然としない。が、おそらく、国語という教科に対する幾分かの興味以上に、やはりその教科書の装幀と中身の滋味ある文体に惹かれ、後々もそれを眺めていたい、中身に触れてみたいという欲求があったからではないだろうか。実際、その他の教科書はすべて処分してしまったが、ここにその一冊のみが、過去の歳月を経ても尚、現存しているのである。
 目次からその内容を書き出してみる。

筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』目次


  1. ことばと生活
  2. 小説(一)
  3. 古典(一)―古代の歌―
  4. 表現(一)―文章を書く―
  5. 随想
  6. 現代詩
  7. 漢文(一)―古代の詩文―
  8. 古典(二)―『枕草子』と『源氏物語』―
  9. 小説(二)
  10. 評論
  11. 短歌
  12. 古典(三)―芭蕉と西鶴―
  13. 漢文(二)―先哲のことば―
  14. 表現(二)―表現を磨く―
  15. ことばと文化

◎三春駒

 筑摩書房のこの教科書を、まったくの情趣抜きで語ることはできない、と私は考える。
 第1章の「ことばと生活」の冒頭頁に、福島県産“三春駒”の写真が添えられていた。例に挙げれば第4章の「表現(一)―文章を書く―」の冒頭頁には、本郷菊坂の路地の写真がある。この章中の「塵の中」の著者は樋口一葉であり、自ずとその写真との関連性が浮かび上がる。他の章も同様である。しかしながら第1章における“三春駒”は非常にわかりづらい。
 第1章は唐木順三著「疎外されることば」と長田弘著の「ことばとつきあって」であり、その内容と直接関係ないように思われる。長田氏は福島県出身で、彼の文章の中に、《どうもわたしの成長した東北の地方都市の周辺は、日本語のなかでのいわば無アクセント地帯ともいうべきところに位置するらしくて――》とあり、福島という点では関連性があるが、“三春駒”には行き着かない。
 高校生であった当時の私の謎めく想念は、ここまでで終結させられた。

 ところが、今となっては謎でも何でもないことであった。長田弘氏は福島県福島市出身であるが、疎開先の岩代熱海から三春の小学校に入る。やがて福島市に戻るも、高校は福島県立福島高等学校を卒業する。彼が卒業したのは三春町立三春尋常高等小学校(現・町立三春小学校)であり、現住所は福島県田村郡三春町字大町である。長田氏と“三春駒”は歴然と繋がっていたのだ。

◎疎外されることば

 ある意味において、教科書全般に言えることかもしれないが、その最初の入口が取っ付きにくいものになっている。少なくとも私の10代においては、「教科書」というものをそういうふうにとらえ、よほど必要とならなければそれをなかなか開かなかった。従って勉学が滞りがちになり、一夜漬けの片付け仕事的な場合が多かった。
 唯一、この筑摩書房の国語教科書だけは、比較的例外であった。皮肉にも取っ付きにくさでは群を抜いているように思われ、まったくの大人目線による装幀と構成になっていた。教科書の格調の高さというのは、しばし勉学の本質の妨げになるが、私自身が国語学習の中身をどう解釈し会得したかにかかわらず、一つの文学書物として、私は不思議とこの国語教科書から惑溺するものを感じたのだ。

 唐木順三という評論家についてはまったく知らなかった。1990年の高校生の、一般的な嗜みからして、唐木順三という人との接点を結びつけるものが、私自身には何一つなかった。故に、いきなり唐木順三著の「疎外されることば」は、強烈な印象を伴う鎮静剤となった。それまで馴染み深かったいわゆる児童文学の平穏牧歌的な境界線を踏み越え、“ことば”が“疎外される”という主題に出合ったとき、新たな批評文学という分野に踏み入れる武者震いを覚えた。

《ところで、その疑念も、絶望も、一般的にいえば思惟そのものも、実はまたことばを媒介にして行われていることに気づく。我々の迷いも、疑いも、心の中で、発音しないことばによって運転されている。ことばの一般法則、ことばの一般的方法を離れては、ことば自身をも疑うことができないことを自覚するとき、一刀両断、ことばをことば以外の力、意力をもって否定せざるをえなくなる。そして我々はことばの発達しない原始段階に帰って、ああ、とか、おお、とか、やあ、うん、かッ、というようなさけびへもどる。絶言栓、不立文字の原始経験へ帰る。そしてこのもどり、帰ったところが、真実のことば、美しいことばの誕生する場所であろう。文学、なかんずく詩はそこから起こった。そして今日のだれかれでも、真におのが実存的な体験を、実存的に語ろうとするとき、おのずからに瞬間的に詩人である》
(筑摩書房『国語Ⅱ』唐木順三「疎外されることば」より引用)

 この頃私は夏目漱石の文庫本を揃え始め、文学と小説の醍醐味を知った。よりいっそう教科書を読み込めば、唐木順三と筑摩書房の精神について触れることができたかもしれないが、無論、そのような練達した度量を持ち得ていない。漠然と「疎外されることば」を読み、漠然とその時分の自然な流れとして、漱石を読み始めたに過ぎない。
 結果としてその宿題は、今こうして再び教科書を開くとき、装幀、文体、文脈、そして作家らの思考の旅となって託された。単に郷愁として読み返すのではなく、教科書の意図を超え、まさに文学への旅の地図としての一冊に塗り変わったのだ。言うまでもなくそれは、唐木順三の「疎外されることば」から始まった。

◎清光館哀史


 やがて授業の進行に従って、第5章の「随想」が主題となる。柳田国男著の「清光館哀史」。
 子供を連れて旅を続けている柳田が、岩手県は九戸郡、小山内の村へやってきた。6年前の旧暦盆にやはりこの村を訪れ、月夜に盆踊りを見た。

《なにャとやーれ なにャとなされのう》

 《相撲取りの化粧まわしみたような前掛け》をして女らが歌い踊る盆踊りのその歌は、いわゆる「うたがき」「嬥歌(かがい)」と呼ばれる求婚の歌で、

《確かに歌は一つ文句ばかりで、それを何遍でも繰り返すらしいが、妙に物遠くていかに聴き耳を立てても意味が取れぬ》

 ものであった。そして6年前の宿、懐かしい清光館は「没落」し、家はなくなっていた。漁船の遭難事故によって亭主は帰らぬ人となり、女房は子供らを知人に預けて別の町へ奉公に行ったという。
 八木の宿に帰り、パリにいる松本信広氏(民俗学者)に柳田はハガキをしたためる。その内容は定かではない。が、

《この小さな漁村の六年間の変化を、何か我々の伝記の一部分のようにも感じた》

《あんまり長い忘却、あるいは天涯万里の漂遊が、何か一つの原因であったような感じもする。それはそれで是非がないとしても、また運命の神様もご多忙であろうのに、かくのごとき微々たる片隅の生存まで、いちいち点検して与うべきものを与え、もしくはあればかりの猫の額から、もとあった物をことごとく取り除いて、かぼちゃの花などを咲かせようとなされる。だから誤解の癖ある人々がこれを評して、不当に、運命のいたずらなどと言うのである》
(筑摩書房『国語Ⅱ』柳田国男「清光館哀史」より引用)

 というような意味のことを書いたのかもしれない。
 決して大袈裟に受け取ったわけではないにせよ、私が当時、授業で熱弁を振るった教諭は、この「清光館哀史」の授業において「執拗」に口説いた。むしろそれは異様にも感じられた。結果、私の脳裏に残る授業の記憶の中で、最も印象深かったのが「清光館哀史」だった。そして今も教科書には、この授業で使われたプリントが数枚挟まれてあって、なおかつその頁の、私自らが引いた夥しい数の傍線(マーキング)が「執拗」なる授業の証拠となっている。何故教諭は、それほどまでに「清光館哀史」を生徒に口説いたか。

 教科書の上部には、プリントから引用した自筆のメモが記されてあった。〈言語機能の側面 言語の獲得 共同社会(日本)の生の形式とリズム 歌垣の発生と展開〉。

 総じて、非常に難解な授業であった。逸話には当たらないが私は後年、「清光館哀史」が気になって書店でそれを探し出そうとした。しかし書籍は見つからなかった(仕方なく『遠野物語』と『日本の昔話』の文庫本を買ったりした)。
 教科書の柳田国男の略歴にこうある。《「清光館哀史」は一九二六年に執筆され、『雪国の春』に収められた。本文は、「定本柳田国男集」第二巻によった》。教科書にはないこの随想の前後がそこにあるのではと推測した。これを調べるのも課題の一つとなりそうだ。

コメント

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人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
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 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

We Are The World―伝説のレコーディング

私がレコーディングというものに真剣に興味を持ったのは、中学生の時だ。その頃、USA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」のビデオを観た。今思えば不思議な巡り合わせである。極端な話、このビデオを観ていなかったならば、音楽などやっていなかったかも知れない。
 そのビデオは、レコーディングの光景を如実に映したメイキングで、AKG C-12という名機のマイクロフォンの前でライオネル・リッチーが歌い始めるシーンが印象的。だが、ライオネル・リッチーとマイクロフォンのあいだに、奇妙な“布膜”の存在を“目撃”したのだ。どう見てもそれは、女性が穿く「ストッキング」であった。何故、ライオネル・リッチーとマイクロフォンとのあいだに、女性が穿く「ストッキング」が在るのか。中学生だった私は、思い悩んだ。結局はその「ストッキング」の謎解きこそが、レコーディングという制作現場への興味をいっそう深くし、自らもそれにどっぷりと浸かっていくきっかけになったわけだ。私はこれを、「思春期のストッキング事件」と称している――。
 さて、平成の時代がもうまもなく終わる。そういう時世において、かつては誰もがサビを口ずさむことのできたUSA for Africaのチャリティー・ソング「We Are The World」など、“知らない”世代が増えてきているのではないか。そのことを承知の上で、「We Are The World」と私自身の想い出を書き連ねることは、逆にとても有意義なことだと思っている。前稿の「ミックステープってなんじゃらほい?」と多少なりとも繋がりのある話であり、昨年1月に書いた「青空の多重録音」も併せて読んでいただけるならば、この話はもっと聡明になるに違いない。私的なことながら、これは私にとってとても大切な、そしてある意味とても不思議な、歌とマルチ・トラック・レコーディングの話なのだから。
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 「We Are The World」(コロムビア・レコード)のチャリティー・ソングが初めて私の耳に届いたのは、中学1年の頃である。時系列で述べると、ニューヨークのハリー・ベラフォンテがアフリカの飢餓と貧困のために何かできないかと発起したのが1984年の暮れ。翌年の1月にその伝説の、深夜のレコーディングがおこなわれ、イースター前の4月5日の朝、世界各国のラジオ…

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 作者と表現者の思いとは裏腹に、この写真集は徹頭徹尾、“ヘアヌード写真集”と流布されて知れ渡った。“ヘアヌード”とは造語であり、「陰毛が映っているヌード」という意である。  日本では戦後、民主主義憲法の下、「表現の自由」(憲法第21条)を謳いながらも性表現・性描写に関しては規制が厳しく(刑法175条)、欧米の基準とは異なって、露骨な性表現・性描写…