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ピッツァからジャズへ〈二〉

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前回からの続き。シチリア風ピッツァの“セモリナ粉”つながりでmas氏の“手料理日記”なるものに着目し、ジェニー・ライトとエリック・トゥルイユ共著の料理図鑑『ル・コルドン・ブルー クッキング・テクニック』(プロトギャラクシー、東京校監修)の本を眺めていると、子どもの頃に夢中になって観ていたテレビ番組「世界の料理ショー」(1970年代に放送されていたカナダの料理バラエティショーで、料理研究家グラハム・カー氏が料理をしながらコミカルなトークを展開する。そのトークのペダンチックな料理解説だとか夫婦ネタでスタジオ内の観客は騒然大爆笑。出来上がった料理は家庭料理ながら贅沢で垂涎の的だった。番組原題は“The Galloping Gourmet”)だったり、サントリーがスポンサーだったテレビ東京(当時は東京12チャンネル)放送の「すばらしい味の世界」という番組では、俳優の柳生博氏が番組進行役で、国内の高級レストランの料理を巧みな映像美で魅せていたのを、ふと思い出す――。mas氏がブログ上で見せてくれた手料理には、そうした風情が香り立つのだった。
 そんなmas氏のウェブを眺めていて、「子育て雑記」というコンテンツの中に、「うちの子のお気に入りの音楽」というページがあったのを見つけて開いてみたのである。これは、mas氏が2006年の12月に作成したページで、愛娘さんが幼児の時に好んで聴いていた音楽を9曲ピックアップしているのだ。
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 そのうちのジャズの1曲が、ブルーノート・レーベルのアルバム『The Rumproller』の1曲目「The Rumproller」であった。トランペッターのリー・モーガン(Lee Morgan)がリーダー。テナー・サックスはジョー・ヘンダーソン、ピアノはロニー・マシューズ、ベースはヴィクター・スプロールズ、ドラムはビリー・ヒギンズで、1965年の録音である。mas氏は、この「The Rumproller」を聴いて踊る愛娘さんについて、こう述べている。《3歳になった秋、ランプローラーのリズムに合わせて、身体を揺らしながら、頭の上で手を叩いたりしている》――。これを読んで私は、リー・モーガンに着目したわけである。2020年の3月末。そのコロナ禍の最中、彼のトランペットの音色に惹き込まれ、夜な夜な身悶えしたのだった。
 そもそも、オルガニストのジミー・ス…

伊藤整の「青春について」

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2010年11月18日付「伊藤整の『青春について』」より)。

 高校3年の国語の授業において、個人的に想起するものは、唐木順三の「疎外されることば」であり、柳田国男の「清光館哀史」の授業であることは他の稿で述べた。
 その教科書を、最初から最後まですべて読み通すことはついになかった。授業としてもそうであった。年間学習行程などの都合があり、3分の1もしくはそれ以上が省かれ、1年が過ぎてしまった。そのことは当時、まったく無頓着で思うところは何もなかったが、今その教科書を懐かしく手に取る度に、工業高校故の無反動を決め込んだ怠惰を思わずにはいられない。

 いかなる理由があったか知るよしもないが、「評論」の章の題材になっていた伊藤整の「青春について」(『知恵の木の実』に拠る)は、おそらく授業というかたちになっていなかったかと思われる。ただし、個人的に何度か、当時この評論を読んだりはした。
 その頃、自ら読書感想文の課題にした武者小路実篤の『友情』と比較して、伊藤整の「青春について」の内容は、後者が著しく短い評論でありながらも、桁違いに難解な主題であった。教科書の【学習の手引き】にある《この文章の論旨をたどって、「青春」と「所有」の関係について筆者はどう考えているか、確かめてみよう》の詰問からして難解で、著者自ら〈四十歳代の末がやって来ている私にとっても、それが完全に終わったと言うことはできない〉と述べている以上、18歳の私がそれを理解するには、よほどの経験と見識がなければならないではないか、と生真面目に憤慨したほどだ。

 日夏耿之介の詩の一節から、伊藤は「(青春の)所有」という言葉を引き出した。いま考えればこの詩が重要な意味をもっていると理解できるが、注釈によれば、日夏耿之介の『転身の頌』の中の「Une Jouissance」の一節とある。

《われ賛美す
たしかなるみづからのもちものについて
われは最初にもつとも不可思議なる青春なり
(中略)
われは独りなり
われは青春く
われは繊弱し
されどわれは所有す
所有は五月の曲江のやうに照りかがやき
はつ夏の日輪のやうに撫愛しむ》

 伊藤はこう述べている。
《青春が所有するもの、それは、全人生である。それは、いわば、地球を自分は所有していると考えるのと同様であり、人生というものを全部まだ「手つかず」で所有している、というのと同断である》

 そしてその後に続いて、
《だが、そのような所有とは、まったく所有しないこととも、ほとんど同義である。わたし自身はしかし、日夏先生と違って、十六歳の時、自分は何も所有していない、という意識を強く持っていた》
 としている。

 一人の人間の「青春」を切々と述べられる時、その本質的なものについて、語られる者と聴く者(著者と読む人)とが同化していくことに気づく。つまり、それを所有すると考えようが、所有していない、半所有であると考えようが、「青春」の本質は微動だにしない。またそれを語る時、語る者が完全に終わろうが終わるまいが、「青春」への眼差しは少しも違いないのである。
 しかしながら「青春」とは、それを引き出す者の「純然たる精神」によらねばならぬ、ということは言えるかもしれない。とりわけ個人の精神上の《善》と《正義》なくして、「青春」への眼差しはあり得ないのではないか。日夏耿之介という人が《善》と《正義》の人であり、伊藤整という人が同じくそれの人であるということが前提としてあって、我々はそれをとくと聴き、眺めるという関係が成立する。私は「青春について」の中の、彼の岩盤をも砕くような鋭い表現性に引き込まれた。

《その中にあるものは、弱いものと劣れるものへの白眼視、洋服やこづかい銭や思想や家柄の競争、見栄や傲慢さや卑劣さのうずまきである。そして、そのような甘美なものの題目の与える虚偽と、その中にあふれている人間らしい醜陋さのリアリズムとを理解するのは、その全種目を行為してみなくても足りるものである。一つの経験は他の同種のものの実体を暴露する。それらの醜さとむなしさに耐える時に、ほんとうの青春の力が必要になる。それらのものに耐える力は、老年にはまったく存在せず、中年にもほとんど存在しない。青春のみが、それに耐えることができる》

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