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漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
§
 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

ラムの酩酊とロウソクの火

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年12月31日付「ラムの酩酊とロウソクの火」より)。
 大晦日とは言え、あと数時間で年を越してしまう今、今年を振り返っても仕方がないので、今年最後のブログは簡単に。
 読み続けている『愛蘭土紀行』(I・II)。そして数日前に読み終えた箇所に戻り、再読する。
 福原麟太郎がオスカー・ワイルドからチャールズ・ラムに傾斜したという箇所が濃い。
《文学には大なり小なりの酒精分が入っている。オスカー・ワイルドは強い酒だが、ラムは、水とまがうほどにしか酒精分は入っていない》 (『愛蘭土紀行I』より引用)
 ちなみに私は缶詰のコンビーフが大好物で、コンビーフ1缶あればご飯3杯はぺろりと食べられるほど。しかしながらこの話を友人に話すと、途端に嫌な顔をされるか、コンビーフなど食べたことがないと言われるかどちらかです。アイルランド系移民のアメリカ人が祝祭日にコンビーフとキャベツを使った料理を食べるらしく、そういう意味では自分にはアイルランドの血が混じっている、と法螺を吹きたくなります。
 ラムの『エリア随筆』の「近代の女人崇敬」を読んでいて、岩波の復刻本のための旧字体と、ラムの苦み走った文体とが複雑に絡み合って読後的に酩酊、私はとてもこれが酒精分無しとは思えないのですが、酒の種類としては軽めのカクテルだとかビールといったものではなく、濁酒か芋焼酎のように粘着性がある感じ。しかし確かに、酔いとしては少なめなのかなとよく分からなくなってくる。
 そこへ大晦日のテレビの歌番組から、還暦を過ぎた山本リンダ嬢がステージで踊りまくっている光景を見る。ラムが突然描き出した映像としか思えない。
《…老女性の尊厳な姿に対しては、吾々が祖母に対して示すよりも以上に丁寧に、譲歩して道の壁に接した内側の方を歩かせるのであった(よしそれが年寄りの乞食女であっても)。彼は当代の勇敢な武士であった。自分を擁護して呉れるべきカリドア又はトリスタンのない婦人達に対してのサア・カリドアであり、サア・トリスタンであった。既に萎んでから久しい薔薇も、その枯れた黄色の頬に於いて、彼の為にはなお花を咲かしているのであった》 (ラム著『エリア随筆』より引用)
 もはや今年1年を振り返る余地なし。
 ロウソクに火を点け、鎮魂を祈る。不慮にしてあの世へわたった者…

愛蘭土紀行

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年12月26日付「愛蘭土紀行」より)。

 ジョイスの『若い藝術家の肖像』あるいは『ユリシーズ』繋がりで先々月あたりから本を開き始めた、司馬遼太郎著[街道をゆく]シリーズの30、『愛蘭土紀行Ⅰ』。
 “アイリッシュ・ウィスキー”の記述があるあたりで本当にウィスキーが飲みたくなり、家にあった“トリス”で我慢しましたが、司馬さんは、
《アイルランドの泥炭の煙がくろっぽくしみこんでいるような味》
 と述べていて、これがまた飲んでいないのに飲んで酩酊した気分になるほどの修辞。
 アイリッシュ・ウィスキーとはどんなものだろうと、某ショッピングサイトで検索したところ、けっこうな種類がある(購入できる)ことに驚きました。タラモアだの、カネマラだの、ジェムソンだの、ブラックブッシュだの。それらのラベルが少々田舎っぽいのがいかにもアイリッシュといった感じがして、機会があれば飲んでみたいと思いました。
 司馬さんの[街道をゆく]シリーズは20代の頃に耽読しましたが、私の書棚では必ずしもこの膨大なシリーズの文庫本が取りやすく並んでおらず、むしろあっちこっちバラバラに挟んであったので、自分がどれを購入して読んだかを忘れることがあり、一度リストアップしておこうと、ワープロでリストを作成し、買って読んだ本をチェックしていったのです。
 ところがしばらくしてそのリストがどこかへ消えてしまった――。
 書棚を整理してシリーズを順列に並べるのも面倒で、ほったらかしにしていたのですが、つい先日、そのリストが机の引き出しの奥から出てきた。
 少なくともこれがあれば同じ本を二度買いすることはなくなるので見つかってほっとしています。
*
 読書に耽っていると、その中で触れられている文学や書籍も欲しくなってしまうのが常。
 《『ユリシーズ』という題は、いうまでもなく、ギリシア神話のなかの英雄漂泊譚からとられている。
 ホメロス(紀元前800年ごろ)が神話に取材して書いた叙情詩の題は『オデュッセイア』である。その主人公である漂泊の英雄オデュッセウスとはギリシア語で、その英語よみがユリシーズであることはいうまでもない。
 ところで、故伊藤整氏が1969年に『ジョイス』(研究社)という本を編著して、いまも版をかさねている。そのなかで、ジョイスは…

40年後という未来

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年12月22日付「40年後という未来」より)。
《furnace; a space surround on all sides by walls and a roof for hearting metal or glass to very high temperatures.》
 先日の「定義集」(朝日新聞朝刊・大江健三郎著【海外の学会へ出向く小説家】「原爆を経験した日本文学」)の中で“furnace”が触れられていたので、『オックスフォード現代英英辞典』(第8版旺文社)で調べたところ、以上のように記されていました。
 昔、初めて一眼レフカメラを手にした頃、写真が撮りたくてたまらなかった気持ちを抑えきれず、日中、ひっそりとしたある集落を歩いてカメラを向けていた時、煉瓦を積み上げた古びた廃墟に出くわしました。
 そこは古いゴミ廃棄所の跡地で、私が見たのはゴミを処理するための旧式の炉=「窯」だったのです。
 “furnace”は炉=暖房炉や溶鉱炉の意ですが、『大辞林』によれば、日本語の炉にはそれ以外に、囲炉裏であるとか茶の湯の炉、窯、そして原子炉などが含まれている。はっとなって気がついたのは、“furnace”はせいぜい遡っても私が見た旧式の「窯」程度のもので、茶の湯の炉は違うなという印象を受けました。無論、原子炉は“reactor”というのがあります。
 私は、「廃炉」という日本語において、中世以前から窯の寿命=「終わり」=「棄てる」=「廃炉」というニュアンスを抱いていました。しかし、『大辞林』で引くと、その意は「寿命を迎えた原子炉」とあっさりあって、頬をぶたれた気がしました。
 昨日、政府と東電は新たな工程表を発表し、「40年後」に廃炉するといった目標年数を示しました。まだまだ具体的な工程表とは言えないものであり、政府・東電中長期対策会議が果たして今後も責任当事者であり得るのかどうか、組織の実体が見えてこず不安を覚えます。
 我々人間は「40年後」という未来をどれだけ想像、確定できるものか。
 言い換えれば、日本人はこれからの40年を、どう向き合えば良いのか。
ちょうど40年前に生まれた私は、今日の自分を到底想像できやしなかった…。自分自身も、社会も、国も――。
 日本において最も深刻な40年…

伝わってこない怒り

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年12月20日付「伝わってこない怒り」より)。
 師走の忙しさにかまけて、ここ2週間ほど、朝は新聞の見出しを大雑把に読む程度でやり過ごしていました。ニュースを「読む」より「聴く」といった具合に。
 新聞記事を後で読もうと思ったところで、帰宅することになるとすっかりそのことを忘れてしまうので、読みたい重要な記事は朝のうちに切り取ってしまう癖を付けています。私が最近切り取ったのは、12月17日付朝日新聞朝刊、一面を割いて掲載されていた「廃炉へ 現状と課題」と「社説」。
 記事の項目を大まかに挙げてみると、[事故発生から「冷温停止状態」宣言まで]における3月から12月までの推移表、[福島第一原発の現状]を表した図表、[福島第一原発正門の空間線量]と[1~3号機から放出された1時間あたりのセシウムの量]の推移グラフ、[原子炉格納容器の温度変化]と[原子炉圧力容器底部の温度変化](1~3号機)の推移グラフ、その他[9カ月の経過]記事で埋められていました。
 ざっと読むだけではなかなか分かりづらいのですが、政府と東電は7月19日の時点で“ステップ1=安定的な冷却”の達成を宣言しており、「冷温停止状態」の定義を発表。しかし、素人目に見れば、[格納容器の温度変化]グラフで7月を見るとかなり温度が変動していて、何故この時点で宣言が出されたのか釈然としないし、8割の燃料が“格納容器に落ちた”とされる1号機の圧力容器底部の温度変化など、何の意味があるのか分からない。
 いずれにしても(信頼性の乏しい)これらの計測による値が、「冷温停止状態」を指し示すおおむね100度以下になったのだから、予定稿通り「収束」を「宣言」してしまおうじゃないか、という杓子定規な機械的な論理で片付けた、という印象を受けます。
 新聞の見出しは、“廃炉へ”“現状と課題”とありますが、私は「廃炉に向けた課題」という最も重要な側面がこの記事の中身からほとんど感じられず、非常にがっかりしました。
 確か8月の時点で公表された、原子力専門部会による工程表に伴う5つの技術課題。
●1~4号機の燃料プールの取り出し、保管 ●廃炉に向けた原子炉冷却や汚染水処理の安定化 ●原子炉格納容器に漏れた損傷燃料の取り出し準備 ●廃炉に伴って発生する放射性廃棄物の処理 …

世紀の火

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年12月8日付「世紀の火」より)。
 茨城県下の地方銀行・常陽銀行の小冊子に、『常陽藝文』(財団法人・常陽藝文センター発行)というのがあります。この12月号の特集「校歌の描く風景(II)」で私は、同じ県民として少なからず衝撃を受けました。
東海村立石神小学校の校歌が紹介されていますが、原子力関係施設を持つ東海村ならではの、原子力に絡んだ語句が歌詞となっていたからです。
「東海村立石神小学校校歌」 作詞:多田公之助、作曲:有賀正助
(※一、二は省略) 三、 熱だ力だ久慈川の 流れにはえる世紀の火 あれがみんなの石神の 子どものねがい 新しい世界を作る 新しい世界を作る
 もしや、と思い、東海村の別の学校のホームページを調べていくと、やはり原子力に絡む語句のある校歌がありました。県立東海高等学校の校歌です。
「茨城県立東海高等学校校歌」
(※一、三は省略) 二、 晴嵐の丘 雲高く 時代を担う 原子の火 久遠の真理 仰ぎつつ 知性豊かに 磨きあい 未来を拓かん 若人われら 東海 東海 東海高校
 茨城県が抱える脱原発依存の問題(課題)は大きなメディアにのぼることもなく、ひっそりとしてしまっていて、むしろ過小評価されているのではないかとさえ思う今、校歌に刻まれた“世紀の火”“原子の火”という文言は、東海村の戦後の郷土史を濃厚に示していると同時に、子供達(あるいは卒業生)にも、《複雑な記憶》として刻み込まれているのではないでしょうか。

ミニコンに萌え萌え

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年12月7日付「ミニコンに萌え萌え」より)。

 先月末、予約していた『大人の科学マガジン』(Vol.32)が届き、早速「電子ブロックmini」を組み立て。
 組み立てと言っても、大したことはなく、基盤を取り付け、ボリュームツマミを取り付ける程度なのですが、小さなネジをネジ穴に入れるだけでも一苦労。やはり子供の頃の器用な工作のようにはいかない、と実感。それでも完成してみると、これがまた立派な電子ブロックであり、まさしくEXシリーズのミニサイズといった感じで可愛らしい。あの時代が甦ってくるようです。
 ところで、本誌(Vol.32)に掲載されていた巻頭の「電子部品に萌える」の記事。私が気になったのは、ミニコンピュータ「HITAC-10」。日立製作所が1969年に売り出したミニコン。あの当時でこれだけ小型化されていたとは驚きで、IC基板によるHITACシリーズは他にもいくつかあって、日立の製品としてはトランジスタ時代からのコンピュータを数えると、かなりの数にのぼります。
 私が“萌え”たのは、「磁気コア」の拡大写真。後継機の磁気コアということになっていますが、その内部の様子は、決してカビではないが塵や蜘蛛の巣のようなものが張っていたりして、なんとなく薄気味悪く、見たいような見たくないようなものを見てしまったという感。1960年くらいまでは磁気ドラムを使っていたわけで、古びた磁気ドラム内部を見るよりは、磁気コアの方が幾分、怖いもの見たさの“萌え”度は軽い方なのかなと…。
 急に懐かしくなって、母校の工業高校のアルバムを開いてみると、電算室の写真がありました。生徒のいる部屋の隣には、どこの製品か分からない汎用コンピュータが設置されています。三菱電機の「MELCOM 70」シリーズかという気がしますが、よく分かりません。そうだとするとかなり古いことになります。
 そうして何気なく、母校のホームページを検索したりして、画像を見ると懐かしい実習室がほとんど当時のままであったりして、ああ、よく卒業できたなあと冷や汗が出てきてしまうのです。
 話が脱線してしまいましたが、組み立てた「電子ブロックmini」での電子回路遊びは、ホームページに後日アップしたいと思います。

羊たちの群れ

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年12月05日付「羊たちの群れ」より)。

 伊香保旅行の際立ち寄った、伊香保グリーン牧場。散歩がてらに場内をゆるりと歩き、そこに羊や山羊など、福島から引っ越してきた動物たちがいることを知りました。
 牧羊犬が羊の群れをコントロールする「シープドッグショー」が面白く、健気に羊たちを追い立て、立派に仕事をこなしている姿を見ると、牧羊犬の人間に対する親愛というべきか、そういう敬虔な関係を羨ましくも思いました。
 確か、漱石の『三四郎』に出てくる“ストレイシープ”という言葉がありましたが、柵の中で一頭が、群れから離れ、まさに迷える子羊となっているのをしっかりと牧羊犬が目視か嗅覚で察知し、きちんと群れに戻してやるという状況など、“ストレイシープ”そのものでした。
 私自身は、かつて年賀状に羊のイラストを描いて寄越した旧友(ブログ「白の絆」参照)のことを再び思い出したりして、もう一度アプローチしてみようかどうしようかと迷っています。ほんの1ミリだけ積み上げてみたいと思う気持ちというのは、欲望過ぎるのか否か。1年があっという間に過ぎてゆこうとするこの今、この貴重な時間を、どのようにして省みるべきか。ただ漠然と仕事に追われるだけでは駄目だとつくづく感じます。

記憶と場所

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月23日付「記憶と場所」より)。

 まず、「垂乳」のこと。遂に確固たる答えが見つかりました。
 昨年の11月12日付のブログ「岸田劉生の『道路と土手と塀』」で紹介した、高校3年時の国語教科書。ここに「死にたまふ母」という斎藤茂吉の歌の中に、
《のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり》
 とあり、私が初めて「垂乳」という言葉を覚え、記憶の片隅に残ったのは、まさに高校の教科書によって、でした。
 ところで、岩波PR誌『図書』10月号、大江健三郎先生のコラム「親密な手紙」で触れられている作家・竹西寛子さんの『五十鈴川の鴨』。まだ私は読んでいませんが、コラムの内容によれば、竹西さんは単に原爆あるいは被爆を書いてきただけではなく、《社会に向けての》、《大きい骨格》を示した人ということらしく、私はそれを「ユマニスム」と受け止めました。
 実は先述した高校の国語教科書には、彼女の随想が所収されていて、当時私はこの随想をとても印象強く感じました。それは随筆集『ひとつとや』の「道」。
 自分にとって何か意味があるのかないのか、判然としないのだけれど、記憶に残る道がある、という主題。初めて訪れた道なのに、昔ここに来たのではないか、と思う心具合について。
 私は、それとは少し違いますが、記憶の中に「疵」を負ったかたちで、脳裏から離れない場所というのがあります。
 ――その頃は新築のパン屋で、子供相手に文房具を売ったり、雑誌を売ったりしていた小さな商店。その商店の脇に、50坪程度の草むらがあった。秋などは芒が伸びて、大人の背丈ほど繁茂していた。
 私はその現場を直接見たのではなく、学校で友人から話として聞いただけでしたが、私がよく知っているある友人が、その草むらに火をつけ、一時は消防車が急行し騒然となったと。幸い、火はすぐに鎮火し、傍の商店に引火することはなかったけれど、やがてその友人は学校へ来なくなり、自宅の屋根裏に籠もったまま。災難を免れた商店は程なくして店じまいした。
 後に私がその草むらを通り過ぎる度に、消息を絶った友人の顔と声を思い出し、同時に焼け焦げた匂いを感じるようになった。親子関係がうまくいかなかったその友人の痛みというか苦しみが、その草むらの記憶から伝わっ…

電子音楽と小劇団

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年11月22日付「電子音楽と小劇団」より)。

 私にとっての音楽的原始体験は、幼児期における「レコード」鑑賞であった。その中のクラシック音楽であり、ちょっとした黒人音楽であり、優れた表現力をもった俳優陣らが語る童話であり、これらの音感の束が第一の音楽的秩序となった。  こうした音楽的原始体験において、一つだけ例外であったのは、本の中の写真から夢想される音感――視覚から聴覚への脳内変換――《電子音楽》というまったく未知なる音についてである。この実際的な《電子音楽》の音は後年、少しずつ緩やかに、様々なメディアから自分の耳に入り込んでゆくのだが、幼児が玩具のようにして手に取った原初の本『原色学習図解百科』(1968年学研)の第9巻[楽しい音楽と鑑賞]の中の一つの写真「電子音楽の演奏装置」が、それである。  この写真の中の、奇妙な仕掛けの箱から鳴り響くはずである《電子音楽》、すなわち私にとっての「夢想的音楽」という音にならない音の束が、脳内で初めて振動(受胎)したのだ。これは写真のもつ恐るべき魔力と言わざるを得ない。
 しかしこの時、この一冊の本から、想像しうる《電子音楽》と想像上の演劇的世界とを結びつける写真を、別に発見してもいた。
 そうして20代に差し掛かり、立ち上げた小劇団演劇活動の軸足にしようとしたのが、《電子音楽》と「ミュージック・コンクレート」という概念であった。これは私にとっての音楽的原始体験を具体化する表現となるはずであった。作為的に、あるいは日常に転がっている無数の音(ほとんどノイズととらえられてしまう)を記録し、規定の音階に拠らない発音によって抽象的な音楽(広義的な音楽)を構成し、劇のうねりと連動させるという形態。
 ところがそうした構想は、私の頭の中の企図に過ぎず、「ミュージック・コンクレート」は他の劇団員に(表現の相違を理由に)受け入れられなかった。小劇団は専ら喜劇をひた走り、ひねりを加えた軽音楽路線へと突き進んだ――。私の片足はもぎ取られたかたちとなり、居場所はなくなったと悟った。
 あれから十数年あまり――。当時私が企図したいくつかのアイデアの断片を、ライブラリーの中から発見した。それは忘れられていたフッテージの一つであった。マイクロカセットテープ式の留守番電話の留…

フーガと鳥の歌の話

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月17日付「フーガと鳥の歌の話」より)。

 “音響芸術科”の学生だった頃、優れた音響を聴きたいのなら、カザルスへ行きなさい、というようなことを講義で教えられ、ノートにもそのように書いておいたことがあります。しかし私はそれ以上の行動を起こさなかったのだけれども、後にドイツ製のパイプオルガンが設置されたというニュースを知って、そのうち、昔よく聴いていたバッハの「前奏曲とフーガ」をそのパイプオルガンで聴いてみたいものだ、と勝手気ままな夢想をしたのを憶えています。
 昨年、カザルスホールは閉館。
 いま私は、読み終えたジョイスの本を書棚に戻し、1ヶ月半前に戻ってグールドの平均律クラヴィーアCDを聴こうと思う。タイムマシン――。
 ――昨日の朝日新聞朝刊、大江健三郎先生の「定義集」(【もうひとつの前奏曲とフーガ】「胸掻きむしりたくなること」)を拝読して、「前奏曲とフーガ」のこと、そしてカザルスホールのことを再び思い出しました(ブログ「ダブリンとU2」参照)。
 私が昔よく聴いていたフーガは、イ長調でした。1980年代前半(小学生の頃)、所有していた8ビットパソコン「PC-6001」に雑誌で目にとまったフーガイ長調の演奏プログラムを打ち込み、ちょっと風変わりなフーガを何度も“RUN”して聴いていたのです。
 荘厳なパイプオルガンを据えたカザルスホールは客席数511席とこぢんまりとしており、平均吸音率24~21%、残響時間1.8秒だったとのこと(1999年『ぴあホールMAP』より)。一度もここを訪れることがなかったことを悔やみます。
 「定義集」で大江先生が述べられている“ドリア調”を聴いてみると、確かに重苦しく、暗く、息が詰まる感じがする。《第三発目の原爆》の話になぞらえて、いっそう深刻な趣にも聞こえます。空想でも絵空事でもなんでもなく、日本の現実のこと。
 カザルスホール復活という夢が叶うのなら、私はパブロ・カザルスのチェロの、「鳥の歌」を聴いてみたい。彼とそしてカザルスホールの平和の希求という願いは、新たな出発の日を迎えた日本にとって、忘れてはならない基礎となるはず。えらく乱暴に通り過ぎてしまった記憶の中の音楽を、私は一つ一つ確かめながら耳にすり込んでゆきたいのです。

大きな勘違いからの連動

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月15日付「大きな勘違いからの連動」より)。
 先月のブログで記した「垂乳」(たらちね)。この言葉を含んだ原爆関連の詩や俳句か何かを、どこかで耳にしたことがあったのではないか、という話。
 以前、NHKアーカイヴスの『耳鳴り――ある被爆者の記録』(1965年)というドキュメンタリーを観た際、歌集『さんげ』を書いた正田篠枝さんがそういう言葉を用いていたような、と頭に残っていたので、もう一度映像を散見したところ、どうも私の記憶違いだったようです。
 正岡子規の、
《たらちねの花見の留守や時計見る》
 というのと記憶が混同していたのではないかと思いますが、正田篠枝さんの方も、
《ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か乳房たらして泣きわめき行く》
 というのがあるので、いずれにしても「乳房」のイメージが記憶を惑わしたのかも知れません。
 ジョイスの『若い藝術家の肖像』の方は一応読了し、気分的には一段落しました。9月下旬から読み出して2ヶ月半。明晰に読んだ箇所もあれば、体調不良時にふらふらと目を移動させただけの箇所もあって、読み終えたと言えるかどうか。
 ついこの間、岩波の『図書』10月号「和歌はなぜ『輸送』がきかないか」(川本皓嗣著)を読んで、要するに和歌の言葉から発せられる品性や情趣(文中では「調べ」と解釈)は他言語に翻訳し得ないという難問が、韻律性を重んじる象徴主義に類する問題と絡まって、和歌の特殊性に私は目から鱗が落ちました。
 何故私が川本氏の随筆に注目したかというと、“韻律”について述べていたから。
 中古で入手した『若い藝術家の肖像』(講談社文庫)の解説(訳者・丸谷才一著「『若い芸術家の肖像』について」)のある部分に、前所有者が書き込んだと思われる赤い字の落書き――私は最初に大きな勘違いをして“無韻律”と書いてあると思い込んだ――があって、川本氏の随筆に私が反応した、ということです。
 つまりは、韻律を踏まないで綴る文体など、日本語訳にはできないわけだし、読んでいてもそうなっていないわけだから、原文を読まない限り、“無韻律”の文体がどうなっているか、わからないなあと思っていました。少なくとも原文の日本語訳は完全なる非可逆であると。
 しかし読了後、ようやく私自身の大きな勘違いに気が…

ダブリンとU2

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月8日付「ダブリンとU2」より)。
 リットー・ミュージック社の月刊誌『SOUND&RECORDING MAGAZINE』の“1987年5月号”が私にとってバイブルであることを、当ブログ「ノイマン製のマイクへの憧憬」で触れました。
 今年は特にこの本を開いたように思います。――今年の初頭、そろそろ自宅スタジオのコンピュータを入れ替えようと思っていた矢先、東日本大震災。自宅の重い機材が台から滑り落ちてバラバラになっていた様を見た時、自分が積み上げていったものなど、こうしていとも簡単に崩壊するのだ、ということをまざまざと見せつけられた気がしました。皮肉にもなんとなく重い腰であったリニューアル計画は、私自身の今年の大テーマとなって果敢に進行し、それは大いに出費したけれども、やって良かったと振り返ることができました。もちろん、文献としての『SOUND&RECORDING MAGAZINE』“1987年5月号”が役に立ったわけです。
 先日紹介した、“SOUND INN”スタジオについても、この本によって存在を知りました。“音響芸術科”では、制作もしくは演奏する意味での空間、すなわちスタジオやホール、シアターは極めて重要なのだと耳にタコができるくらいに覚え込まされ、都内における良質なスタジオや劇場を挙げるとするならば…といった主旨でSOUND INNは常にリストアップされていたし、カザルスホールなどもよく聞かされていました。
 ところで、この“1987年5月号”の中で、U2が取り上げられています。今読んでみると、ダブリンの街で出逢った彼らが、後にウィンドミル・レーン・スタジオで多くのアルバムをレコーディングしたことが文章から窺えるわけですが、私は当時、U2などアイルランド系のバンドにはまったく縁がありませんでした。
 しかし、彼らのサウンド(それに近いもの)は、当時自分がよく観ていたプロレスの、プロレスラーの入場曲などに多大な影響を及ぼしていたことを、今更ながら気づくのです。つまり、彼らのサウンドを非常に間接的に聴いていて、身体に入り込んでいた――。
 こうして私の連関が過ぎるのも、すべてジョイスの文学から来ている。より深遠に。不可解に。

ゴジラ映画と東宝

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月7日付「ゴジラ映画と東宝」より)。
 子供の頃、街の映画館で映画を観ていると、その上映中にもかかわらず、嗄れた女性のアナウンスで、
「おいしいコロッケパンが入りました。おいしいコロッケパン、いかがでしょうか。どうぞお召し上がりくださいませ」
 と館内スピーカーから流れてきました。実はこの“コロッケパン”、街のとあるパン屋さんが焼いた本当においしい素朴なコロッケパンなのですが、いかに面白い映画の途中であろうとも、私は中座してコロッケパンを買いにロビーへ出ていった。その間の映画のシーンが記憶から欠落することになるので、欠落したシーンを観るためだけに、もう1回、同じ映画を観る、ということをよくやっていました。
 1986年、ハリー・ウィナー監督の映画『スペースキャンプ』(出演:ケイト・キャプショー)で“ダイダロス”という重要な言葉が出てくる。敢えて何のことだか触れませんが、『若い藝術家の肖像』を読んでいて、何度か思い出しました。その前の1985年は中学1年生で、東宝の『ゴジラ』を観た。いわゆる1985年版のことで、監督は橋本幸治氏。いずれにしても小学生から中学生にかけて、あの映画館で“コロッケパン”を囓りながらよく映画を観たわけです。
 レコード・ショップでサントラのカセットテープを入手し、その日のうちに1度聴き、あまりに興奮したので友人に電話して来てもらい、その友人と一緒にもう1度聴いた…。友人は2時間弱も映像のない音響だけに付き合わされてひどく退屈していましたが、私は興奮冷め止みませんでした。  後に“音響芸術科”の学生になった私ですが、この1985年の『ゴジラ』の音響を、当時中学生なりに勉強したりもしていました(それがラジオドラマ制作へと繋がっていった)。
 無論、音を付け加えていくダビングの作業に興味津々だったのです。しかし、音はともかくとして、この当時の東宝の録音・編集というのは、音楽のレコーディングとはまったく別物だったのでしょうか(下2カットの画像は小学館『東宝「ゴジラ」特撮全記録』より)。
 巻き取られているリール幅は2インチほどで、得体の知れない磁気録音のためのテープ? フィルム?
 人の身長以上もある縦に伸びたかなり大型のダビング用レコーダーが5機。いや、それ以上あったの…

ジョイスといそしぎ

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月2日付「ジョイスといそしぎ」より)。

『金髪のジェニー』の翌年、千代田学園の芸術専門課程では『花祭りの夜の夢』というミュージカルを東京芸術劇場にて公演しました。これは芥川龍之介「杜子春」が原作。  これらの毎年恒例であった舞台は、演劇・ミュージカル科と生演奏を行う音楽ゼミナール(略して音ゼミ)のメンバーが主体であり、我が音響芸術科のほとんどは傍観者として“観劇にいそしむ”しかありませんでした。  ただし我々はその一方で、まったく別の卒業記念CDアルバムのレコーディングに熱を注いでいたのです。  CDアルバム『collage』。  これについてはブログのエッセイ「アルバム『collage』のこと」を読んでいただきたいのですが、これはもう二度と復刻出来ない貴重な自主制作アルバムなわけです(一般販売していません)。
 アルバムの1曲目、「THE SHADOW OF YOUR SMILE」はジョニー・マンデル作曲のスタンダード。私は個人的にこのアルバムの中でいちばん好きな曲であり、優れたアレンジであると思っていて、後年、様々なアーティストによる「THE SHADOW OF YOUR SMILE」を聴いたりしましたが、明るめで軽快なボサノヴァにアレンジされた同曲はどうも毛色に合わず、やはりバラードとしての艶のある『collage』の中の同曲がしっくりくると思いました(卒業生以外、聴くことができないのが本当に残念)。
 ただし、「THE SHADOW OF YOUR SMILE」で素晴らしいのは、トニー・ベネットとアン・バートンのヴォーカル。品があって気怠さもある。
 さて、連関として話を無理矢理に繋げば、『若い藝術家の肖像』と映画『いそしぎ』の底辺の部分が似通っています。ジョイスはなんとなく宗教的な葛藤や啓蒙を匂わせておきながら、実のところ壮大な交響曲=音楽を描きたかったのではないかと。ジョイスの文体というのは非常に音楽的というか波瀾万丈なところがあります。
 『collage』の中の「THE SHADOW OF YOUR SMILE」は、単に誰もが一度聴いたことがあるスタンダード・ナンバーだから収録したのではなく、まさに映画『いそしぎ』の人物達の心理的葛藤をも見事にアレンジに取り込んでいるような…

スティーブンからの連関

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月01日付「スティーブンからの連関」より)。

 “遅読”もここに極まれり――。ジョイスの『若い藝術家の肖像』。第五章のところでふらふらと文章を行ったり来たり読み返し、これは聖書が必要だなと気づき、聖書(新改訳・小型本)を買い求めつつ、エルヴィス・コステロのCDを聴いたりし、そうしたアイルランドの空気感を悦楽すべく寄り道を何度もするので一向に読み終わらないといった状況。この間にも丸谷才一先生の文化勲章受章のニュース。86歳の先生の笑顔は恵比須様のようでまったく励みになります。
 さて、めくるめく連関。
 まずは“スティーブン“繋がり。
 今年の春、松平健さん主演の舞台『アンタッチャブル』に出演していた俳優・齋藤桐人さんは、私の母校(千代田学園)の一つ先輩(俳優・伊東孝明さんと同期)で、同じ芸術専門課程卒業の後輩としてファンなのですが、彼が在籍中に出演した舞台ミュージカル『金髪のジェニー』(1992年・シアターアプル)のスティーブン・フォスターもアイルランドの血を受け継いでいます。
 いソノてルヲ先生の解説によれば、初期のミンストレル・ショー(Minstrel Show)の曲はスコットランドやアイルランドのメロディーが多かったそうです。ミンストレル・ショーなのに何故?と思うわけですが、『ジム・クロウ』という作品から黒人音楽を取り入れ始めたらしいのです。『金髪のジェニー』の中でジム・クロウを演じたのが、齋藤桐人さん。
 母校恒例だったいわゆる卒業記念公演としてのミュージカルで、スティーブン・フォスターの音楽をやるという当時の母校のセンスは素晴らしいもので、私の中ではかなり濃厚な思い出となっているのですが、やはりそれが(今更ながらではあるけれども)個人的な触媒としてジョイスの文学に繋がっていくというのは、ごくごく自然な感じがします。

仮寓の人

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年10月18日付「仮寓の人」より)。
 鍋の季節。
 大手スーパーの食品売り場に行くと、鍋汁のレトルトパック商品が棚いっぱいに陳列されていて、種類も豊富。毎日鍋料理でも飽きない…かもしれません。ちなみに私がいちばん好きな鍋はモツ鍋でしょうか。
 私自身、鍋の季節になると思い出すのが、もう21年ほど前の、演劇仲間によって19歳で劇団結成した時の、ファースト・ミーティングにおけるファースト・パーティ。
 内輪の大名目としては、“結成を記念しての鍋を囲む会”。
 後にこの時結成した劇団は空中分解するのですが、それはともかく、四方八方から掻き集められた連中が、発起人兼首謀者兼座長の男(私と同い年)の住む公営団地に初めて集合した記念すべき日であったことは間違いなく、次第にこの男の化けの皮が剥がれ、実は劇団結成よりも単に鍋を囲みたかっただけだったのではないか、とちらほら噂されるほど、この時のこの男の行動力は凄まじかった、と記憶しています。
 劇団結成に関しては裏方や事務的なことを含めていろいろ打ち合わせをしなければならない、その段取りはけっこう複雑であり、19歳としては頭が痛いはずなのに、この男の行動は、まず何より、鍋の食材の買い出しに全力を注いだ、わけです。
 その夜、私も買い出しに連れて行かされたわけですが、スーパーの売り場で座長の男は素っ頓狂な声を上げます。「こんなものがここに売られているなんて!」と。
 私はこの時の「記憶」を長らく勘違いしていました。彼は売り場で“クワイ”(慈姑)を発見したのだと。
 しかしそれは言葉の記憶違いで、彼が発見したのは“クエ”でした。
 クエというのは貴重な魚のようで、彼の発見によって「今日の鍋は“クエ鍋”だ」となったわけですが、ハタ科の海水魚というのはいろいろあるようで、それが正真正銘のクエであったかは定かではありません。いずれにしても彼は一人で有頂天になり、思惑通りそのファーストパーティは“クエ鍋を囲む会”となったのです。…無論、宴会は朝まで続きました。

柿とタラチネのこと

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年10月12日付「柿とタラチネのこと」より)。
 岩波PR誌『図書』9月号より、俳人・坪内稔典著[柿への旅]「青柿のころ」散読。
 久米三汀の俳句、
《青柿の野口英世の生家なり》
 に着目した坪内氏が、〈英世の生家は福島県猪苗代湖畔の野口英世記念館に保存されている〉…〈そこに柿の木があったかどうか〉と示唆していたので、はてと思い、昨年の夏に訪れた際の写真を確認してみました。
 記念館にある生家の庭は木漏れ日が射していて涼しげだったのですが、大きな“母シカが植えた桑の木”以外、特にめぼしい樹木はなく、ましてや柿の木は無かった、と思います。
 尤も、ここに柿の木があれば、記念館として不都合であることは自明で、久米三汀(久米正雄)が目撃したと思われる柿の木は、ありのままの生家に植えられていた柿の木であったことは想像がつきます。記念館のホームページにある生家(昭和4年頃)の画像は庭を見ることができますが、さて、柿の木が判別できるでしょうか。
 さて、坪内氏の文中にある「柿搗」(かきつき)という言葉を『広辞苑』で調べてみましたがありませんでした。その代わり「柿餻」(かきづき)というのはありました。
《糯米を洗い、柿を入れて蒸して餅につきあげたもの。皮と種子を取り去った熟柿を麦こがしにまぜ、団子のようにしたもの》
 だそうで、「麦こがし」というのもわからなかったので調べてみると、
《大麦を炒り、粉にしたもの。香煎。麦炒粉。はったい。炒粉。炒麦》
 とありました。「搗く」というのは「突く」と同源ということで、《杵や棒の先で打っておしつぶす。うすづく》とのこと。俳句の風情はともかく、なんだか防腐剤としての柿渋より、美味そうな柿餻の方に興味が移ってしまいます。
 文中の「垂乳」(たらちね)は、柿の話題と離れ、違った意味でドキリとしてしまいます。
 昭和40年代、幼年の頃に団地に住んでいたので、隣近所の主婦の垂乳(垂乳根)は団地内公園などの屋外でよく見かけました。生まれたての透明な肌の赤ん坊が、乳を吸っているわけです。
 幼年であろうとなかろうと、男子は皆、そうした場合出産後の婦人の乳房に見入ってしまう…。しかし、“たらちね”などという言葉を教えられなくて良かった。もし教えられていたら、絶対私は指さして「タラチネ…

ノイマン製マイクへの憧憬

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年10月11日付「ノイマン製マイクへの憧憬」より)。

 その頃――そもそも音楽スタジオにおける卓(ミキシング・コンソール)などというものは、まさにスタジオにのみ存在すべきものであって、プロの現場以外では絶対に見ることができない――という子供ぢみた諦念的固定観念があった。逆に言えば、幼年時代から卓を間近で見てみたい、触れてみたいという欲望があったわけで、ミュージシャンやエンジニアの裏方仕事に非常に関心があったということである。
 中学校時代、仲間内で制作したラジオドラマを、演劇部員兼放送委員会メンバーの友人が、まるでプロデューサーたり得る手腕で“昼の放送”でこれを流そうではないか、と提案した。“昼の放送”とは、学校給食を楽しく和やかな時間にするための少しばかりの娯楽番組であり、小学校ほど豊かな娯楽性はないにせよ、クラシック・レコードやちょっとした学校ニュースなどを流していたと思う。言わば、学校における放送のゴールデンタイムである。
 腕利きプロデューサーの提案に対し、私は無理だろう、と初めから嘲笑っていた。案の定、それは実現しなかったのだが、内心、ふと気づいたのは、何故自分がその委員会のメンバーでないのか、あるいは放送に携わっていないのか、という素朴な疑問、そしてその友人に対する嫉妬の芽生え。要するに、卓に対する憧れである。学校の放送室には小さいながらも放送用の卓が設置されていたのだ。
 ところが中学3年の春、偶然書店で目にしたある雑誌を知って、私は愕然とした。卓などというものは、小型の民生用のものがつらつらと生産されていて、巷のアマチュア・ミュージシャンがそれらを扱っていることを初めて認識したのだ。  諦念的固定観念の崩壊。  リットー・ミュージック社の月刊誌『SOUND&RECORDING MAGAZINE』(1987年5月号)の裏表紙にYAMAHAの4トラックMTR「CMX II」の広告が掲載されており、これさえあれば、新たな発想でラジオドラマ制作が可能だ、ということを直感した(因みにこの1987年5月号は以降、私の教科書、いやバイブルとなって業界のノウハウを学習していく起点となった)。
 その後、実際に購入した4トラックのMTRは、TASCAMの「PORTA TWO」であっ…

イラストの中の近未来

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年10月11日付「イラストの中の近未来」より)。

 “科学万博―つくば'85”というのは日本語による一般表記で、正式名称は“国際科学技術博覧会”。これは国際博覧会条約に基づく特別博覧会に当たります。昭和60年3月17日から9月16日までの184日間、茨城県筑波研究学園都市で開催。運営団体は国際科学技術博覧会協会で、テーマは「人間・居住・環境と科学技術」。
 というのを『公式ガイドブック』より引用。
 当時私は中学1年生でしたが、自宅の古いアルバムやネガを調べてみたところ、やはり万博会場での写真類は一切出てこない。あるのはたった1枚、学校で訪れた際の、記念写真のみ(ブログ「EXPO'85回顧録・其の一」参照)。家族で一度だけ訪れたはずなのに、その時のスナップ写真はない。カメラを持参していなかったか、撮ったネガを処分してしまったか、万博に対する熱い思いとは裏腹に、自分がそこに居たことを証明する記録物はほとんど無いわけです。
 当時、『公式ガイドブック』を事前に購入することができず、パビリオンの情報を得るために書店で買い求めたのが、『とびだせ!EXPO'85 SCiENCE LAND』(リイド社)。しかしこれを買ったのは大失敗で、パビリオンに関する情報は程々でもなく、サイエンスに関するイントロダクションのみの内容で、様々な実験付録が添付されていたにもかかわらず、私自身は不満、消化不良でした。
 唯一、ときめいたのは、近未来の家庭生活をイラスト化したページ。そのページで小さく紹介しているパビリオンは「UCCコーヒー館」と、関連性が非常に薄い、強引な結びでやや興ざめ気分を味わったのですが、要はINS(高度情報通信システム)の発達で、将来、家庭での自動化(ホーム・オートメーション)が進むという内容。
 「CAI」という言葉が出てきて、コンピュータを用いた教育が進むという話。それから、通信網を利用した家庭でのショッピング(ホーム・ショッピング)。テレビジョンも高品位になり、薄型壁掛けテレビを使用したホーム・シアター。家庭の中に防犯カメラやセンターを取り付け、通信網で警備会社と連携を図るホーム・セキュリティ・システム。
 素晴らしいことに2011年現在、すべて実現し、すべて実際的に稼働…

道具と機械の本

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年10月9日付「道具と機械の本」より)。
 今日は短めに。
 未だ、読み終えることができないでいる『若い藝術家の肖像』。前回、〈アイルランドの歴史に疎い私〉と書いたものの――もちろんその範疇であることは間違いないのですが――付け加えておきます。
 20代の半ばから後半にかけて夢中になって読んだ、司馬遼太郎著[街道をゆく]シリーズの中の『愛蘭土紀行I』を、実はその頃読んでいたのです。にもかかわらず、忘れていたわけです。
 それも今日、書棚を向いて偶然目にとまり、気がつきました。さらに文庫本を手に取って驚いたのは、朝日文庫の二色刷の栞が、しっかり「文学の街」の稿に挟まっていたこと。「文学の街」は司馬先生がまさにダブリンを旅した紀行の箇所であり、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の話題のところ。忘れるにも程がある…と猛省。
 さて、話は変わります。これも短めに。
 最近の岩波書店の広告で、デビッド・マコーレイ著『新装版 道具と機械の本―てこからコンピューターまで』を目にしました。生活の中の道具と機械の原理や仕組みを、非常に精緻で柔らかみのある図画によって説明してくれる絵本です。大型本で7,980円と値の張る上等本。
 私が子供の頃、こんな上等な絵本では決してない、もっと薄っぺらい絵本だったけれども、牧場の家畜牛の乳がどのようにして牛乳やチーズなどの製品になるかを図画で説明した絵本があって、子供だった私は何度も何度もこの本を開いたことを思い出しました。物の原理や仕組みを説いた図鑑などの本は、とても関心が高かったのです。『新装版 道具と機械の本―てこからコンピューターまで』は図書館で見ることができたら最高なのでしょうが、やはり子供時代に何度も何度も、じっくり読んでもらいたい本であると思います。

写真の中の少年

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年10月5日付「写真の中の少年」より)。

 ポロリと落ちてから今もゆっくり読み続けているジョイスの『若い藝術家の肖像』。講談社文庫のこの古本は、どうやら1979年頃の刊行で、非常に活字書体が美しく読みやすく、小説の中へぐんぐん引き込まれていくのだけれど、丸谷才一先生の、時に奇妙な文体・文節に出くわして、なんのことだろうと、改めて真新しい集英社版の単行本をめくって新訳を確認してようやく納得がいく、といった調子で読み進めているため、進む速度がとても遅い。何故集英社版で読み進めないのかと言えば、こちらは活字書体があまりにも現代的で読み易すぎ、小説の中へ引き込まれていく気配がない。総括すれば、本とはこういったことで面白いとも言えるわけです。
 アイルランドの歴史に疎い私は、その宗教的政治的世界から《具象》をイメージするのがひどく困難だと思いながらも、何かジョイスの文体に惹かれるものを感じつつ、《具象》を掴もうと必死になっています。
 これと似たようなことを、今年はずっと思い馳せていました。津波で家を失った家族が、もう一度跡に戻り、フォトアルバムを探し出そうと懸命になっている姿――。
 フォトアルバムは家族の歴史を刻んだダンプリストであるが故に、それを失うということは、具象の記憶への可能性をより深淵まで研ぎ澄まさなければならず、日常を生きる上で非常に過酷であるとさえ思います。人はどうしても遠い過去を忘れていくもので、《写真》あるいは《映像》への記録こそが、日常的に最も簡便な補助的役割を担っているわけです。
 2010年9月9日付のブログ「ある市民運動会の写真より」で紹介した運動会写真。本来、フォトアルバム=家族アルバムというのは、家族や親類縁者、友人知人の誰か(あるいはペット)が被写体となっているものですが、あの写真は偶然ながら父が運動会の光景を写したもので、そこに家族にまつわる被写体となる人物は写っていません。
 もう一枚、同じ市民運動会の写真。こちらには、中央に少年が写り込んでいます。しかしこの少年は私の家族ではない。偶然、“被写体”となってしまったに過ぎません。
 しかし写真的効果というものは実に不思議なもので、こうした他人であっても、私の記憶の中に深く刻み込まれ、もはやそれは他人の少年ではなく、…

理と思想について

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月22日付「理と思想について」より)。

 昨日の午後――。楽曲「ママのそばで」のために鍵盤に向かうこと3時間。ある瞬間から、自分がどれだけ集中しているかも気づかぬほどのめり込み、ようやく一息着いた頃、辺りは真っ暗で、外からゴーゴーと暴風雨の音が聞こえてきて、我に返りました。
 今まで経験したことのない暴風。そして強い横殴りの雨によって一箇所、壁から水が滴っていましたが、それ以外は特に被害なし。外の様子への好奇心があっても、窓ガラスの隙間を開けることさえ危険を感じたのは、本当に初めての経験でした。
 それに加えて、夜には余震が起こった――。
 1ヶ月前、グールドのピアノCDを聴くために用意していた漱石の文庫本『文鳥・夢十夜』(新潮文庫)。それをとりあえず“1ヶ月ぶりに”書棚に戻した際、逆にポロリと別の本が1冊落ちて、手に取りました。
 私は何の気構えもなく、その本の解説をだらだらと読んだ。せっかくだからこの本を最後まで読んでみようと腹を決めたのは、朝日新聞朝刊の「定義集」【古典基礎語と「未来の人間性」】「過去の表現 次世代のヒント」をあらかじめ読んでいたからです。
 私がその本を読み続けようと思った別の理由としては、近々、つくばの「万博公園」を訪れる際の電車での、退屈しのぎにも良いだろうということであり、大江健三郎氏が『古典基礎語辞典』(大野晋編)に触れて述べられていた《未来の人間性》という言葉に気が向いたからです。
 ポロリと落ちた本の最後半には、かなり傷んだ中古本であるが故に、元所有者の断片的なメモが書き込まれていました。それすらもジェイムズ・ジョイスの小説的策略かと面白い偶然を感じたのですが、ジョイスのこの『若い藝術家の肖像』も、神話と現代とを結びつけ、網の目のようにばらまいた言葉の《片》を、《未来の人間性》という観点からとらえたらどうであろうか、という文学的実験を行ったように思われるのですが、《未来の人間性》の「未来」を、自分自身と繋がった後裔と解釈するか、あるいは自分自身を疎外した「未来」と解釈するかによって、この言葉の思想的価値は随分と違うでしょう。
 これは非常に難解な思想=未来への直感力であるけれども、私が(科学の)「万博公園」(跡地)を訪れたい高揚した気分と、大江氏が言葉に…

巧妙なるリバーサル

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月21日付「巧妙なるリバーサル」より)。

 「Pro Tools 9」導入に伴う“自宅スタジオリニューアル”を数ヶ月計画で行っていた([Dodidn*]実験コーナー参照)関係で、25年来の良き教科書である「サウンド&レコーディングマガジン」(リットーミュージック)の最新号並びに90年代の所蔵バックナンバーをこの間に徹底して読み返していた経緯があって、特に1985年頃の音楽シーンに個人的興味がそそられています。
 山下達郎氏のアルバム『POCKET MUSIC』は私の中で(思い入れとしては)別格なのですが、坂本龍一氏が手掛けた映画サントラ『子猫物語』の軽快なリズム、そして「科学万博つくば'85」住友館の立体映像のサントラ「空に会おうよ」のB面となっているプロローグ曲なども、いかにもその時代らしいsyntheticなコンピュータ・ミュージックで心地良い。単調で平板すぎるこれらのサウンドに対し、かつては冷ややかであったものの、逆に今では価値観が変化して巧みに様々なジャンルのリズムパートに取り入れられていることはご承知の通りです。ともかく今、私の密やかなマイブームなのです。
 ところで思い起こせば、つくば博・住友館の70mm立体映像『大地の詩』は、まったく個人的な記憶として、所有する『とびだせ!EXPO'85 SCiENCE LAND』(リイド社)という書籍の中で一際印象深いものとなっていました。“GAEA”というフレーズが附された女の子(エリカ)と犬(ボゾ)の微笑ましいコダックフィルム系天然色写真。
 実はこの立体映像『大地の詩』の一部音声が聴けるウェブサイトを発見し、つくば博のある種独特な臨場感に時空を超えて浸ることができました。実際に現場で何時間もかけてパビリオンを回った当時の記憶よりも、こうした書籍やその他のメディアを閲覧している方が、遙かに濃厚で面白く、衝撃的でもあります。
 そう言えば以前、もう9年ほど前になりますが、つくば博ファンサイトのオーナーの方と、書簡を交わす機会があって、私自身が所有していた僅かなつくば博関連のグッズを、その方にほとんど譲った、ということがありました。
 実はその方を含めグッズマニア数名が資料提供されているつくば博関連の出版本があります…

KOMPLETE 8

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年9月21日付「KOMPLETE 8」より)。
 蝉の悲鳴。
 茹だる暑さに根負けしそうで、今夏、気が遠くなるような眩暈を幾度か覚えた。あれはいつだったかもう随分昔。自分の鼻歌が妙に頭に残ったまま、それがバックグラウンド・ミュージックとなって、すべてを忘れたいが為の憂いが魂に通じたのか、長い連夜に夢を見た。  ただ誰もいない野道の奥へ入り込んでいって、突然目の前に三角の帽子をかぶったジプシーが現れて、ボクにこう言った。 「雨が降っている日はただひたすら青い空が広がるのを恋い焦がれるように待ち続けるのさ。何日もね。そうなる前の日は、微かな風が吹く。やがて雨脚が弱くなる。朝になって目覚めれば、空は青いのさ。きっと。まるでこれは音楽のようだよ」
 ボクは半分眼が覚めた。そうして10年が過ぎた。ふいに、あのジプシーの姿と言葉を思い出した。まるで音楽のよう?
*
 美しい音を求めて、随分買い込んでしまったと思った。決してそこに音が在るわけではない。それは幻想だ。そういう気がするだけなのだ。でもやはり、音を奏でる魔法の函だとボクは思った。
 右手の力こぶにステッカーをぺたりと貼った。
 KOMPLETE 8――。
 あの時の眩暈が遙か彼方の過去に遠ざかる。少しばかり甘めの赤葡萄酒を口に含んで、ふーんと唸った。いや、声が漏れた。それだけのことかも知れない。ほら、じんじんとリズムが聞こえてきただろう。もう少し歩いてみよう。もう少し羽ばたいてみよう。鼻歌を歌ってみよう。
 ふーん。
 今夜も隅々まで深い闇に溶けてゆく気がした。蝉の悲鳴はもう夜空には届かない。

敬老の日のこと

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月19日付「敬老の日のこと」より)。

 人それぞれの人生があるだけ…と言ってしまえば身も蓋もない、それだけで終わってしまうような思い出話かも知れません。
 私が小学校を卒業したのは1985年3月ですが、その最後のクラスであった小学6年の仲間達について、私は確かにあの時――つまり卒業式の日――この仲間達と別れるのは本当に辛い、またどこかで一緒になりたい…と心の底から思ったことを憶えています。
 やがていつか、同窓会があるだろう。
 という純粋な期待。それはきっと喜ばしい出逢い(再会)になるだろう。という希望。
 しかしあれから26年が経ち、まだ一度も開かれていない「小学6年の同窓会」という言葉だけの記念碑が、重く切なく、容赦ない現実の中の《変容》に押し潰され、あの時あんなふうに思った私自身でさえ、もはやこの先も「小学6年の同窓会」は絶対あり得ぬ、と心が転向してしまいました。
 さて、敬老の日。
 小学6年生の時、私は学校の「音楽クラブ」に所属していました。楽器を演奏したり、合唱をしたり。少人数だったので学年やクラスは関係なく、和気藹々とした雰囲気でした。
 顧問の先生の提案(というより市の福祉事業の一環)で、敬老の日は町の福祉センターを訪れて、お年寄りの方々に合唱を聴いてもらおうということになり、何週間かかけて「ママのそばで」などの曲を練習したのです。あまり練習する期間がないということで、ほとんどユニゾンだったかも知れません。
 音楽クラブのメンバーの写真は、卒業アルバムの中に1カットのみありました。敬老の日に福祉センターに出掛けたのは、私を含めて数名だけ。他の小学校からもそれぞれ出し物を用意して参加しており、センター内にある間口5メートルほどのちっぽけなステージの裏で出番待ちし、我が音楽クラブの順番が巡ってくると、途端に緊張してすっかり落ち着かなくなったのですが、お年寄りの方々の拍手に包まれながらステージに立ち、用意していた数曲をただただ歌ったに過ぎません。
 「ママのそばで」を歌い終わる頃に、何人かのお年寄りの方の目から涙がこぼれているのを見ました。なんとなくその時の光景だけが印象に残っていて、“敬老の日”と聞くとその時の光景をふと思い出したりします。と同時に、インドネシア民謡、中山知子…

仏香閣≒友誼塔?

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月17日付「仏香閣≒友誼塔?」より)。
 先週のブログ「八角の塔の花火」についての補遺。
 子供の頃に遊んだ「八角の塔」の花火は、中国の頤和園「仏香閣(佛香閣)」を模したものではないのか? という謎。
 あれからネットで調べているうち、その花火の名称が「友誼塔」であることがわかりました。二三、その花火の画像も散見して、自分が憶えていた「八角の塔」とそっくりなので、これが「友誼塔」という花火であったことは間違いありません。
 私はてっきり、「仏香閣」という花火の名称があるはずだと思ったのですが、あの花火が「友誼塔」だとわかると、少し残念というか意外というか、それが実在とはまったく縁のない名称なので肩すかしを食らった感じがします。
 とある花火専門店でカタログを送付してもらい、その中に「友誼塔」があるかないかチェックしてみました。しかしもう既に在庫切れらしく、現在入手は無理でした。他の店舗でも大方、在庫切れとなっていました。
 ただ、YouTubeで「友誼塔」の“素晴らしい”カラクリを撮影した映像があったので、拝見することができました。シュルシュルシュルっと回転してもうこれで終わりかという一定の間が空いた後、塔が伸びて完結。この絶妙な間が古風ながら“素晴らしい”のです。

第五福竜丸展示館

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月13日付「第五福竜丸展示館」より)。
 真夏の8月下旬、都立夢の島公園の広大な敷地を訪れて、若者達が活発に運動やスポーツを楽しんでいる姿が目に止まりました。長閑な午後の風景。そんな公園の一角、マリーナに面したところに「第五福竜丸展示館」があります。
 屋根の頂点の鋭角が際立つ建物。その明晰な形からは、ある種の圧迫感や不穏を感じました。自然と調和しづらい三角形という造形。
 何故これはこういう建築なのか。
 そもそも「夢の島」というメルヘンチックな言葉の背後にある、人間の欲望と脆弱さ。具象化されたそれらの「後始末」という問題。言い換えれば、それらは自然と調和しづらいものであり、不均衡である。私はそれを人類の《負の神話》と解釈します。三角形という造形は、目に映るものとして長閑な風景の中で異端な存在であるけれども、夢の島も第五福竜丸も、《負の神話》と連なった同じ深刻さを、底辺に抱え込んでいるのです。
 先月公開された映画『一枚のハガキ』の監督である新藤兼人さんの1959年作品『第五福竜丸』では、米国によるビキニ環礁での水爆実験で被爆した第五福竜丸乗組員らのキャラクターや行動が幾分チャーミングに描かれており、必ずしもこれは暗い映画ではありません。全体の悲劇と乗組員らの快活さがコントラストを強調したかたちとなって、重いテーマの核心へ向かってドラマが進行します。
 乗組員・久保山愛吉さんの「死」というこのドラマは、映画的な不文律と格調により、何の淀みもなくむしろ忠実なほど“ドラマチック”なのですが、驚くべきことに、これが商業映画のフィクションではまったくなく、1954年の日本国の、焼津の漁民に襲いかかった現実の悲劇であるということを、観る者に対し鋭く冷たい風となって吹き付けます。そしてそれは、広島と長崎の原爆からまもない9年後の悲劇であるということも忘れてはなりません。
 乗組員らが“それ”を向けられ、ひょうきんなまでに嫌がるしぐさが、もしかするとこの映画の最大のハイライトではないでしょうか。
 “それ”の(映画のプロップではない)“実物”が、展示館に展示してありました。
 「ガイガー計数管」です。
 これが発するあの奇妙な《音》は、あまりにもよく知られてと思います。今年になってまた多くの人たちが“…

八角の塔の花火

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月7日付「八角の塔の花火」より)。
 特別展で展示されていた乾板写真群の中には、1901年(明治34年)に東京帝大の北京城調査団に同行した、写真技師・小川一眞の写真が数多くありました。
 例えば、3枚の写真を併せてパノラマにした、太和門、太和殿などは圧巻です。セピア色であるとは言え、被写体の建造物が頗る精緻に描写されており、小川一眞の写真技術が窺い知ることができます。
 小川一眞は20代の頃に下岡蓮杖の養子である下岡太郎次郎に写真技術を教授されたそうで、この20代から30代にかけては、幾多の写真技術に関連した実験的試みを実践していたようです。
 さて、私が国博でそれらの写真を拝見している最中、懐かしいものを見たような気がしました。
 頤和園の「仏香閣(佛香閣)」。万寿山に建てられた八角三層の塔ですが、もちろんこれも1901年の調査時に小川一眞が撮影したもの。
 私はこれを、子供の頃、何かで見たような気がしたのです。
 そう、花火。玩具の花火。スーパーかコンビニか、あるいは遠出して町のオモチャ屋かどこかで買ってきた中国製の花火の中に、「八角の塔」の花火が混じっていた…。
 この「八角の塔」の花火が面白かったのです。――最初は塔の形にはなっていません。火をつけると、緑色で亀の甲羅のような形をしたものがシュルシュルシュルっと回転して、火花を放ちます。ちょうど“ガメラ”が空を飛ぶ時のように。そして火薬が切れ、火花が消えると、スコッと甲羅が上に伸び、「八角の塔」が出来上がるのです。
 子供の時分には、それが日本に馴染みのない中国のどこかの塔だとしか考えず、何の違和感もなかったのですが、中国製の花火セットを買うと、パッケージの裏側に“花火の遊び方”なる説明書きがありました。その活字がひどくデタラメで、いいかげんな日本語で注意事項が列記されているので、そうした誤字脱字に笑った記憶があります。――ともかく、あの時の「八角の塔」は、どう考えても「仏香閣」だと、私は確信しました。
 もし今もどこかで、そのカラクリ花火が存在するのだとしたら、是非買ってきてもう一度あのカラクリを楽しみたいものです。

孫文にまつわる人たち

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年9月6日付「孫文にまつわる人たち」より)。

 先週訪れた国博の特別展「孫文と梅屋庄吉―100年前の中国と日本」。
 それまで私の中では、孫文と言えば辛亥革命、夏目漱石とよく似ている…という程度の知識しかなく、非常に興味深く今回の特別展を観覧しましたが、梅屋庄吉という人物が絡んでくると途端に、私の中で孫文の実体らしきものが少し透けて見えてきて、十代では教科書でしか知らなかった、その孫文の人間性をも幾分か生々しさを帯びて、知ることができました。
 この特別展の目玉は何と言っても、乾板写真すなわち“梅屋庄吉アルバム”。
 私が最も惹き付けられたのは、孫文夫人と庄吉夫人を写した美しい写真。というより二人が美しい。孫文夫人とは、宋嘉樹の次女・宋慶齢で、書物か何かを読まれている時の目線を落とした、しとやかな姿。優艶。おそらくその肉声も美声ではなかったかと思うほど。
 一方の庄吉夫人・梅屋トクという女性は、醸し出す雰囲気は清楚でどことなく大原麗子さんのよう。庄吉・トク夫妻を写した記念写真においては、庄吉の凛々しさを引き立たせる柔和な表情を浮かべて、夫妻の恭しさが感じられるのです。
 ただ、1929年に撮影された庄吉夫妻とその娘さん、並びに蒋介石、宋美齢を含んだ6人がソファーに座って写っている写真を見ると、夫妻の顔立ちは驚くほど老けている。庄吉さんが1921年頃に撮られた写真では、まだ口髭はたっぷりと太い黒髭であったのに対し、その8年後の写真は白髪で埋まり、以前の凛々しさはすっかり衰えてしまっている。夫人も表情に元気が感じられず精華がなくなってしまっている。まったく別人のよう。
 当時の日本人の平均寿命を考えると、これが普通なのかも知れませんが、“真を写す”写真としては、人間の一生を内なるものまで克明にとらえるという意味で、複雑な思いがします。
 因みに、孫文夫人の宋慶齢さんは1981年に亡くなられたそうで、ちょっと驚き。一体どんな一生だったのでしょうか。

カレーライスという欲望

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年8月31日付「カレーライスという欲望」より)。
 昨日は上野・国博の特別展「孫文と梅屋庄吉―100年前の中国と日本」と、夢の島公園にある「東京都立第五福竜丸展示館」を観覧してきました(感想については後日書きます)。
 先月に東京を訪れた時は、大雑把な水分補給と食事の仕方が祟って非常に体調が悪く、雑踏を歩くのが少し怖くなったのですが、それ以降、暑さ対策や健康管理をしっかり行って、消費した水分をスポーツドリンクで十分補ったり、腹が減る前に昼食を摂るなどをしてまったく疲れ知らずのまま帰宅することができました。残暑にめげずに。  たとえ冬であっても、カラダを冷やさない程度で水分補給はこまめにした方が良いのだなと、今までかなりいい加減であった健康に対する考え方を改めることにしました。
 それはさておき。
 以前ブログで書いた、上野公園の隠れスポット「グリーンサロン」。それ自体ではないのだけれども、すぐ傍にある「公園案内所」(兼売店)。ここも今までまったく眼中になかったのです。案内はもちろん、チケットはだいたい事前に用意してしまう(国博は年間パスポートを持参しているし)から。  しかし今年からは違う。ここの“パンダ”の自販機に吸い寄せられ、ここで一旦プチ休憩を取る意味で、ドリンクを買って飲み干すわけです。ただそれだけなんですが、私にとって新たな憩いの場となりました。  ただ、上野公園に初めて訪れる方は、JR上野駅公園口を出てすぐの、この案内所を積極的に利用した方が便利でしょう。何せ広い公園なので、どこをどう歩いて良いのかパニックになりがち。どこでどんな催し物があるかを確認するのに役立ちます。
 ところで、去年まで存在した上野駅・駅ナカの「更科」立ち食いソバ屋。当ブログ「いソノてルヲ先生の思い出【補遺】」でも触れましたが、学生時代はここで食券を購入して「カレーライス」を食うのが私の定番でした。しかし今はもう無い――。  その頃は、まだ「カレーライス」を食う場所は他にも点在していました。駅1階のトイレと靴磨き商の近くにあった食堂群。それから、改札を入って、団体休憩所になっていた辺りの立ち食いソバ屋。あるいは地下鉄銀座線乗り場の近くの、古い食堂。ここに「カレーライス」があったかどうか、ちょっと記憶が曖昧ですが…

聖者の行進

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年8月28日付「聖者の行進」より)。
 ここ最近、1986年頃に発売された音楽CDを集中的に聴いたりしています。アナログソースをデジタル情報に置き換えるコンバーターの技術がまだ未成熟であったため、現在のCDよりも遙かに音が悪い――という仮説が本当かどうか自分の耳で確かめてみよう、というわけです。
 私がその頃に購入したCDでは、コロンビア交響楽団ブルーノ・ワルター指揮のベートーヴェン「英雄」だとか、キャスリーン・バトルが神妙に歌い込めるモーツァルトのアリア集などがあるのですが、現在の再生装置(CDプレーヤーにおけるD/Aコンバーター)が当時よりも優秀であるため、あの頃自分の耳で聴いていたCDサウンドを、厳密に再生することは、もはや不可能なのです。
 当ブログの「レコードを買う」では、自分が初めて揃えたCDプレーヤーについて言及しています。それを「中学1年か2年の頃」としているものの、どうもそれは記憶違いのようだ、と気づきました。少なくとも中学1年つまり1985年は絶対あり得ないし、中学2年の後半まではレコードやカセットテープ(アルバムもの)を普通に買っていたから、秋葉原でCDプレーヤーを購入して、ディスクを買い始めたのは中学3年に近い頃(1987年)であるはずです。
 追伸。
 幼年時代に「さらばジャマイカ」や「バナナ・ボート」を聴いていなかったら、その後ブラック・ミュージックに傾倒することはなかったであろうハリー・ベラフォンテという存在。ところで、個人的に非常に奇妙な因縁になるのですが、いソノてルヲ先生に教えられて購入したマヘリア・ジャクソンのBOXCDの封入ライナーノーツには、その因縁の写真があります。
 アメリカ大統領ジョン・F・ケネディ就任に伴うパーティのワンショット。マヘリア・ジャクソンとハリー・ベラフォンテが仲良く並んで、レナード・バーンスタインと向き合っている和やかな瞬間――。
 ハリー・ベラフォンテが歌う曲で私がお気に入りなのは、「When The Saints Go Marching In」。
 ギター用のアンプリファイアでヴォーカルをダブリングさせたと思える、ハリーの分厚くパワーのある歌声。一方のマヘリアも同曲を歌っており、それぞれの音楽畠の微妙な差異や同じソウルである部分…

いソノてルヲ先生の思い出【補遺】

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年8月26日付「いソノてルヲ先生の思い出【補遺】」より)。

 月曜の講義は午前午後を通して比較的閑暇であったため、だいたいアメ横界隈をぶらりと散歩し、上野駅の「更科」という食券前払い制の立ち食いソバ屋でカレーライスを食って、ホームで帰りの電車を待つ――というのがその頃の私の“定番”の日常になっていた。ちょうど小劇団立ち上げに携わっていた頃であったし、学校帰りに地元の稽古場へ向かう、という選択肢もあったが、私は敢えてそうしなかった。
 最初のうちは、学校での勉強のすべての内容は、当然演劇活動に関して強固な礎となるはずと確信していた。が、東京と地元との地理的な隔たり、とかくそれは文化圏の差異であるとか価値観の違い、あるいはプロとしての仕事の考え方などで、メンバー間の相違があった。  初めこそ微細な差異であっても、やがてそれは大きな違和感となり、疑念へと変容する。気がつけば小劇団は地元色が強くなっていき、私の考え得る本分――学校で学んだこと――はほとんど活かされなかった。従って、手持ちの[千代田ノート]を稽古場に持ち込むことは、心理的な軋轢を生むだけで、かえって不条理となり、学校帰りに稽古場に向かうことは自分の中で御法度とするしかなかった。
*
 西村潔監督の映画『ヘアピンサーカス』(1972年作品)などといったものを、もし10代の中頃までに観て知っていたならば、私は目の前にいるいソノ先生に、菊地雅章さんや笠井紀美子さんのことを、授業を離れた何らかの機会で訊いたであろう。それは後年における後悔のうちの一つの例に過ぎない。90年代の音楽シーンがどうなるとか、どんな職探しをすればよいか、といったたぐいのことを先生から聞き出すのではなく、単に自分が『ヘアピンサーカス』が大好きで、そしてあのクールでジャズ界の印象派とも言えるサウンドを生み出した菊地さんについて、一ファンとして深く敬意を表すと共に、その思いの丈をいソノ先生に聞いてもらうことができたかも知れないのだ。
 自ら筆記した2年分の[千代田ノート]が今でもバインダーに残っている。調べてみると、聴講の色合いが強かった「アメリカン・ポップス」の講義の筆記は、たった1枚しかなかった。  その部分には、〈ゴスペル・ミュージック〉という括りで、「マヒリア・…

いソノてルヲ先生の思い出

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年8月23日付「いソノてルヲ先生の思い出」より)。

 2011年7月、雑誌界の大御所であった『ぴあ』が休刊となった。その最終号には創刊号の復刻版という粋な計らいの付録があり、私はこちらの方に惹き付けられた。この“映画・演劇・音楽の総合ガイド誌”月刊『ぴあ』創刊号(8月号)は、1972年7月発売となっているから、すなわち私が生まれたおよそ1ヶ月後に発売されたということであり、随分昔のように感じられる。いずれにせよ雑誌『ぴあ』は、いくつかまとまった時代の日本を駆け抜けた、長きにわたる寵児であった。
 そのぺらぺらな創刊号のページをめくっていって、ふと、“いソノてルヲ”先生の活字を発見した。  ――思い出が蘇ってくる。毎週月曜の午前、5階にある教室で「アメリカン・ポップス」の講義授業が行われた。講師はいソノてルヲ先生で、太いフレームの眼鏡をしていた印象が今でも記憶に残っている。先生は毎週、自身のラジオ番組をカセットテープに録って持参し、それを聴講資料として流して、アメリカン・ポップスの歴史とジャズの素晴らしさを教えてくれた。
 創刊号の中にあったのは、「白樺湖高原音楽祭」である。ここで司会をしておられたのが、いソノてルヲ先生だ。
 ◎白樺湖高原音楽祭  7月29日(土) 2時~9時  7月30日(日) 2時~9時  7月31日(月) 2時~9時  場所 長野県白樺湖池の平ホテル・レイクランド(小雨決行)  料金 1200円(前売) 1500円  ■(出演者)  29日 宮間利之とニュー・ハード/佐藤充彦がらん堂/沖至四重奏団/稲垣次郎とソウル・メディア/高木元輝トリオ/ジョージ川口とビッグ4/南里文雄/松本英彦/川崎燎クインテット/サミー/後藤芳子  司会 いソノてルヲ/行田ヨシオ  30日 渡辺貞夫クインテット/日野皓正クインテット/菊地雅章クインテット/ジョージ大塚クインテット/鈴木宏昌トリオ/山下洋輔トリオ/笠井紀美子/後藤芳子  司会 いソノてルヲ/行田ヨシオ  31日 高田渡/なぎらけんいち/ガロ/シュリークス/小野和子/加橋かつみ/RCサクセション/石川晶とカウント・バッファロー/はっぴい・えんど/モップス/三上寛  司会 落合恵子  問合せ先
 T・C・P  文化放送販促部
 別…

『東京人』と震災

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年8月21日付「『東京人』と震災」より)。

 雑誌『ぴあ』の休刊には〈うーん、まあそうだろうなあ〉と私は構えられたけれども、もしもこの雑誌が休刊、あるいは廃刊という話になったとしたら、〈え、それはないだろう〉と口をへの字に曲げて唖然としてしまうでしょう。都市出版の『東京人』。もちろん、それは例え話です。
 90年代の後半、そしてそれ以降、個人的に古い建築(例えば同潤会)やら横丁に興味をそそられて何度かこの雑誌を買いましたが、何か新しい情報を得る、というたぐいの本ではないのです。誤解を恐れずに言うと、骨董を眺める気持ちで“東京”という都市を眺めてみる、という感覚でしょうか。彼処の町で何が出来た――という話ではなくて、あくまで彼処の町で何が消えた――という話(コンセプト)なのです。
 岩波『図書』8月号、丸谷才一氏の連載「無地のネクタイ」(今号のサブタイトル「そのときは皇居を開放せよ」)の中で、丸谷氏は、
《粕谷さんが退いたせいもあつて、わたしはこの雑誌に関心を持つことをやめてゐた》
 と述べていますが、この雑誌とは、『東京人』のことです。ところが、『東京人』7月号「東京を巨大地震が襲うとき」は《眼を疑ふほどの名編集ぶり》と絶賛し、《わたしは感嘆を禁じ得なかつた》とあります。丸谷氏は7月号を気に入ったわけです。
 丸谷氏のコラムを読んでいて刮目したのは、彼が指摘する千代田区における“地区内残留地区”のこと。ここでは詳しく述べませんが、私もざっと調べてみて、この文言というか規定には非常に疑問を感じました。
 震災時としていながらも、何故「火災の延焼」の危険がない旨だけが理由となっているのか。今回の東日本大震災のように、大きな余震が断続的に起こった場合、残留する建物が倒壊する可能性は極めて高いわけで、やはり安全な場所へ避難したい、はずです。そういう意味でも、東京23区の中で千代田区は「安全な区である」根拠が乏しく、むしろいちばんきな臭く危険のような気もします。
 それはともかくとして、丸谷氏お気に入りの7月号の内容ですが、バックナンバーを調べてみると、なんと過去にも同じような内容の号がありました。『東京人』1995年の5月号「東京大震災、そのときどうする!」。こちらは23区避難場所地図が付録のようです…

福島を思う

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年8月13日付「福島を思う」より)。

 京都の五山送り火で使用されるはずだった、陸前高田市の松からセシウム検出、一転して使用中止に、というニュース。放射能の汚染と拡散問題に絡み、人心の善意、安心・安全のための予防策とが交錯して、各地でそれぞれが抱える諸問題への対応に苦慮していることを思うと、本当に胸が痛みます。
 十分な科学的根拠を責任者が示し、情に流されることなく客観的に判断しなければならない。しかし実際は、「十分な科学的根拠」が乏しく、また「責任者」も不明確であったり、マスメディアの報道をただ鵜呑みにしている自分達がいる。ともすれば、時間が経過すると忘れてしまう。核兵器や放射能の恐ろしさ、原子力の平和利用という幻想。間もなく終戦記念日を迎えますが、過去の過誤を何度でも思い出し、常に日々の反省材料にしなければ、と思います。
 さて、neoneo坐の「知られざる短篇映画を見てみる」上映会では原子力特集を継続していますが、8月25日の第3回上映は、「安全神話への道」だそうです。詳しくは[短篇調査団]サイトへどうぞ。
 neoneo坐とは関係ありませんが、前にも触れた(6月21日付「福島の原子力」参照)日映科学映画製作所製作の記録映画『福島の原子力』(1977年作品・1985年改訂)を再び鑑賞してみました。
 《原子力発電所で最も大切なことは、原子力エネルギーをいかに安全に使うかであり、このため他では考えられないほど安全に対してこまかな注意が払われています》
 そのナレーションの文言と照らし合わせて、実際に起きた事故の惨憺たる有様との隔たりを感じないわけにはいきません。昭和46年3月に営業運転を始めた福島第一原子力発電所の「安全」とはいかなるものであったのか。まったくそれがなかったわけではないにせよ、思考も技術も老朽化し、気がつけば「安全」ではなくなっていた、のかもしれない。この部分に関しては、私はなんとも答えを見つけることができません。
 ――最近、なにげなく、母校専門学校の卒業生名簿を閲覧して、私が卒業した1993年の第14期生の中に、福島に実家がある者が7名いました。
 いわき市小名浜大原  石川郡石川町双里  東白川郡矢祭町関岡  福島市宮代  郡山市喜久田  いわき市平中山  原町市益田…

三春駒のこと

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年8月9日付「三春駒のこと」より)。

《三春駒:  福島県田村郡三春町が販売されている木製の郷土玩具。三陸地方からこの三春地方にかけては馬の産地であるため、玩具の馬が種々みられる。玩具の三春駒については、坂上田村麻呂の夷(えびす)征討に由来するなどと伝えられているが、創始は明らかでなく、はじめは子育てのお守りにされていた。大小があり、大は20cmあまりで、三春人形の製作者がこれを作ってきた。厚い板をもちい、それを馬の形にきったものである。形のとり方は、犬張子(東京)にヒントを得たらしい。馬の形や描彩が思いきって様式化されていて、抽象美術に似たような趣があり、この意匠によって全国の郷土玩具中でも佳品とされている》 (平凡社『世界大百科事典』1965年初版より引用)
 子供の頃、どこかの金融機関の粗品として、程よい大きさの、「三春駒」を形取った固形石鹸をもらい、手に取って遊んだ記憶があります。
 それからしばらくして、とある古墳群を訪れ、馬の埴輪(馬形埴輪)を眺めた時、ふとあの(着色されていない真っ白な)石鹸の「三春駒」を思い出しました。そして困惑したのです。
〈あの馬の石鹸は角張っていたけど、この馬の埴輪は丸くなってる。あれは石鹸だから角張っていたのかな〉
 自分としては、まだ「三春駒」という名前を知らなかったあの“角張った”馬の人形が好きだったのだけれど、あれはあれきりの、つまり粗品としての石鹸だったための“角張り”だったとしたら、もう他では見ることができないなあ、という意味での困惑でした。
 その後、高校時代に使っていた国語の教科書の中の写真で、「三春駒」が登場します(ブログ「教科書のこと」参照)。この時ようやく大まかなことを理解しました(※上の写真は製作元・中村郷土民芸所の古い「三春駒と赤ベコ」玩具を私が撮影したもの)。
 百科事典に記されてあった内容は、三春町歴史民俗資料館サイトの郷土人形館のページに詳しくありますが、柳宗悦著『手仕事の日本』(岩波文庫)にも、短いながら一文が記されています。
《日本に三駒などといって愛される馬の玩具がありますが、その一つは八戸の「八幡駒」であります。他の二つは仙台の「木下駒」と磐城の「三春駒」とで、郷土の香が著しく、形に特色があって忘れ難いものであります…

原爆ドーム

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年8月7日付「原爆ドーム」より)。
 昨日は、原爆投下から66年目を迎えた8.6ヒロシマ原爆の日。
 奇しくも――というより自ずと必然的に起こってしまった福島原発事故を鑑み、広島平和記念式典で述べた菅首相の言葉は、「原発に依存しない社会を目指」す、という内容でした。
 私個人が毎年感じていたのは、広島と長崎両都市の平和への祈りと、日本政府の平和国家観(平和主義解釈)との大きなずれについてでした。今年は異例中の異例とも思える首相の脱原発宣言によって、この大きなずれが少し縮まったようにも思えます。
 しかしながらその言葉が、表明が、日本政府としての具体的な政治的政策の中に、どう盛り込まれていくのか、あるいはそれに反応して、国民の総体的な世論が本当に「脱原発」の方向に集約されていくのかどうか、まだまだ不透明であるし、長く険しい道のりを感じます。
 2年前の9月、広島を訪れて、雨の中、原爆ドームの前に立ちました。
 何故此処に原爆ドームが在るのか。
 それは被爆した、かつての産業奨励館の建物自らの意志によってそこに在るのではない、市民の、日本国民の、総意に基づいた平和への祈りと希求が、それを遺したのだということを、忘れてはならないのです。
 原発が日本中にある限り、同じ過ちを繰り返す可能性がある。また同じ放射能の被曝と汚染を繰り返す可能性がある…。
 何故此処に原爆ドームがあるのか。
 何故此処に原爆ドームがあるのか。
 …

ヤギと再会

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年8月2日付「ヤギと再会」より)。
 高校時代の3年間に行き来した、自分にとってのいわゆる“高校通学路”は、自転車通学の10キロを超える行程でしたが、雨合羽を着て雨風を凌いだ辛い思い出以外は、多少なりとも田園地帯の景色に恵まれたせいもあって、とても楽しいものでした。
 逆に言うと、たとえ悲しい気分の時であっても、そうした何気ない自然(景色のみならず風、音を含む)に溶け込んで、まるでそれと対話をするかのようにして心を落ち着かせた、心を開いた、ということがありました。また、田園地帯だけでなく、巨大な建屋が並ぶ工業団地も素通りしていくので、次々と変化するその景色を見飽きることがない、という好都合もありました。
 さて、ここ1ヶ月ほど、あることを思い出していて、ずっと気になっていました。
 その“高校通学路”の中途にある、工業団地から少し離れた道路際に、ある農家が飼っていた「ヤギの小屋」があったのです。道路際の無造作な一角に鉄パイプで拵えた小屋。その中にヤギは子ヤギを含めて2頭くらいいて、私は3年間、ただそこを素通りしていくだけで、立ち止まってヤギを“かまった”ことはありませんでした。が、通学路で出会う明るい登場人物(動物)として、ほとんど無意識に近い形でずっと覚えていました。
 あれから20年。“高校通学路”自体、私にとって懐かしい場所であり、そこへもう一度行ってみたいと思い立ち、昨日の夕方、そよ風に吹かれて工業団地の辺りへ行ってみました。
 工業団地のための、社宅的に扱われていた市営団地が一部を除いてほとんど変わらずに残存していた、ということで私の頭の中が一気にタイムスリップして、《現在》と《過去》とが交錯しました。
 実際に私自身が今、ここを行き交う時、恣意や思考すること、そして悩み痛む中身でさえも、《現在》も《過去》つまりあの頃も、さほど代わり映えしないではないか、と。
 天を見上げるほど巨大な工場の建屋は、あの頃と同じく精緻で立派で、ある種の緊張感を漂わせているけれども、私がそれに圧倒されている《何か》は、20年前とちっとも変わりはしない。まったくあの時のまま。それが良いことか悪いことかは別にして、ここに来た意味というか目的は果たせたような気がしました。
 …あまりに突然な景色に動揺し、シャ…

都営大江戸線―地下鉄のこと

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年7月20日付「都営大江戸線―地下鉄のこと」より)。
 父親に連れられて東京を散歩し、日本橋の二丁目辺りで撮られた写真が、家族アルバムの中に眠っていた。背景はというと、車道が歩行者天国になっていて、向かいは丸善のビル、その隣に古めかしい日本信託銀行の洋館、そのもっと遠くには大丸デパートの看板すら窺える。この写真が撮られたのは、私が小学4年生の頃であろうから、昭和57年(1982年)頃ではなかろうか。
 その日、私は橙色の半袖シャツを着ていた。顔も日に焼けていて夏の季節であるということがわかる。色彩として目立つ橙色のシャツをもし着ていなかったとしたら、この写真の印象はもっと地味で、他の写真あれこれに埋没して、いま私自身がわざわざアルバムから切り外し、時間をかけて眺めてみようと考えるほど、あまり興味を示すものではなかったかも知れない。
 父が所有していたカメラはオリンパスの「TRIP 35」しかなかった。従ってこの写真はそれで撮られたことははっきりしている。が、何故日本橋二丁目で撮られたか――ということが長い間思い出せないというか理解できなかった。
 そうだった。この日私は父に連れられて、羽田空港のターミナルなどにも寄っているのだが、この日本橋へは、まだ体験していなかった東京の「地下鉄」に乗るために、特に目当てがあるわけではない日本橋駅へ、わざわざ着地したのだった。その頃は営団地下鉄(現・東京メトロ)と呼んでいた銀座線だが、日本橋二丁目のB1出入口からひょっこり地中から抜け出たところ、そこで記念写真を撮った、というわけである。
§
 2011年7月。大型の台風6号が四国に接近。都内もしばし猛烈な風と雨で荒れて、窓ガラスが水しぶきで濡れていた。  新宿のホテルで朝を迎えた私は、東京散歩の予定を大きく変更せざるを得なかった。時間を持て余し、スマートフォンの中のメールを読み返している際、江戸東京博物館のメールマガジンに目が止まった。そうだ、ここに行こうと急遽意思が固まった。
 さて、ホテルをチェックアウトして、ビルの外へ出た。やはり雨風が強い。歩いて数分かかるJR新宿駅を目指すより、ちょっと歩いたところにある地下鉄出入口から都営大江戸線に潜り込んだ方が簡単なのでは、と判断して大江戸線・新宿駅へ降り…

漱石と羽二重団子

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年7月20日付「漱石と羽二重団子」より)。
 あまり「偶然」というものを突き詰めたくないのだけれども、昨年の7月20日付のブログで漱石について触れていて、また今年の7月20日も漱石について触れる、というのは些か気が引けるのですが、夏になると漱石が読みたくなる、触れたくなるというのは、ひょっとすると偶然ではないのかも知れません。
 昨日、いや一昨日の夜、持参していた岩波『図書』7月号を読もうと思っていたにもかかわらず、無為な時間を過ごしてしまってついにその1ページも開かなかったのですが、今朝になって清水一嘉氏の「ブレット家の人々と漱石」を読むことができました。
 そう言えば昨日赴いた、両国の江戸東京博物館へは、個人的には4年ぶりの来館となり、前回は2007年の10月。「特別展 文豪・夏目漱石―そのこころとまなざし―」の時でした。日記を読み返すと、
〈昼食は館内の甘処で「かき揚げうどんと炊き込みご飯セット」及びホットコーヒー。蒸し暑い気温のせいでアイスにすべきであったと後悔〉
 とあります。因みに昨日は、新宿から両国へ都営地下鉄大江戸線を利用しました(ブログのエッセイ「都営大江戸線―地下鉄のこと」参照)。特別展は「東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~」でした。考えてみればこれも漱石とあながち遠いテーマではありません。
 さて、私などは漱石を読むと、いつも“書生”や“下女”の、その時代における日常的存在について関心が増幅し、本文から逸脱して妄想に駆られます。地方の田舎においては、都会へ寄生する書生さんへの賢兄的憧れ、しかし都会の中ではどうであったのか。多少、時代によって違うでしょうが、寄食するが故の偏見であったり、例えば偶然にして主人が寄宿先を離れた書生の、丸出しの青年素顔を垣間見てしまった場合の気まずさ、あるいはその後の信頼関係であるとか…。
 こちらは下女ですが、漱石が尤も敬服し尤も辟易する所の朋友=“ベッヂパードン”も同様、主のいる時は無言を極め、漱石と二人きりになると、容赦なく唾液を吹きかけて能弁家然としていたようです。
 このブレット家の下女であった、ペンことアニー・ペリンという女性、一体どんな風貌であったのか。勝手な妄想が頭をよぎります。「温厚なる彼女の二重瞼」、…

櫻の園という時代〈二〉

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年7月17日付「櫻の園という時代〈2〉」より)。

 私が中学校の演劇部で目の当たりにした様々なエピソード、そして彼女ら女子生徒が醸し出す“演劇人”特有の変哲ぶりについては、感覚的にそれを知ることができ、そのほとんどすべてが、と言っていいほど、中原俊監督の映画『櫻の園』(1990年)の中で如実に描き出されていると思います(女子中学生と女子高生の違いはあるけれど)。
 この映画が当時受賞した映画賞を列記してみます。
●山路ふみ子賞〈映画賞〉 ●報知映画賞〈最優秀作品賞〉 ●毎日映画コンクール〈優秀作品賞、女優助演賞:つみきみほ〉 ●ヨコハマ映画祭〈ベストテン1位、作品賞、監督賞、脚本賞、最優秀新人賞:中島ひろ子〉 ●ゴールデンアロー賞〈映画賞〉 ●キネマ旬報〈ベストワン、監督賞、脚本賞〉 ●日本アカデミー賞〈優秀作品賞、優秀監督賞、優秀脚本賞、優秀編集賞、新人俳優賞:中島ひろ子〉 ●高崎映画祭〈最優秀作品賞、監督賞、新人賞:中島ひろ子〉
 映画賞を数々受賞している作品が、必ずしも「後世に残る素晴らしい映画である」と単純に価値を決めつけてしまうことはできない側面があるけれども、この『櫻の園』に関しては、文句なしにそれと比例した素晴らしい映画であると、私は断言できます。
 とある高校の演劇部公演(チェーホフ原作の「桜の園」の上演)が、学校を揺るがす風紀事件(それほど大事ではない)によってその開演が危ぶまれるという事態に陥って、演劇部員の面々は心理的に切迫した状況に追い込まれます。この間の、女子高校生いや女子演劇人ならではの、言動の感覚というものが、ある種のリアリズムに沿って丹念に描かれているのです。
 大まかにざっくりと言ってしまえば、この映画は主演の中島ひろ子さん、つみきみほさん、宮澤美保さんの3人の個性(そして大事なのはショパンの「前奏曲作品28 第7番イ長調」の音楽的なゆらめきのイメージ)によって映画の骨格ががっちりと固められ、それ以外の俳優のキャスティングでは到達できなかったであろう奇跡的な空気感を生んでいます。
 演劇部の現場においては、チェーホフの「桜の園」は隅に追いやられ、自己と関係他者の切迫した問題に囚われすぎ、やや演劇の本質的仕事はおざなりになってしまうという傾向――。こうした10代…

櫻の園という時代〈一〉

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年7月14日付「櫻の園という時代〈1〉」より)。

 「震災(東日本大震災)の影響」という言葉をここでは軽々しく使いたくないのだけれども、去年末から念頭にあった、春先にかけて自分自身の中でやろうとしていたこと、考えていたこと、心の流れにあったもの、そういったものがどうも分断された――気がして、もう一度そのあたりの日付の日記やブログを読み返して、自分が何を考えていたかを整理する状況が続いています。もちろん、3.11以降、新たにやり始めてやり遂げたこともいくつかあるけれども。
――今年の1月のこと。
 ブログ「白の絆」で書いた旧友への、“20年ぶりの”年賀状は、自分が描いていた思惑から大きく外れて、しばし懐かしい中学時代を旧友に「語ろう」と準備していた思念が頓挫し、“音信不通のまま”の現実を受け入れざるを得なくなった顛末ですが、私がそこで「語ろう」と準備していたのは、旧友のお姉さんについてでした。
 旧友Tのお姉さんは、当時の母校演劇部の2つ先輩で、母校の演劇部の歴史始まって以来、初めて男子が入部した(私の他数名の男子)時の部長でした。
 女子の演劇部員に混じった我々男子数名は、(当然ながら)むしろ冷遇されていましたが、部長だけは我々男子に優しく接してくれたのです。
「白の絆」にある1991年の旧友Tからの年賀状画像には、一部、ぼかしがあるのがわかると思いますが、そのぼかしの中身は、実はTの姉が挨拶文を書き加えてくれた部分なのです。願わくば、20年ぶりにTと再会することを実現させ、さらにはかつての“部長”が現在どうしているか…その消息をじっくり聞き出すこと、それが私の希望でした。
 その最後の年賀状をもらった頃、私はある映画を鑑賞しました。中原俊監督の『櫻の園』です。

開高健と『洋酒天国』

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年7月12日付「開高健と『洋酒天国』」より)。

 私の好きな作家の一人、開高健氏が昭和30年代に発行し続けた『洋酒天国』という小冊子。これを私は個人的にここ数年間、ちまちまと蒐集してきました。
 ブログやホームページを通じて、この類い希なる“珍本・豆本”『洋酒天国』について触れたいと思っていましたが、蒐集に“一定の目処”がつくまで話題には触れまい、と閉ざしていました。
 『洋酒天国』は昭和31年(1956年)創刊。サントリーの前身である「壽屋」の宣伝部にいた開高健氏が坂根進氏、柳原良平氏らと協力して編集した、《酒》にまつわる大人向けのPR誌(発行は洋酒天国社)。かつてはトリスバーに置かれていたようです(因みに、当時の頒価20円)。開高健氏独特の情趣で酒とエロスの話題に富む一級のコラム集である…というのが私の持論。さらにグラスを片手に、この萎びた古本に読み耽るのが、本物の大人の嗜みである…と嘯き豪語させていただきます。

「誰が為に」ということ

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年6月28日付「『誰が為に』ということ」より)。
 再び、ブログのエッセイ「伽藍の夏」との連関。
 ――臨時の若い女性の研修先生と仲良くなった私とその友人は、学校からさほど遠くない二三離れた村の、研修先生の住む農家に、ある日曜日に狙いを定めて、電車に乗って遊びに行ったのです。「家の近くの古墳を見せてあげるよ」という先生の言葉にときめいて。
 先生にとっては、子供に向かって“うっかり”口にしてしまったその発言を、撤回するわけにはいかなかったのです。我々はなんの躊躇もなく、その村の隣町にまでやってきて、先生を電話で呼び出し、目印の場所まで軽トラックで迎えに来てもらう、ということを取り付けました。
 研修先生の実家でしばし休憩した後、目的の古墳を見学するため、いわゆる古墳の“管理者”の方に連絡をしてもらい、少し歩いたところにある古墳の、鍵の掛かった門戸を開けてもらい、先生と一緒にそのなんとか古墳を見学したのでした。
 私自身は内心、あまりに想像していた古墳よりも小さくてがっかりした…。何と言っても頭の中で描いていたのは、“STAMP ALBUM”と記された自前の切手コレクションのなかにある、「高松塚古墳」の婦人像、男子像、青竜の三種の切手を見て知った、あの高松塚のような極彩色とも言える壁画のある古墳。それに比べて目の前で見ている古墳は、奥行き3メートルもないような穴蔵で、壁画などどこにも見当たりませんでした。
 それから数ヶ月後、研修先生が学校を去って行く時、最後のホームルームで大粒の涙を流した姿を見て、私は、自分が何を取り間違えていたかに気づきました。研修先生の、なけなしの、「誰が為に」という体当たり精神。私はこの思い出を、一生忘れまいと思ったのです。
 今日付の朝日新聞朝刊の記事「記者有論」で編集委員の小滝ちひろさんは、【原発と高松塚 生かせなかった教訓】と題して、高松塚古墳の壁画劣化事故に対する文化庁とその関連組織の失敗、失策、そして福島原発事故の収束責任のある政府と東電の同じ失敗の教訓について述べています。
 「誰が為に」「何を為すべきか」
 いま高松塚の切手を眺めてみると、壁画の茶褐色の模様が妙に厳かに、切手そのものの美術的価値を高めているようにさえ見えますが、数年前に明らかになった最近の…

福島の原子力

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年6月21日付「福島の原子力」より)。
 かつての時代、多くは16ミリフィルムというフォーマットで、文部科学省推薦の科学映画(ドキュメンタリー映画)をたびたび学校の教室で観た経験があります。理科の植物や実験に関するもの、交通安全に関するもの、など。教室を暗幕で覆い照明を消し、映写機からカラカラカラ…と凄まじい音が響く。透過されたスクリーンには古めかしい映画会社のロゴ。映写機やフィルムを観ると興奮する私にとっては、NHKの教育テレビを視聴するよりも遙かに、フィルム映画の映像の真髄に惹き付けられていたのだと思います。
 最近、日映科学映画製作所製作の記録映画『福島の原子力』(1977年作品・1985年改訂)を視聴しました。映画館で観れば大迫力であろうシネスコサイズ。戦後における日本の科学技術を、プロパガンダ的に記録映画にしてしまおう、という昭和の風潮が色濃く残り、映画としてはある種の逞しさすら感じます。
 6月14日付朝日新聞朝刊「天声人語」でドキュメンタリー映画(フィルム?)『原発切抜帖』(土本典昭監督・1982年作品)が紹介されていたので、Amazonで検索したところ、8月27日にDVD化されるようです。早速予約しました。
 さて、同じ「天声人語」で、以下のような文章がありました。
《菅内閣の常套句の「ただちに影響はない」も欺瞞がにおう》
 事故当初、枝野官房長官の記者会見の中で、「ただちに影響はない」と彼が言い、その音声が、確かに自分の耳に、脳内に記憶されました。私は直感的にそれを(欺瞞と)感じましたが、様々な意味において、この言葉(音声)は、最も短い科学映画のたぐいであると私は認識しています。すなわち、いま我々が『福島の原子力』を反芻するように視聴するのと同じ目的で、将来の子供達が、学校もしくは家庭で、この最も短い“科学映画”を視聴する姿を、私は容易に想像できるのです。

抜け落ちている責任

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年6月19日付「抜け落ちている責任」より)。
 6月の梅雨の蒸し暑い、夜になると喉が渇いて水を飲み干したくなる日々。
 学校という場での実体験(あるいは訓練)はないものの、“毎朝10分の読書”が社会人になってから身につき、むしろ小説のたぐいを頗る長く、深く楽しむコツを初めて覚えたのは、もう何年も前に遡らなければなりません。
 しかし3.11以来、朝の集中力は小説にはあまり注がれず、朝刊新聞を食い入るように読むようになってしまった。10分はあっという間に過ぎていく。
 先日の朝日新聞朝刊、大江健三郎氏の「定義集」を深読みするためにコピー機で複製し、それをじっくり目を通して、“気になった”文章に赤鉛筆で傍線を引いた――(このやり方については2010年12月31日付ブログ「ある講義の話」参照)。
 2箇所の傍線の部分を引用してみます。
《いまそれと規模をひとしくする福島原発の事故が起こって、国内の出来事にとどまらず、世界的な放射性物質による影響を(この現在)もたらしているが、その巨大な犠牲に誰が責任をとりうるか、です。自分の経験からいうなら、誰も責任はとらないのではないか?》
《大変な被害を受けたけれども、今度の事故にかんがみて、よくそれを点検し、これを教訓として、原発政策は持続し、推進しなければならない。(中略)それが今日の日本民族の生命力だ。世界の大勢は、原子力の平和利用、エネルギー利用を否定していない。》
 後者は朝日新聞のインタビューを受けた中曽根康弘氏の言葉。
 偶然ながら、ここ最近のブログの記事にある私の小学4年生の思い出と、彼が第71代の内閣総理大臣になったのは1982年の同じ時期です。小学校の卒業アルバムにもその中曽根氏の顔が印象深く記されてあるのを見ると、まさにそういう昭和の時代――すなわち中曽根氏の個人的信念と政治的格調によってあの一時代を築いたのだなということを想像するのです。
 しかしながらそうした時代の勢い、あるいは個人的信念と政治的格調をもってしても、転じて原発事故の責任は一体誰がとるのか、ということと結び付きません。
 《巨大な犠牲》に対する責任。
 まさにとりうるのか、という問題です。
 18日、海江田万里経済産業相が停止中の国内原発の再稼働を求めると表明。福島原発事…

福島原発事故を考える

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年6月12日付「福島原発事故を考える」より)。
 先日のメディア報道で、福島原発から62キロの福島市内より、放射性ストロンチウムが検出された、ということを知り、ますます深刻な事態が明るみになっていくのを感じます。
 特に原発事故に関する知識を得ようと、最近は2冊の本を買いました。一つは、広瀬隆著『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』(朝日新書)で、もう一つは肥田舜太郎、鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威』(ちくま新書)。
 ほとんどこれまで自分が原発や放射能について無知であり、むしろ原発などは必要悪なものだ、と認識していたことを強く恥じました。この2冊の本を読めば、それが必要悪なのではない、まったく必要のないものだということに、誰しも気づかれるでしょう。
 岩波書店『図書』6月号の大江健三郎氏のコラム「親密な手紙」では、人が口にする“ナンボナンデモ!”という言葉がどれほど重い言葉であるかを伝えています。
 果たして東電や政府は、福島原発事故に関するこの3ヶ月間の経緯について、総論と各論をもって国民に“国難=非常事態”であることを、ありとあらゆる言語表現を用い、真摯に示す用意があるのかないのか? が問われているはず。
 しかしこれまでの対応を見てもわかる通り、原発事故を矮小化し、科学的根拠と洞察に乏しく、放射能汚染という危機的な直面に対して、迷信か錯覚か、あるいは気のせいかの如く扱い、彼らがいよいよ始動しようとしている「安全文化」論という、言葉としても捏造の――履き違えた思想を国民に啓蒙するつもりです。
 確かに、日本は、いや世界は、3.11以降また新たなフェーズの時代に突入した。もはやそれ以前に戻ることができない。しかし、“ナンボナンデモ!”…という気持ちです。
 事実や真実という難局と向き合わない態度は、いかなる国家であろうと、いかなる市民であろうと、再び過ちを犯し、重罪を積み重ねることになると思うのです。
 新藤兼人監督の映画『第五福竜丸』で「死の灰」「ストロンチウム」という言葉が脳裏に刻み込まれます。過去に起きた現実、しかも映画の向こう側の世界ととらえていたことが、こちら側の現在の、“ナンボナンデモ!”になってしまったのです。

伽藍の夏

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年6月8日付「伽藍の夏」より)。

1992年創作短篇「伽藍の夏」より
 私の人格を支えているものとしての根底、それがどうやら、谷崎政彦の存在であった。彼との些事はあまりにも少なすぎた。私の記憶の深いところでは、その少ない思い出を一点に凝縮し、明確にしているにすぎない。結局、彼の存在は、私の「生」における想念の範疇にあったように思われる。私は彼との思い出を、その想念の範疇で育て上げ、大切に守ってきたのである。
 彼――谷崎政彦との出会いというものは、しごく凡庸であった。私が山野小学校へ入学した時からの友人であったが、一、二年生までは同じ学級になることがなかったため、それまで会話をしたことがなかった。三年生になって初めて、私と彼は同じ学級になり、友達としての付き合いはここから始まった。が、ここで出会ったことの意味は、むしろ身体的な出会いであり、それ以外の内面性は非常に乏しかった。この年頃の人間関係というのは、実に不均衡なもので、身体的なコミュニケーションから、徐々に精神的な深いコミュニケーションが生まれるという無意識の秩序によって営まれるのではないだろうか。
 山野小学校ではその頃、新校舎建築のため、しばらくの期間、プレハブ校舎による授業を行った。それも夏に…。我々三年生は、そのプレハブの蒸し暑い教室の中で授業を毎日受けたのである。室温はどれほどであったろう。顔から脂汗がだくだくとこぼれ、我々が渇望したのは、とにかく水泳の授業であった。先生の話などろくに聞かず、ぼんやりとプールに泳ぐ自分を夢想していたのは、私だけではなかったはずだ。  あまりの暑さでどうかしてしまったのか、我々はその頃、妙な遊びに夢中になった。臨時のプレハブ校舎の北側は常に日陰であったため、雨が降った後も水たまりがあちこち残っていた。六月の梅雨時から水たまりが増えており、私と谷崎は、この比較的涼しい場所で遊べる妙案を思いついたのである。  それは、湿ったところに生えていたコケを引っこ抜いてきて、その水たまりにコケを植え栽培する、という遊びであった。私と谷崎は、毎日のようにここに来てコケの移植を始めた。コケを移し替え栽培するという無意味な作業こそ、私には最高の遊びのように思えた。  現に、その無意味な遊びは伝染して、級友5、6…