スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2011の投稿を表示しています

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
§
 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

旧東京音楽学校奏楽堂のこと

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年5月27日付「旧東京音楽学校奏楽堂のこと」より)。

 私が所有している古い百科事典に『原色学習図解百科』(1968年学研)というのがあります。幼年時代より親しんでいる百科事典です(百科事典については、このブログでも度々触れてきました)。『原色学習図解百科』の第9巻は[楽しい音楽と鑑賞]で、付録の6枚のEPレコードを聴きながら、クラシック音楽を楽しく学ぶ、という主旨になっていて、今でも私は枕元に置き、クラシック音楽を楽しむため、そして音楽の基礎を振り返るための愛読本としています。
 さて、この本の巻末は「図説音楽年表」で、紀元前から1953年までの“音楽のうつりかわり”つまり音楽の歴史が、子供が読まれても理解できるような図説で解説してあり、大人でも読み応えがあります。
 一昨日、上野公園を散策した際、ほとんど個人的に定番の散歩コースとなっているのが、公園の外れにある奏楽堂の辺り。「旧東京音楽学校奏楽堂」のことですが、木造建築で気品のある建物。
 私が幼年の頃、その図説音楽年表の“近・現代の音楽”のページに、ある楽団と外国人指揮者を写した古びた写真が掲載されていて、なんとなくいつもそれを刮目していたのを憶えています。それが奏楽堂の音楽ホールでの写真だったのです。キャプションには《1904(明治37)年ごろの東京音楽学校の管弦楽団》と記されており、一番手前で髭を生やした外国人男性が腹の前で手を組み、足を交差させているのを見て、子供ながら〈一体この男の人は誰だろう?〉と謎めいた気持ちになっていました。
 アウグスト・ユンケルという人でした。ホームページで同じ写真があるので確認できるでしょう。
 散歩コースで毎回建物を眺めていながら、まだ一度も館内を見学したことがない奏楽堂。ちょっと恐れ多いという思いがあるためですが、今度は必ず入ってみたいと思っています。
 第9巻は私の姉たちも小学校の教材として予習したのか、至る所に青色のマーカーが記されています。奏楽堂の写真の右側にある年表にも、ある西暦に丸がしてあります。
《1910年 ストラビンスキーのバレエ音楽「火の鳥」パリで初演 1914年 第一次世界大戦はじまる》
 の2箇所。もし私が丸を付けるとするならば、
《1902年 ドビュッシーが歌劇「ペレアスと…

国博特別展『写楽』

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年5月26日付「国博特別展『写楽』」より)。

 昨日は良く晴れた1日で上野公園を散策。早速国博のパスポートを使い、東京国立博物館特別展『写楽』を観覧しました。
 今回は“東洲斎写楽”という人物について、まったくと言っていいほど予備知識を持たずに入場しましたが、謎めいた写楽の存在と天才的な版元蔦屋重三郎の運命的な関係譚を知って、浮世絵の世界にぐいぐいと惹き付けられてしまいました。蔦屋重三郎は写楽の画の本質を見抜き、美人画は喜多川歌麿筆頭とし、役者絵の方を写楽に存分に描かせたというその直感的営業戦略は、何やら私にとっては、ジャズのブルーノート(レーベル)を築いたアルフレッド・ライオンとルディ・ヴァン・ゲルダーを思わせます。やはり古今東西を問わず、粋な仕事師というのは、評判が良く歴史に残るものだと感じます。
 美人画について歌麿と写楽を比較した時、写楽の画をどう理解するかという点について、私は観覧中ずっと考えていたのですが、それが歌舞伎の女形を描いていたからという理由だけでは解釈しきれない、写楽の見事な(精緻なという意味ではない)写実性を言い当てるのは、なかなか骨が折れることかも知れません。
 ただ私も直感的に、ある映画作品を思い出しました。市川崑監督の『獄門島』(1977年作品)です。
 映画の中で登場する、草笛光子さん演じるドサ回りの女歌舞伎役者、あの存在感(草笛光子さんの見事なまでの演技を超えた役者的神通力)こそが、写楽の美人画に通じるものではないか、と思いました。
 つまり、歌麿の描く美人画は、遊女の女としての通念的な艶を描いたのに対し、写楽の女形画はまさに役者が仕事をして汗する瞬間そのものであると。例えば、前者の「難波屋おきた」と後者の「二代目小佐川常世の一平姉おさん」などがわかりやすいでしょう。
 因みに、市川崑監督の映画(そのうち特に金田一耕助シリーズ)では、度々劇中に遊女的な女性であったり、ドサ回りの芝居小屋、琴や三味線の稽古事や旅芸人などの情緒がちりばめられています。現代劇なので江戸時代そのものを描いているわけではないのに、市川崑監督の映画を観ていると、不思議とそういう浮世絵の世界を覗いた感覚に浸れるのです(『犬神家の一族』では犬神一族の面々を歌舞伎役者に見立てた菊人形が登場します…

クラブマガジン廃刊の考

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年5月24日付「クラブマガジン廃刊の考」より)。
 2011年5月、株式会社ソニー・ミュージックダイレクトから、新着のクラブマガジンと同封されて「『CDクラブマガジン』廃刊と新サービス開始のお知らせ」が届いた。「CDクラブ」とは、クラシックやジャズファンがCDアルバムと親しむための、会員制通信販売事業で、毎月「クラブマガジン」が発行され、クラシックやジャズ、歌謡曲、イージーリスニングや落語などのアルバム批評を味わい、それらのアルバムを買い求めることができるのが、クラブとしての愉しみというか旨みであった。その「クラブマガジン」の発行がなくなり、大方、ネットショップサービスへの移行となるというのだ。
 私が初めてこのクラブの会員になったのは、1997年頃で、そのきっかけは、それまであまり深く親しんでこなかったジャンル――《ジャズ》を知ろうと思ったからである。
 最初に届いたCDが『スタンダード・ジャズ・ボーカル』で、いきなり1曲目のキャロル・スローン「NICE WORK IF YOU CAN GET IT」に圧倒され、ジャズというジャンルの素晴らしさに魅了された。その他、シャーリー・ホーンの「SOMEBODY LOVES ME」やスザンナ・マッコークルの「I CAN'T GIVE YOU ANYTHING BUT LOVE」もお気に入りの曲となり、その後クラブで紹介されるジャズやクラシックのアルバムに次々とのめり込んでいった。
 そもそもこうした音楽と文学的表現(=アルバム批評)の連携もしくは相乗効果というものは、ある音楽的文化の側面を担ったものであったし、ネット通販全盛を迎えた現在においても、その位置づけは変わるものではない。マニアックな音楽ファンであればあるほど、音楽と文学とを結びつけ、互いに寄り添い、芳醇なる芸術的色香を愉しむよすがとして、それぞれを利用した。だからこそこうしたCDクラブが、ある一定の会員の質を保って継続できたとも言える。「原材料の高騰」「地球環境保護という時代の要請からペーパーレス化」「ウェブ化の志向」というのが廃刊の理由であるが、やはりマニアにとってこの中での《紙》の文学を失うというのは、芸術的色香の半分が欠落したことになり、残念無念という他はないのである。

「危機管理」という問題

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年5月19日付「『危機管理』という問題」より)。
 先日、自動車の免許更新のため“5年ぶり”に警察署に赴きました。
 日頃まったく接点のない(というよりあまりお世話になりたくない)署内で少しばかり緊張しながら更新手続きを済ませ、その後30分の講習のため、別棟へ。朝一の講習は私以外5人ほどしかいませんでした。
 そこでおよそ20分間、交通安全に関するビデオを視聴しました。
 そのビデオの内容を要約すると、自動車を運転するにあたって、至る場所に「見えない危険」と「見える危険」とがあるのだと。そしてそれぞれの危険に対し、“ああ大丈夫だ”と楽観せず、“その先何か危険があるのではないか”と「予測する」ことが重要、と語っていました。
 確かに、(たまたまかも知れませんが)私がこれまで無事故で来られたのは、例えば信号機のない小さな交差点や細い路地などで飛び出してくる自動車や自転車、人がいるのではないかと直前に「予測する」、というかそういうイメージが湧くため、実際にそういう状態になってもなんとか冷静に回避できていたのではないか、とも思います。
 3.11の東日本大震災以来、今も様々な形で各地、実際的な地震による影響や災害が継続しています。地震は一過性のもので、それが済めば普段の、それ以前の生活に戻れるというのが、私の3.11前の身体的な乏しい経験則でした。しかし3.11は想像を遙かに超え、自己に身体的精神的ストレスを与えたのかも知れません。少なくとも精神的には、あれ以前の自己に戻ったという感覚はまったくありません。
 今、国家も自治体も企業も、そして個人(老若男女問わず)も、「危機管理」の能力が確実に試されているのではないか――。
 結論を先に述べれば、そうした起こりうる危機に対して、きちんと道筋を立て対処できるか、という問題であり、ある意味危機に対してタフにならなければならないのです。
 『文藝春秋』の6月特別号の中に、田中辰巳氏(危機管理コンサルタント)の論考「日本政府 震災危機管理もレベル7」がありました。非常にわかりやすく参考になり、正しい危機管理の手法が細かく述べられていたので、私はメモを取り自分自身のノートとしました。
 東日本大震災について、「国民が必要とする情報」は多岐にわたるとして、以下のよ…

魚の骨

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年5月6日付「魚の骨」より)。
 日体大出身の体育先生との2年間のうち、夏休み中に学校に登校した際、校長室か職員室の掃除を任されて、その間に室内のテレビに映し出されていたロス五輪の中継映像を見たのは、「小学5年生の時」と自分が記憶していた――のは間違いで、ロス五輪は1984年であるから、それは小学6年生の時であるわけで、微妙に自分の記憶が薄らいでいることを感じます。
 さて、ブログ「伽藍の夏」に登場する谷崎政彦と早苗は仮名ですが、話の大筋(あるいは枝葉の部分に至るまで)は実話に近いと思います。「コケ栽培」というのは非常に奇妙な遊びだったのだけれど、昼休みに旧友が数人集って、プレハブ校舎の裏手で“土いじり”をしている様は、今の時代では俄に信じがたい光景に映るかもしれません。
 しかしそれ以上に信じがたいのは、自分自身の心の中。私はその時、妙なものに取り憑かれていたのです。
 そのプレハブ校舎と地べたの付け根、つまり校舎の基礎の部分に、ある場所、「魚の骨」が埋められていたのです。直感的にその魚は、鮒だと思いました。鮒の頭だけが地べたから露出していて、それより下部は埋まっていたのですが、まったく全体が骨だったのです。
 「コケ栽培」をしに遊びに来た折、こっそりその場所に毎日行って、私だけ、「魚の骨」を見つめました。骨がそこにあることは誰にも言いませんでした。内心、私は怖かったのです。まるで人の骸骨を見つけたかのように。怖くて誰にも言えなかったのです。
 早苗が学校を去る時、学級で「お別れ会」のようなことをした記憶があります。どんな内容であったかは覚えていませんが、私は担任先生の“ワシントン”伝記本に負けまいとして、一冊の本を彼女にプレゼントしました。
 菊地澄子著『峠を越えて』(小学館)。
 ――実はブログの3月8日付「筑波山神社での写真」に掲載した学級の集合写真の中に、“本物”の政彦と早苗が写っています。何段の何番目とは言いませんが…。震災が発生しなければ、あの後、宮城県へ転校してしまった“本物”の政彦の話を書くつもりでした。雑駁なる気持ちを吐露すれば、あの時の彼がまたいずれかの地に流転してしまっていて、被災地である宮城にはとっくにいないことを、少なくともそこで苦しんでいないことを、私は今も願い続…