スキップしてメイン コンテンツに移動

都営大江戸線―地下鉄のこと

※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2011年7月20日付「都営大江戸線―地下鉄のこと」より)。

 父親に連れられて東京を散歩し、日本橋の二丁目辺りで撮られた写真が、家族アルバムの中に眠っていた。背景はというと、車道が歩行者天国になっていて、向かいは丸善のビル、その隣に古めかしい日本信託銀行の洋館、そのもっと遠くには大丸デパートの看板すら窺える。この写真が撮られたのは、私が小学4年生の頃であろうから、昭和57年(1982年)頃ではなかろうか。

 その日、私は橙色の半袖シャツを着ていた。顔も日に焼けていて夏の季節であるということがわかる。色彩として目立つ橙色のシャツをもし着ていなかったとしたら、この写真の印象はもっと地味で、他の写真あれこれに埋没して、いま私自身がわざわざアルバムから切り外し、時間をかけて眺めてみようと考えるほど、あまり興味を示すものではなかったかも知れない。

 父が所有していたカメラはオリンパスの「TRIP 35」しかなかった。従ってこの写真はそれで撮られたことははっきりしている。が、何故日本橋二丁目で撮られたか――ということが長い間思い出せないというか理解できなかった。

 そうだった。この日私は父に連れられて、羽田空港のターミナルなどにも寄っているのだが、この日本橋へは、まだ体験していなかった東京の「地下鉄」に乗るために、特に目当てがあるわけではない日本橋駅へ、わざわざ着地したのだった。その頃は営団地下鉄(現・東京メトロ)と呼んでいた銀座線だが、日本橋二丁目のB1出入口からひょっこり地中から抜け出たところ、そこで記念写真を撮った、というわけである。

§

 2011年7月。大型の台風6号が四国に接近。都内もしばし猛烈な風と雨で荒れて、窓ガラスが水しぶきで濡れていた。
 新宿のホテルで朝を迎えた私は、東京散歩の予定を大きく変更せざるを得なかった。時間を持て余し、スマートフォンの中のメールを読み返している際、江戸東京博物館のメールマガジンに目が止まった。そうだ、ここに行こうと急遽意思が固まった。

 さて、ホテルをチェックアウトして、ビルの外へ出た。やはり雨風が強い。歩いて数分かかるJR新宿駅を目指すより、ちょっと歩いたところにある地下鉄出入口から都営大江戸線に潜り込んだ方が簡単なのでは、と判断して大江戸線・新宿駅へ降りた。ところが予想以上に駅構内を下ったりして歩き、これだとJR新宿駅に向かった方が近かったかなと後悔しつつも、雨風に当たらずに初めて乗る大江戸線に対して、少しばかり興味が傾いた。何しろこれに乗れば、両国の博物館の目の前に辿り着くのだ。

 大江戸線は完全なる環状線ではない。いびつな環状である。駅の路線図を見て、それに気がついた。両国駅へ向かうには、都庁前駅で一旦降り、飯田橋、清澄白河駅方面行に乗り換えなければならない。

 車内で俄に腹が減った。あまり気分の良い腹の減り方ではない。この夏の、猛烈な暑さからくる疲れのせいか、24時間中の腹の減り方が尋常ではないのである。
 都会を歩くというのは、どれほど体力を消耗することか。それに加えてこの暑さである。これまで私は、東京の食生活における過度な消費に対して、ある種の嫌悪感を抱いていた。が、それがいま自らの体験で覆りそうな気配だ。東京のホテルで「素泊まり」というのは良くない。ビル内のコンビニで仕入れた、たった二切れのサンドイッチの栄養分はすぐさま枯渇して、腹がきゅうっと唸っている。それも眩暈に近く、ヘタをすると倒れそうな調子である。早く両国へ降りて、何か腹の中に蓄えなければ、とそればかりを考えていた。

 それにしても、この大江戸線に乗って気づいたのは、走行中に不快な「高音」を発することだ。この「高音」は特撮映画に出てくる怪鳥なんたら…の鳴き声にも合いそうな奇々怪々な音であり、音量としては爆音と言ってもおかしくない。すなわち、居眠りをしながら平成の文明列車にゆたゆたと揺られ、駿足に江戸の東西を横切る…という新古の風情が感覚的に気持ちよく「味わえそうもない」ことがわかった。

 しかしながら都営大江戸線は、新宿副都心と本郷や御徒町、あるいは汐留や築地などと結ばれている点を考えると、決して不便というわけではなく、むしろその点では個人的に利用価値がある、好都合な乗り物だと思った。山手線よりも遙かに清潔感がある。

§

 まだ降り続いている雨の中、時折タオルで頭を抑えながら江戸東京博物館に到着して、すぐさま腹拵えをした。すり下ろした大根を和えた冷うどんと、椎茸や牛蒡などの具の混じった五目ご飯のセット。熱いほうじ茶が何故か清々しい気分にさせられた。一気に体調が快復した。

 都営大江戸線。地下鉄。「大江戸」という名称に相応しく、現実に新宿と両国とを行き交っているのは、何より私が生まれた年に都市交通審議会に答申されて以来の、長い整備計画沿革史を綴った「都営12号線」の悲願であったとさえ思う。――台風のおかげで、地下鉄と私とが少しばかり近くなった気がした。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…