スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2012の投稿を表示しています

☞最新の投稿

現在進行形のエイプリルフール

恋とか愛とかの瑣末で、私自身の内と外で実際に起きていることや起こりつつあることを、露骨にあれやこれやと書くのは控えたい。しかし、とりあえずそのことは脇に置いておくことにして、何より、その恋とか愛とかで露出した《粘膜》の炎症を、さしあたって治癒すべく、意識的に聴き返したバート・バカラックの音楽とその映画について書いておきたい。
 私はこの映画を観て、心が大いに和み、平常心を取り戻すことができた。情緒が激しく揺さぶられたのち、やがて心理的には沈静化して、恋とか愛とかの思考を静かに継続することができた。バカラックのおかげである。はて、この男いったい、何を言いたいのかと思うこと勿れ――。ともかくその曲は、バカラックの「The April Fools」であり、ある映画の主題歌でもある。振り返ると私は5年前、こんなことを書いていた。

《春になるとバカラックの音楽が聴きたくなり、キューブリックの映画が観たくなる――。バカラック作曲の主題歌である映画『幸せはパリで』の「The April Fools」。胸が押しつけられるような切ない曲で、20代の頃によく聴いていました。
カトリーヌ・ドヌーヴとジャック・レモン主演『幸せはパリで』(スチュアート・ローゼンバーグ監督)の映画はまだ観たことがない。現在、DVDの販売はないようで、古いVHSでも高値なのでレンタルで借りるぐらいしか手はありません。しかしタイミング良く、NHKさんあたりが放送してくれればいいなと思ってはいますが…》

 ホームページ[Dodidn*]「今月のMessage」のコラムで、2013年の4月にそれを書いたのだった。そうして今年になってこの映画が観たくなり、ネットショップで検索してみたところ、どうやら幸いにも近年DVD化されたようで、簡単にそのDVDを入手することができた。――私は今、この映画を観終わり、余韻に浸っている。エンディングでディオンヌ・ワーウィックが歌う「The April Fools」が、両耳にこびりついている。湿った夜の夏のかがり火となって、私の心はさらによろめいていった――。

§
 ジャック・レモン主演の名画の数々を、私はほとんど観た記憶がない。ジャック・レモンの顔をたちまち思い起こそうとすると、ヘンリー・フォンダの顔が浮かんできてしまう。唯一、ジェームズ・ブリッジス監督の映画『チャイナ・シンドローム…

オホーツクに消ゆ〈一〉

1984年にPC-6000シリーズとPC-8800シリーズでこのゲームソフトが発売された時、私はまだ小学6年生であった。  とある電機店で見かけた『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』というタイトルとそのパッケージのシリアスな格調に、まず惹かれた。 《社会派推理アドベンチャー巨編 オホーツクの海に残る終戦直後の影! ニポポ人形が涙するとき またひとつ、死体が浮かんだ……》 《オホーツクに消ゆ 北海道連鎖殺人 ある朝、東京湾に男の水死体が浮かび上がった。 身元不明、推定年齢40歳前後。そして、事件は北海道へと進む。 釧路、網走、知床、紋別……。 道東を中心に第2、第3の殺人が連鎖していった。 摩周湖で微笑んだ謎の女性は? 紋別沖に沈んだ船とは? 北海道の大自然を舞台に、壮大なスケールで繰り拡げられる 超大作ミステリーロマン!》
 〈カセットテープ2本組というのだから、これは相当手強いゲームだぞ。でも北海道に行った気分になれる…面白そうだ〉と思った私は、3,800円という大金をはたいて、その場の勢いでこのゲームを買った。そしてこれがあの、『ポートピア連続殺人事件』から第2作目となる堀井雄二原作のアドベンチャーゲームであることを知った(後年『軽井沢誘拐案内』が発売され、これらを堀井ミステリー三部作と称した)。

 事件は、東京湾で水死体が上がったとの連絡により、部下の黒木五郎を引き連れ、ボス=プレイヤーが晴海埠頭に向かったところから始まる。言うまでもなく、このゲームの目的は、自分が刑事となって目の前に起きた事件の真犯人(容疑者)を逮捕し、解決することである。  当時のゲームは、すべてひらがな表記だった。“はるみふとう”というのがいったい何なのか、小学生だった私は、その言葉をよく知らなかった。辞書や地図を開いて意味を調べながらのスタートとなり、それがかえって〈これは完全に大人のゲームだ〉という感覚に酔いしれることができた。しかもこの最初の事件の手がかりによって、子供にとっては未知なる世界=キャバレーを捜査するという展開になり、もうそれだけで舞い上がってしまったものだ。  そうして『オホーツクに消ゆ』のいわゆる東京編といわれるプロローグのみを、私は何度も繰り返してプレイした。自分がボスとなって殺人事件を捜査するという醍醐味をも凌駕したのは、東京からさらなる北海道へと擬似的な…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

赤毛のアンと少女の話

今、私の手元にあるルーシー・M・モンゴメリ原作の日本語版『赤毛のアン』数冊のうち、古い中村佐喜子訳(角川文庫)のそれが、私が少年の頃に親しかった少女の“母親”が熱心に読んでいた訳本――であると推理した後、その他の訳本に目もくれず、私がこれに読み耽った動機について、ここでたわいない雑文を記しておこうと思った。
 その少女の“母親”が、私にとって極めて《懐かしい人》であるという言い方をすると、多少の遠慮を図った回りくどい言い方になるので、ここは素直に心の内を明かさなければならない。つまり、少年時代の私がその少女に恋心を抱き、その家族までも愛し、彼女の母に対して、憧憬と畏敬の念をもっていた、ということであり、これは私がずっと心の奥でしまっていた大切な思い出なのであった。
 当時、私と同学年のその少女は、私の家のすぐ近くに引っ越してきた。小学2年の頃である。彼女は理知的で清楚でいながら、思わぬところで天真爛漫に花開くことがあり、まさに一輪のスミレ花のような女の子であった。校内では勉学も優秀で、ピアノを弾き、友情も厚く、読書家で通っていた。
 一方で毎日、恋心でむず痒くぼんやりとしてしまっていた私は、その頃、雑貨店で買ってきたノートを彼女に幾度もプレゼントをして、彼女の気を惹くことだけは忘れなかった。
 つまらぬ話なので手っ取り早く片付ける。要するに彼女一家は、およそ2年ほどで遠い別の町へ引っ越していってしまった。私の恋心は打ちのめされ、純情っぽく枯れんばかりの涙を流した。どちらが少女か分からぬほどに。ただし、この恋は誰にも気づかれずに済んだ。おそらく、担任の先生以外は。
*
 モンゴメリの瑞々しい英文を、その等価と評していい日本語に訳した中村佐喜子版『赤毛のアン』は、一貫してこんな調子である。
《グリーン・ゲイブルズの十月は美しい。窪地の樺の木は、陽光のような金色になり、果樹園のうしろのかえでは真紅になり、小径の野生の梅も、濃い赤と青銅色のえも云えぬ色合いになった。刈り入れ前の畑もまた輝いている》 (第十六章「悲劇に終ったご招待」より引用)
 その部分のモンゴメリの原文は、こうである。 《October was a beautiful month at Green Gables,when the birches in the hollow turned as golden…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…

漱石のこと〈二〉

私が高校時代に新潮文庫の『こころ』を買い、その後、ますます漱石文学に夢中になり、同じく新潮文庫の『文鳥・夢十夜』だの『門』だのを読み始めた経緯には、やはり底辺に《明治》に対する漠然とした関心が強くあったからだろう。特にその時代の文化的特質を思考することは、《明治》文学そのものへの関心となり得るわけで、こうなるともはやそれは理屈ではないのである。
 ただ奇妙なことに、私自身、何故か漱石の『吾輩は猫である』にあまり好奇心を抱かなかった。先述した新潮文庫のそれにも手が伸びておらず、根本的に私の中で『猫』 を忌避していたと言うしかないのだが、その理由についてはよく分からない。とても不思議なことである。
 一昨年、ようやく重い腰を上げて、なんとか映画版を観た。
〈市川崑監督の『吾輩は猫である』を観た。映画のフォルムでこれだけ軽妙洒脱なのは、役者の品がいいせいなのか、市川崑と漱石の相性が良いからなのか〉 (自身のツイッター内ツイートより)
 それがまた非常に面白かった。漱石の文学的世界をよく表現していて、誠に軽妙洒脱だったのだ。この1975年公開の『猫』の他、市川崑は1955年に『こころ』、さらに遺作となった『ユメ十夜』(第二夜を担当)と漱石作品を手掛けており、市川監督が漱石フリークであることは疑いの余地はない。
 ところで、時に岩波書店PR誌『図書』の2012年10月号を読んで、筒井泉氏の「漱石の『猫』とホートン」のエッセイが興味深かった。
 筒井氏の肩書きは“高エネルギー加速器研究機構・物理学”とあるが、ここでは『吾輩は猫である』の中でユーモアに展開される「首縊りの力学」の話題について論述されていた。学者サミュエル・ホートンの「力学的、生理学的な観点から見た絞首刑について」を漱石がモチーフとして工作し、寒月、迷亭、主人らの会話を面白可笑しくしている箇所である。
 筒井氏が指摘した事柄を要約してみる。  「首縊りの力学」(的考察)を論文にしたホートンはアイルランド出身で、ダーウィンの進化論否定の考察材料として、ある種の企図により、アイルランド人特有の滑稽な情趣でもって“首縊り”すなわち絞首刑を物理学的、そして自然神学的な側面で説いた。寺田寅彦を通じてこの論文を知った漱石は、『猫』の中にこの風変わりな論文を、登場人物らの話題という形で取り入れた。  端的に言えば、こうした…

学生時代の旋盤

「エジ蓄のコーナー」の中で、〈グラフォフォンであるとか、1878年の「フォノグラフ」を見ると、ちょっとした“旋盤”に見える〉と書いた。トーマス・エジソンが発明した、錫箔を切り削って溝を作り、音を記録していた時代の蓄音機のことだが、そうした黎明期の、試作品としか思えない蓄音機を見ると、どうしても私にはそれらが“旋盤”に見えてくるのだ。この“旋盤”という言葉で思い出したことがある。
 工業高校を卒業した私にとって旋盤は、決して馴染みの薄いものではなく、何か親身なものとして感じられる工業用機械である。ちなみに旋盤とは、金属製の素材を回転させながら、様々な形に切り削る工作機械なのだが、工業高校在学当時、機械科の作業室の一室にNCフライス盤というのが設置してあって、近年導入したもので非常に高価だということを、さも自分が出資したかのように自慢げに話す人がいた。

 単純に見た目の猛々しい重厚な雰囲気と、そういった噂話とが絡んだせいか、まるで航空業界のオペレーターのような、それを操作する者は格好いい、という妙な感覚が学生の中にあった。
 その一方で私自身は、機械科ではなかったので、この畠の違う旋盤を操作した記憶がない。ただし、いくつかの電子機器の工作実習を行ったこともありから、その工程内で旋盤を操作したことは、ひょっとすると一度はあるのかも知れない。が、私の記憶としてはほとんど無いに等しい。
 ところが中学校時代では、真鍮製のハンマーを作るために手動で旋盤をいじったことがある。その時の実習作品が画像のハンマーである。

 真鍮は、銅と亜鉛との合金で扱い易く、初歩的な旋盤の操作を学ぶには最適な素材。ある種、美術品と呼んでもいいような真鍮製のハンマーが今でも作られていたりする。それに引き替え、私が作ったハンマーは不格好で愚作であり、そういうものとは別物である。子供の玩具にもならない。何故これが今も残っているのか、不思議ではあるが。

 ともあれ、私が高校時代に抱いていた機械科の学生に対するイメージは、旋盤や自動車をいじる修練的兼ね合いから、「何かちょっと威勢がある」「力強い」「態度が少しでかい」というイメージである(笑い話のたぐいになれば、溶接をしているから眉毛が焦げて薄い、という皮肉もあった)。

 逆に電気科などはちまちまとハンダ付けをしたり、機械のボタンを押してるだけ。弱々しい、主体性がない、な…

埋もれていた文集の中から

我が母校である小学校の卒業アルバムは、その作成のために収集された(わざわざ撮られた)小学6年時の教室やら校庭でのスナップであるとか、部活動写真、クラブ活動写真ほどで全3クラス分が埋まり、その他は児童自らが書き下ろした“6年間の思い出”なる作文で構成され、6年時以外の写真と言えば、入学当時の学級別の記念写真だけである。
 ということは、この卒業アルバムには、小学2年から5年生に至る児童らの成長過程の重要な痕跡――校内での写実的記録等がまったく無いわけで、個人的にはどうもそのあたりが物足りないと思ってしまう。まだまだ写真撮影が貴重な時代であったから、遠足や修学旅行でのスナップを持ち合わせて補完したとしても、乏しい。
 例えばもし、子供の頃にケータイカメラとクラウド・コンピューティングが盛んであったならば、むしろ否応なく日常的記録が蓄積されただろう(現に今はそうなっている)。後々、成長過程で起こったことの事実と記憶との照らし合わせの誤差が、ほとんど感じられずに済んだのではないだろうかと思うのだ。その点、今の時代には到底、敵わない。

 さて、私がついさっき、なんの脈略もなく思いだしたのは、小学校時代の通信簿がまだどこかに残っているのではないかということだった。それは結果として面倒や困難もなく探り当てることができた。小学校のみならず中学、高校までの通信簿が確かに現存していた。
 興味の範囲を小学校時代に絞ってみて、何かそこに、当時の担任と自分との間に、記憶から消えてしまっている僅かな親密さが感じられるのではないか、という淡い期待があった。しかしそれは、あっけなく裏切られた。いや、「られた」のではなく自分がそれを裏切っていた。  一言で言い切れば、自分の通信簿の中身は無味乾燥。校内における生活態度や成績があまりにも平凡すぎて、5段階評価で優もなければ劣もなく、可、可、可と6年間続き、その間の5人の担任は、このあまりに変化のない教え子の、甲斐性のない凡庸な成績に「厭きた」と思われたようで、具体的な評価抄すらも凡庸な文になっていた。せっかく達筆なのに味気ない。中庸、凡庸、平凡、普通…。登りもなければ谷もない、ひたすら平坦…。
 楽しかった小学校時代、といった自分自身の青天を感じる記憶の中の雑感とは、だいぶ乖離した通信簿の平凡ぶりであった。
*
 だが一つだけ大きな収穫があった…

孤独と神話【補遺】

学校でのあくまで個人的な経験としての、性教育について端的に触れてみたい。 まず一つめの関心は、昨今、外国での“過激な性教育”という言葉が聞かれるが、80年代半ば、我々の世代(学校)ではどんな学習をしたかということ。二つめは、「孤独と神話」本文中にある“性教育の本”について、それはいかなる本であったのか、という関心である。

 「性教育」という言葉の連関で、“おしべとめしべ”が引き合いに出されることがあるらしい。さすがに我々の世代ではそういう時代錯誤な見識はなかった。尤もこれは学校によって大きく異なるのかも知れないが、感覚的に言えば、人間の性を植物の生殖機能から連想させることは無理がある。その点で日本の学校教育では、性をどう教育するかで壁が生じていたことは否定できない。
 現在の日本の小学校では、児童の成長に沿って、すなわち学年毎に、ゆるやかに性に関する学習が為されているようである。小学3年から4年では身体の発育・発達について及び衛生面の指導、4年生の後半から第二次性徴、月経や射精などを学習、5年6年では心の発達や病気予防についてが学習されるという。
 では、1985年に小学校を卒業した、我々の世代の性教育はどんなものであったか――。
 インターネットの無かった時代のあのO君の《神話》は、これを踏まえなければ理解できまいと思われる。ともかく私はそれを知るために、あの当時の、つまりO君が読んだあの性の本を、改めて入手し読んでみようと思い立った。

 最近得ることのできた情報によって、ようやくそれが、1984年にポプラ社から発行された『女の子と男の子の本2 ふしぎ! 女の子のからだとこころ』(文・小形桜子、三井富美代、江崎泰子/絵・おかべりか)であることが分かった。ただし私が入手できたのは、対になっている『女の子と男の子の本3 ふしぎ! 男の子のからだとこころ』の方である。
 この2冊の本が我が母校の図書室に置かれたのが、小学6年生の時点ということになる。当時の子供の側からすれば、突然、図書室に“エッチな本”が置かれた、という感覚になった。今のように段階的に保健体育指導が為されていなかったのだから、まさに突然であった。誤解を恐れず極端な言い方をすれば、学校という真面目であるべき環境に、その学校の先生が意図して置かれていったのは、紛れもなく女の子と男の子の裸の描かれた本だ…

孤独と神話

フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルが演奏する「ロンドンの小景」について書こうと思っていた。が、この稿ではそれを書かない。ただし、「ロンドンの小景」を聴くと、私は必ず、小学校時代のある友人を思い出す――。

*
 小学校で同級生だったその友人O君とは、学校以外の場所で遊んだり出会ったりしたことがまるでなかった。しかし学年毎に度々同級生となるので、校内ではそれなりに親しい間柄ではあった。ちなみに、中学に入ってからO君は、ブラスバンド部でトランペッターとなり、その小柄で健やかな笑顔が卒業アルバムの一枠に掲載されていて、この時の(この中学3年時の)印象のまま、私のO君の記憶は止まったままになっている。さらに述べれば、20代半ばのある日どこかで、私はO君を見かけた。赤ん坊を乗せた乳母車を押して細君と一緒にデパートで買い物…といった雰囲気だった。

 話を小学校時代に戻す。私の記憶が間違いなければ、彼はサッカー少年つまりサッカー少年団の一員であった。いま考えると、彼がサッカー好きだったというわけではなく、仲間がサッカーをしているから自分も、といった感覚でサッカーを続けていたのだと思う。朝練の他、昼休みでは必ずサッカーをやるために仲間と校庭へ、もちろん放課後は少年団の練習である。ひっきりなしに忙しく、それが卒業間際まで続いた。一方、学業の方は真面目な秀才タイプで、言うなればスポーツもそつなくこなすオールラウンド少年であった。

 何がどうしてそうなったのかは分からないが、たった一度だけ(6年間でただ一度だけ)、放課後、彼と二人で帰宅したことがあった。思い起こせばそれは、彼のある一つの企みがあったからだった。

 教室に居残った私とO君は、学校を出る前に図書室に寄ろうということになった。こうしたことは極めて珍しいことだった。何故なら彼は、いつもならサッカーをやるために校庭に出掛けなければならないのだが、その日はどういうことか、彼はユニフォームを着ていなかった。サッカーをやらずにまっすぐ家へ帰るのだという。
 しかしその前に図書室へ寄る――。
 ある企み。そのために私を誘った、ということがなんとなく分かってきた。

 誰一人としていない図書室。電灯も点けていない。彼はある本を手に取って、図書室の隅に座り込んだ。そこはたとえ、誰かが入室してきても、おそらく居ることが気づかれないで…

左卜全と心霊写真

よくよく調べてみると、全国的にそうであったらしい。 我が母校の小学校では、昼の給食の時間帯になると校内放送が開始され、音楽やちょっとした学校ニュースが毎日放送された。ちなみに放送を担当しているのは児童達であり、放送委員会に所属した高学年の児童らであった。

 入学したばかりの1年生だった頃は、この昼時の校内放送がとても珍しく思え、毎日聴き漏らさずに聴いていた。が、そのうち内容に厭きてきてしまい、単なる給食時のBGMとしか思えなくなっていった。
 内容に厭きた最大の原因は、毎日同じ曲が流れた、ということだろう。学校とてレコード・ショップではないのだから、学校所有のごく限られたレコードが流されることになるのだが、さすがに毎日毎日、同じ童謡曲がリピートされると嫌気がさしてくる。しかもそれが6年間も続けば厭きるどころの話ではない。そういう点で我が母校の小学校では、校内放送にメスを入れるということがなく、この手のことに関してはほとんど進歩的ではなかった。

 毎度、同じ童謡が流される――。そのうちの1曲が、左卜全とひまわりキティーズが奇天烈に熱唱する「老人と子供のポルカ」だった。
 この曲のインパクトは相当たるもので、最初こそ聴いていて笑い転げていたものの、6年間リピートされ、すっかりこの曲の“超絶リピーター”となり果てた我々の耳には、ズビズバ~もヤメテケレもへったくれもなくなった。この曲を誰もがよく知っているにもかかわらず、笑顔で口ずさむ者は一人もいなかったのだ。
 あの時代、つまり1970年代から80年代前半にかけて、全国の小学校の校内放送で「老人と子供のポルカ」が流れていた、ということらしい。

 さて、小学6年の我が学級では、一回り小さな“事件”が起きた。恐怖の心霊写真ブームである。

 ここに1冊の本がある。その当時、教室に突然投げ込まれた本と同一のものだが、サラブレッド・ブックスというシリーズで二見書房から発行されていた中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』だ。  誰かが持参してきたこの本が教室に投げ込まれ、幽霊が写っているとされた心霊写真で震え上がり、教室は大混乱になった。

《怪奇異色写真集好評第2弾
霊体はどこに写っている?
全国から寄せられた不思議な
写真を 心霊科学の権威が、いま
鑑定・分析・解説するなかで
四次元世界の謎に敢然と挑戦する!》

 この本の中の心霊写真で私が最も興味をひい…

こまどり姉妹とパナカラー

7年ほど前、古い家族写真のネガフィルムをデジタル・アーカイブしようと、写真専門店にフィルムを預け、データをCD-ROMに焼いてもらったことがあった。  冬の季節に雪だるまを拵えて、家族がペットの犬と戯れているスナップ。日光へ訪れた家族写真。とある運動会でのスナップ。遊園地での記念写真。浅草・雷門の前で撮った写真等々。
 そうした屋外での、家族の活劇的な写真群の中に1カットだけ、屋内で撮影され、しかも家族とはまったく無関係な、奇妙な写真があった。被写体はテレビのブラウン管。このテレビは私にとって懐かしいものを感じるが、写っているのはブラウン管だけではない。いや、正確に言えば、そのブラウン管の中の二人の女性が被写体であった。

 見るからに双子の姉妹、と分かる女性が手にしているのはマイクロフォン。歌を歌っている様子。よく見ると字幕が出ている。

〈たとえ 望みが消えたとて 生命の あかりともしつつ〉

 誰が見てもその姉妹は、こまどり姉妹である。まてよ、一人の女性が二重露光?…もしかすると、古いテレビだからブラウン管がにじんでる?…いや、やはりこまどり姉妹である。

 これは一体何年頃の写真であろうか。
 昔、家族の中でカメラを使用していたのは父だけであったから、撮影者は父であり、カメラはOLYMPUSのTRIP 35と分かっている。不思議なのは、ブラウン管を写したのはこの1カットのみということで、他でカメラを使うための試し撮りだったのかと思われるが、それにしても、こまどり姉妹が歌っているその最も美しい瞬間をとらえているかのようで、試し撮りにしては狙いが定まりすぎているように思える。むしろ、試し撮りではなく、明らかにこまどり姉妹を写そうと、必死に構えていたのではないのか。

 真っ暗でよく見えないが、ブラウン管の下の方に“Pana Color 20”と見える。 撮影したのはおそらく昭和50年代であり、チャンネルの“12”が点灯していることから、東京12チャンネル(現テレビ東京)の「日曜ビッグスペシャル」あたりの番組だと思う。
 その頃は当然、ビデオデッキなどなく、テレビ番組を記録するには、このようにスチルカメラで撮影するか、8ミリフィルムカメラを回すか、テレビの音声出力端子にケーブルをつないでカセットテープに音声を録音するか、しかなかった。

 ある種の衝動的に父は、こまどり…

曼珠沙華

夕焼けの空の下、広々としたその大地にわずか一群だけ咲いた彼岸花を見て、私はどきりとした。真っ赤な花々が、暮れなずむ空間に浮き立ち、まるでこちらを見つめているかのように思えたからだ。まさしくそれは女の瞳であった。
 それから数日後、庭に出てみると、真っ赤な花が一群を成して咲いていた。彼岸花である。――女は此処まで訪れたのか。 《ひがんばな(石蒜) 一名まんじゅしゃげ 山麓・堤塘・路傍竝ニ墓地等ニ多ク生ズル多年草本。(略)花後深綠葉ヲ多數ニ線形ニシテ鈍頭ヲ有シ質稍厚ク光澤アリ、然レドモ柔ナリ》
(牧野富太郎著『牧野 日本植物圖鑑』(北隆館)より引用)
 何かの記憶が甦ってきた。
 “曼珠沙華”。
 小学生だった私は、テレビの前でその姿をかじりついて観ていた。歌う少女はとても大人びて、サテンのようなドレスがすべてを艶やかにしていた。
 テレビの中の少女は、“マンジュウシャカー”と歌った。目くるめく表情を見せ、“マンジュウシャカー”と歌い続け、ついに決勝ラウンドとなった。数名による審査員の審査が粛々と始まる。司会者が緊張感を煽った。少女の顔も硬直している。  ついに審査結果が発表された。
「優勝は――“マンジュウシャカー”を歌った…」。
 少女の名が呼ばれた。彼女は一瞬にして緊張がほぐれ、満面の笑顔になった。テレビ画面いっぱいに花吹雪が舞った。高らかなファンファーレ。  司会者は少女にマイクを向けた。少女の瞳から涙がこぼれていた。
「それでは最後に歌っていただきましょう。ちびっこのど自慢優勝に輝いた、○○県出身○○○○さんが歌います。歌は“マンジュウシャカー”」  ちっぽけな記憶が次々と場面を変え、まるでその少女がそこに居るかのような錯覚があった。あの番組の中でのど自慢を勝ち続けるため、少女が何度もそれを歌ったこと、そしてその大人びた少女が見事に優勝を果たしたこと、小学校の低学年であった私には、“マンジュウシャカー”が一体何のことかさっぱり分からなかったこと…。
*
 あたりは静寂に包まれた。まるで私だけが、この世に生きているかの如く。 一際美しいと思われた花を選んで、シャッターを切った。やがてぽつぽつと雨が降り出した。忌諱してその場を去る。30年前の記憶が一瞬にして甦り、一瞬にして漂泊となった。雨の中、窓の向こうで女がまだこちらを見つめ続けている。  私にとってそれ…

木村さん

出会い系スパムメールを不特定多数に送りつけるための、そのテクスト(本文)を作成する作者の、意図とその文学的表現能力についてしばし考えることがある。
 他方、ある種の女性像を作り上げ、出会い系に登録する秘密裡の個人的経緯を創作し、ロマンチックな出会いを求めるドラマを捏造したテクストは、我々受け取る側がそれには騙されまいと処理する傍ら、中には、口語のテクストとしてはなかなか読み応えがあるものがたびたびあって、既にそのいくつかのテクストについては、このコーナーで紹介した(「誘惑は螺旋階段のように」参照)。
 さてこれから紹介する、以下の出会い系スパム・テクストは、いよいよ作者の文学的表現能力にも限界が生じて、実在の人物としては支離滅裂、荒唐無稽な女性像を作り上げてしまった作文である。その実際に届いたテクストを全文引用してみる。

1通目のサブジェクトとテクスト
《サブジェクト:西暦1948年生まれ
"【P】花紗音"様からメールが届いています。
【本文】
私が5歳の時ですね?ソビエト、今のロシアのスターリンが亡くなって株価が暴落って覚えてます、何か幼いながら怖い印象がありました。
それにNHKの紅白歌合戦が始まったなんて、それは私も歳を取りますね(笑)
歌で言うと「想い出のワルツ」雪村いづみさんとか、春日八郎さんの雨降る街角とかレコードで母が聴いてましたね。
あの時代の歌って、まだ私の中にあって、今でも思い出してCDで聞いてるんです。
あなたの思い出の曲とかありますか?
父は父で鶴田浩二さんのハワイの夜を聴いてました(笑)懐かしいですよね。
昭和歌謡を聴いて、赤提灯でお食事して当時の事とかお話しませんか?
最近友人が若くなってしまって、私より先輩の皆さん忙しいみたいで、私で良ければ遊んでやって下さい♪》
*  まず何より冒頭、その女性の5歳時、すなわち1953年(昭和28年)に、スターリンが亡くなり株価暴落で怯える5歳の自分――という日常的活写の自己記憶は到底無理がありすぎる。ふつうの5歳であれば、ソビエト…? スターリン…? スターリンショック…? と口が縺れるだけであり、怯える次元の話ではないだろう。
 そこから話が飛んで、この年テレビ中継が始まった紅白歌合戦に連関して、「想い出のワルツ」、「雨降る街角」、「ハワイの夜」といった音楽の話題。どうもひどくこの女性は5歳頃の自己…

化石の少年

いつだったか急に懐かしくなって、徳島化石研究会会長の鎌田誠一さんがオークションで出品していた、アンモナイトの化石を買って、部屋の飾りものにしていたことがあった。化石がしまわれていた小さな箱には、
「ジュラ紀のアンモナイト
産地:山口県豊浦郡豊田町(現下関市)
時代:中生代ジュラ紀
地層:西中山層」

 とあって、几帳面な鎌田氏のそのアンモナイト=ハーポセラスに関する説明テクストが添えられていて、非常に感激したことを憶えている。そうして私の脳裏には、かつて少年時代に夢見た、古生物学に対する憧憬と興奮の影がちらついた。
 何がきっかけだったかと言えば、それは一つの本を貪り読んだことからだった。小学館の『化石入門』(浜田隆士著・昭和55年初版)。小学生の低学年の頃、この本にかぶりついた私は、まずこの本の中の「地質年代表」を暗記することから始めたのだ。
 先カンブリア時代
 古生代:カンブリア紀、オルドビス紀、シルル紀、デボン紀、石炭紀、二畳紀
 中生代:三畳紀、ジュラ紀、白亜紀
 新生代:(第三紀)暁新世、始新世、漸新世、中新世、鮮新世、(第四紀)更新世、完新世

 動植物が気の遠くなるような長い時間をかけて押し潰され石化する化石の種類の中に、「琥珀」というものがあるのを初めて知ったのも、この本からだった。透き通る黄橙色の固体に、まるで時間が止められ異次元に閉じ込められたかのような、虫の哀れな姿。切なさが漂う。しかしそこは少年にとって日常とは別のパラレルな世界が広がっていて、時空を超えて旅するタイムマシンの世界であった。目にしたことのない異形の動物の骨格を眺めていると、自分もその世界の中に入り込んでしまった気がして、もう二度と現代に戻れないのではないかと錯覚に陥るのだった。

 この『化石入門』の表紙を開くと、野球帽を被った少年3人が、自慢げにアンモナイトの化石を手にして笑っている写真に出合う。本を開くたびに感じるジェラシー。彼らの自慢げな顔が憎々しい。あんな大きなアンモナイトを見つけやがって、という子供らしい自分の勘違いなど、その本の影響力というものは決して小さなものではなかった。自分よりも少しばかり大人である彼らへの忠誠心と嫉妬心との板挟み。しかも彼らは本の中で永遠に少年のままなのだ。
 さて、彼らに負けず劣らずと威勢を奮い、学級の仲間を集めて“化石研究会”なるサークルを拵えたのは、それから…

中国茶とスイーツの主人

インターネットのウェブサイトを通じて、私がこの10年の間に、“雑学”的な読み物として多大な影響と共感を得ていたある一つの個人サイト、があった。そのサイト名とオーナー(男性)の氏名はここでは伏せておく。尤もそのサイトは現在抹消されていて、オーナーの家族写真等が閲覧できないことも含め、私にとっては、まるで知人の消息不明を嘆くような気持ちになり、この点については心が痛む次第であった。

 そもそも最初は、クラシックカメラの扱い方が知りたく、偶然そのサイトを検索して見つけ、オーナーが撮影した1枚のモノクローム写真を見たことがきっかけであった。
 池袋のとある神社境内に設置されていた遊具=「池袋のお馬さん」をライカのエルマーレンズで写したその写真を見て、クラシックカメラの真髄を垣間見た感じがしたし、妙にその白馬の遊具が色気づいていた。そうして以後、頻繁にそのサイトを訪れるようになったのだ。
 おそらく私と同世代と思われるそのオーナーの趣味嗜好は、多岐にわたっていた。カメラと写真以外にもジャズ・フュージョン、ギター、書物、陶器、中国茶、そしてスイーツ作りなど。可愛らしい娘さんの成長記録を織り交ぜながら、そうした豊かな趣味の日常をウェブ上でコラージュしていて味わい深く、ウェブ日記としての好奇心を掻き立てるセンスと技があった。私はサイトが更新されるのを毎日、今か今かと楽しみにしていた。

 彼のサイトの中に、「中国茶のオルタナティブ」というのがあった。茶の湯の哲学や茶道具・鉄器にまつわる12の随筆で、小気味よい文章で茶目っ気があり、知らず知らずその知識を身につけられるような楽しい読み物であった。

 いつしか私は、彼は日本人ではなく、中国人あるいは台湾人なのではないか、と考えるようになった。なんとなく、その節々がそれぞれの文脈の中に感じられた。実際のところは分からない。彼のプロフィールは念入りに多くが伏せられており、横浜近辺が居住地なのではないかとこちらが推測するほかはなく、出身地については謎であった。
 しかしながら彼の日記の中における、その日常全体の空気が、どこか貴族的、上流階級的な情趣があって、むしろそれは好感の持てるたぐいであったが、日本から少し距離を置いたアジア人、古い言い方をすれば渡来人という位置づけを空想してみると、彼の人物像がよりいっそう輪郭を帯びて際立つのである。

『茶の本』を手にして

もし自分に、「あらゆる書物を捨て、旅に出でよ」と天命が下るとするならば、私は躊躇せず着の身着のままの旅を始めるに違いない。しかし唯一、その天命に抗えることができるならば、私は一冊の本、岡倉天心の『茶の本』を片手に旅を続けることを乞うだろう――。  そんなファンタジックな絵空事を、日常で雑念を抱く隙間に差し入れたりして、酒をいっぱいやるのと同じように酩酊し、空虚な気持ちを鎮めるためのスパイスにすることが20代の頃によくあった。  しかし何故そのスパイスが、『茶の本』だったのだろう。
 しばらくそんなことは忘れかけていた。が、筑摩書房のPR誌『ちくま』を見ていて、ふとそれを思い出した。比較文学者・中村和恵さんの「天心の『日本』を問い直す―岡倉天心コレクション」の随筆がそこにあったからである。

 もうすっかり茶褐色に変色してしまった1994年第84刷発行の、岩波文庫『茶の本』(岡倉覚三著・村岡博訳)。表紙には原本『THE BOOK OF TEA』の写真と岩波書店の社説的解説文が記されている。私はおそらくこれを頼りに、刷られたばかりの1994年にこの一冊を買ったのだと思う。そうして岩波文庫特有の紙質――既に赤みがかっている――はより深く経年劣化で茶褐色に変色した…。

 古紙にトラディショナルな明朝体活字が際立つ。

《ほんとうの茶人チャールズ・ラムは、「ひそかに善を行なって偶然にこれが現われることが何よりの愉快である。」というところに茶道の真髄を伝えている。というわけは、茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である》

 頭をぶち抜かれたような衝撃を、当時22歳の私は受けた。自分が音楽を作り込んでいく過程で、それと共通するような思いに駆られたからだ。
 …一曲の音楽の集合体である音群から、作り手の《心性》と《情念》は聴者に聴こえるものではない。しかしそこに《心性》と《情念》を込めるとは、一体どういう状態を指すのか。無心になって作り得た音と声、あるいは何かの《心性》と《情念》を抱きながら作り得た音と声、そしてそれらとはまったく違う、気分を損なった音と声、嘘と欺瞞に満ちた心で作り得た音と声。これらの差異を聴き分ける超人的感覚は、何人も得ていないのではないか…。

 上述した天心の文章の後に、こうある。
《…「不完全」を真摯に静…

誘惑は螺旋階段のように【補遺】

スパムは尽きない。果てることがない。現代地球上の電子メール通信のほとんどが、スパムである。
 いつの頃からか、私のメーラーの迷惑フォルダに毎日届くようになった“ロマンチックな”スパム。ただ単にそれらが「言葉」の、艶めかしい作文であるだけなら話は別だが、もしこれらを信用して、その先何らかの実質的な被害を被るのであれば、自尊心を傷つけられた災難、あるいはそれ以上ということになるのだろうか。送りつけてくる相手はまったく未知数なのだが、信用してしまった人達の実態もまた未知数ではないか。

 こんな長いサブジェクトのスパムが届いた。《以前のメールは読んでいただけましたか?数字にするといやらしいですから書きませんが普通のサラリーマンの年収くらいはひと月にお渡しする分としてご用意できます》

《慰謝料生活▼どうしてそんなに用意するかって…会社の重役で経済的に豊かなことだけが自慢だった夫に捨てられただけの悲しい女ですからできることです…あまり深く考えないで下さい。そんなことより…見ず知らずの女を抱けますか?抱けないとおっしゃられても私は困ってしまいます…勝手に抱かれるつもりでメールしましたが、大事な配偶者がいらっしゃるとか、恋仲の女性を裏切ることができないとおっしゃるのでしたらお返事はいりません。よかったら一言だけでもお返事ください。何卒よろしくお願い致します》

 既に気づかれた方もいると思われるが、これまで紹介したいくつかのスパムの作製者は、ほぼ同一人物=同一作者であろうと思う。空想癖があり、ロマンチスト。言い換えれば、ハーレクイン・ロマンスの読み過ぎ。そういったロマンス小説に没頭した形跡が、文体の中に充満している。

《支援します※冷やかしではありません▼正直に申し上げますが、過去に色んな男性の方とメールをしたり待ち合わせの約束をさせていただいてきましたが結局お会いできずに終わる状態が続いています。先日知り合った男性の方はお電話で互いに自己紹介をし、私は現在社長代理であるという肩書きをお伝えした上でお相手に支援させていただくという条件で翌日に待ち合わせのお話までしたのに、当日になってみたら約1時間待ちぼうけ…前日に教えて頂いたお電話番号にかけてみてもずっと話し中のままでしたからきっと私は残念ながらその男性に騙されたのでしょう。その証拠に、それ以降その方からの御連絡はありませんでした。どう…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

秘密基地

敬愛する作家・伴田良輔氏に倣って、少し猥雑な話を駆り立ててみたい。
 音楽レコーディングにおけるプライベート・スタジオなどというものは、かつて少年が心をときめかせた“秘密基地”のようなもので、『ウルトラマン』に出てくる科学特捜隊だとかウルトラセブンと協働した地球防衛軍が極東支部とする富士周辺の基地、などがそれに相応する。かつて少年――と書いたが、おそらくそういったものに心ときめいたのは昭和の世代の少年達であって、平成世代の子供らの感覚はこれに当てはまらないかも知れない。少なくとも私は“秘密基地”に憧れ、プライベート・スタジオという空間で言わばそれを具現化してしまった。

 私が小学生だった頃――昭和50年代――我が町の宅地造成と商業地開発の波はまだ緩やかで、あちこちに松原とその他の雑木林が顕在していた。そういった場所は夕暮れを過ぎると、一気に視界が陰って暗くなり、闇の空間に変貌した。子供らにとってそういった雑木林は、良き遊び場でありつつ何かの秘密事をするには最適な場所であった。

 さて、とある空き地の一角が、私とその仲間達数人の集合場所…憩いの空間…サロンとなっていた。ちなみにそのような場所はいくつもあって、大人達がやってきて都合が悪くなれば、用意周到に別の空き地へと移動する。その行動はまるで少年探偵団まがいだ。
 その、とある空き地が心地良かったのは、ほぼ10メートル四方の一角全体が、高さ2メートルほどに伸びた蔓草で覆われていたからである。しっかりと太い茎は子供らの身長を超え、巨草と化した蔓草の葉も大きくざらついていて四方の壁面部を呈し、大人らは近寄らず、子供らの隠れ場所には最適だった。
 そこはジャングルに見立てられた秘密基地、であった。蔓草の茎を部分的にへし折り、ジャングルの内部へ続く通路を形成。内部の中心部には、段ボールで小屋のようなものを拵え、そこが我々の本部だ。ここでしばし他愛のない秘密会議が催される。

 ある日の朝、登校途中で仲間の一人が、道端に落ちていたビニ本を発見した。雨ざらしで雑誌は干涸らびた状態となっていたものの、なんとかページをめくることができる。とは言え、朝方から小学生がそれを路上で見入ることは許されない。小学2年生の少年にとってその発見は、驚愕と危険と微弱な性欲とが複雑に入り交じった一大事件であった。彼の咄嗟の判断によって、そのビニ本…

誘惑は螺旋階段のように

スパムメールの中身にうつつを抜かしてはならない。が、延々と自問自答を繰り返す日々の中に、時折、階段から滑り落ちる一瞬というのがある。〈滑り落ちてみようか〉と思わせる未知なる鋭利な誘惑である。
 そもそもこの一瞬の魔は、メールソフトの迷惑フォルダが機能的に不完全であることから生じる。迷惑フォルダは、プログラムがメールの受信時に自動的にスパムを抽出し、正規の受信フォルダと区分される。当然、迷惑フォルダに区分されたそれらは、ほとんどがゴミ同然のメールであり、私が使用しているメールソフトの場合、これらはメーラーを閉じた瞬間に自動的に削除される。
 ただし、迷惑フォルダの中には、たまに重要な――スパムでない――メールが紛れ込んでいることもある。従って、一応、人が確認しなければならないのだ。その際、各スパムのオブジェクトが眼に入る。これが怖い。このオブジェクトが誘い水となり、ついその中身を確認したくなってしまうのだ。

 ところが最近、一部のスパムには面白い傾向がある。内容が富みに幅広くなった。馬鹿げたことだと思う下品な内容から、つい次回の続編を期待してしまう上品な内容のものまで網羅されている。

 筑摩書房のPR誌『ちくま』で歌人の穂村弘氏が連載している「絶叫委員会」で、こうした面白いスパムに関することが取り上げられていた。ある号では、実際に私が見たことのある内容のスパムが引用されていた。夫を失った未亡人・千枝という女性の投稿メール(あくまで作り事だろうが)。2000万円もの遺産を、あなたに差し上げたい云々…。

*
 例えばごくありふれた、エログロナンセンスなスパムというのは五万とある。実際に届いたメールの文章を少し引用してみる。
《経験豊富な人なら、私を優しく扱ってくれるんじゃないかと思って、連絡してみたんです…私じゃダメですか? もし私みたいな子供でもよかったら、経験させてほしいんです…大人の男性に可愛がってもらうのがスキです。処女だってことで、負い目を感じてるので、早くここから脱出したい…と思って焦ってメールしてます。たとえば、明日とかあさってとか、都合どうですか? 私でもいいと思ってくれるなら、優しく奪って経験させてください…よろしくお願いしますm(__)m》

 私は処女である、という告白で不特定多数の男性を誘惑する、よくあるパターン。年齢が記されておらず、思わず中…

赤エンピツの少年

つるりとゆで卵の白身のように、色白で肌質に凹凸がなく、丸坊主の毛先がやけに揃いすぎていて野性味に乏しく、喋り出すと快活さはあったが、途端にもごもごとして歯切れが悪くなる。決断力もある方ではない。ひょろりと長身な中学3年の少年Kに対する私の印象は、実を言うとそんな程度のもので、彼が同じクラスメイトであるということ以上に関係性があるとすれば、小学生の頃、同じ少年団で剣道をやっていて顔見知りであるということだけであった。

 彼はある日、日曜の午後を街の中心部にあるデパートで過ごした。彼の家はここから少し遠かったが、規模の大きなデパートといえばここだけであったし、ほとんどここに来ることが彼にとって毎週の決まり事のようになっていた。
 青い空に何か白い鳥がせわしく横切った。Kは躍動する心臓の振幅を感じながら、デパートの入口傍にある、小さな機械へと向き合った。既に小銭は掌にあったので、それを機械の投入口に差し入れた。
 機械が妙なメロディを発しながら何か喋り始めた。彼の手付きは慣れたもので、ディスプレイの横にあるテンキーボタンを一つずつ押し、自分の生年月日や性別やら、その他の事柄を音声に従って入力していった。

 やがて機械から、細長い白い紙がゆっくりと垂れ下がって出てきた。買い物レシートのような青いインクのギザギザの文字、それはカタカナと数字のみの印字であった。
 紙の出口のカッターでそれをちぎると、彼は眼を大きくして俯き、その小さな文字を読もうと懸命になった。僅か数秒で読み終えると、彼は一目散に駐輪場へ駆け走り、街の中へ消えていった。

*

 ある日私は学校の教室で、Kの不可思議な行動に釘付けになった。何やら手には紙の束を抱え、生徒一人一人に話しかけながらそれを渡して回っている。やがて彼が私の目の前にやってきて、同じように何かを話しつつ、一枚の紙が手渡された。それは手書きの文章を一色刷のカラーコピーで複製したものであった。
 “赤エンピツ”と書かれている。赤エンピツとはなにか。

 どうやらそれは、彼の実家が商売している文房具店のチラシだった。“赤エンピツ”が店の名だという。
「開店1周年特売セール」
「文具・ファンシー7~3割引」
「開店1周年記念プレゼント進呈」
 などと書いてある。

 この時の彼の行動を垣間見たとき、私の彼に対する印象ががらりと変わったような気がした。商…

黛敏郎の芸術論

雑誌『音樂藝術』(第14号・第6巻/1956年5月号)を読んでみた。この号は「現代と音楽特集」と冠されており、現代音楽に関連した論考がいくつか掲載されている。そこで、当時の新興著しい“電子音楽”や“ミュージック・コンクレート”に対する通念はいかなるものであったかということと、この雑誌の座談会企画で黛敏郎氏が芸術論を展開し、また電子音楽についてどのような考え方を持っていたかを抜粋してみた。
 まず、小倉朗著「現代と音楽」の論考では、電子音楽及びミュージック・コンクレートについて以下のように触れられている。

《最近、電子音楽やミュジック・コンクレートが新聞やラジオに紹介されましたが、まるで新しい音楽が生れたと言わんばかりの騒ぎです。冗談ではない。出来たのは音楽を作る手段です。それも海のものとも山のものとも未だ判らぬ。判らぬうちからこのようなセンセーショナルな扱いをするのが、ジャーナリズムの好みでしよう。
 尤も早速この手段を幾人かの作曲家が実験して、結果を持ちよつて先日音楽会を催した。そこで出掛た人達が果してどんな感慨を抱いて帰つたかは知らぬが、或るアブストラクトの画家が舌を巻いた。自分達が苦心惨憺していることを、これらの音楽はわけもなくやつてしまうと言う、その話を聞かされて、僕は甚だ面白く思つた》

 また、伊奈一男の「楽壇の話題・記録・思潮【音楽界】」の欄では、もっと一般的な感覚に寄った形でそれらを紹介している。

《ミュージック・コンクレートと電子音楽の初の演奏会? が二月四日山葉ホールで行われた。作品の性質上、すべて過去において放送その他で発表されたものばかりだつたからこの場合、初めて会場で“行われた”という事実だけが貴重なのだろう。ところで会を開くについての宣言「既成の音楽は無内容な音によつて組立てられるようになつた。われわれは失われた音の生命を発見しよう…」に対して誰も何もいわなかつたのは何故だろう。伝統を破壊するという意味においては、論争をまき起した石原慎太郎の出現が与えた以上にショッキングなはずではないか。「あんなものは音楽ではない」と真正面から言い切れないことがすでに宣言のなかばを肯定せざるを得ない弱み――危機を感じているためといつてはいけないだろうか。もつともこの第一回の催し全体が、まだ新しきものの展示ですらもなく、宣言そのものをフエン、説明する程…

証明という感触

企てが始まる。 [Dodidn*]は企ての始まりだ、ということを漠然と意識する。自分がこれから何を仕出すのか、好奇心と期待に満ちた高揚感を覚える。

「学校法人 千代田学園
千代田工科芸術専門学校 音響芸術科
卒業証明書申請発行に関するメモ」

 以下は、自ら書き綴った雑文メモの中身である。

【2012年4月10日】
 あるシーズン、学校見学会などといったこの分野関係の広告を見るたびに、その活発な生徒募集の営業活動に対し、実体を失った我が母校の名が無いことに翻って、私はひどく羨ましく思った。これは紛れもなく感傷のたぐいである。
 私は千代田工科芸術専門学校の卒業生である。卒業生が“在校生”の瑞々しい活動を、「今」という現在の内側で垣間見ることができないのは、しごく無念であるし、何のための卒業生であるかとも思う。すべてが感傷のたぐいであるけれど、この感傷から逃れようとは思っていない。何故なら、そこで出合ったことを忘れてしまってはならないという別の思いがあるからで、それが自身の原動力となっている。いい加減にしてはならない。今こそ目を見張る必要がある。

 さて、胸の内でよぎる何か小さな不安のようなものから、自分自身の記憶が摩耗していく恐れも加味して、一つこれは自分という山の頂に、旗印を立ててみようという気になった。第三者から見れば非常に馬鹿げたことだが。

 実体を失った学校ではあるが、東京は台東区の千束に、千代田学園の学生事務センターがあるという。私はここと連絡をして、自分自身の卒業証明書を発行してもらう旨を企てた。
 誤解を恐れずに言うと、本当にそこが千代田学園の事務センターであるかどうかの証明と、自分自身がそこに在学していたことを裏付ける確固たる証拠品を残すための2つの意味があった。もちろん手元には、当時(1993年)手渡された卒業証書が残っている。これに加えて今、卒業証明書を改めて発行してもらうことで、私と学校との社会的関係を結びつけ、民事再生手続“以後”の学校との関わり合いを新たに持ったことを認識できるのではないか、と考えた。
 そうして、事務センターに電話連絡。卒業証明書申請手続きに関する詳細を聞いた。その上で実際に証明書申請のための書類を作成。

【2012年4月11日】
 必要な書類と発行手数料等を添付して郵送。

【2012年4月15日】
 事務センターより、…

架構の空間

先日、何気なく手に取った『學鐙』(2012年春号・丸善出版)の中の、隈研吾著「不便な建築」を読んだ。“便利な機械”はあるが“便利な建築”というものはない、という書き出しで始まって、建築家ル・コルビュジエの“住宅は住むための機械である”という名フレーズに関連し、彼が建築したサヴォア邸の実際的な不便さについて触れていた。
 隈氏は、《便利さとは、一種の自己中心主義、人間中心主義にもとづく判断基準なのである。「便利な機械」というのは人間中心主義にもとづいて、人間に奉仕する一種の奴隷として作られたものである》と定義している。また逆に建築においては、そこで人間が従属し、奉仕している、のだという。

 コルビュジエの名作中の名作であるサヴォア邸の白いsquareの美しさは、誰が見ても美しいと思える。だが人が住むための建築としては、見た目で美しい、だけでは済まされない。

 コルビュジエは先の名フレーズによって20世紀を一歩前に踏み出したが、人が家に住むということはどういうことか、建築とは何か、の山ほどの課題が同時に噴出した。そしてあらゆる建築家がそれを思考熟慮した。白いsquareに魅了されつつも課題を乗り越え、時代が過ぎ、隈氏の言う“便利な建築”というものはない、という客観に至った21世紀の初頭を我々は過ごしている。

*
 何故私が隈氏の「不便な建築」をここで取り上げたかというと、この21世紀の初頭、DAW(Digital Audio Workstation)という《魔法の箱》をついに手にしてしまった、音楽を作る側の人間の心の、悩みと不穏と優雅さとを暗示しているかのように思えたからだ。

 DAWは“便利な機械”であるか。

 かつての時代のレコーディングスタジオの有り様は、ほとんどすべてと言っていいほどDAWの箱の中に収まってしまった。だからといって、音楽が(誰でも)簡単に作れると言えるのか、という問題である。

 自宅スタジオという名目でDAWを中枢に据え置き、その周囲に付随されるべき機材を含めたシステム全体は、まさに架構の空間としての建築だ。音楽制作におけるこれらの機械は、機械でありながらも建築部位であり、身体的な部位でもある。これらが使用者にとって心地良い部位でなければ、単なる不快な部位となり、架構の空間そのものが不快と感じられてしまう。
 私が設置した自宅スタジオの中の…

アルバム制作メモのこと

自分自身が忘れかけていたものが見つかった。 それは、1990年代の中頃――25、6歳頃に書かれた「アルバム制作メモ」というメモで、自主制作中だったCDアルバムのコンセプションについて箇条書きしたものであった。

 ここに書かれたメモの内容は、今でも自分自身の音楽スタイルに通用する。むしろ今それに気づかされて、コンセプションの重要性を再認識するほどだ。以下に書き出してみる。

・シンプルな音源がヴォーカルを引き立てる。
・要所要所のポイントを設定し、ヴォーカルとの兼ね合いでアレンジを構成する。
・ヴォーカルパートを邪魔するパートを削除する。(ブラス、リード系、グロッケンなど音色が似ているもののメロディラインは避ける。)
・サビリピートはアレンジを少しずつ変化させる。(スネア、パーカッション)
・ディストーションをかけたギター系の音とアゴゴやカウベルを混ぜ、ブレイクビーツを作る。
・ステレオギターのワウ、あるいはフランジャーでバッキングを作る。
・スネアの変化は2~3段階に分ける。(リムショット含む)
・Apf、Epfの音色の選択に気をつける。
・アルバムの構造で重複する説明を省く。(余計な説明も)
・奇をてらった構成、テーマを避ける。テーマ性に欠けた題材もダメ。
・メロディラインの検討。(時間をかけて)
・すべてのパートのエディットをチェックする。
・バックグラウンドヴォーカルの付加の必要性をよく吟味する。
・「(プリプロ期間)作曲活動→オケのデモ作成→実質的な打ち込み制作→歌詞(ヴォーカルアレンジ)の作業→レコーディング」の行程や順序を曖昧にせず、デモと本作業の区別をはっきり付ける。(長いスタンスで1曲を構築していくこと)
・ヴォーカルマイクの選択とリバーブ等のエフェクトクオリティを重視する。

 貧弱と思われて当然な限られた機材を駆使して、いかに自己表現を完結できるか。完全燃焼できるか。20代の頃の自分を振り返り、何を残してきたか、何をやろうとしていたかを逆に研究することで、今後の精進に繋げてゆきたい。