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新藤兼人監督の映画『心』

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【新藤兼人監督の映画『心』(アートシアター・パンフレットより)】  今にして思えば、私が幼少期を過ごした昭和の時代(昭和47年以降の1970年代)には、独特の空気が漂っていた。ここでいう空気とは、時代の雰囲気、あるいは気配といっていいのだけれど、少なくとも今の時代より賑やかであったし、そうしたものの象徴として、やや屈折した表現で喩えると、それは、「美しいどぶ」のようなものであった。どぶとは、言うまでもなく、雨水や下水を流す溝のことだ。  私が幼少期の頃に住んでいた団地の、その周囲で流れていたどぶというのは、新興住宅地であったからまだ新しく、清らかな川のせせらぎのようで、ある種の風流を思わせるものであった。底に苔生した碧のゆらめきが艶めかしく見える、それらのどぶは、決して汚い下水という印象はなく、全くもって美しい人工の川だったのだ。――雨の日の昼下がり、とある住宅地の、坂道の片側に流れるどぶを立ち止まって見ていた幼少の私は、これがこの世の人工的な美しさだと直感した。こうしたことが、象徴的な昭和の原風景として、私の眼窩に刻まれている。  話は変わる――。成長して小学生となったのち、その頃テレビの連続ドラマや映画になって話題となっていた、日露戦争を描いた「二百三高地」に心酔した時期があった。それは忘れもしない。「二百三高地」から多分に影響を受けて、私は、乃木将軍(乃木希典)の《殉死》と向き合ったのである。まったく少年期としては、いささか破廉恥な、あるいは不都合な観念の重々しい倫理の皮相に直面していたのだった。  ちょうどその頃、関東圏のローカル放送局(UHF)でたまたま放映されていた、新藤兼人監督の映画『心』(1973年、日本アート・シアター・ギルド)を観た――。原作は夏目漱石の 『こゝろ』 である。その映画における、心理的緊張感を漂わせた映像美に惹かれ、瞬く間に私は、激しい《困惑》を覚えた。何故ならば、そこで描かれていたのは紛れもない、たった一人の純朴な青年が、無惨にも恋と友情に同時に裏切られ、《自死》した姿だったのだから。 【新藤兼人監督(アートシアター・パンフレットより)】 ➤不穏な映画として  林光氏の流暢な音楽が、冷たく、五感を震わせる――。初めてこの映画を観た時、私はまだ小学生であったが、直感したのだった。ひどく不吉な、不均衡な、不調和な映画であると。主演の松

中国茶とスイーツの主人

 インターネットのウェブサイトを通じて、私がこの10年の間に、“雑学”的な読み物として多大な影響と共感を得ていたある一つの個人サイト、があった。そのサイト名とオーナー(男性)の氏名はここでは伏せておく。尤もそのサイトは現在抹消されていて、オーナーの家族写真等が閲覧できないことも含め、私にとっては、まるで知人の消息不明を嘆くような気持ちになり、この点については心が痛む次第であった。

 そもそも最初は、クラシックカメラの扱い方が知りたく、偶然そのサイトを検索して見つけ、オーナーが撮影した1枚のモノクローム写真を見たことがきっかけであった。
 池袋のとある神社境内に設置されていた遊具=「池袋のお馬さん」をライカのエルマーレンズで写したその写真を見て、クラシックカメラの真髄を垣間見た感じがしたし、妙にその白馬の遊具が色気づいていた。そうして以後、頻繁にそのサイトを訪れるようになったのだ。
 おそらく私と同世代と思われるそのオーナーの趣味嗜好は、多岐にわたっていた。カメラと写真以外にもジャズ・フュージョン、ギター、書物、陶器、中国茶、そしてスイーツ作りなど。可愛らしい娘さんの成長記録を織り交ぜながら、そうした豊かな趣味の日常をウェブ上でコラージュしていて味わい深く、ウェブ日記としての好奇心を掻き立てるセンスと技があった。私はサイトが更新されるのを毎日、今か今かと楽しみにしていた。

 彼のサイトの中に、「中国茶のオルタナティブ」というのがあった。茶の湯の哲学や茶道具・鉄器にまつわる12の随筆で、小気味よい文章で茶目っ気があり、知らず知らずその知識を身につけられるような楽しい読み物であった。

 いつしか私は、彼は日本人ではなく、中国人あるいは台湾人なのではないか、と考えるようになった。なんとなく、その節々がそれぞれの文脈の中に感じられた。実際のところは分からない。彼のプロフィールは念入りに多くが伏せられており、横浜近辺が居住地なのではないかとこちらが推測するほかはなく、出身地については謎であった。
 しかしながら彼の日記の中における、その日常全体の空気が、どこか貴族的、上流階級的な情趣があって、むしろそれは好感の持てるたぐいであったが、日本から少し距離を置いたアジア人、古い言い方をすれば渡来人という位置づけを空想してみると、彼の人物像がよりいっそう輪郭を帯びて際立つのである。

 そうしてある日、彼のウェブサイトが突然おかしなことになった。
 ブログの最新ログから数ヶ月分がごっそりと抹消され、あの「池袋のお馬さん」も「中国茶のオルタナティブ」もネット上から消えてしまったのだ。
 消されずに残っていたのは、オーナーが2011年あたりから熱中していたスイーツ作りのログのみ。それはシフォンケーキやマフィン、チーズケーキやババロアなどのレシピ集であったが、一緒に作っていたはずの愛娘さんや家族の存在は完全にはぎ取られていた。
 何故、スイーツのレシピだけが残され、家族の記録が抹消されたのか。
 無論、この突然の“抹消事件”以降、ブログは一切更新される気配はなく、もはや主人を失った別宅といった感じでひっそりと佇んだまま。尚も私は更新を待ち続けたものの、捨てられた別宅の冷気が漂っていた。

 2011年にエイミー・ワインハウスさんが急逝し、ファンであったオーナーがいち早く驚嘆と失意のコメントを記した時のことは、今でもよく憶えている。彼女への悲嘆が、自分自身への嘆きとなったのだろうか。

 残されたログを頼りに、私はなんとかオーナーとメッセージを交わしてみたいと思った。そして真実を知りたいと思ったりもした。しかしそれは、これまでのありとあらゆる夢心地な空想を瓦解させる決定的な手段でもあって、愚直にそれを実行しようとは及ばなかった。
 真実を知るとは、目に見えない儚い花すらも失うことになるのではないかと、不安がよぎった。そうだ、手を出すべきではないのである。

※この話の続稿ともいうべき「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈一〉」はこちら。

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