スキップしてメイン コンテンツに移動

☞最新の投稿

硬派な短篇小説と『洋酒天国』

このところ好んで開高健氏のルポルタージュやらエッセイに読み耽っている。大阪時代の話が、めっぽうギトギトしている感じがして、読んでいるこちらも思わず汗を掻く。そのせいか、大人向けの渇いた感じの読み物の、ヨーテンが恋しくなる。ヨーテンとは、『洋酒天国』のことである。毎晩ウイスキーのオン・ザ・ロックでトリスやらニッカを飲んでいる。夏は冷たいビールじゃないんですか、と訊かれても、ふんと息を荒げてしまう。ビールは嫌いじゃないが、どうも今年の夏はウイスキーなのだ。ニッカと言えば、シングルモルトの“宮城峡”は飲んだことがあるが、“余市”はないな…。それより、“山崎”も“白州”もしばらくご無沙汰しているではないか…。独りウイスキー談義に花を咲かせ、心地良い酔いがまわってくる。酔いすぎてもダメ。  何気なく拾って手に取ったヨーテンの裏表紙の広告が、トリスのエクストラだ。そう、私は今、トリスに何故か夢中になっている。恋をしている。角瓶ですら寄せ付けていない。《…女は齢をとればダメになるが トリスは古くなるといよいよ うまくなる》。女を馬鹿にしてみたら、実のところ女に頭が上がらぬ自分に気づき無口となる。そんなダメ男の独りよがりの酒も、黙って見過ごしてくれるトリス。だから私はウイスキー党なのだ。
§
 はい、お待ち遠様、壽屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第55号は、昭和37年10月発行。昭和37年(1962年)と言えば、吉永小百合と橋幸夫の「いつでも夢を」やジェリー藤尾が歌う「遠くへ行きたい」が大ヒット。「遠くへ行きたい」は永六輔作詞、中村八大作曲。ということはこの頃、NHKの夜の生番組「夢であいましょう」が大人気だったということ。オリンピック景気に沸いたこの年の10月、当時19歳だったプロボクサーのファイティング原田が、世界フライ級のタイトルマッチでタイの選手ポーン・キングピッチを破り、世界王者になって時の人に――。テレビ時代の黄金期でもあった昭和37年である。  ところで、この年に発売されたライオン歯磨(現・ライオン株式会社)の「バイタリス」という男性用整髪料をご存じの方はいるだろうか。私自身は一度も使ったことはない。が、当時のポマードのようなベタベタやテカリがない新しいタイプの整髪料だったそうで、実は私の父が生前、愛用していた整髪料でもあった。今でも販売され…

埋もれていた文集の中から

 我が母校である小学校の卒業アルバムは、その作成のために収集された(わざわざ撮られた)小学6年時の教室やら校庭でのスナップであるとか、部活動写真、クラブ活動写真ほどで全3クラス分が埋まり、その他は児童自らが書き下ろした“6年間の思い出”なる作文で構成され、6年時以外の写真と言えば、入学当時の学級別の記念写真だけである。
 ということは、この卒業アルバムには、小学2年から5年生に至る児童らの成長過程の重要な痕跡――校内での写実的記録等がまったく無いわけで、個人的にはどうもそのあたりが物足りないと思ってしまう。まだまだ写真撮影が貴重な時代であったから、遠足や修学旅行でのスナップを持ち合わせて補完したとしても、乏しい。
 例えばもし、子供の頃にケータイカメラとクラウド・コンピューティングが盛んであったならば、むしろ否応なく日常的記録が蓄積されただろう(現に今はそうなっている)。後々、成長過程で起こったことの事実と記憶との照らし合わせの誤差が、ほとんど感じられずに済んだのではないだろうかと思うのだ。その点、今の時代には到底、敵わない。

 さて、私がついさっき、なんの脈略もなく思いだしたのは、小学校時代の通信簿がまだどこかに残っているのではないかということだった。それは結果として面倒や困難もなく探り当てることができた。小学校のみならず中学、高校までの通信簿が確かに現存していた。
 興味の範囲を小学校時代に絞ってみて、何かそこに、当時の担任と自分との間に、記憶から消えてしまっている僅かな親密さが感じられるのではないか、という淡い期待があった。しかしそれは、あっけなく裏切られた。いや、「られた」のではなく自分がそれを裏切っていた。
 一言で言い切れば、自分の通信簿の中身は無味乾燥。校内における生活態度や成績があまりにも平凡すぎて、5段階評価で優もなければ劣もなく、可、可、可と6年間続き、その間の5人の担任は、このあまりに変化のない教え子の、甲斐性のない凡庸な成績に「厭きた」と思われたようで、具体的な評価抄すらも凡庸な文になっていた。せっかく達筆なのに味気ない。中庸、凡庸、平凡、普通…。登りもなければ谷もない、ひたすら平坦…。
 楽しかった小学校時代、といった自分自身の青天を感じる記憶の中の雑感とは、だいぶ乖離した通信簿の平凡ぶりであった。

*

 だが一つだけ大きな収穫があった。通信簿の保存と合わさって、当時(1980年)のPTAによる藁半紙文集が残っていたからだ。

《昭和55年度 文集 希望
○×小学校 PTA母親文庫》

 そんなものを当時作成していたとは、まったく記憶になかったが、ある保護者(母親)の氏名があることに気づき、その作文に目を通してみた。以下は、その方の作文の全文である。
※一部誤字脱字を修正。

《「出逢い。青春。そして今」
 三十も並びの年を迎えたと言うのに、今だに愛読書が「赤毛のアン」とは、どうも精神年令が、どこかで止まってしまったままのようである。それを承知の上で書いているのは、幸か不幸か、私の人生に拘わりを持った本であることも認めざるを得ないことであるからかも知れない。
 「アン・シャーリィ」との出逢いは?、私が十才の時であった。驚きとあこがれに胸をときめかせながら読んだものである。
 孤児であるのにそれを感じさせない明かるさと、赤い毛にあこがれて、そばかすでさえもほしいと願い、グリーン・ゲイブルズの窓から景色を眺めてみたいと真剣に願う女の子であった。
 青春のまっただ中である二十才の頃のある日曜日、情熱家で感受性の強い親友と一緒に本屋に入った。別行動をとっていたのであるが、驚いたことに、お互いに手にしたのは、文庫本の「赤毛のアン」「アンの幸福」…など、アン・シャーリィの人生十巻であった。親友と共に、時のたつのも忘れ、読みふけったあの頃も、つい先日のような気がしてならない。
 先に書いた、私の人生に拘わりを持った本とは、この時、友と感想を述べ合ったことから始まったのである。
 「アン・シャーリィ」のライバル「ギルバート・ブライス」に話ははずんだ。異性に興味旺盛な年頃ではあったが、友と二人で誓い合ったものである。
 「ギルバート・ブライス」のような男性以外は、絶対に振り向かないこと。
 経験も未熟で、知識もお粗末である二十才の頃、私達の頭は、ギルバート・ブライスに凝り固まっていった。
 人並みに色々な出逢いや別れを経験し、そして、友も私も結婚して二人の子供を持ち、今に至る。
 友のご主人は、さすがと思えるほど、ギルバートの雰囲気を漂わせ、友の鼻は、ますますつんと高く成長している。私の夫は…となると、「似てないなあ、どうして?」と言う一つの疑問でさえも、落ち着いて考えることもなく、二十才代は過ぎ去り、つい先日、又、古本を読み返し、ついに苦しくも解明したのである。
 「田舎っぽさ」…あの時代に一致しないでもない。
 川でしじみ取りや、沼でどじょう取りをしたこと、屋根より高い竹馬を乗って遊んだことや、兎を掛け合わせて五十円で売った話、一匹の蝉を追いかけて一日が暮れかかってしまったこと、担任の先生からマークされていたほど、利かん坊で遊び好きだった小学校時代の話、そんな安らいだ素朴な思い出を詰めている夫が、アン・シャーリィ時代と重なった。「ギルバート・ブライスにはほど遠い夫ではあるが、なんとなく臭いはしないでもないなあ」と無理に充てはめて考えているのは、やはり私の愛読書が「赤毛のアン」であることが致命的な事実であることに話は戻ってしまう。
 マリラの子育ても今の私には納得出来るし、とにかく何度読み返しても飽きの来ない私の秘蔵書でもある》

*

 まず何より、ここにその作文を掲載したことは、ご本人の承諾を得ていないので、ご本人に心からお詫び申し上げたい。
ただ、これがもう32年前の作文であるということと、この方には当時たびたびお世話になっていたということ、それから、当然ながらこの方の娘さん――私と同級生だった女の子――もよく知っているし、その女の子の弟さんも知っている間柄であったから、許していただけると思う。
 小学4年の時、ピアノで「エリーゼのために」を弾いたあの女の子の母親が、これほど品のある、娘にも劣らない文学少女であったことを、32年経過して初めて知りうることができた。夫に対するほのかな愛情を感じるだけでなく、彼女こそアン・シャーリィであったことを教えてくれる貴重な作文。
 私はあの当時、突如として転校してきた女の子――そして3年後にまた転校してしまった、その温和で気品のある家族に、心から憧れていたのだった。

コメント

このブログの人気の投稿

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
*
 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …