スキップしてメイン コンテンツに移動

赤毛のアンと少女の話

 今、私の手元にあるルーシー・M・モンゴメリ原作の日本語版『赤毛のアン』数冊のうち、古い中村佐喜子訳(角川文庫)のそれが、私が少年の頃に親しかった少女の“母親”が熱心に読んでいた訳本――であると推理した後、その他の訳本に目もくれず、私がこれに読み耽った動機について、ここでたわいない雑文を記しておこうと思った。

 その少女の“母親”が、私にとって極めて《懐かしい人》であるという言い方をすると、多少の遠慮を図った回りくどい言い方になるので、ここは素直に心の内を明かさなければならない。つまり、少年時代の私がその少女に恋心を抱き、その家族までも愛し、彼女の母に対して、憧憬と畏敬の念をもっていた、ということであり、これは私がずっと心の奥でしまっていた大切な思い出なのであった。

 当時、私と同学年のその少女は、私の家のすぐ近くに引っ越してきた。小学2年の頃である。彼女は理知的で清楚でいながら、思わぬところで天真爛漫に花開くことがあり、まさに一輪のスミレ花のような女の子であった。校内では勉学も優秀で、ピアノを弾き、友情も厚く、読書家で通っていた。
 一方で毎日、恋心でむず痒くぼんやりとしてしまっていた私は、その頃、雑貨店で買ってきたノートを彼女に幾度もプレゼントをして、彼女の気を惹くことだけは忘れなかった。

 つまらぬ話なので手っ取り早く片付ける。要するに彼女一家は、およそ2年ほどで遠い別の町へ引っ越していってしまった。私の恋心は打ちのめされ、純情っぽく枯れんばかりの涙を流した。どちらが少女か分からぬほどに。ただし、この恋は誰にも気づかれずに済んだ。おそらく、担任の先生以外は。

*

 モンゴメリの瑞々しい英文を、その等価と評していい日本語に訳した中村佐喜子版『赤毛のアン』は、一貫してこんな調子である。

《グリーン・ゲイブルズの十月は美しい。窪地の樺の木は、陽光のような金色になり、果樹園のうしろのかえでは真紅になり、小径の野生の梅も、濃い赤と青銅色のえも云えぬ色合いになった。刈り入れ前の畑もまた輝いている》
(第十六章「悲劇に終ったご招待」より引用)

 その部分のモンゴメリの原文は、こうである。
《October was a beautiful month at Green Gables,when the birches in the hollow turned as golden as sunshine and the maples behind the orchard were royal crimson and the wild cherry trees along the lane put on the loveliest shades of dark red and bronzy green,while the fields sunned themselves in aftermaths》

 私の心中でとても思い出深いあの少女は、いかにしてその品性を子供時代に保っていたのか――について。あるいは、何故彼女は時に天真爛漫となったか――について。これらは、私にとって永遠に知り得ることのできない謎と思われた。美しい花は、花であるからこそ美しいのだ、といったような自然の真理を顧みることは不可能であると思われた。
 だがそれは、まったく思いがけずに、あの《懐かしい人》、すなわち彼女の母親がしたためた古い文集が発見されることによって覆される。彼女の母親の愛読書が『赤毛のアン』であったという事実の発見。そこにこそ、美しい花の秘めたる謎を解き明かす鍵が隠されていたのだ。アン・シャーリィとギルバート・ブライスへの熱情的な想い(その文集の発見の経緯については、私の拙文「埋もれていた文集の中から」に譲る)。

 ともかく、《懐かしい人》の、アン・シャーリィを対象とする、ときめきと心持ちは、自身の子育ての一部となって、娘へと伝播した。母親の理知を遺伝とし、あの少女の天真爛漫さは、まさに彼女がアン・シャーリィであることを示唆している。さらに言えばダイアナの品性すらも兼ね備えていた。いや、それだけではない。彼女一家すべてが、グリーン・ゲイブルズに棲む家族であったのだ。《懐かしい人》は、自身の生きるすべてを、『赤毛のアン』のすべてに見立てていたのではないだろうか。

 無論、当時その登場人物となっていた《少年の私》は、ギルバート・ブライスには到底見立てられることはなかった。何故ならあの少女にとって、そのわずか2年間でありながらも、ギルバート・ブライスとしての少年が別にいたことを、私はよく知っているから。

 こうして冴えない登場人物としての《少年の私》は、32年前の思い出と苦笑しながら、ブライト・リヴァへとぼとぼと歩く以外にない。そして駅へ。
 そうして夢の中で汽車に乗りエヴォンリーを去ろうと思う時、アンが口にした言葉を思い出す。
《God is a sprit,infinite,eternal,and unchangeable,in His being,wisdom,power,holiness,justice,goodness,and truth,》

 これは私にも勇気をもたらす重い言葉である。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…