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3月, 2013の投稿を表示しています

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伴田良輔の「震える盆栽」再考

作家でありセクシュアル・アートの評論家でもある、伴田良輔氏の様々な文筆作品に目を通す機会が多かった私は、その最初に出合ったショート・ショート作品「震える盆栽」の妖しげで奇怪なる感動が今でも忘れられない。それはもう、かれこれ27年も前のことになるのだった。  この「震える盆栽」については、当ブログ「『震える盆栽』を読んだ頃」(2011年2月)で書いた。いずれにしても27年前の“異形の出合い”がなければ、その後私はセクシュアル・アートへの造詣を深めることは無理であったろう。敢えてもう一度、この作品について深く掘り下げてみたくなった。あの時の、邂逅のエピソードからあらためて綴っていくことにする。
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 「震える盆栽」を初めて知った(初めて出合った)のは、90年代初め。私はその頃上野の専門学校に通っており、まだ20歳になったばかりの時である。  ある日、授業の合間に学校を抜け出て、入谷方面へと散歩に出掛けた。交差点近くの所に来て、小さな書店を見つけたのだった。暇つぶしにこれ幸い、とその店に駆け込んだのだけれど、今となっては、その場所も、店の名前もまったく憶えていない。――ちなみに後年、鬼子母神(真源寺)のある入谷におもむいて、この書店をしらみつぶしに探したことがあったが、見つからなかった。既に閉店していた可能性もある。  私は、ありとあらゆる理由を考えた末に、結局、あの書店はもともと狐なるものが経営していて、ある日忽然と消えてしまったのだ、と信じて已まない。そういえば店主は、細い目をしていたような――。
 閑話休題。さて、その書店に入ったはいいが、真っ昼間で他のお客は誰も居なかったのだった。だから店内はしーんと静まりかえっていた。この狭い空間に、店主と私二人きり。何かUSENのBGMくらいかけておいて欲しい…。雰囲気としてはとても堪えられそうになかった。そう思ってしまったのは、なんとも若気の至りであった。
 若気の至りほど感覚的に懐かしいものはない。今の私なら、そういう小さな商店に足を踏み入れて、場の悪い空気にさらされたとしても、何ら平気。何のためらいもなく居続けるに違いない。え、客は私ひとりですが、なにかそれが問題でも?――。店主に話しかけられようが何だろうが、ずっと居座り続けるに違いない。尤も、長い時間読みたくなるくらい面白い本がそこにあれば、の話だが。  年を取…

『煤煙』と平塚らいてうのこと〈一〉

岩波書店PR誌『図書』2013年1月号の田中優子著「らいてう再読」を読んだことがきっかけとなって、平塚らいてうと森田草平に関心を抱いた。明治末期に彼らが引き起こした心中未遂スキャンダル“塩原事件”と、それを書き綴った草平の小説『煤煙』について、そのあたりのことをだらだらと思考する機会が増えた。草平は夏目漱石の木曜会に参会した門下生であったが、それまで私は森田草平の著述を読むことがなかった。そういった興味からも『煤煙』を読んでみたのだが、不可解な点が多い。故に彼らへの関心は熱を帯びて高まっていった。

⚤塩原事件と小説『煤煙』  事件の発端は明治41年の1月、成美女子英語学校の閏秀文学会で講師だった草平(28歳)とその学生(日本女子大卒業後に通った)の平塚明(後のらいてう・22歳)が、作文の批評手紙をきっかけにして交際し始めたことからである。この二人の交際の中身こそが、「不可解」となる部分を多分に占めているのだが、それについてはひとまず置いておく。
 交際が続いた後、ダヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)の『死の勝利』やドストエフスキーの『罪と罰』に感化されていた草平は、らいてうと逢い、
《あなたを殺す、そのあと自分はどんなに変わるか、雪ふかい樺太の監獄の独房に最後まで生きてその自分を見きわめるのだ》 (平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第一巻より引用)
 と漏らす。そして3月21日、草平はらいてうを引き連れ、残雪厳しい奥塩原の尾頭峠へと向かう。既にらいてうは自宅に、父への手紙をこう書き残してきた。
《わが生涯の體系を貫徹す、われは我がcauseによつて斃れしなり、他人の犯すところにあらず》
 奥塩原の宿でらいてうは、自宅から持ち出していた懐剣を草平に渡す。翌日、二人は山々が連なって美しい雪原にて立ち往生する。疲労困憊の草平はウイスキーを飲み、心底疲れ果てた挙げ句、ついに殺人の決行を諦め、懐剣を投げ捨てた――。
 心中未遂事件ではなかった。しかしながらこの時の事件は、派手に新聞等を賑わせたらしい。同年、漱石の介添えがあって、草平は、二人の交際と事件とを小説化した『煤煙』を執筆。翌年元日より朝日新聞にて連載が始まった。
⚤らいてうと草平  妻子ある身で妾もいた主人公=小島要吉(草平)の生い立ちの、その暗鬱した精神と気分は、『煤煙』の序盤で精…

おしゃれな花入門

春は百花繚乱の季節である。そんな季節に読みたくなる女の子の本が、かつての“入門百科シリーズ”の中にあった。
 小学館のこのシリーズでは、女の子専門の“ミニレディー百科”という枠が用意されていた。いま私が手にしている『おしゃれな花入門』もその一つなのだが、他には、『すてきなおかし作り』だとか『少女まんが入門』『バレエ入門』『あなたも詩人』『スポーツおしゃれファッション入門』『エチケット入門』などがあり、女の子の嗜好や趣味に合わせた枠であったことが窺える。
 本題の『おしゃれな花入門』(昭和52年初版)は、サブタイトルにあるように“フラワーデザインから花うらない”までを特集した、言わば花飾りのための本で、古風な言い方をすれば、乙女心をくすぐる内容になっている。
 カラーページを見てみると、「マーガレットとヤグルマソウのボケー」「茶色のバラのコーサージ」「布で作った花のコーサージ」「ウォーターペンダント」「ヒマワリの種で作ったモザイクブローチ」「ドライフラワーのスプーンペンダント」などといった具合に、女の子がちょっとしたおしゃれをするための簡単な花飾りを覚えることができ、人へのプレゼントとして、あるいは何かの記念日に飾り立てるとか、そういった花の使い方がある程度学べるようだ。ちなみにこの本の中の、花のデザインや制作を手掛けたのは、マミ川崎さんである。
 圧倒的な部数を誇っていた小学館の“入門百科シリーズ”については、私自身、小学生の頃に書店で立ち読みをし、気に入ったものは買い求め、全体的に最も好きな児童本であったことは他の稿で触れた。ただ当時、こうした“ミニレディー百科”のように女子専科の本は、たとえ思いがけず興味が湧いたとしても、書店でそれを立ち読みすることは、男子としてかなりの羞恥心を伴うため、そういった本に触れることさえできないものだった。確かに男子にとって、乙女心をくすぐるこれらの本を、買ってまで読みたいとはおそらく誰も思わなかったであろうが、心の片隅に、ちょっとだけ中を見たい、読んでみたい、という妙な好奇心は少なからず誰にもあったのではないか。あれから数十年を経て、今私はそれを実践していることに、不可思議な感動を覚える。
 『おしゃれな花入門』では、ボケー、ボケーと、やたら“ボケー”という言葉が出てくる。フラワーアレンジメントを知らない我々素人は一体何のこ…

ローソクを食べる

懐かしい小学館の“入門百科シリーズ”で、『科学マジック入門』(岡田康彦著・昭和53年初版)というのがあった。思い出せば、小学生の頃に夢中になって読んだ本である。
 小学2年生の頃だったか、“お楽しみ会”というのがあって、それぞれの班が出し物を考えて、皆に発表する、という学級イベントが流行った。年に数回ほどのイベントであったが、合唱や合奏、あるいはちょっとした漫才を披露したり、なぞなぞの本でクイズをやったりなど、各々の児童がアイデアを出して発表するのだ。担任の先生は一切加わらない。その時、我々の班では手品をやろうということになり、食玩で買ってきた手品を発表したことがある。
 出し物のために買ってきたその食玩(手品シリーズ)は、「指ギロチン」というものだった。  プラスチック製の高さ10センチほどの小型ギロチンの玩具に、人差し指を入れ、一気にギロチンを落とす…。ところがギロチンが落ちても指がまったく切れない、というスリルある手品だった。数百円でこの手の手品が子どもでも試せたので、手品シリーズの食玩はそこそこ人気があったようだ。
 さて、お楽しみ会でその「指ギロチン」を披露したことはしたが、あまりに好評だったために、種明かしをしろ、といったような野次、いやむしろ怒号に近い声が教室のあちらこちらから湧き上がった(小学生低学年だから仕方がない)。
 演じた本人としてはいったい何故?と思ったが、時既に遅し。出し物「指ギロチン」のパートナーだった友人が、烏合の衆にもみくちゃにされ、玩具「指ギロチン」をも奪われ、あっけなくその手品の種が皆にばれた。  パートナーの友人はもう泣きじゃくっている。そもそもギロチンとは、フランス革命時代の処刑用の断頭台(Guillotine)であるが、この時友人にとってまさしく民衆に殺されかかったロベスピエールの心境だったかも知れぬ。
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 そうした“処刑事件”の直後、なんとなく手品の出し物を探すようになった私は、そういったたぐいの本を探し求めた。子ども向けの手品の本はそれこそ数え切れないほどあった。  そこで私が選んだのが、『科学マジック入門』だった。ただし私は、“科学”の意味が掴めずにその本を買ってしまい、一般的なトランプやダイスなどを使った手品の本かと思いきや、まったくそうではなく、実質的には理科の科学実験を手品風に仕立てた妙著だったので、や…

麗しき奏楽堂

漱石の『野分』で二人の青年・中野君と高柳君が慈善音楽会へ訪れる場面がある。それが東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)の奏楽堂である。
 私は今、旧東京音楽学校奏楽堂の小冊子を見て、その沿革について関心を抱いた。明治23年に建造され、今の上野公園の片隅に移築され、昭和63年に重要文化財に指定されるまでの波乱に満ちた沿革。ちなみに、東京藝大敷地内にある新しい奏楽堂(ホール)は、近代的な建築で1,100席を誇る設備の整った音楽演奏会場となっており、フランス製の荘厳なパイプオルガンは旧奏楽堂の由緒を受け継ぐものだ。

 私が感じるのは、沿革の中に記されている、老朽化した奏楽堂の移築・保存問題の落着とともに、これが新しい奏楽堂に最も近い場所で、地道に小さなコンサートを続けていることの誉れと愛くるしさである。日本最古の洋式音楽ホールの格調と歴史を保守する文化財としては、健気すぎるほど健気であるが、何かそこには、現代の思潮に沿った音楽を演奏する場所としても、言葉では表現しにくい《滋味》のようなものがあると思えてならない。

 自身の思い出としては、一昨年前、幼年時代に見た百科事典の中の「管弦楽団の記念写真」について書いた(「旧東京音楽学校奏楽堂のこと」)。その記憶にある古びた写真、すなわち奏楽堂の写真には、アウグスト・ユンケルという人が写っていたこと。そして、まだ自身が館内を一度も見学したことがない、ことなど。

 今年の3月、上野公園の散歩がてら、ようやくその奏楽堂を訪れることができた。4月には建物の保全のために休館となるとのことで、その直前のホールを見学することができ、胸を撫で下ろした。
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 その日、中を訪れると、2階のホールからは、心地良いパイプオルガンの音色が広がっていた。大正9年に徳川頼貞(紀州徳川家侯爵)がイギリスから購入し、後に東京音楽学校へ寄贈したというアボット・スミス社製のパイプオルガンである。
 頼貞候は音楽、殊に西洋音楽を国内に根付かせた立役者であり、その人脈と功績は大きい。もともと南葵楽堂(東京都港区麻布にある父・頼倫自邸に設置された南葵文庫に附属された音楽堂)に設置してあったこのパイプオルガンは、関東大震災による音楽堂の損壊により、縁あって東京音楽学校へ贈られた。

 このパイプオルガンの音色の、私の個人的な感想は、最も懐かしい保育園時代に先生が弾…