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『洋酒天国』―ジャズと日劇〈2〉

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壽屋(現サントリーホールディングス)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第58号は、昭和38年7月発行。熱っぽくルイ・アームストロングのジャズの話で盛り上がった前回からの続き。今回は日劇――。昭和の時代に一世を風靡した日劇ミュージックホールの話題に入るのだけれど、その前に、第58号に掲載された山本周五郎のエッセイ「ブドー酒・哲学・アイスクリーム」について少し触れておきたい。
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 昭和35年頃より壽屋(寿屋)の宣伝部は、本業があまりにも多忙となっていた。“ヨーテン”自体は低迷していたため、ある種のテコ入れをおこなったのである。第51号からは少し大きいサイズのA5判とし、読み物のページを増やした。しかしこれも結局、営業部の要望で「バーで人気のあった」という“元のサイズ”=B6判に戻したり、この間、作家の山川方夫を編集顧問に招いたり、昭和36年には東京の宣伝部で新卒採用を決行し、若い新人を入れて人員を確保――といった具合に積極的な戦略に打って出ていたのだ。  昭和38年には、新規のビール事業も展開。社名を「サントリー株式会社」と変更。そうした大々的で慌ただしい社内において、“ヨーテン”編集部では、さらに気勢を上げる策として、当時売れっ子の作家であった山本周五郎にエッセイを書いてもらおうと企図する。見事にそれが具現化したのが、第58号の「ブドー酒・哲学・アイスクリーム」だったわけである。この経緯については、小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)が詳しい。
 山本周五郎の時代小説で代表的な作品と言えば、まあ、それこそいろいろあってなかなか絞るのが難しい。敢えて挙げるならば、『五瓣の椿』とか『さぶ』であろうか。『さぶ』は、この年昭和38年に雑誌『週刊朝日』に連載され、すぐに新刊本となった小説である。山本周五郎と聞くと、個人的には、黒澤明監督の2つの映画の原作である『赤ひげ診療譚』と『季節のない街』の小説の方が、すぐに思い当たる。
 エッセイ「ブドー酒・哲学・アイスクリーム」の全体的な文脈は、当時(昭和30年代後半)、国内ではまだワインを飲むという習慣が一般大衆には広まっていなかった(喩えて言うなれば、壽屋の「赤玉ポートワイン」は甘口で愛嬌があるが、本場のワインはそれに比べなんとも辛口で毛嫌いする人が多かった)ことが背景にあり、そもそも舶来の酒は輸入がまだ困難な時代…

『煤煙』と平塚らいてうのこと〈二〉

 〈一〉からの続き。
 歴史を感じさせる商店が、ぽつりぽつりと確かに散らばっている。しかしそれ以外は現代的なビルディングが建ち並んでいて、明治の面影を顧みることはできない。朋子と要吉が歩いたとされる、谷中から団子坂を私は歩いてみた。ひっきりなしに自動車が往来して、彼らに思いを馳せることも、また彼らと時代の呼吸を合わせることも、今となっては難しい。

⚤襟巻(ボア)と洋袴(ズボン)と団子坂

【団子坂のあたり】
《ね、貴方は――貴方は癲癇(エピレプシィ)の症候があるんだとばかり思つた。ね、さうぢゃないか。私一人でさう考へたのかも知れんが、私は如何しても貴方にさうなつて貰ひたい》
(森田草平著『煤煙』より引用)

 既に朋子の心は冷めていた。朋子があの日の夜に掛けていた襟巻は失せていて、要吉もそれに気がついた。いつも歩く道程を朋子は避け、よそよそしく無言を決め込んだ――。

 小説の中の朋子の態度と、実際にそれがあった平塚らいてうの心境とは、ここでは見事に一致する。珍しく朋子の内側の襞が現出した場面であり、無言であることが要吉に対する最後通牒でもあった。

 要吉すなわち森田草平がダヌンツィオの『死の勝利』を頭に思い描くあまり、朋子が癲癇患者であることを彼はひたすら望む。らいてうの自伝によれば、草平はダヌンツィオのみならずドストエフスキーまで持ち出して、癲癇は天才病なのだから、それによって昏睡状態に陥る発作の態(身体美?心理美?)を、彼女に求めたがったという。

 英文学者・評論家で知られる吉田健一氏の『煤煙』評論文が面白く興味深い。

《戀愛といふ言葉は出来てゐても、それが男女間のどのやうな感情を指すものかを、彼らは外國の詩や小説から學ぶ他なくて、それを實地に行はうとする場合、女の方でも、男の方でも、自分がさういふ外國文學から得たと信じてゐる戀愛の観念を先づ胸に描いてみなければならなかつた》
(筑摩書房『現代日本文学全集』第22巻吉田健一著「森田草平集」より引用)

 吉田氏は、男女間の在来の愛欲を越えた何か烈しい感情が彼らにとっては“ラブ”だったと述べ、そもそもこうした恋愛の観念が、外国文学の未熟な読み方から生じた錯覚だとしている。

 実際、草平とらいてう二人が、“ラブ”という抽象的な曖昧な観念の日常的現出をとらえきれていなかったとすれば、らいてうが嫌悪を感じた草平の演技的な接吻(らいてうの袴の裾に)と演技的な愛撫(らいてうの手の甲を取り上げ、二、三本指を口に含んでそっと噛んだ)に対する激しい怒りも頷けるし、また草平が自らそうした接吻と愛撫をすることで、らいてうの心を掴むことができると錯覚もしくは幻想を抱いたのも頷ける。

 草平は履き違えた“ラブ”のドラスティックな態度と行動の相乗によって、らいてうにエピレプシィを要求し、言わば互いに向き合った“ラブ”の確証が得られた暁には、らいてうを殺害し、自ら雪の樺太の独房で生涯を送る、といった夢想を渇望した。このロマンチシズムの渇望劇が『煤煙』のすべてである。無論、この渇望は絵空事、夢の世界、幻想のたぐいであって、本来的な愛の日常的現出ではない。吉田健一氏は草平をも「夢遊病者の一人だった」と言い切っている。

⚤髙山樗牛の『滝口入道』

 らいてうの自伝には、明治36年、当時16歳だった旧制一高の学生・藤村操が哲学的な遺書(「巌頭之感」)を遺して日光・華厳滝で投身自殺したことについて、ほんのわずか触れられている。らいてうが日本女子大家政科の学生だった頃だ。

 以前私は、平岩昭三著『検証――藤村操 華厳の滝投身自殺事件』(不二出版)を読んだ。藤村操が自殺した動機について、いわゆる人生不可解の苦悩という意味の哲学的な煩悶を抱いて自殺したのではなく、失恋によって自殺したという仮説がある。

 後年の作家や研究者らの検証によって、事実としても失恋説が濃厚であると記されてあるのだが、藤村はある本を年上の女性に渡し、自ら愛の告白を済ませた後、命を絶ったとされる。

 その本とは、髙山樗牛の『滝口入道』である。

 そしてらいてうもまた、『滝口入道』はもとより樗牛の哲学や思想論文にも目を通していた。藤村の自殺の翌年、日露戦争が勃発する――。

〈終〉に続く。

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