投稿

11月, 2013の投稿を表示しています

☞最新の投稿

酒とギャンブルと『洋酒天国』

イメージ
酒とギャンブルと…というのはタイトルとしてちとよろしくない。なにか卑俗的で真面目さに欠け、紳士的でないと受け取られる。酒に溺れギャンブルに溺れ、放蕩三昧の挙げ句、一家離散、空しい人生――常に人は想像を暗い方へ、極端な方へ持っていく。
 壽屋(現サントリーホールディングス)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第60号は昭和38年12月発行。写真は薄久夫、カットは河野俊二、深堀哲夫、桝仲律、松永謙一。表紙のコラージュ・カットにある力強い“両目”が、どことなく俳優・柳楽優弥さんの目に似ているのは気のせいか。いや、気のせいに決まっている。それはそうと今号は、酒の話を少し控えめに、“ギャンブル特集号”なのである。ああ、なるほど、それで――。  ギャンブルなんて、昭和時代のいかがわしさの象徴――と思うのは、ちと短絡。“ヨーテン”はそんな単純な雑誌ではない。言うなれば、放蕩ではなく高等な書物なのである。正面からギャンブルを思考し、対峙し、今号はきわめて真面目なのだ。いや、お色気ありだから、そうでもないか――。とにかくギャンブル礼讃という視点から鵜の目鷹の目で見つめてみようという魂胆で、何かしら人生訓の参謀書となるかも知れないから、そのおつもりで。
§
 昭和38年(1963年)の世相については、前号(第59号)と同様、その前の第58号「『洋酒天国』―ジャズと日劇〈1〉」に記してあるので、そちらを参照していただきたい。今号の表紙を開くと、そこには以下のような鮮やかな警句が付されており、一気に“ヨーテン”らしさを満喫することができる。 《男と生まれてギャンブルをしないひとがいます。偶然を軽蔑するのです。すべて必然の鉄の鐶の中でしか考えない奴です。人生は無限に長いと信じているひとです。理解し難い存在です。無味乾燥氏です。アホーです。そういうひとのために、この『洋酒天国』をつくりました!》 (『洋酒天国』第60号より引用)
第58号から連載が始まった“少々古風で含蓄ある随筆”、作家で評論家のいいだもも氏の「モンタージュ世相史(3)」は、ギャンブラーとは無縁の境地なりといった感じで、こちらも違う意味で鮮烈。連載の初回では文明開化の世相で大いに辛口な皮肉が充満していたが、数えて3回目となる今回は、大正デモクラシーのトピックスである。
 ちなみに皆さん、学校の社会科で習ったかと思われるが、大正デモクラシーの本…

ポール・マッカートニー~サウンドの啓示

イメージ
私が小学校を卒業したのは1985年(昭和60年)で、おそらく前年の1984年頃までに、日本でカラオケ・大ブームがあった、と記憶している。子供の目線から見ても、歌謡界は花盛りであった。  当時、いわゆる“8トラ”(ハチトラ)=「8トラック・カートリッジ・テープ」がカラオケ用のメディアとしては主流であった。言わば8トラの大量生産時代であり、どの家の自家用車にも8トラのカーステレオが装備されていて、車の中に演歌やポップスのカートリッジが散乱しているという光景を、ごくありふれた日常の光景として目撃したりした。
 そういうカラオケ・大ブームの頃、我が家にもカラオケ用の大型スピーカー(音声多重のためモノラル)を備えたオーディオがあった。そして大量の歌謡曲のカートリッジに紛れて、ホームセンターの在庫処分バーゲンで買ってきた、BEATLESのベスト集的なカートリッジがあった。BEATLESやオールディーズはそういった所でよくバーゲンセールで扱われていたものだ。  ともかく私はこれが好きで、学校から帰ると毎日のようにBEATLESを聴いていた。ほとんどビートルズについて何も知らずに――。
 そこから一気に、個人的には、BEATLESの音楽を忘れていった。
*
 ――1990年。ポール・マッカートニーのワールド・ツアーがあって、広報用の小冊子(当時の東芝EMI発行)を、CDショップで手に取った。マッカートニーに傾倒しつつも私の中でBEATLESが再燃した。  小冊子の始まりは「ポール・マッカートニーの新しい出発」と題されて、クリス・ウイッテン、リンダ・マッカートニー、ロビー・マッキントッシュ、ハミッシュ・スチュアート、ポール・ウイッケンズらツアーのメンバーが紹介されていた。ジョン・レノンの死でライブ活動から遠ざかっていたポールが10年ぶり、しかもワールド・ツアーとしては13年ぶりとなる、日本公演も含まれた記念すべき年であった(前年の9月よりツアーがスタート、10カ国以上を回った)。
 その翌年、私は千代田工科芸術専門学校の音響芸術科に入学して、レコーディングについて学んだ。卒業記念の自主制作アルバムでは、マッカートニー&ウイングスの「Live And Let Die」がビッグ・バンドでアレンジされて収録された。さらに同曲で生徒らの演奏がライブ・レコーディングされたりして、曲を楽し…

墨の話

イメージ
先日、朝日新聞朝刊の文化欄記事で「墨滴」(ぼくてき)について書かれてあったのを見て、なんとなく小学校時代の“書道”の授業を思い出してしまった。
 その記事の内容は興味深い。昭和28年頃から、学校の現場で「墨」をする時間を惜しむようになったという社会的な背景から、液体状の「墨滴」を販売した、という。それでも本来の「墨」(固形墨)の良さ、濃淡のあるその「墨」のいろいろな表情を、現代でも伝えていきたい、と墨メーカーの「呉竹」綿谷会長の思いが綴られていた。
 「墨」の世界は相当奥深いもののようで、にわか好奇心を起こした私は、「墨滴」を国語辞典で探したが、少なくとも4冊の辞典では見当たらず、あるのはどれも「墨汁」についてである。例えば広辞苑では、
《墨をすり出した汁。特に、写字用として、すぐに使えるように作った墨色の液。墨液。イカ、タコが分泌する黒い汁》 (岩波書店『広辞苑』第六版より引用)
 話が少しややこしくなる。  先の新聞記事で書かれているのは、あくまで呉竹の墨液(書道液)「墨滴」についてである。一方の国語辞典で出ている「墨汁」は、一般的な言葉として使われている広義で、“墨色”の液を指しているに過ぎない。固形墨を、硯(すずり)使って水ですり下ろす。そうして出来た墨液の状態を真似て、即席に簡便化させたのが「墨汁」であり、呉竹の「墨滴」よりも歴史が幾分古い。  この広義の「墨汁」に呉竹の「墨滴」が含まれるのかどうか、私には分からない。さらに「墨滴」と「墨汁」とでは実際的な用途が違うらしく、呉竹ではその種類を分けて販売している。
 ただ、書道としても習字としても、純然たる墨液でなくとも化学的な“墨色”の液で代用できているのも確かなようだ。とは言え、最初に触れた綿谷会長の言葉に戻るのだが、やはり“墨色”の液体ではなく、本来の「墨」を味わって欲しい、ということなのである。

非常階段クラブ

イメージ
自己と《音楽》とを結びつける様々な接点や事柄を、できるだけ過去の《記憶》の引き出しから《記録》へと変換してゆきたい。そういう欲求にたびたび駆られる。あるいはそれは他愛もない妄念に過ぎないのかも知れないが。
 私の中学校時代、いわゆる部活動とは別の、週に一度のクラブ活動というのがあった。必ずどこかのクラブに属さなければならない言わば必須活動だ。ところがあいにく、中学3年の頃私はひどく怠惰で――思春期の曲がり角のせいもあるが――参加したいと思うクラブが一つも無かったから、その時間帯はぶらぶらと校内をほっつき歩き、人目の付かない屋外の非常階段で時間をやり過ごすということをしていた。一応、所属先のクラブは“軽音楽クラブ”となっていた。が、一度もその教室に入ったことはない。
 そうこうしているうちに、同じクラスのK君が、私の気儘な“クラブ活動”に参加というか賛同してくれた。彼は美術クラブ所属で、最初こそ真面目にその教室へ行っていたが中途でクラブをほっぽらかし――というより私の状態を知って意を決し――我々二人は流れるままに約半年間、こっそりと非常階段という開けっぴろげの無機質な教室に通った。無論そこには顧問など誰もおらず、非常階段から見える吹き抜けの景色を見ながら、あるいは雨風に吹かれながら、ああでもないこうでもないと、我々二人にとっては、日頃の学校生活の鬱憤をぶちまける格別な時間帯を得ることができた。
 思えばK君は中学2年の時、母親を病気で亡くし、その期の前後はやや情緒不安になったりして、日頃明るかった彼が口ごもることがたびたびあった。彼もまた思春期の曲がり角であった。それでも1年が経つと、表向きはすっかり元の彼に戻り、平安な日々を過ごしていた。
 K君との非常階段クラブは、密やかにも熱気のあるおしゃべりのひとときであった。あっという間に過ぎる小一時間を毎週体験した。そうして半年が過ぎ、そろそろどこかのクラブに、二人で入ろうかという話になった。私とK君にとって、どこのクラブに所属し直すかということは大した問題ではなかった。  結局のところ、彼が所属していた美術クラブへ、私も参加することになったのだが、その後の半年間は屋外へ赴いて風景を写生したりして、非常階段クラブと同じくらい楽しい時間を過ごすことができた。
 こんなふうにちっとも《音楽》とは関係のない想い出なのだが、…