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5月, 2014の投稿を表示しています

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千代田の学校―吹き込んだ風の追憶

梅雨が明けた先月末。その日は猛暑で暑苦しく、歩くのが億劫であったけれど、日差しの強い昼下がり、東京台東区下谷1丁目にかつて所在した、私の母校の千代田工科芸術専門学校の跡地を久しぶりに訪れた――。  私は、たびたび散歩してその跡地を訪れる。数年に一度の頻度でそこを歩き、90年代の在りし日の学校の姿を思い浮かべる。思い浮かべているのは、学校であり生徒であり、その頃の自分自身の姿である。紛れもなく言えることは、そこは私にとって、とても懐かしい場所=空間であるということだ。
千代田の母校については、もう何度も書いてきた。当ブログの2010年9月には「学生必携」、同年11月には「学校の広告」、卒業記念CDアルバムについて記した「アルバム『collage』のこと」、2011年2月には「入学式回想録」、卒業証明書に関しては2012年4月に記した「証明という感触」、講師でジャズ評論家のいソノてルヲ先生に関しては「いソノてルヲ先生―わが青春の日々」といった具合に、こと母校に関しての記述は枚挙に暇がない。ぜひ、ブログのラベルの“千代田学園”をクリックして参照していただけるとありがたい。  5つあった校舎は2000年以降次々と壊され、私が最後に見たのは、2002年頃のカトリック上野教会の裏手にあった1号館で、そこは主にデザイン写真課程の授業で使用されていた7階建ての校舎であった。  1号館の屋上には、鉄製の電波塔(テレビ塔)が設置されていた。これがまた千代田の学校のシンボルでもあった。1957年に学園が発足し、64年には1号館が完成。もともとそこは「千代田テレビ技術学校」であった(放送技術の学校、デザイン系の学校、電子工学系の学校が統合され「千代田工科芸術専門学校」となったのは1980年)。面白いことに、昭和の東京を撮り続けた加藤嶺夫氏の写真集の、昭和46年のこの界隈を写した写真の中に、小さくこの電波塔が映っていたりするのを発見した――。かつてマンモス校であった面影は、限られた写真の中でしかもはや見ることができない。おそらく2002年頃までには、すべての校舎が取り壊されたはずである。そしてその後、私は、何度もこの界隈を訪れた。今そこは、巨大なマンションが建ち並んでいるけれど、私の眼には学校の姿しか映っていない――。
 学校法人千代田学園 千代田工科芸術専門学校の音響芸術科に私が入学し…

『洋酒天国』とペルノー

フランソワーズ・サガンの短編小説「かどのキャフェ」で、ペルノーの酒が登場する。――主人公マルクは、医者から肺癌で余命3ヵ月を宣告された。彼は死を怯えた。折り重なる雑多な回想に馳せた後、大通りのかどのキャフェに立ち寄る。  ここでのサガンらしい文脈こそが、ペルノーの酒に対する私の妄想を掻き立てる。 《じつを言えば、なぜペルノを頼んだのか自分でもわからなかった。アニスの味はいつも大嫌いだったからだ。それから気づいたこの匂いが浜辺や、女の肉体や、貝類や、海藻や、ブイヤベースや、うまくできたクロールや何かを思い起こさせ、この匂いが言わば人生の匂いとなったことに》 (『絹の瞳』新潮文庫「かどのキャフェ」より引用)
 小冊子『洋酒天国』(洋酒天国社)第44号(昭和35年3月刊)では、随筆家・福島慶子さんによるペルノーの記述があった。 《カルピスを水に垂らしたような極めて薄い乳白色の液体》 《ちょっと杏仁湯の匂がする》 《聞くところによればこれはアブサンの代用で、本来ならアブサンを飲みたい所をフランスではアブサンは国法で禁止されているからペルノーで我慢している》 (『洋酒天国』第44号「酔っ払い」より引用)
 これらを読んで私の、ペルノーへの妄想はいっそう掻き立てられた。
 作曲家・團伊玖磨氏も、ペルノーについて触れている。 《かつてアラビヤを歩いていた時に、アラク(Arag)という棗椰子の実から作るお酒を愛したことがありました。強烈な、色の無い透明なお酒で、水に割ると忽ち白濁して、丁度アブサンかペルノーを思わせるものでしたが、その酔いは、何か、空を飛ぶじゅうたんや、夕陽にそびえる回教寺の尖塔の影絵にも似て、又、千夜一夜の数多い夢物語りのようにやるせなく、砂漠の旅に渇き疲れた自分にとって最上のものでありました》 (『洋酒天国』第44号「私の選んだサケ」より引用)
 團伊玖磨氏は昭和28年に童謡「ぞうさん」を作曲しているが、以上のようなアラビアの話を知ると、まど・みちおさんが作詞した「ぞうさん」に曲を付けた、象という象徴的宗教的な動物への関連性に頷く部分がある。  ともあれ、福島さんの言うアブサンの代用ということを踏まえると、團伊玖磨氏が愛したというアラクという蒸留酒の代用としてのペルノーという位置づけは、私の中で益々数奇な、あるいは奇妙な酒という定義に収まりつつあり、その好…

ウミとドクヤクとサガン

古書小冊子『洋酒天国』に珍しい遠藤周作訳のフランソワーズ・サガン「イタリーの空」が掲載されていたのを発見して、その“サガンらしくない”男っぷりのある文体にある種の違和感を覚えた私は、すぐさまサガン著の短編集『絹の瞳』(朝吹登水子訳・新潮文庫)を買い求めて、所収の「イタリアの空」(Le Ciel d'Italie)を読んでみた(「『洋酒天国』とサガン」参照)。なるほど、こちらはサガンらしく(とは言え、私はまだサガンをよく知らなかったが)、随所に女性的な情緒と品が感じられ、やはり訳者によって文体は変わるなという印象を受けた。  しかしながら、遠藤周作氏のそれが、まったく劣悪なものであるという意ではない。むしろ遠藤氏の文体は端正で芳醇なコニャックの辛さや香りすら漂うよう。それがかえって女性らしさを喪失しているのだけれども、そうした遠藤氏の優れた訳文が、あのような小冊子の中に掲載されていたことに驚かされた。
 私は以前、遠藤氏の小説『海と毒薬』の文庫本を読んだと思い込んでいたのだが、どうもそれが見当たらない。遠藤氏の文体を確認しようと思ったのだが、私はそれを買って読んでいなかったのかも知れない。  尤も、熊井啓監督の映画『海と毒薬』(1986年)は何度も観た。あの映画の刺激的な映像の影響(あるいは松村禎三氏の音楽)があって、私の遠藤氏の小説のイメージが、堅固に脱神秘主義の先鋭的な、アイロニーを帯びたものに思えたのだが、勘違いであったのか。  少なくとも遠藤氏は文学において卓越していた。ウミとドクヤク=“海”と“毒薬”という発音の歯切れのいい言葉の組み合わせ、そしてそこに仕組まれた言葉の象徴性は、フランス文学もしくはサガン的作風の印画と言っていい。
 まだ少し、読み足りていないことを重々承知の上でサガンについて述べさせてもらえれば、「イタリアの空」を訳した朝吹登水子さんの解説で、サガンの小説の秀逸さを端的に言い当てている。
《男女の際どいシーンを描いていても、どきつい性の描写はなく、一種の慎みがある》 (『絹の瞳』新潮文庫より引用)
 それは遠藤氏が訳した方にも感じられた。ただ、朝吹訳の軽妙な言葉の響きに、私は感銘を受けた。
《ルイジアはふたたび彼を見つめた。それから、一言も言わずに、赤い麻のコルサージュを脱いだ。彼女の肩が陽の光のなかを滑り、それからマイルズの…

『洋酒天国』とサガン

毎度おなじみ小冊子『洋酒天国』(洋酒天国社)。第28号(昭和33年8月刊)で思いがけずフランソワーズ・サガンを読んだ。  その前に。この第28号の表紙はいったい何であろう。インパクトがありすぎる。
 常々、“寅さん”映画を観続けている私には、その表紙の男性が誰であるか一目瞭然であった。“タコ社長”こと太宰久雄さんだ。  しかしそれにしても若い。なんとなく髪がまだふさふさとしている。紅いスリッパを履いた太宰さんは絵描きに扮し、そのキャンバスに描こうとしているのは、言うまでもなく女性である。ヌードである。裸婦である。
 表紙をめくると、魅惑の三行詩が記されているが、そこも女性ヌードのフォトグラフ。美しい裸体の曲線美。その陰翳の妙。これをどう受け取るべきかは個々の判断(趣味)に任せるとして、三行詩に目を移す。
《塵を空に擲って 心ゆくまで酒を飲め 常に最も美しき女を求めよ ルバイヤート》
 ルバイヤートとは、ウマル・ハイヤーム著の『ルバイヤート』のこと。ルバーイイ(四行詩)の詩集という意。ウマル・ハイヤームは11世紀ペルシアの天文学者で、暦法に精通していたという。詳しくは知らない。ともあれ、四行詩のはずが三行詩になって訳されているのはご愛敬で、“心ゆくまで酒を飲め”と“美しき女を求めよ”は、『洋酒天国』編集部のスタンスそのものを指している。
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 ここからサガンの話に移るのは、ちょっとつらい。  そもそも、第28号の「酔って件の如し」のコラムで、遠藤周作氏と近藤啓太郎氏、吉行淳之介氏の3人衆が煙草(Peace)を吸いながらウイスキーを飲み、カクテルを飲み、ワインを飲んでご満悦の表情を浮かべているフォトがあって、安岡章太郎氏がリウマチ熱で禁酒中だの、遠藤氏がサバ中毒だの、これを書いた吉行氏本人も大病を患い酒量が半減したなどとあるのだが、どうでもいい内容である。  安岡氏を含めたこの4人は言うまでもなく文壇繋がりであり、では何故遠藤周作氏が座長なのかと言えば、昭和33年、ちょうど『海と毒薬』が出版された年であり、言わば遠藤氏は時代の寵児であったのだ。
 第28号のこの和気藹々3人衆のページをめくると、次が、フランソワーズ・サガンの短篇小説「イタリーの空」(Le ciel d'Italie)のページである。これを邦訳したのが遠藤周作氏だ。
 さて私自身、普段読み慣…

漱石と読書感想文

一纏めに、私が学生時代(小学校から専門学校まで)に書いた、学校提出作文としての読書感想文について記憶をたどってみた。

 小学校での、夏休みの宿題として提出を要求される読書感想文にはそれなりに風情があった。――夏休みの期間中、学校指定の本(文部省推奨の、感想作文の課題となる本)が、児童を通じて各人に手渡されるリレー配達方式――。
 まず夏休み直前に先生から本を受け取った最初の児童は、それを読み終えたら、名簿順に次の児童の家に行って本を渡す。登校日であれば学校で渡してもよい。こうして本を渡された児童は、一両日中にそれを読んで(大抵は持参している間に作文を書き)次の児童の家に行かねばならない。名簿順だから、例えば“ワタナベ”君などの場合は夏休みが終わる直前に手渡されてしまうことがある。締切に追われつつ早急に作文を書かなければならなくなる。“ワタナベ”君は可哀想だが、なんとなく一丁前の作家風情である。
 ともかく、名簿順というのは理不尽と言えば理不尽なのだが、本を買わされず無償で貸し出しされて本が読めるので、本が届けられた時はワクワクしたものだ。
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 翻って、高校時代の読書感想文宿題の話。小学生の時のような締切に追われる他人を笑ってはいられなくなった。この手の宿題がいちばん身体に悪い。汗が噴き出てくる。
 憶えているのは、高校2年か3年であったか、芥川龍之介の『羅生門』が宿題に出された時。私はまるっきり芥川龍之介の文体に馴染めず、この短篇小説の面白さがどこにあるのかまったく分からなかった。したがって、自分で書いた作文の内容もおそらくちんぷんかんぷんなものであったと思われ、それがトラウマになってしまい、ごく近年まで彼の小説や文集に目を通すことができなかった。
 “読書”という観点で少し大袈裟に述べれば、私の生涯で最初に沸点に到達したのが、夏目漱石であった。気持ち的に芥川の場合とまったく正反対である。  高校3年、友人が新潮文庫版の『こころ』を買ったのを知って、私も真似をしてそれを買った――。長年、このあたりの記憶を自ら勘違いしていて、夏休みの宿題で『こころ』の感想作文を書き、先生に提出したらやがて“C”という低ランクの評価を付けられて作文が戻され、至急その書き直しを求められた、と思っていた。
 しかし実際は違った。それは『こころ』ではなかった。武者小路実篤の『友情』(…