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6月, 2014の投稿を表示しています

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お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈八〉

前回はmas氏のライカと新宿の話。当ブログ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」のシリーズは数えると今回で8回目である。これは私自身の、カメラと写真を軸とした“素行”を紐解く重要な鍵としての(「茶」の精神と絡めたりして)、過去に読み耽ったウェブサイトにまつわる“回想録抄記”となっている。  いま私は、自主制作映画というスタンスで、“ちっちゃな映画”(タイトルは『アヒルの狂想曲』)を本気で創り始めているのだけれど、その“ちっちゃな映画”的なものをかつて創ろうとしていたのが、サブカルで私淑するmas氏だったのだ。私は彼の影響を(ウェブとサブカルの側面で)多大に受けている。mas氏は90年代末頃、アメリカの写真家デュアン・マイケルズ(ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals)に感化され、自身のカメラで撮影した散歩写真を掻き集め、一つのフォト・ストーリー作品を創ろうとしていたのだった。タイトルは、「My Last Pictures」であった。
 いま、“ちっちゃな映画”を創り始めた矢先、私はmas氏のウェブサイトをあらためて思い出す。そこにはサブカルへの深い愛着があった。彼は2000年代初め、自身のホームページ上のアーティクルにその映画創りの話を持ち込んで、読み人であった私にある種の熱量を注ぎ込んだのである。カメラとレンズと、そのアクセサリーを満遍なく揃えること。たっぷりと落ち着いた風情で世界を見わたし、その風景に己の足で大きく踏み出すこと。人生の最大の《余興》であり得るのが、映画ではないかということ――。
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 とても残念なことに、「My Last Pictures」のフォト・ストーリーのテクストも、そのウェブサイト自体も、今は現存していない(ただし、テクストは私個人がアーカイヴしてある)。それでも今年、彼の別のサイト[msbcsnb](http://www.geocities.ws/msbcsnb/index-2.html)がWWWのサーバー上に残っているのを発見して、今のところそれは、誰でも見ることができるようになっている(いずれ消えてしまう可能性がある)。更新は10年以上前を最後に途絶えてしまっているが、mas氏がそこに残した、旅行記や家族を写した写真、花などのフォト・ギャラリーとなっており、2000年代に作成したウェブサイトの一端を垣間見ることができ…

バルテュス展―無垢なる目撃

日頃、《音楽を演奏する》という一括りのありきたりな言葉に囚われすぎると、その本質を見失うことがある。
 そもそも《音楽》を《演奏する》とは何であろうか。  ある空間における時間軸に沿った出音の集合体――その密と疎の波動が三次元で人間の聴覚に到達する、という物理的感覚的概念。この概念に則って、多様な音へのアプローチが試みられる。
 そうして楽器を奏でたり、様々な音楽を聴く際に、いずれも表現性(批評性)の奥行きの問題が生じる。場合によっては何らかの理由によって、表現性が欠乏してしまうことがある。  欠乏した音楽的表現性のビタミン補給には、いくつかの処方がある。私の場合、酒やコーヒーを口にして心を落ち着かせ、その味を堪能する。その味わいのほのかな発露が、音の樹液となる。  あるいは本を読んだり、写真を撮ったり、絵画を観たりする。そうした後の出音の起伏が豊かになり、表現が拡張されたりする。特に、絵画を観た時の自己の反応は、例外なく頗る上機嫌になる。それがいかなる絵画であったとしても。

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 さて先週、上野の東京都美術館にて、『バルテュス展』を観た。会期はとうに始まっていたのだが、美術館に想像を絶する観客が押し寄せるであろうことを鑑みて、この6月の会期終了間際に訪れてみた。この作戦はなんとか功を奏した。
 ここで余談を書いておく。  館内のチケット売り場で当日券を買おうと、財布を広げて並んでいると、そこに年配の男性が近づいてきた。その紳士は私に、無言のまま、封筒の中から招待券を取り出して、それを私に差し出した。差し出された券を無意識に受け取ってしまった私は一体何のことか分からず、しばし呆然としていたのだが、それが紳士の、(突然の)厚意であることに気がついた。私は財布から紙幣を取り出して紳士に渡そうとしたのだが、紳士はそれを頑なに拒んだ。ともかく礼を言うと紳士は去っていった。なんとも不思議な十数秒であった。言わば、英国的な香りの立つ紳士の鄭重さと温かさに触れたひとときでもあった。無論、私はそのぬくもりのあるチケットで中へ入った。
 《絵画の鑑賞》ということに関して、私は妙なこだわりがある。ある意味、ひねくれたこだわりと言える。画を描くことが子供の頃から苦手だったせいもあって、自然に画と向き合うことができない。どこかでかまえてしまう。  したがって鑑賞者である自分の、稚拙な…

音楽の教科書―歌と音の悦楽

学校時代の教科書の話。 今年の1月、母校の中学校で扱われていたと思われる音楽の教科書を入手することができ、ほとんど忘れていた中学での音楽授業を、しばし思い出すことができた。これについては、当ブログ「私たちのレコード・コンサート」で書いた。

 自らがかつて体験した学校授業の、その時扱われていた教科書を、いま再び手にすることは物理的にかなり困難なことである。たとえインターネットを駆使したとしても。しかし時折、偶然とは恐ろしいもので、そうした困難をいとも簡単にすくい取って、目の前にそれを提示して見せてくれる運命の悪戯というものがある。
 またしても――音楽の教科書を入手した。今度は小学校版である。  「改訂 小学音楽5」(教育出版)。  入手したこの教科書の本体は、昭和59年1月発行となっているが、昭和54年3月に文部省検定済、昭和57年3月に改訂検定済となっており、私が小学5年生であった昭和58年(1983年)でも、内容的にこれとほぼ同じである教科書が用いられて授業が行われた。何より、表紙イラストに見覚えがある。中身の楽曲や写真等を見ても、眠っていた記憶が一瞬にして呼び覚まされたほどはっきりと憶えていて、母校の小学校で扱っていたのがこの教科書であることは間違いない。
 当ブログ「ピーターと狼」で、小学4年の担任のK先生が「ピーターと狼」のレコードを聴かせてくれたのではないか、と推理したことがある。けれどそれは、私の憶測に過ぎなかった。実際は違っていたのだ。何故なら、この「改訂 小学音楽5」でプロコフィエフの「ピーターとおおかみ」のレコード鑑賞が促されていたからだ。
 ちなみに、これまで私は、小学校で最初に管弦楽のレコードを聴かされたのが「ピーターと狼」ではなかったかと思っていたのだが、その可能性はかなり低いことがこれで分かった。小学4年でも別の何か管弦楽をやったはずである。とは言え、むしろ楽曲としては、ドヴォルザークの「新世界」のような荘厳な曲の方が印象深く、「ピーターと狼」に関しては中身の印象が私の中では薄かった。しかし、この教科書の中の、その動物たちを描いたユニークなイラストの方が思い出として熟してしまっている。
 そう言えば、この「ピーターと狼」のレコードを聴かせてくれた音楽の先生を思い出した。かなり年配の女先生、A先生であった。当時、小学校では担任の先生が…

ジャズ~ワイシャツと煙草の交差

自分が《創作》というものに面と向かって立ち向かう時、過去の、様々な記憶や経験から何物かを引っ張り出してきて、その突破口にしてしまう、ということがよくある。特に、人からの影響、すなわちその人の情緒や情感の忘れがたい記憶などは、《創作》への大きな足がかりとなることが多い。

 さて、ある古い記憶から。  その人、はおそらくジャズに関心があったとは思えないのだが、私はその人とほんの一瞬擦れ違った際に、ジャズ特有のアンニュイな旋律が聴こえてきて、ハッとなり、そのドラマチックな一瞬をよく憶えている。
 その人は高校時代の同級生であった。クラスでは秀才肌で通っていた。  秀才とは、実に気苦しい言葉である。根っからの秀才は、無口であったり、性格が少し傾いていたりする。故に面白かったりする。しかし当人は、ざわざわと面白がったりしないのだから、やはり根っからの秀才である。  尤も、思春期を通り過ぎる頃というのは、誰しもそんな態度の、つまり無口で斜陽で、学校という小社会に対する抵抗主義を貫こうとでもいうような、無益な反骨さを具有していたりする。が、それにしても、秀才は、それすらも自己主張しない。どこか気苦しい。
 高校時代はその人の印象について、私はほとんど「白いワイシャツ」姿の背中しか見ておらず、3年間、あまり話をする機会がなかった。その人の「白いワイシャツ」は安手のポリエステル製(綿との混紡?)で、私も3年間、安いからそれで通してしまったのだが、綿や麻のような真っ白という色ではなく、少し青みがかった白色なのだ。この微妙な色彩の印象は忘れていない。
 その人が、高校を卒業して6年後に、とある街で、通りをぶらついていたのを目撃した。いや、おそらくぶらついていたのではない、通勤での帰宅途中であったのだろう。あの頃と同じような「白いワイシャツ」姿で、黒っぽい鞄をぶら下げていた。またしても、青みがかった白色、である。  その人は同級生である私にまったく気づかぬまま、擦れ違って通り過ぎてしまった。何か窮屈な、安堵を失った表情ではあった。ところがどういうわけか、その擦れ違った瞬間に私は、ジャズの音楽を妄想的にとらえたのである。
 耳で聴いたのか、心で聴いたのか。  その瞬間に本当にどこかでジャズが鳴っていたかどうかは、今となってはどうでもいいことだ。しかしながらその抽象としてのジャズが、私の…

美しき色彩―沖縄切手

切手を集めていた頃が懐かしい。  小学4年生の頃は学校の“切手クラブ”に所属し、持っている切手を自画自賛したり、顧問の先生が教えてくれたいろいろな切手の話題に触れたり、実物を見て楽しむことができた。個人的には通販のコレクターズ・クラブの会員にもなって、興味のある切手を毎月、400円くらいで入手して、コレクションを増やしたりしていた。仲間内では、不定期に集会を開き、“競り”で各々の切手を交換したりもした。
 最近、テレビで知ったのだが、中国の切手の価値が、その売買市場でずんずん高騰しているらしい。例えば「赤猿」の切手が10万とか、文化大革命時代の切手が20万、30万だとか、高いものだと100万を超える切手もあるという。
 毛沢東の切手なら――持っている!と思った私は、その小学生時代の、古いコレクション・ファイルを覗いてみた。  毛沢東の切手は、15万とか30万とか。これはいい小遣いになる、とわくわくした気分でファイルの中を探してみたのだが、見つからない。確かに昔、毛沢東の顔の切手を持っていた記憶があるのだが、隅から隅まで時間をかけて見渡しても、やはりどこにも見つからない。はて。
 この謎を推理した。  かつて仲間内で競りをした際に、こんなおじさんの顔の切手なんかいらないと、交換してしまったのではないか。小学生に毛沢東など分かるわけがない。当時、珍しかった金箔の切手も所有していたのだが、それも今はファイルの中に無く、おそらく競りの恰好のアイテムとなってしまったのだろう。毛沢東も今やアイドル並みのスター。30万の値打ちがあるとは。文化大革命、恐るべし。と、つい悔しまぎれの冗談が言いたくなってしまう。
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 そう言えば先月の5月、“愛鳥週間”というのがあった。鳥を愛でる週間である。それがきっかけで私は初めて、1963年の「サシバの群れ」と1966年の「リュウキュウツバメ」という琉球郵政発行の愛鳥週間の記念切手を知り、その美しさに目を奪われた。どちらも3セント切手だ。
 もともと単純に、私は切手の色彩や図柄そのものに興味を抱く。実際どんな価値が潜んでいるか、といった曰く付きの切手やミスプリントの希少価値を有する切手は多々あるにせよ、そういうもので切手を集めたりはしなかった。
 やはり子供の頃は、ディズニーの切手やアフリカの野生動物、魚類、あるいはオリンピックの記念切手、…