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7月, 2014の投稿を表示しています

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

サン=サーンスの『動物の謝肉祭』

私にとってのレコード鑑賞の原点――すなわちクラシック音楽における原初体験は、『原色学習図解百科』(1968年学研)第9巻[楽しい音楽と鑑賞]という一冊であることは、このブログでもたびたび触れている(当ブログ「旧東京音楽学校奏楽堂のこと」参照)。
 もし幼少時代にこの一冊に出合わなければ、おそらく《クラシック音楽》というものが後々、馴染みの薄い数奇なものとして先入観を持っただけでなく、まったく自身の身体に音の世界が通わない、非音楽的な自己形成が進んだのではないかとさえ思う。それくらい、[楽しい音楽と鑑賞]という本は、聴感の悦楽を衝撃的なまでに解放してくれた、魔法の装置であった。

 最近、その[楽しい音楽と鑑賞]の付録レコード(EP盤全6枚、全30曲)の所在が判明し、これを書いている時点では詳細の確認が取れていないものの、当時のレコードをまもなく鑑賞できるのではないかと心をときめかせている。
 いま思えば奇妙な、というか不思議なことなのだが、その本で紹介されている古典音楽家の中に、プロコフィエフやチャイコフスキー、ドヴォルザーク(さらにはベルリオーズやブルックナーを含めてもいい)が居ない、のである。  大袈裟に言えば、1850年代以降の音楽史における国民楽派や現代音楽の代表者を、すべてフランスの作曲家、クロード・ドビュッシー一人で背負ってしまった形となっている。  せめてストラヴィンスキーやハチャトゥリアンまで加えて欲しかったと思うのだが、なんとこの百科事典が刊行された1968年には二人はまだ存命していたし、何より東側連邦の“彼方”の情報は、その文化的な面においても、冷戦真っ只中の時代に極東日本へ伝わってくるはずもなかった、のかも知れない。
 その付録レコードを是非とも今、プレーヤーにかけて聴いてみたいと思っているのが、カミーユ・サン=サーンスの組曲『動物の謝肉祭』である。
 手元には、グラモフォンCDシリーズの、カール・ベーム指揮ウィーンフィル演奏(1974年)『ピーターと狼/動物の謝肉祭』があって、どちらの作品にも英国女優ハーマイオニー・ギンゴールドのナレーションが加えられている(当ブログ「ピーターと狼」参照)。どういうわけか、近頃このCDをよく聴いているのだ。このプロコフィエフとサン=サーンスの組曲に関しては、他の指揮者や楽団の同曲を聴いてみたいと、あまり思…

グールドと888フーガ

日々、これ失敗とその上書きの連続なり――。
 ブログ上に書かれていたことが、間違いであったことに気づき、長い間ほったらかしにしていたその訂正作業を、先ほど済ませた。この一件に関しては恥ずかしながら、感慨深いものがある。
 それは、当ブログ「フーガと鳥の歌の話」で触れている、フーガ(Fugue)のこと。小学生の頃によく聴いていた、8ビットパソコンPC-6001の演奏プログラム、バッハのフーガが、イ短調ではなくイ長調であったこと。イ短調と書かれてあった箇所を、イ長調と訂正したのだ。
 このことについて詳しく書いておきたい。
 ――PC-6001を所有していた1980年代前半の当時、パソコン関連の雑誌を頻繁に買って読んでいたので、面白そうなゲームなどのプログラムを見つけると、自分でそれを打ち込んでプレイしていた。あの頃の8ビットパソコンは、カセットテープやフロッピーディスクで売られているソフトウェアを買うか、自分でプログラミングするかしかなかった。   たまたま、雑誌に掲載されていたバッハのフーガ演奏プラグラムに興味を持ち、それを打ち込んでみた。初めて聴くその曲に驚いた。PC-6001の電子音がバッハの奇抜な旋律にぴたりと合っていた。その頃バッハと言えば、「トッカータとフーガ・ニ短調」しか知らなかったのだが、打ち込んだフーガはもっとリズミカルで技巧的で、いかにもコンピューター・ミュージックらしい編曲になっていた。尤も編曲というより、PC-6001のAY-3-8910チップの限界を試したようなつくりであった。
 その時のフーガのプログラムは、二度と打ち込まずに済むよう、カセットテープにセーブしておいた(当時の8ビットパソコンは、電源をOFFにするとプログラムも消えてしまう)。  これははっきりとしていることだが、そのプログラム・テープは、10年後以降の90年代半ばまでしっかり保管されていた。そして一度、パソコンにロードされており、演奏のアウトプットをモノーラルでDAT(デジタル・オーディオ・テープ)に録音している(1997年6月)。そこには「バッハ/フーガイ短調」と記してあった。
 このタイトルは、プログラム・テープに記載したタイトル(それをセーブした1980年前半に記載)を丸写ししたはずなのだが、イ長調をイ短調と間違えて書いたかどうかについては不明。あるいはプログラ…

歌と朗読とかもめのジョナサン

かもめのジョナサン。長らく書棚の飾り物と化していたこの小説を手にすることにしたのは、その“完成版”が国内出版されると広告で知ったからで、1974年版と“完成版”との差異を散読した上で、さほど時間をかけずに後者を読み終えることができた。  とてもすっきりとしたブルーの装幀、美しい流麗な秀英明朝書体、そして何よりラッセル・マンソンのフォトグラフが随所に鏤められた本――。
 リチャード・バック著・五木寛之創訳『かもめのジョナサン【完成版】』(新潮社)について、その感想をここで書くつもりでいた。しかしこの小説が、そうしたたぐいのものとは切り離され、まさにジョナサン・リヴィングストンのように魂が空に、自由に飛び立つことを願うのであれば、私個人の感想を書くというのは、蛇足の極みと言えるだろう。  ただ一つ、大いにあるいはほんの少しの気持ち程度、この小説について興味を示す方がいるのなら、是非読んでみる価値はあると思う。『かもめのジョナサン』は自ら手に取って読むこと以外、その魅力を隅々まで堪能する術は、ない。
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 この本の終わりにある解説で、五木寛之氏が、それぞれの主旨を述べるためにいくつかの作品名を挙げている。  メーテルリンクの『青い鳥』やテグジュペリの『星の王子さま』、ジェームズ・ウィリアム・ガルシオ監督の映画『グライド・イン・ブルー』、デニス・ホッパー監督の映画『イージー・ライダー』など。  リチャード・バック氏が書かれた文脈の節々から、五木氏が感じ取られたもの、インスピレーション、メタファー、そのヒントとなるものがそれらの作品に当たる。1970年の発表後、アメリカ西海岸のヒッピーたちがひそかに回し読みして広まった、と、“何かの雑誌を読んだ”五木氏はそう解説している。ベストセラー本の奇妙な伝説である。
 私が何故、この本を長らく手にせず、書棚の飾り物にしていたか。  それは、個人的な2つの要因があったと思われる。一つは幼少の頃、「かもめの水兵さん」という童謡を遊戯にして、保育所の先生から教えられたことがあり、水兵すなわち兵隊とかもめを結びつける歌なのであまり好きではなかったのだが、そこからの連関で『かもめのジョナサン』が好きではなかった。  かもめ、水兵、兵隊、海軍。私自身のあの戦争における海軍に対する冷徹な眼差しは、やがて“ミッドウェー海戦”に関する戦争史書などを…

淡谷のり子さんと渋谷ジァンジァン

渋谷ジァンジァンへの漠然とした憧れ、というものが10代だった頃の私の脳裏に刻み込まれていた。語弊があるかも知れないが、東京にはかつてそういう劇場が、方々にあった。10代の私はそれらをいちいち、憧れてみるのであった。  学生時代のある時期においては、ギター・クラフトの学校へ通う友人がいたために、敢えてお茶の水を避けていたのだが、もともと中学時代から馴染みのある池袋や渋谷の方の楽器店へ赴き、ケーブルを買ったり、新しいオーディオ機材を触ったりして、わざわざ遠い店舗へ足を運んでいた。確か渋谷の公園通りは、その楽器店のある付近であり、“渋谷ジァンジァン”というのをそこで意識したのではないかと思われる。
 10代の私にとってそこはあまりにも大人の、大人すぎる劇場であった。なんとなく敷居が高かった。中学生の頃、日本橋の三越劇場で杉村春子さんや北村和夫さんの文学座公演を観るよりも、渋谷ジァンジァンは“大人”すぎて入り込む余地が無かった。
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 私は20代の後半になってその歌唱法を学ぶため、淡谷のり子さんの「別れのブルース」や「ラ・クンパルシータ」などをよく聴いた。淡谷先生の歌声は、最も小さな音量であっても輪郭がしっかりとしている。SP盤の古い音源では聴き取りにくいが、デジタル・マスターで聴いても淡谷先生の声は、テヌートの最後の切れ端が消滅するまで、研ぎ澄まされ且つ柔らかいのである。
 ごく最近になって、『淡谷のり子ライブ』というレコード(自主制作盤)を繰り返し聴いた。1981年10月29日、渋谷ジァンジァンでの貴重なライブ音源である。ピアノ演奏は結城久さん。
 残念ながら、高橋竹山の渋谷ジァンジァン・ライヴのレコード盤(当ブログ「津軽三味線」参照)のような極上の音質はそこにはなく、おそらくバジェットの都合か何かで機材やら人件費やらをかなり抑えられたのだろう、『淡谷のり子ライブ』はあまりいい録音ではない。  質の良いプリアンプを通ったとは言い難い、ピアノとヴォーカルへのマイクロフォン・アプローチ。結城さんのピアノの明るいパッションは波立たず、不明瞭に背後に押しやられており、淡谷先生のマイクロフォンも切れ味が悪く、ピアノとヴォーカルとのバランスはさらにジァンジァン特有のアンビエントによって濁ってしまっている。
 それでも、淡谷先生の声は、研ぎ澄まされ柔らかい。それが何より素晴らし…

『洋酒天国』と画家の話

作家の司馬遼太郎さんがアイルランドの紀行で、珍しく自身の酒にまつわる言葉を残している。
《私はとくに酒がすきというわけではない。ただ旅先では、一日がおわると、一日の経験を酒に溶かしこんで飲んでおかねば、後日、わすれるような気がしてならない》 (司馬遼太郎著『愛蘭土紀行』より引用)
 評論家・河上徹太郎氏がロンドンへの空路で酒浸りになり、ブランデー、シャンパン、シェリー、ビール、ウイスキー、ワインと英国の旅程で次々それらを身体に“溶かし”こんで、あれが美味い、これが不味いと酒の旅をしたかと思えば、無頼派で知られる檀一雄の場合、ただバーの女性と気楽なダンスをし、ウイスキーを“溶かし”こんで、ほろ酔い天国といった風情のだらけきった姿の写真を撮られていたりして、それぞれの物書きさん達の酒の“溶かし”こみ方は、えらく違う。尤も、司馬さんが“溶かし”こんだのは酒そのものではなく博学の方だ。
 昭和33年7月発行の『洋酒天国』(洋酒天国社)第27号には、そんな酒に酔った男たちの、仄かなる愛憐に満ちたエッセイが鏤められていて、読み手である私も“溶かし”こみを着々と進めながら、愉しく拝読させていただいた。ただ誤解なきよう、司馬さんはこの獰猛なる武人らには加わっていない。
 さて、第27号の表紙の人物は、どうやら俳優の山田周平さんらしい。  背表紙の方は同じ山田さんが片手にリボルバー式拳銃、片手にウイスキーを注いだグラスを持ち、木箱に片足を乗せながら、気取った態度でこちらを睨み付けている。木箱の上には、サントリーの角瓶。
 私はこの40年間、相当な数の日本映画を観てきたつもりであったが、どうもそれは眉唾らしい。山田さんが出演した映画を調べてみて、その本数は46本を超えると思われるが、どれ一つ、私は観たことがないのだ。  『伴淳・アチャコ・夢声の活弁物語』(1957年松竹)だとか『ニッポン珍商売』(1963年松竹)など、観ていてもよさそうだが、憶えがない。逆に今なら、どこかのCS放送局で必ずどれか一本はやっていそうである。
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 第27号の最後半のエッセイ、大久保泰著「画家と酒と」が面白かった。要は、よく酒を飲む画家の、話である。
 ここでは、ロートレックとモーリス・ユトリロ、そしてモディリアーニのエピソードが紹介されている。ロートレックは酒場にあるだけの酒を強引に混ぜ合わせ、独自…