スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

8月, 2014の投稿を表示しています

☞最新の投稿

パリと若者の夢―ベルトルッチの『ドリーマーズ』

一つの映画を語る時、溢れんばかりに「映像」と「言語」と「音」の記憶が明滅し、際限がなく収まりがつかない、ということがしばしばある。思考から思索へ、思索はさらに別の思索へと裾野を広げ、その「映像」と「言語」と「音」の世界を駆け巡った挙げ句、グラスの底に沈殿した奇妙な液体の何たるかについて、思索への旅はとどまることを知らない。  映画とは、そういうものである。映画を観るとはすなわち、野生のフグを食らうかの如く、非常に危険な行為であって、その危険と隣り合わせの内心において、執念深く用意周到に、毒のしびれに耐えつつも、すべての部位を食らうことに深い情趣がある。体験的に、我が身の神経はすべて視覚と聴覚にそそがれる。その瞬間こそ、映画体験の醍醐味である。毒を食らうかも知れぬ苦痛の先に、無垢なる「光」が存在する。映画とは、その「光」への、盲目的な思索の旅である。  昨今、陰鬱な大人の色恋沙汰映画『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris)で“泥酔”した私は、その先の「光」を浴することになる。言わばそれは、『ラストタンゴ・イン・パリ』の大いなるオマージュであり暗唱――。同じベルナルド・ベルトルッチ監督の2003年の映画『ドリーマーズ』(The Dreamers)。今回語るのはこの映画である。
§
 私が『ドリーマーズ』を久々に観たのは、先月の半ばのこと。「フランス デモ連帯に影」という朝日新聞の報道記事を読んだのが5月4日。すなわちこの二つから想起されるのは、パリの5月革命(1968年5月、パリで起きた反体制のゼネスト及び学生運動。5月危機とも称される)であり、今年はちょうど5月革命から50年に当たる。  そう、私はこの映画を思い出したのだった。『ドリーマーズ』は、パリの5月革命が背景となっているベルトルッチらしい映画狂の傑作。描き出しているのは、荒々しい騒動の只中の、ある若者達の、偏愛とセックスの情事――。
 なんと言ってもまず、この映画のトップ・シークェンスに刮目せよと言いたい。高らかなギター音で始まるジミ・ヘンドリックスの「Third Stone From The Sun」。エッフェル塔の鉄骨をバックにクレジット・ロール。そのエッフェル塔の手前に、主人公の若者――サンディエゴから来た20歳のアメリカ人留学生青年――マシュー(マイケル・ピット)が…

排水機場を写したデジタルカメラ

十数年ほど前、とんでもないデジタルカメラを買ってしまって、頭を抱えたことがある。
 MINOLTA(旧ミノルタ)の「DiMAGE 7」。
 その頃はCanonの300万画素デジタル・コンパクトカメラなどを所有していたのだが、そろそろズームレンズを扱う500万画素クラスのデジカメに移行したいというような欲求に駆られ、中古で「DiMAGE 7」を購入したのだ。2/3型520万画素CCD、35mmフィルム換算で28-200mm F2.8-3.5のズームレンズ。多彩なAFと測光モードを搭載した“フラッシュ内蔵レンズ一体型一眼レフタイプデジタルカメラ”という触れ込み。このカメラを買えば、旅行が楽しくなるぞ、と夢が大きく広がった。
 だが製品が届いて、たった1日でその夢は破られた。
 その理由は実に単純明快であった。  バッテリーがまったく持たなかった。“持たなさ”の度合いが、尋常ではなかったのだ。
 DiMAGE 7で使用するバッテリーは、アルカリ電池かニッケル水素電池。しかもマニュアルには明確に、 《撮影にはニッケル水素電池をおすすめします》  と記されており、 《アルカリ電池はその特性上、急激に電池容量が低下します。アルカリ電池は、動作確認・テスト用や緊急時のみ使われることをおすすめします》  と補足してあった。そこで製品が届いてすぐ、試しに、アルカリ電池を入れてテスト撮影をおこなってみた。
 DiMAGE 7。  カメラの機能やズームその他の性能を確認しながら、パシャッとシャッターを切って、コンパクトフラッシュ・メモリーカードに画像が保存されることを確認。多少、保存の速度が遅い。しかし、〈綺麗な画像!…さすが500万画素!〉と感動して5回ほどシャッターを切ったであろうか。なんと、液晶モニターの電池容量を示すマークが、“透明”つまり電池切れを表示したのだ。
 驚くべき、DiMAGE 7。  たった数分足らずの動作確認とテスト撮影だけで、単3アルカリ電池4本を完全に使い切ってしまった。さらにテスト撮影を続けるためには、いったい何本のアルカリ電池を消費しなければならないというのか――。
 驚愕の事実を知った私は、すぐにニッケル水素電池と充電器を買い求めた。そうか、やはりマニュアルにあるように、このカメラはニッケル水素電池でなければダメなのだ…。  そうして実際に、急遽買…

『洋酒天国』とテレヴィジョン

『洋酒天国』(洋酒天国社)第35号(昭和34年4月発行)は、テレヴィジョン特集号である。表紙は、その当時の白黒テレビに野球中継の画。背景の球場(後楽園球場?)の広告には、大きな字の“トリスウイスキー”。言うまでもなく、『洋酒天国』は“洋酒の寿屋”すなわちサントリーのPR誌であり、編集発行人は開高健である。  何故、この号でテレヴィジョン特集なのか。その理由を知ろうと、少しばかり昭和34年前後の日本の流行や世相風俗について調べてみた。
 前年の昭和33年は、日劇のウエスタン・カーニバルが大ブーム。テレビドラマではフランキー堺主演の「私は貝になりたい」が放映される。電波塔の東京タワーもこの年に完成。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が大ヒット。
 昭和34年の4月、皇太子結婚パレード。ミッチー・ブーム。このパレード生中継の推定視聴者数は1,500万人だという。9月に伊勢湾台風上陸。暮れの第1回レコード大賞は水原弘が歌う「黒い花びら」が受賞。ちなみに翌年の昭和35年は、いわゆる安保闘争、全学連デモ隊と警官隊との衝突などという騒動が起きている。ダッコちゃんブームもあった。
 つまり昭和34年4月は、皇太子ご結婚の祝賀ムードが広まる中、多くの家庭で新しくテレヴィジョンを購入したてんやわんやの月だったのだ。
*
 第35号の巻頭は、九州大学教授・高橋義孝氏のエッセイ「どうも厄介だ」。読んでみると非常に興味深い内容になっている。
 テレヴィジョンが厄介ということ――。昭和28年、国内におけるNHKのテレヴィジョン本放送が始まって以来、日本のテレビ戦略の第二のうねりは、皇太子結婚パレードによって幕が開けた。4月10日のパレードに合わせ、1日付に8社ものテレビ局が開局している。ミッチー・ブームに乗っかり、国民にテレビ!テレビ!テレビ!と、テレヴィジョンの大号令が刷り込まれ、大テレヴィジョン時代が到来する。いったいテレヴィジョンとは、何なのか。
 そこには、功罪というものがある。パレードの中継はいい。スポーツの実況放送はいい。けれども、本物ではなく、あくまで便利な代用品に過ぎない。本物とにせもの。にせものと本物。本物がにせもののために駆逐されていく。いかにも不自然な娯楽番組を考え出すのは困ったものだ。テレヴィジョンの罪ではない、テレヴィ編成局の罪である。愚かである。ばかげてい…

真昼のチェンバロ

東京中央区の築地市場に程近い、この浜離宮朝日ホールは、その名にある浜離宮庭園の北東に位置している。地図を広げれば、東は隅田川を隔てて月島があり、その南は晴海埠頭、東京港である。  どうやら前回、私がこのホールへ訪れたのは、6年前になるらしい(当ブログ「うとうととエリック・シューマン」参照)。朝日新聞東京本社を素通りして、その奥まった箇所に、浜離宮朝日ホールがある。
 コンサートの正式名は、「ハウス食品グループ Presents 浜離宮ランチタイムコンサートvol.126 曽根麻矢子チェンバロ・リサイタル」。築地には築地独特の喧噪がある。食の殿堂とも言うべき築地の目と鼻の先で、食と音楽のコラボレーション――ずばり正午の時間にしばし喧噪と離れ、一膳分の音楽を聴いてもらうのが、浜離宮ランチタイムコンサートの狙いだ。
 以前より私はチェンバロの演奏を生で聴いてみたいと思っていて、2011年、チェンバロ奏者の中野振一郎さんのリサイタルを聴きに行くつもりだったのが、大震災の影響で中止となり、翌年の再公演にも行くことができず、ずるずるとこの目当てが達せられずにいた。そうして今年、曽根麻矢子さんのリサイタルがあるというのを知り、ようやく今回、チェンバロを生で聴くという機会を得ることができた。それも音場としては世界的に評判の高い、浜離宮朝日ホールで。
 ダカンのクラヴサン曲集から始まったこのリサイタルでは、曽根さんのチェンバロについての解説が時々挟まって、とても分かり易くチェンバロの特徴や特性を知ることができた。曽根さんの人柄がいい。なんと言っても個人的に興味深かったのは、バッハの「幻想曲とフーガハ短調」(幻想曲のみ)の演奏であり、もはや曽根さんは精神的にバッハと心中するのではないかと思うくらい、バッハとチェンバロと身体とが渾身一体となった名演奏を披露してくれたのである。私はこれが生で聴けただけで、もう満腹状態であった。
 チェンバロの音色の良さ、深みについて、あるいは鍵盤の機械的な構造上の動きからくる音への物理的影響について、もしそういう解説が示された書物があるのなら、是非とも読んでみたいと思っているのだが、よく一般的にチェンバロの音色を《雅》(miyabi)という日本語を使って簡単に片付けてしまう傾向があり、私はそれを目にするとひどく不満に思うのである。物足りない。欠けてい…