私の書肆文芸論

 日本の書店は文芸たり得るか。

 書店における「ネット対リアル店舗」の競争の激化は、それ一つを俯瞰すれば、文化史的に書店謳歌の時代を顕しているとも言える。
 敢えて私の独断で具体例を出してしまえば、それはAmazon対丸善&ジュンク堂対紀伊國屋であったりする。Amazonは別として、私が都内に足を踏み入れた際には、これらのリアル店舗を訪れて店内散策、いや店内探検することは必須要項となっている。私にとって書店の競争激化は、大歓迎なのだ。

 ただし売り上げ競争のみの、書店の潰し合いであってはならぬ。
 書店が文芸たり得るか。読者が文芸たり得るか。あるいは逆に、書店が文芸を捨て去るか。読者が文芸を捨て去るか。そのどちらが先行するのが好ましいのか。翻って、都市部ではない地方の片田舎では、このようなことが惨憺たる状況であることを踏まえなければならない。

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 最近、私の行きつけであった片田舎の町の書店が、酷く劣悪になりつつある。つまり書店としての体を成さなくなってきたのである。

 この実態を分かり易く説明するために、音楽のハイレゾ(ハイレゾリューション)に例えてみよう。漱石の文庫本を例にとる。

 現在刊行されている漱石の新潮文庫をすべて列挙してみる。
 『吾輩は猫である』『倫敦塔・幻影の盾』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『門』『草枕』『虞美人草』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』『硝子戸の中』『二百十日・野分』『坑夫』『文鳥・夢十夜』『明暗』である。
 もし、この新潮文庫本がほぼすべて揃って“夏目漱石”の著名棚に収まっていた場合、その書店はハイレゾである。素晴らしい“解像度”の書店であると褒め称えたい。

 一方、私の行きつけの、片田舎の町の書店を覗いてみる。
 すると棚には、『坊っちゃん』『こころ』だけであった。

 ありがちな傾向ではある。
 その書店では『吾輩』から『明暗』までの17の解像度がなめらかに再現されておらず、漱石の著書集が大きくぶったきられてたった2冊で集約されてしまっている。言わずもがな、これはハイレゾではない。
 書店を切り盛りする側の理由はあるだろうが、ここまで漱石を省略化してしまうと、書店としての体裁も危うく感じられる。

 明治の文豪、夏目漱石と森鷗外を在庫として除外視する傾向は、地方の片田舎の書店には、多々ある(さらに言えば岩波文庫の除外視)。が、このことが後々地獄の結果を生むということを、どうして書店側は気づかないのであろうか。古い、売れない、難解な本、という理由で簡単に切り捨てていく(在庫を置かない)ということは、多数の読者(来店客)を一挙に切り捨てていくことと同義である。

 ともかく、それなりの品揃えがなければ、老若男女の文庫本を選ぶ楽しさが味わえず、安くて美味い文庫本のありがたさが読者に伝わらない。総じて、本から本へという新しい発見がなくなってしまう。
 書店探検家としては、せっかく洞窟に入って暗がりを楽しもうとしているのに、あっけなく行き止まりになってがっかりして引き返す、というパターンである。こういう書店はまったく面白くない。

 話を戻すが、その私の行きつけの書店は、数年前まではそれなりに、片田舎としてはけっこう踏ん張りのきいた“解像度”を保有していた。ところが、この1年くらいで踏ん張りがきかなくなったのだ。本の“解像度”が一気に粗くなり、品揃えが悪くなった。
 雑誌系を覗いてみても、発売日当日の陳列はおろか、徐々に雑誌の種類を減らしてきており、特に文芸系の月刊誌隔週誌はきわめて貧相となった。しかも棚の隅っこの、非常に目立たない取りづらい位置に置いてあり、文芸雑誌など人気がないから、このかどっちょでいいのだよ、という店側の悪魔の声が聞こえてきそうである。
 こうなると、都内のジュンク堂や紀伊國屋の文芸雑誌コーナーが恋しくなる。店側の劣悪な扱いによって、文芸雑誌がまったく別の、何かクオリティの低い雑誌にさえ見えてくるから不思議だ。よくよく店内を見渡せば、全体の棚の数も減っており、コミックス・コーナーや女性雑誌コーナーに人が立ち寄っていない。もっとはっきり言えば、本を読む客がいないのである。
 さらに私は見逃さない。充実すべき学習参考書コーナーが非常識なほど小さい。辞書系が棚の一枠のみにぎゅうぎゅう詰めに押し込まれて、国語、漢和、英和辞書がそれぞれたった2種類ずつしか収納されていなかった…。

 もはや私にとって欲しい本が置かれなくなってしまったこの行きつけの書店への対処は、様々な感情を圧し殺してぐっと耐え、温かな気持ちで経過観察をする他はないのだが、書店は文芸たり得るかという観点において、危険水準を下回って客足がさらに減ることは否めず、この先どうなるかの想像は決して難しくないと思った。

 本を読み、ものを書くという文芸には、言葉や本への信頼、根深い志、読み書きへの意気込み、物事の批評、こだわり、愛着心が欠かせず、個々のそれらが熟成されていくことが望ましい。
 書店であれば最低限、“村上春樹”が流行ればそれを目立つ位置に陳列し直し、政治が叫喚揶揄された時には関連本を並べ、世の中への関心を惹き付けるといった稼働の策を講じる。
 こうしたベタな企画がいやであれば、言葉や本への信頼をもとに、あまのじゃくな辛口の批評コーナーを設けてもいい。そこは書店の個性で自由であっていいと思う。頗る書店探検家としては、書店が「呼吸する生き物」であって欲しいと願う。是非とも地方の書店には、「文芸力」を競い合ってもらいたい。

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