☞最新の投稿

プレイバック―さらば洋酒天国、恋のソプリツァ

イメージ
【琥珀色に輝くサントリーのトリス・クラシック】  我が愛しの“洋酒天国”――。どうやら去る時がやって来たようである。悔いはない。  サントリーのトリスを飲む。瑞々しく、琥珀色に輝く“TORYS CLASSIC”の、なんたる落ち着き払った佇まいよ――。束ねられた複数の冊子の中から、無為に一冊を選び取り、それをゆったりと眺めていると、目くるめくそれぞれの邂逅の日々が走馬灯のように、記憶から記憶へ諄々と甦り、グラスの氷が溶け出す酔い心地とはまた別格の、まことに風雅な夜のひとときを過ごすことができるのであった。  先々月の当ブログ 「『洋酒天国』―全号踏破とサイエンス・フィクション」 でお伝えしたように、10年以上前から私のコレクター・アイテムとなっていた『洋酒天国』は、 第1号 から 第61号 まで、既に全号踏破することができた。ゆえに燃え尽きたわけである。  そこでこの機に私は、これら冊子のほとんどすべてを、思い切って手放すことにしたのだった。尤も、大した決断とも言えない――。  古書というものは、人の手に転々となにがしかの世間を渡り歩く。熱意ある紳士淑女がどこかにいて、これらの懐かしい文化と趣向に遭遇し、なんとも数奇な悦楽の醍醐味を味わうことになるだろう。あわよくば、私の手元でこれらの本が、誰の目にも触れずに朽ち果てるよりも、こうしてさらなる外海への放浪の旅という運命の方が、遥かにロマンティックであり、淑やかであろう。これら酒と風俗の文化を煮詰めた『洋酒天国』の比類ない特質に、旅はよく似合うのである。  そうした取り決めが進むまでのあいだ、そのうちの一冊を、再び読み返してみようではないか。  手に取った『洋酒天国』は 第21号 である。この号は、6年前の 「『洋酒天国』きだみのる氏の酒」 で紹介した。ただしその時は、きだ氏のエッセイ一つを紹介したのみであった。開けば、それ以外の、とうに忘れてしまっていた鮮やかなるエッセイや写真などが目に飛び込んできて、思わぬ探訪の途を愉しむことができた。というわけで、再び第21号を紹介することになるのだけれど、本当にこれが最後の、「私の“洋酒天国”」なのである。 § 【再び登場『洋酒天国』第21号】  壽屋(現サントリーホールディングス)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第21号は昭和33年1月発行。表紙の写真のシャンデリアや水晶の如き

下落合のアトリエ

【新宿区立中村彝アトリエ記念館】
 先週のこと、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」を訪れるため、最寄りのJR目白駅を降りた。
 青空が広がり、冬風はそれほどでもなく暖かかった。

 目白通りを西へ、下落合三丁目バス停を目印に左折する、はずであった。が、陽気の心地良さで身体が弾けていたのか、ぐんぐんと歩調が速まって、バス停を通り過ぎ、さらにその先の日本聖書神学校あたりの路地を左へ折れてしまったらしい。
 ただ、どうもそれは陽気のせいだけではなかった。

 奇妙なことなのだが、私はエロシェンコを見たのだ。街で。エロシェンコ氏が歩いているのを。

 決して幻影ではなかった。
 目白通りを西へ歩いている只中、私の脳裏にしっかり刻み込まれたロシア詩人ワシリー・エロシェンコ氏の顔によく似た白人の若者が、目の前を通り過ぎたのである。クシャクシャな金髪と、盲目の瞼のような――。

*

【朝日新聞朝刊茨城版1月15日付コラム「作家とアトリエ」】
 先月、朝日新聞朝刊の茨城版に県近代美術館での「作家とアトリエ展」を紹介するコラムが掲載された。昨年の12月に没後90年を迎えた、水戸出身の洋画家・中村彝(つね)を伝える記事だ。

 その中村彝のアトリエを見てみようと思い、こうして下落合を訪れてきた訳なのだが、いくらよく似た人とは言え、エロシェンコ氏を街で見かけるとは。私の過ぎた期待もここまでくれば、青空の彼方で彝氏も笑っていることだろう。

 しかしそれにしても、この界隈は住宅街でありながら、細く入り組んだ路地の静かなる迷路窟でもあった。どうやら私はこの迷路に迷い込んでしまったようで、アトリエ記念館を探すのに入り組んだ路地を何度も往来し、冷や汗を掻いた。

 ――ようやくアトリエに辿り着いた。
 今、その時の記憶を思い出しながら、これを書いている。

 中村彝の年表を参考にすれば、大正5年8月、東京府豊多摩郡落合村下落合に画室のある家を新築する。彝29歳。前年には相馬俊子との恋愛が打ち砕かれ、翌年5年の1月に俊子と最後の面談を交わす。
 この間の、俊子への煩悶と、肺結核を抱える身体的苦境とによる彝自身の喘ぎというものは、想像を絶して忍びない。先述の新聞コラムには、《戦死した兄の年金やパトロンからの援助により、29歳で念願のアトリエを新築》とある。

 同年に彝は「落合のアトリエ」という画を描いている。
 背景はやや薄い群青色。家の建物の手前中央に枯れた木が1本描かれていて、画面を大きく跨いでいる。実際の真っ赤な瓦とは裏腹に、画面上の家の瓦はやはり薄めの朱色で、それが背景の群青から浮き上がる造形となり、色合いがまるで中央の木の枝自体の黄葉のようにも見える。要するにこの画には、彝が好きであった秋、晩秋の趣があるのだ。

 私は実際に、中村彝のアトリエの室に入った。
 なかなかどうして、室の空間は広い。室にはいくつかの画が飾られていた。採光窓を正面とするならば、飾られている左の画が彝の描いた「エロシェンコ氏の像」(1920年・大正9年)であり、右の画が鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」(同年)である。二人はエロシェンコ氏をモデルにし、競ってそれを描いた。
 中村彝の著書に、「エロシェンコ氏の像」に関して自説を述べた書簡がある。

《「エロシェンコ」の肖像について(あの絵では色数を出来るだけ節約し殆ど二三色でかいた)「方法と材料とは簡単な程いい。思想が充ち、効果を見る目が明かになり、腕が相当熟練して来さえすれば、方法や材料は如何に簡単でも充分雄弁に、且つ「堅牢不壊」の感じを与え得るものである」――正しき方法を頑固に守る事、そしてそれを極度にまで生かし充実せしめて、全く「自己のものとなしきる」事、そこに画家の真の道がある》
(中村彝著『藝術の無限感』中央公論美術出版より〔旧字体を新字体に改め〕引用)

 放浪の詩人であったエロシェンコ氏の波瀾万丈の生涯が、そのくぐもった表情の内に刻み込まれたと言うべきであろうか。鶴田吾郎の描いたそれが、やや引きの構図となっているのに対して、彝の「エロシェンコ氏の像」はかなり前のめりになって写生した感がある。故に、画から何かが迫ってくる。これが彝の言う《内面》の描写なのだろうか。

【復元された中村彝のアトリエ】
 そして彝にとってエロシェンコ氏は、自分とは真逆の、自由なる外野を大きく彷徨う人であり、結核という怪物を背負った、言わば小さな内野に佇む最小の自己にとって、ある種羨望の人であったかも知れない。そのお互いが、偶然な成り行きにも、一つの空間に同化する(片方はリンゴを丸かじりしながら)。

 だが果たして、エロシェンコ氏は本当に自由であっただろうか。外野の人であっただろうか。

 アトリエを通じて、その昔そこで息をした人物達の画を、私は見つめ続けた。彼らは息をやめ、画だけがぽつりと残っている。
 これすべてが、《描く》ということなのだ。彝の述べた「画家の真の道」が、ずっと先の未来まで続いている。あの白い採光窓から空が見えるような気がした。

コメント

過去30日間の人気の投稿

五味彬の『Yellows MEN Tokyo 1995』

YELLOWSという裸体

拝啓心霊写真様

ベストセラー本『HOW TO SEX』への回帰

左卜全と心霊写真