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3月, 2015の投稿を表示しています

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「ひだまりのうた」について

2018年1月、私は「ひだまりのうた」という歌を作る。作り始める――。これについて二三、作る際のまえおきとして書き残しておきたいことがある。この曲のテーマは、“どこへ行ってしまったか分からない《昔》の友に贈るブルース=応援歌”ということになっているが、個人的に、この曲を作ろうと思ったきっかけとなった、「ある友人」について(充分考えた末に思い切って)書いておきたいのである。  実際のところは――「失踪」ではないのだろう。だが私にとって、この長い年月の果て、友人=彼が居なくなった状況を「失踪」ととらえて今日まで認識している。昔からの仲間であった周囲とのネットワークを断ち、結局ほとんど誰も彼の居場所を知らない有様なのだから、ある意味において「失踪」と言えるだろう。彼は私のかつての「友人」であったし、その昔所属していた劇団のリーダーでもあった。
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 10年前の秋に発刊された、ある演劇雑誌の取材記事には、当時の彼の飄々としたプロフィール写真が掲載されている。無論、その記事は劇団のプロモーションを目的とした内容である。母体の劇団のリーダーとして座し続けた余裕と自信に満ちた態度が、そのプロフィール写真に滲み出ていた。雑誌の取材を受け、とうとうとした語り口であったろうことが想像される彼の言葉には、劇団に対する「情熱」と「希望」と「夢」と、底知れぬユーモアのセンスが鏤められ、「ナンセンス・コメディ」を標榜する劇団の旗印としてのイメージは、すこぶる健やかなものであった。  10年前といえば、私はとうの昔に劇団を脱退した人間だったので、彼と会う機会はまったくなく、こうした業界雑誌を通じての所見ではあるものの、その頃の彼は元気そうで紛れもなく絶頂期の「演劇人」であったろうし、「信念」を変わらず貫いているという感があった。  それから数年後、彼は劇団とメンバーとのあいだで「いざこざ」を起こす。そしてまもなく「失踪」してしまった。6年ほど前のツイッターの書き込みを最後にして以降、彼はほとんどすべてのSNSの更新を断絶し、ネット上から姿を消した。だから、仲間内でも彼の居場所を知らない――と私は認識している。この認識が間違っているかどうか分からないが、少なくとも今、彼という存在が周囲からいっさい消えた「空白」の、途上の最中にあって、双方にとってとても穏やかな、波風の立たない期間が経過してい…

『洋酒天国』とウイスキー考

私はウイスキーが好きである。この「ウイスキーが好き」ということに思慮を深めてみたい。  どうもそれは、『洋酒天国』を読み出してから始まったと言うしかなく、20代の頃はビールを嗜んだがそれも「好き」というほどではなかった。ビール以外あまり飲めなかったという言い方もできる。  であるから、ウイスキーなど強い酒の燃えるような喉越しは苦手であったし、いずれウイスキーのようなものが美味しく飲めるようになれれば、と仄かに憧れる向きは、幾分あった。
 それが今では、大のウイスキー党である。  専らオン・ザ・ロック。ウイスキーを注いだ時の、グウォ、グウォ、グウォ、という低い音がたまらない。そしてあの色合い。琥珀色だとかべっこう飴、と称される半透明の黄褐色を見ると、おお蒸溜酒!と思う。  モルトかグレーンかブレンドか――。醗酵、蒸溜、熟成と長い旅を終えてきたのだという薫香もまたウイスキーならではの醍醐味がある。土と花と樽の木の薫りと酒精との協奏。ノクターン。喉を通り過ぎる瞬間の、薫りと味の強烈なシンコペーションが緩やかに収まる時、1日の疲れを癒す朋友と思えてくる。そう、酒を飲むということは、語り合いなのだ。
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 『洋酒天国』(洋酒天国社)第33号は昭和34年2月発行。冒頭のエッセイ、島田巽著「一瓶のウイスキーとの旅」では、スコッチ丸瓶1本を抱えてインドを旅した筆者のウイスキー狂ぶりが窺え、面白い。
 当時朝日新聞の論説委員であった島田氏は、インドの禁酒の州を旅するのに不便だろうからと親友からスコッチを渡され、それを大切に抱えながらの旅をしたらしい。  禁酒州で外国人旅行者が酒を飲む場合、特別許可証を申請しそれを公認酒場で提示しなければならず、飲める量も決まっているのだという。普通、そんなところへ行ったのなら酒など我慢すればいいだろうと考えるが、好事家は苦労を耐え忍んで飲む。さらに旅を進める島田氏は、ダージリンの高い山へ登り、ヒマラヤの8,000メートル級の連峰を眺めつつ山頂の寒さに耐えながら、小瓶に移しておいたウイスキーを喉に湿らす。それが格別の味であったことは、言うまでもない。
 第33号の「今月のカクテル」(第33号では誤植で“カルテル”となってしまっている。)のカクテル「プリンス」。これがまた美しい琥珀色で目にとまる。  トリス・ウイスキー45ミリリットルにヘルメスのオ…

「魚の賛歌」の時代―古河市公会堂というファンタジア

私が先頃「魚の賛歌 [2015 Special Edition]」という曲を歌い録音するに当たって、この曲が作られた1993年当時に思いを馳せるべく、極私的に懐かしい場所を訪れたのは、昨年の11月であった。
 今の自己批判ショーの前身であるスパゲッティ・シアターがその頃の公演で利用していた、茨城県の古河市公会堂というホールの跡地を、およそ20年ぶりに歩いてみたかったのである。
 古河市公会堂は、市民にとって活力の場であった。隣接する小学校校庭の広場と共に、市のイベントや祭り、サークル活動の展示や物産展、音楽演奏会によく活用されていた。そう、成人式もこの公会堂が毎年利用された。  古河市民にとって公会堂という名称がなんとなく古めかしく、殺風景で辺鄙な所にあるという印象を与えてしまっていたのが、まさに古河市公会堂の代名詞たる所以で、本当に古めかしかった。  私が子供の頃には既に古臭い印象があったがそれもそのはず、古河市発行の写真集『こが 半世紀―古河市制50周年記念誌―』の年表等によれば、市制10周年を迎えた昭和35年の10月に「新築落成」(延面積956平方メートル、総工費3,290万円)とある。
 ――公会堂の造りを思い出してみる。  長方形の外壁は全面セメント張りの鉛色。薄暗く無機質。出入り口のガラス扉は硬調で訝しい。屋内のホールは学校の体育館の構造に似ていて天井が高く、白塗りの壁は落ち着いた雰囲気ではあるが、反響の吸音対策は施されておらず響きが濁り、音響特性は悪い。照明器具は一応設置してあり、スポットライトでステージを照らすことは可能だが、いかんせんあまりにも旧式である。市として何かの折に設備や装置が新調導入されるということもなかったであろうから、新築当時のまま、すべてが老朽化しつつ数十年の歳月を経たことになる。
 そんな個人的な不満はともかく、公会堂が出来た当時は、市民は大喜びだったに違いない。先の写真集には落成当時の“広報”(昭和35年11月)も掲載されていて興味深い。以下はその見出し。
〈市制10周年祝公会堂落成〉 〈10歳の誕生祝ひに みんなで 公会堂の贈りもの〉 (『こが 半世紀―古河市制50周年記念誌―』より引用)
 その広報の公会堂の写真キャプションには、 〈いよいよできた市民文化の殿堂「古河市公民館」のスマートな姿(総工費2,300万円、収容…

学生よ、歌え

毎年この時期になると、新聞の地方版の、高校入試出願数の表を眺めたりして、我が母校の減少傾向の定員数やその定員割れの出願者数を見比べたりして、少子化の時代潮流に時折、身勝手な憂いを感じたりしてしまう。  そういうこととは別にして、学校を卒業するまでの間に、学生がどれほど充足感を得られたかを杞憂し、「学ぶ」ということは定員の問題ではなく、個人の「情熱」と「努力」の問題なのだ、ということを、自己の経験の反省を踏まえながら、その学生時代を思い出したりする。
 去る3月7日付の朝日新聞朝刊教育欄で、コラム「いま 子どもたちは No.870 卒業のうた4」を読んだ。府中第四中学校の合唱部の話題である。
 その合唱部の、人と人との「情熱」のうねりが伝わってくる。  昨年まで部長を務めた野呂知里さんは、2年の時に幼馴染みの三橋洸太君を合唱部に誘った。彼は副部長となった。昨年、岩手の盛岡で催された全日本合唱コンクールの全国大会では、混声合唱の部で金賞を勝ち取った。合唱部に入ることを父親になかなか納得してもらえなかった三橋君は、この春、野呂さんと同じ高校に入り、合唱を続けるのだという。
 合唱前の、腹筋運動の光景が目に浮かぶ。地道な「努力」である。こうして私はこのコラムを読んで、一つの大きな感動を覚えるのだが、自らの中学校時代を振り返ってみると、比較することすらできないほど無形無益の思い出ばかりで、否応なく恥ずかしさが込み上げてくる。
 私の場合、それは演劇部であったのだが、部員全体の「情熱」の違いに言葉もない。ただ、合唱部の彼らと共通していると思ったのは、同じ文化部における卑下された視線だ。合唱部も演劇部も確かにコンクールという実績の場が設けられてはいるものの、スポーツの戦績や身体能力の評価とは違って、個々及び総合的な芸術性を数値で評価することができない。
 故に、音楽や演劇の芸術性が将来どんな役に立つ、と周囲は卑下する。特に十代にとってはこのあたりの重苦しい悩み、周囲からの見下しの圧迫感に対して、ぶれずにそれを続けていくことの難しさがある。くじけそうになる。  しかしやはり、個人の「情熱」と「努力」で解決するしかないのだ、と思う。私はコラムを読んで個人的に感動を覚えたと同時に、同じような悩みで苦しんでいる学生達に、心からエールを送りたい。
 余談。卒業生が歌う「マイ・ウェイ」…

『洋酒天国』とチョットだけヨ

最近、我が『洋酒天国』コレクションをもう少し増強しようかしらん、などと閃いてオークション・サイトを検索してみた。しかし、出回っている“ヨーテン”の出品数の少なさに唖然とし、それもほとんど所有しているものばかりで、もはや“ヨーテン”の(これ以上の)入手は困難を極めた状況、と判断せざるを得なかった。故に貴重なコレクションであることを今更ながら認識する。ボロボロにならぬよう丁寧に扱わなければならぬ。
 さて前回紹介した“ヨーテン”は、比較的硬派だった。したがって今回は軟派に偏りたいというか陥りたい。すなわち大人のお色気路線――。
 昭和35年6月発行の『洋酒天国』(洋酒天国社)第47号はお色気ムンムンとまではいかないまでも、そこかしこにエロティックなジョークが鏤められている。毎号紹介されているカクテルも、今号は「フーラ・フーラ」。ヘルメスジン、オレンジジュース、ヘルメスのオレンジキュラソーを混ぜたカクテルで、一際オレンジ色が鮮やか。南国の美女を想い出させるとか。それはそうと、以下、少々大人向けの面白いジョークを引用しておく。
○洋天ジョークス【使用前、使用後】 《美容院で健康保持器のことが夫人たちの話題になっていた。雑誌によく出ている、例の使用前、使用後と二枚の写真を掲げて、使用者はこんなにフトッたと宣伝している器機のことである。 「あれは本当によく効きますわ。うちの主人もあれを使うようになってからとても調子がよくなりましたの。なんだか、ひとまわり大きくなった感じですのよ」  と、A夫人、しきりにらいさんしていると、今まで黙っていたB夫人、なにを勘ちがいしたのか、 「まあ、ステキじゃございません。それ、長くなるんですの? それとも太くなるんですの?」》
○醉族館 《近着のスエーデン映画「怒れる若者たちの遊び」の中に出てくる「ひざ開き遊び」、早速、隣家のS子にためしたら、どうしても開かない。そこで夜、酒場に行って、なじみのA子に試みようとしたら、拒否された。この結果、小生は隣家のS子と婚約することにした。ナゼだかお判りかな。拒否されたのを怒ったわけではありませんゾ》
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 「私の選んだサケ⑥」のコーナーでは、映画俳優の二本柳寛さんが随筆を書いている。写真にあるボトルは、私もよく飲んでいるサントリーの“白札”である。二本柳さんはある一時期には必ず一種類の酒しか飲まないが…