スキップしてメイン コンテンツに移動

「魚の賛歌」の時代―古河市公会堂というファンタジア

 私が先頃「魚の賛歌 [2015 Special Edition]」という曲を歌い録音するに当たって、この曲が作られた1993年当時に思いを馳せるべく、極私的に懐かしい場所を訪れたのは、昨年の11月であった。
 今の自己批判ショーの前身であるスパゲッティ・シアターがその頃の公演で利用していた、茨城県の古河市公会堂というホールの跡地を、およそ20年ぶりに歩いてみたかったのである。

昭和35年当時の古河市公会堂(写真集『こが 半世紀』より)
 古河市公会堂は、市民にとって活力の場であった。隣接する小学校校庭の広場と共に、市のイベントや祭り、サークル活動の展示や物産展、音楽演奏会によく活用されていた。そう、成人式もこの公会堂が毎年利用された。
 古河市民にとって公会堂という名称がなんとなく古めかしく、殺風景で辺鄙な所にあるという印象を与えてしまっていたのが、まさに古河市公会堂の代名詞たる所以で、本当に古めかしかった。
 私が子供の頃には既に古臭い印象があったがそれもそのはず、古河市発行の写真集『こが 半世紀―古河市制50周年記念誌―』の年表等によれば、市制10周年を迎えた昭和35年の10月に「新築落成」(延面積956平方メートル、総工費3,290万円)とある。

 ――公会堂の造りを思い出してみる。
 長方形の外壁は全面セメント張りの鉛色。薄暗く無機質。出入り口のガラス扉は硬調で訝しい。屋内のホールは学校の体育館の構造に似ていて天井が高く、白塗りの壁は落ち着いた雰囲気ではあるが、反響の吸音対策は施されておらず響きが濁り、音響特性は悪い。照明器具は一応設置してあり、スポットライトでステージを照らすことは可能だが、いかんせんあまりにも旧式である。市として何かの折に設備や装置が新調導入されるということもなかったであろうから、新築当時のまま、すべてが老朽化しつつ数十年の歳月を経たことになる。

 そんな個人的な不満はともかく、公会堂が出来た当時は、市民は大喜びだったに違いない。先の写真集には落成当時の“広報”(昭和35年11月)も掲載されていて興味深い。以下はその見出し。

〈市制10周年祝公会堂落成〉
〈10歳の誕生祝ひに みんなで 公会堂の贈りもの〉
(『こが 半世紀―古河市制50周年記念誌―』より引用)

 その広報の公会堂の写真キャプションには、
〈いよいよできた市民文化の殿堂「古河市公民館」のスマートな姿(総工費2,300万円、収容人員1,200名)〉
 とあるが、どういうわけか名称と数字が誤ったものになってしまっている。それも含めて遠い時代を感じさせる記録物で貴重だ。市民によく利用された愛着ある文化の磁場であったし、昔風に洒落た言い方をすれば“文化センター”であった。

*

更地となった公会堂跡地の一帯(2014年)
 小菅節男作曲の「魚の賛歌」が劇中に使われた公演は1993年12月。スパゲッティ・シアター第3回公演「スパゲッティの愛の悶え」。会場は古河市公会堂。
 残念ながら私の記憶にはあまりなく、その公演の中身を詮索することは不可能だ。
 確か92年の頃だったと思う。劇団でこの公会堂を初めて利用すべく、市の委託職員の方と話をして公会堂の設計仕様図の資料をもらった時、客席(椅子席)とステージとの高い段差が気になり、軽演劇としては不向きなのではないかと感じた。
 しかしそんな贅沢なことは言ってられず、客席最前列をかなり後ろに下げて悪条件を補ったり、場合によっては逆手に取ったりして定期的に使用し続けた。尤もそれは、使用料が安いという経済的理由もあったからだ。役者にとっても観る側にとっても、決して快適なホールではないことを身体的に感じながらの利用であった。

 一地方のアマチュア劇団が演劇を催すべく古河市公会堂というホールを利用し続けた時代――それはもはや市民の記憶において旧時代のことである。
 古河市公会堂の面影は今はなく、2008年に閉鎖イベントがあった後に取り壊され、更地となった――。

古河市公会堂があった地点
 そうして昨年11月、懐かしい公会堂跡地を歩いてみた。
 冷たい風が吹いていた。
 実はこの付近に、これまた古めかしい公民館がかつてあって、毎週の稽古場でその公民館を利用していたのだが、そこも一緒に取り壊され更地化された。劇団の稽古や本番の風景を、更地に繁茂した雑草畠から想像することはできない。今となっては狐につままれた空間のようである。

 私はそうした昔の記憶を、一旦は懸命に呼び戻したものの、それを完全に呼び戻す努力をしない。
 再び忘れてしまってもいい。

 私にとって「魚の賛歌」の《再録》という通過点は、かつての面影を知ろうという努力のためにあるのではなかった。あくまで音楽的な、その音楽の構造への取り組みの問題であった。たとえそうであっても、「魚の賛歌」を口ずさめば、あの鉛色の外壁を思いだしてしまうのだが。

 一瞬の通過点であろう。音楽的に乗り越えなければならない必須の課題を、過去の記憶を呼び戻しつつ踏み越えていかねばならない。「魚の賛歌」の曲調にも似て、あの公会堂は私にとってfantasia――完全無欠のファンタジー・ワールドなのである。

コメント

過去30日間の人気の投稿

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
*
 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
*
 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…