桜―心ざわめく

上野動物園前の桜の木
 この時期の上野公園では、恒例の“桜イベント”で盛り上がる。「東京・春・音楽祭」では多彩な音楽演奏会が催され、まさに心が桜色に染まる。先月末の土日では、私の好きなサン=サーンスの「動物の謝肉祭」を絡めた「動物たちのカーニバル―動物学的大幻想曲」などという面白そうなイベントが上野動物園であったようで、うっかりすると逃してしまい、この時期は公園内のどこで何が催されるか、気が気でない。

 公園内の隠れスポットであるグリーンサロン及び公園案内所(当ブログ「カレーライスという欲望」参照)は私が必ず休憩に利用する憩いの場なのだが、さすが桜花見の時期だ、自動販売機の飲み物がホット以外すべて売り切れ状態となり、飲み物は売店で販売しております云々の紙が貼られていた。喉が渇ききる真夏でもこうはならない。
 したがってこの時期の公園内は、私にとって“散歩”とか“散策”といった風情からかけ離れ、溢れる人の熱気と汗の充満を覚えながらの、桜イベントへの没入感があるのみだ。まるでそれは、「第九」合唱の大音量の海原に飲まれていくようでもあった。

 逃げるようにして入った東京文化会館の、ホールのシャッターが、ひんやりとした冷たい印象を与えた。まだ何も催していない。ロビーにてクラシック・コンサートのパンフレット群を閲覧して気分を変えた。
 ああ、そうであった。今度の「東京・春・音楽祭」の目玉でもあった“リヒテル”とも、個人的なスケジュールの都合ですべて除けざるを得なかった。なかなか出逢いはうまくいかない。とても残念である。

 青空の下。小松宮像のある広場からさくら通りに折れて、アルコール度数の高い臭気を感じつつ、花見散歩をした。
 実際は散歩という状況ではない鬱陶しい長い行列への参列といった具合である。足早に弁天堂へ、はどうやら無理だ。しかしこれも悪くはない。桜が舞って、花片が顔に降りかかった。《桜酔い》とは、こんな一瞬のことなのだろうと思った。

上野公園のさくら通り。まさに桜ロード
 ――私は今、心がざわめいている。意外にも、《恋》とか《愛》とかが近い。

 私が無心になって近づいてゆく《恋》とか《愛》というのとは少し違い、向こうからじりじりと《恋》とか《愛》が忍び寄ってくる。ドキリとする。心臓の高鳴りが収まらない。

 コンピューターで音楽を打ち込んでいると思われている私は、本当は紙と鉛筆が一番必要だ。思いついたメロディとコードを、三菱の鉛筆で五線譜の小型ノートに書き殴り、別のノートには詩となる言葉の断片を書き留めていく。
 自己のざわついた心の何物かを、それらのノートに創造する。転化する。昇華する。それしか私の生きる知恵はない。

 桜が近く、そして遠い。咲き乱れる満開の花の園内を歩きながら私は、人間の色気と本能を感じた。散って、尚花を咲かせる――。

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