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『洋酒天国』のロックは飲まぬワインとマルゴの話

1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が公布。4年後の1956年(昭和31年)の経済白書には、「もはや戦後ではない」という文言が明記され、その年の流行語となった。そういう頃の昭和の時代の話――。エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)のヒット曲が日本にも上陸し、ロカビリー・ブームを巻き起こした年。海の向こうでチャック・ベリーやリトル・リチャードといったロック・スターが華やいだ活躍を見せていたその渦中、同じように若者達を魅了したのがエルヴィス。エルヴィス・プレスリーの(当時のご年配の人達の感覚では)“破廉恥”な歌。そのエルヴィスに心酔した若き日本人こそ、他でもない小坂一也氏。曲は「ハートブレイク・ホテル」。
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 壽屋(現サントリーホールディングス)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第8号は、昭和31年11月発行。表紙のペーパークラフトの“セスナ機”は、お馴染みイラストレーターの柳原良平。カントリー&ウエスタンを白と喩えれば、リズム&ブルースは黒。その白と黒の音楽を融合させ、エルヴィスの甘ったるいウィスパー・ヴォイスで大ヒットした「ハートブレイク・ホテル」。この年、この曲の日本上陸によって、一大旋風を巻き起こし、戦後派の若者達の頽廃主義的なライフスタイルを大いに刺激。太陽族の風潮に喘いだ“草食系”の若者達が一気にライブハウスへとなだれ込み、片やステージのエレキ、片やTribeの立場でロックン・ロールのパワー感でもみくちゃになっていた、あの時代である。
 しかし、ヨーテンでは、どこか飄々としていて、そうしたロカビリー・ブームの熱風に肖ろうというスタンスが感じられない。ヨーテンを片手に暢気にトリスバーで酒を飲んでいるのは、ネクタイを締めた“オジサマ族”だったからか。“オジサマ族”からすれば、街の界隈のあんなアプレゲールなど、クソ食らえ! ってなもので、そんなものに染まったら、酒が不味くなる、と思っていたのかも知れない。  確かに戦後の闇市では、めっぽう悪評を買った“バクダン”や“カストリ”といったまがい物の酒が横行したそうだ。酒は古来より人々の文化の礎であるという箴言があるとすれば、まがい物ではなく、より上質なものへ、より上品なものへと酒造りの付加価値にこだわるのは当たり前。言うなればそれは、壽屋の創業以来のポリシーでもあった。  …

中村屋サロンと中村彝

 中村屋サロンと中村彝についての本題に入る前に、新宿東口界隈についての個人的な思い出を記しておく。

 中学生の頃――それは昭和60年前後――「トーキョー」と言ったら私の中で「シンジュク」であった。新宿がトレンドであった。というくらい、あの頃は何かしらの機会に新宿駅を訪れ、東口界隈をよく歩き回った。

 私の中で、東京への憧れは、新宿への憧れと同義であった。
 専ら地下のプロムナードを歩き回ってから地上に出、アルタの巨大な街頭ビジョンを見上げつつ、紀伊國屋書店で立ち読みしたり、マルイへ入ったり、あの頃盛んだった新宿コマ劇場での演歌歌手の公演を観たりしたこともあった。そう言えば、スピルバーグ監督の映画『カラーパープル』(原作はアリス・ウォーカーの同名作)を観たのも、確か歌舞伎町の新宿ミラノ座だったし、シアターアプルや紀伊國屋ホールは演劇少年であった私には憧れの劇場だったのだ。

 中学高校と演劇仲間が入れ替わる。それでも尚、演劇に関する情報収集の場は、常に紀伊國屋書店であった。話が前後するが、中村屋サロン美術館を訪れた直後、私にとって懐かしい紀伊國屋書店にも足を運んだ。

 ここは昔と何も変わっていない。ただし東京においての“変わらない”というのは一過性のもので、次に訪れたらまったく変わっていたということがよくある。たまたま私が“変わらなかった”現状を見ただけに過ぎず、あまりこの場合の肯定は意味をもたない。

 紀伊國屋書店(新宿本店)にあったあの頃の熱気は、なんとなく薄れた感がなくもない。
 芸術・演劇関連の本が並べられたスペースの、必ずしも群がっているとは言えない程度の、内省的な熱気を帯びた人だかり。あの頃、演劇の本を読むには紀伊國屋書店に行くのが最適と思われ、よく演劇関連のスペースに立ち寄った。
 演劇や戯曲関連の売り場には、若手の演劇人がしばし立ち読みしていることもあり、その雰囲気がいかにも演劇人らしさを醸し出していて空間的に味わい深かった。紀伊國屋ホールで様々な公演のチラシを貪るのもよくやった。一つの公演を観終わると、持って帰るチラシの束の分厚さに驚くのである。ともかく、書店の雰囲気は大幅に変わり、いまその種の文化的気勢はどこにも感じられない。

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【新宿中村屋ビルのパネル】
 今年の1月、私は新宿区立中村彝アトリエ記念館を訪れて、中村彝と鶴田吾郎のエロシェンコ肖像画の複製を観た(当ブログ「下落合のアトリエ」参照)。

 今回、中村屋サロン美術館(新宿中村屋ビル3階)を訪れ、中村屋所蔵の鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」(1920年)を間近で観ることができた。かつて中村屋サロンに集った芸術家たちの作品が、貴重にも展示されており、その中に中村彝の、相馬俊子を描いた画があって、私の胸は本物を観る悦びでときめいた。

 その一つが、「小女」である。
 彝は1913年から14年にかけて、おそらく猛獣となって俊子を追いかけ、彼女の像を描きまくった。「小女」は1914年の作品だが、前年に描かれた作品と比べて、どことなく俊子の表情が子どもっぽくあどけない。俊子の乳房を露わにした前年の「婦人像」や「少女」「少女裸像」の方が遥かに大人びていて、画家とモデルとの関係性において少し客体的に思える。
 ところが翌年の「小女」はまったく違い、彝の恋心が既に完膚なきほどに焼き尽くされて、俊子の肉体の細部に至るまで怨念が込められている。したがってその俊子の両腕の描写の肉感は、尋常ではない。

 創作活動におけるサロンというのは、物理的空間として必要不可欠であろう。今で言うSNSだけでは、まったく事足りないものである。
 それは芸術への意識開化の場であり、研究錬磨の場であり、人脈の場であったりするが、それぞれに含みをもたらし、仮想空間ではおよそ経験し得ないプラスアルファを有する。サロンは主宰者の懇意によって成立する。
 中村屋の相馬夫妻は中村彝の面倒を見、その中村彝は俊子に出会った。彝と俊子の恋慕の関係は後に瓦解するのだが、彝は俊子像で多様な美の結晶を遺すことができた。

 都市空間の時代が違うとは言え、かつてこの場所に多彩な芸術家が集ったサロンがあったとは、なかなか想像し得ないことだ。しかしそこに彝が居て俊子が居て、ということを想像する時、芸術作品の発端と出発の奇妙さはなんとなく理解できる。街の隅々にいたる人と人との交流の中から、作品は生まれ出てくる。新宿はそういうサロンの巣窟であったのかも知れない。

コメント

過去30日間の人気の投稿

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
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 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられないように…

YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『Yellows 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなのだ…

高校で学んだ「清光館哀史」

高校の国語教科書にあった柳田国男の随筆「清光館哀史」を初めて読んでから、28年の歳月が流れた。この時の国語教科書についても、また「清光館哀史」の――国語の先生の何故か異常なくらいに熱心で執拗な――授業についても、8年前の当ブログ「教科書のこと」で既に触れている。私はもう一度、あの教科書から「清光館哀史」が読みたくなったのである。  「清光館哀史」は、柳田国男の『雪國の春』(1926年)に収められた随筆で、今現在手頃に入手できる本は、角川ソフィア文庫である。私が高校3年の国語の授業で使用していたのは、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(秋山虔・猪野謙二・分銅惇作 他編。装幀画はイワサキ・ミツル)の教科書であり、この一冊をとうとう捨てることができず、今も自宅の書棚に据え置かれている。とても思い出深い教科書だ。  そうしてたびたび、懐かしくなってこの国語教科書を開くことがあるのだけれど、ほんのつい最近、あの「清光館哀史」を読み返すことができた。
 子供を連れて汽車の旅を続けていた柳田が、子供に《今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ》と訊かれ、別に悪いわけではないけれども、九戸の小山内の清光館は小さくて黒かったね――と答えるこの随筆の最初の文章が印象的で、教科書には、“当時の小山内周辺”という岩手県九戸郡の地図まで付記されており、神妙な親子の汽車の旅の小景が目に浮かぶようである。しかも紀行への敬慕の度合いが日増しに――少なくとも今、28年という重みで――自己の内心に跳ね返りながら増幅してくる不思議な随筆である。「清光館哀史」をあらためて読み返す意義は、確かにあったのだ。この心持ちの正体は、いったい何であろうか。
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 読み返し読み返しの過程で、この随筆を包み込む粘着性を帯びた哀しみは、より心に深く刻み込まれる。かつて18歳になったばかりの頃の私が、授業で学んだはずの様々な事柄=小山内の地方の風習やその人々の“閉じられた気分”を示した解釈は、自身の年齢を重ねるごとに違った趣となり、その随筆特有の暗さの中にも、都度新しい発見があった。当時の授業の内容を思い出すとともに、この随筆の確たる真髄を果たして炙り出すことはできるであろうか。
 平成2年(1990年)、そのうちの春であったか夏であったか、あるいは秋であったかは思い出せないが、工業高校の3年生だった私は、国…

左卜全と心霊写真

よくよく調べてみると、全国的にそうであったらしい。 我が母校の小学校では、昼の給食の時間帯になると校内放送が開始され、音楽やちょっとした学校ニュースが毎日放送された。ちなみに放送を担当しているのは児童達であり、放送委員会に所属した高学年の児童らであった。

 入学したばかりの1年生だった頃は、この昼時の校内放送がとても珍しく思え、毎日聴き漏らさずに聴いていた。が、そのうち内容に厭きてきてしまい、単なる給食時のBGMとしか思えなくなっていった。
 内容に厭きた最大の原因は、毎日同じ曲が流れた、ということだろう。学校とてレコード・ショップではないのだから、学校所有のごく限られたレコードが流されることになるのだが、さすがに毎日毎日、同じ童謡曲がリピートされると嫌気がさしてくる。しかもそれが6年間も続けば厭きるどころの話ではない。そういう点で我が母校の小学校では、校内放送にメスを入れるということがなく、この手のことに関してはほとんど進歩的ではなかった。

 毎度、同じ童謡が流される――。そのうちの1曲が、左卜全とひまわりキティーズが奇天烈に熱唱する「老人と子供のポルカ」だった。
 この曲のインパクトは相当たるもので、最初こそ聴いていて笑い転げていたものの、6年間リピートされ、すっかりこの曲の“超絶リピーター”となり果てた我々の耳には、ズビズバ~もヤメテケレもへったくれもなくなった。この曲を誰もがよく知っているにもかかわらず、笑顔で口ずさむ者は一人もいなかったのだ。
 あの時代、つまり1970年代から80年代前半にかけて、全国の小学校の校内放送で「老人と子供のポルカ」が流れていた、ということらしい。

 さて、小学6年の我が学級では、一回り小さな“事件”が起きた。恐怖の心霊写真ブームである。

 ここに1冊の本がある。その当時、教室に突然投げ込まれた本と同一のものだが、サラブレッド・ブックスというシリーズで二見書房から発行されていた中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』だ。  誰かが持参してきたこの本が教室に投げ込まれ、幽霊が写っているとされた心霊写真で震え上がり、教室は大混乱になった。

《怪奇異色写真集好評第2弾
霊体はどこに写っている?
全国から寄せられた不思議な
写真を 心霊科学の権威が、いま
鑑定・分析・解説するなかで
四次元世界の謎に敢然と挑戦する!》

 この本の中の心霊写真で私が…