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17歳の告白

 たびたび当ブログで旧友Kを登場させている(「教科書の中の高村光太郎」参照)。私の少年期から青年期にかけて、とりわけ感興をそそられた友人であったから、登場回数も多い。

 こんなことを書くと失礼に当たるが、Kのトレードマークはおでこに広がったニキビ痕であった。それがすべてを象徴していたとも言える。

 同い年であるKが、17歳の時、ある日私の家にやってきて、いろいろな悩み事を吐露したことがある(高校が違うので、およそその頃は半年にいっぺんほど会っていたかも知れない)。たまたま私はその日の長い会話を60分弱ほど、カセットテープに録音したのだ。テープは「17歳の告白」というタイトルが付けられ、あれから25年もの歳月、ずっと保管し続け、いまだ誰にも聴かせておらず、言わば二人だけが知る秘密の告白記録となっていた。

 ある意味において、ここでその禁を破ることになる。

 元来Kはおしゃべりであって、この時の長い話は60分以上延々と続いた。高村光太郎の話などはテープの中に収まっていない。
 近年、テープはCD媒体にノーカットでデジタル・コピーされ、つい先日のこと、思い出したように私はこの「17歳の告白」を再び聴いた。25年前、つまり高校2年生の3学期だった17歳のKと私の二人の会話ぶりは、あまり子供っぽさは感じられなかったものの、さすがに物事の見方や考え方がまだ青臭く、会話の行き着く先の結論があまりにも幼稚なので、客観的に聴いていて思わず笑ってしまったりした。が、だからこそ正真正銘17歳だったのだ、ということを改めて感じたのである。

 したがって「17歳の告白」は、大した内容ではない。

 始終私はKの聞き役に留まっている。それはKの本音を存分に聞き出す腹があったから。
 とどのつまり、Kはまもなく18歳になってしまうことにひどく怯え、今までの17年間はまったく無意味であったと冒頭で述べている。そして大学進学の希望とは裏腹に、現実は勉学の身の入らない虚無の毎日であり、生きる価値もなく、自分は何をすべきか、社会に何を貢献したらよいか皆目見当が付かないまま、だらだらと日々を過ごしている――云々が延々と語られているに過ぎない。

 そんなKの溜め息混じりの話の中で、自身の、「究極の理想的未来像」話が面白かった。

 早稲田へ進学したら、友人をたくさんつくってキャンパスを我が物顔でエンジョイし、スポーツにも勤しみ、将来は弁護士になり、人の為世の為に尽くし、結婚して子供をつくり、幸せな老後を暮らす――。

 しかしすぐさま現実の自分自身を省みている。
 早稲田へ行くだけの学力偏差値が著しく低いこと。高校生活では次第に友人がいなくなっていったこと。喧嘩に強くなりたいから空手に憧れるが空手をやるだけの体力も勇気もないこと。介護士やら看護師やらにも憧れたがやっぱり弁護士がいいかなあと目標がはっきり定まらず抽象的であること。将来結婚し、子供をつくることが何故幸せなのか自分にはまったく分からないということ。17年間何もせず無意味であった自分と、今後もおそらく何もしないであろう自分が在り、その無意味さの壁に挟まれ、もう何もかもに打ちのめされてつくづく自分が嫌でたまらなくなる。どれほど自殺しようかと悩んだか知れない――と。

*

 私は彼の長い話に対し聞き役に徹して、何故Kの頭はいつもこうなのだろうと首を傾げつつも、かなり暢気に聞き流してもいた。少なくともそれらの悩み一つ一つを真剣に議論する好奇心は、起きなかった。

 小学校時代からKの性格を知っている私は、Kが自殺なんかできっこないことは分かっていたし、モノゴトを執念深く追究して始めから終わりまで完遂することができない、忍耐力のない諦めの早い人だと知っていたから、議論の余地はないだろうと直感したのだ。あのくだらない「究極の理想的未来像」話をすぐにでも忘れ去って、そのうち身の丈に合った幸福を知らず知らず自然に手に入れて、普通の家庭を築くであろうと思ったから、ほとんど助言など必要ないと思ったのである。

 やがてKは一浪した後、本当に苦労して大学進学するのだが、その先の消息は掴めていない。私はついに、Kの心の奥深くの、ひどく孤独でやりきれない辛さと悲しみを、理解してあげられなかった。悔恨の極みである。

 実は「17歳の告白」で最も際立っていたのは、Kの明るい一面が窺える、Kの通う高校での、化学の実験の話であった。実験自体が面白いというのではなく、Kがその話をしている時だけ、何故か非常に興奮し愉快に包まれ、楽しそうにしゃべっていたのだ。

 それは授業での「鏡」を作る実験――。ガラスに硝酸銀と水酸化ナトリウム、アンモニアを乗っけて、本来ならばブドウ糖を加えなければならないのだけれども、先生がホルマリンで作ろうと言い出し、それを加えたところ実験は大失敗に終わった――。

 25年間の聴き手である私にとって、「17歳の告白」記録でいちばん印象に残っているのがその実験の話の箇所であり、ニキビ痕のKらしさが十分に伝わってくる部分であった。むしろこの部分だけが、告白記録としての意味を成していたのではないかとさえ思われる。

 もしあの時、私が一つ一つ真剣に丁寧に議論していたら、Kのその後の人生は何か違ったものになっていたのだろうか。だが私にはKの消息が分からず、そうした「たられば」の検証をすることもできないし、そもそも彼の力になれるだけの友人ではなかったのかも知れない。

 こうして記憶だけが残る。藻屑と消えていくものが多い中、記録されたものを消去あるいは廃棄しない限り、その部分だけが記憶として残る。否応なく。
 だから私は、この「17歳の告白」記録を処分しようかとも思っている。記録されたものが真実とは限らない以上、私の千里眼は、ニキビ痕のKの未来を写し出すことは不可能だ。
それでも尚私の想像は、遥か先の未来にまで及んでいる。いまKはどこで何をしているのであろうか。あの「鏡」を作ろうとした実験を、時々思い出すことがあるだろうか。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…