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ミステリーハウスIIのこと

マイクロキャビン『ミステリーハウスII』
 1980年代前半に一世を風靡した8ビット・パソコンNEC PC-6001の寡少なアドベンチャー・ゲーム群で、『ミステリーハウスII』というのがあった。ミステリーハウスそのものは非常に有名なゲームであり、この手の探検型のゲームが後々わんさかと派生し、人気を博した。

 いったい発売年はいつだったのか忘れてしまったので、発売元のマイクロキャビン社のホームページを調べ、同社の貴重なソフトウェア作品リストを見ることができた。『ミステリーハウスII』は1983年の3月発売だとこれで分かった。

 もともと、アメリカ・カリフォルニア州にある幽霊屋敷ウィンチェスター・ミステリーハウスから着想したシェラ・オンライン社のApple II版『Mystery House』がオリジナルであり、それをマイクロキャビン社が日本版としてアレンジしたのが1982年に発売された『ミステリーハウス』であった。しかし、オリジナルの推理小説的な要素はかなり縮小され人物登場はなく、パッケージに見られる洋館風の建物は一切関係がない、日本家屋風の建物の屋内(屋内は意外と洋風)を探検する宝探しゲームとなっており、特に『ミステリーハウスII』は謎解きの面で多くのフラッグが仕込まれた。

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カセットテープ2本と説明書など
 私はこの『ミステリーハウスII』を、小学5年生だったか6年生だったか、つまり1983年か84年の頃に、とあるマイコン・ショップで見つけたいへん興奮した。既にApple II版の『Mystery House』の噂は耳に届いており、移植版でありながらそれと同じもの(と当時勘違いしていた)を家にあるPC-6001でプレイできるということに興奮したのである。

 いずれにせよ、実際に『ミステリーハウスII』をプレイしてみてその遜色はなかった(オリジナルをプレイしたわけではないが)。言い換えればマイクロキャビン社の日本版ミステリーハウスは、その改変の妙が実に素晴らしかったと思う。封入されていた説明書の文章にこうある。

《このゲームはアドベンチャーゲームといって、一種の謎解きゲームです。画面に書かれた文章や画の中からヒントを見つけ、さまざまな謎を解き所定の目的を達成するというゲームです。あなたは今、ミステリーハウスの前にいます。この家のどこかにあるという宝の箱を探して、この家から脱出してください》
(マイクロキャビン社『ミステリーハウスII』説明書より引用)

オープニングの説明文
 宝の箱を探して…脱出してください、という文言にひどく驚いた。宝の箱を見つけ出した挙げ句、家から脱出しなければいけないということは、タイム・リミット的な何かがあるのではないか、それはきっと時限爆破装置だ、と思ったからだ。

 ともかく難解であった。
 ゲームはすべて英語によるコマンド入力方式で、動詞と名詞を並べて入力しなければならなかった。行きたい方向にはN、S、E、W。階段を上がるにはU、下がるにはDを入力すればいい。持ち物はメモを除いて2個まで。INVENTORYと打つと持ち物を表示し、CASTと打つと持っているものを捨てることができる。
 ちなみに、SAVEで現在までのデータをカセットテープに記録することもできる。このように、当時としては小学生で英語を打たなければならないというのがいちばん難しかった。
 
宝探しの探検が始まるハウス
 一人でこのゲームを解くのは難しいと思った私は、クラスメイトを家に呼んで、おそらく半年くらい、このゲームと格闘したはずである。パッケージの上部に難易度が記されており、★5つとなっている。一応、上級マニア向けということらしい。

 英語の簡単な名詞はなんとなく使えたが、難しい名詞や動詞は和英辞書で調べながらコマンド入力した。これが大変な作業であった。
 例えば冷蔵庫=REFRIGERATORであることを辞書で発見したりとか、“ロープを結ぶ”意を調べたりして同じ意味の英単語が辞書に載っていたりすると、それをすべて入力して試したりした。
応接間?時計がある
 失敗をいくつも重ね、時間を浪費し、断念して別の日に再チャレンジする。何日もかかった。何かいい単語はないものかと、授業の最中に黙然してしまって勉強に身が入らなかったこともしばしばあった。それでもなんとかコマンド入力がうまくいって一つのカラクリが解けたりすると、もう飛び跳ねて同志と喜んだものだ。

 ところがさすがに小学生では謎解きが難しく、壁にぶち当たった。まったく謎が解けない。先に進めない。
 500円分の切手をマイクロキャビン社に送ればヒント集を送ると説明書に記してあったので、その通り封書に500円分の切手を入れて、三重県四日市市にあるマイクロキャビン社宛に投函した。
こちらは寝室。壁に何かある
 やがて紙1枚のヒント集(?)が届き、それを活用しながら数ヶ月を要してすべての謎を解き明かし、宝の箱をゲット。感動のエンディング画面をようやく見たと記憶する。

 ここに掲載したプレイ画面は、2002年に再びこのゲームをプレイした時の画像なのだが、今これをもう一度やれと言われても、同じようにすんなり解けるかどうか甚だ疑問である。人物登場がなく、現在の感覚では稚拙と感じてしまう当時のコンピュータの線画ビジュアルも、かえって不気味さが強調され、まさしくミステリアスな趣さえも感じられる。

 ところで宝箱を発見して、「家から脱出」したのだろうか。

ようやく見ることができたエンディング画面
 ――まったく記憶がない。おそらくそんな時限発火装置などはなかっただろうと思うのだが、脱出という言葉がなかったら、これほど真剣にのめり込まなかったのではないかと思う。
 たぶん、脱出ゲームではなかった――。パッケージの洋館幽霊屋敷風の建物も嘘。宝の箱と言ったって大したものじゃなかった、はず。

 でも、私はこのゲームを通じて、クラスメイトと協同で物事を調べ、解決するという苦労の末の楽しさを覚えた。そこにはちょっぴり怖いという要素があったかも知れない。その怖さを何とか乗り越えていく勇気は、少しばかり育むことができたのではないか。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
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ファミコンの思い出―プロレス

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