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7月, 2015の投稿を表示しています

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映画『スペースキャンプ』のこと

“少年時代の心を思い起こそう”というのが、ここ最近の私の座右の銘だ。自分が何を見て感動し、何に憧れたのか――。  我がホームページ[Dodidn*]「今月のMessage」は、毎月衣替えしているコラムなのだけれど、今月7月は「『スペースキャンプ』を観た夏」を掲載した。1986年公開のアメリカ映画『スペースキャンプ』を、あの頃中学2年生だった私は、映画館で存分に観た。大いに感動した。サントラ盤のLPも買った。そのことを思い出し、今回再び『スペースキャンプ』を、二十何年ぶりかで観た。少年の心のようにときめかせて――。  すっかり忘れていた感動があった。この映画について書いておきたい。「今月のMessage」は、翌月には上書きされ、文章が変わってしまうので、「『スペースキャンプ』を観た夏」の文章を以下、全文引用しておく。
《7月。文月。子供達の嬉しい(?)夏休み到来。  先月27日、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の小惑星探査機「はやぶさ2」が、小惑星“リュウグウ”に到着したというニュースを知りました。今後、「はやぶさ2」ではいろいろなミッションが始まります。大人だけではなく子供達も関心が高いのではないでしょうか。 
 私が中学2年だった1986年の7月、友達と映画館に行き、2本立ての映画を観たのを憶えています。一つはジム・ヘンソン監督の『ラビリンス/魔王の迷宮』(主演はジェニファー・コネリー、デヴィッド・ボウイ)、もう一つはハリー・ウィナー監督のSF映画『スペースキャンプ』。主演はケイト・キャプショー、リー・トンプソン、そしてリーフ・フェニックス。リーフ・フェニックスはホアキン・フェニックスであり、子役で出演していました。  この映画の音楽を手掛けたのは、“スターウォーズ”や“インディ・ジョーンズ”のテーマを作曲したジョン・ウィリアムズ。莫大な制作費をかけたのですが、当時興行収入はあまり伸びなかったようです。
 ですが、私自身はとても興奮しながら観た映画です。NASAのスペースキャンプにやってきた少年や若者達が、ひょんのことで本当にスペースシャトルで大気圏を突入してしまい、宇宙空間で無重力状態を体験します。講師の女性宇宙飛行士の手腕により、危機一髪で地球に戻ってくるのですが、子どもの夢を掻き立てるSF作品で、この夏はもう一度観てみたいなあと思っています》
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古河駅130年と伊勢甚

旧国鉄東北本線で唯一茨城県に停車した“古河駅”の歴史を紹介する企画展「古河駅130年とまちのすがた」が古河市歴史博物館にて催され、先日私はこの博物館を訪れた。この駅にまつわる個人的な小学校時代の思い出は、当ブログ「駅の伝言板」で書いた。今回もそれに関連した話を綴りたい。
 古河市中央町にある歴史博物館は、入館こそ初めてであったものの、十数年前にこの近くを訪れたことがある。とは言え地元であるから、それこそ数えきれぬほど周辺は歩いているが、歴史博物館の周辺は、かつての古河城下における出城だった場所で、土塁らしき傾斜が今でも点在しており、その十数年前、新品の銀塩一眼レフを買ったきっかけで試し撮りの風景写真を撮りに、そういった堀の跡を見て歩いたことがあったのだ。
 その時歴史を見て歩いたつもりが実は薄っぺらいものであったこと。それが今回の入館でよく分かった。博物館の展示を観覧し、これまで何ら地元の歴史を知らなかったことや、目から鱗が落ちる発見などがあり、意外なほど知識欲を掻き立てる材料となって地元の町の見方が変わった――と言い切ってかまわない。
 館内では、江戸時代後期の古河城下の復元模型が展示してある。これがまた広大である。  渡良瀬川に面した長細い土地の周囲を堀で囲み、言わばそこが中洲の城下となって、入り組んだ掘割を船で往来するという風景が想像でき、堀外に整理された武家屋敷と町家を含めた城下全体の趣は、都市空間としてさぞかし風光明媚であったかと思われる。古河藩主、土井利厚(としあつ)と利位(としつら)を仕えた家老で蘭学者である鷹見泉石の稀有な存在も、この城下の鉛色の文明的な輝きに伴って、頗る際立っている。
 土井利位と言えば『雪華図説』で名を知られているが、私の母校の小学校では当時、それに肖って、雪華の多角形をなぞった噴水装置の水場が校内に拵えられ、子供らだけで水遊びをした思い出がある。
 こんな水遊びをした。まず蛇口から水をじゃーじゃー流し続ける。やがて多角形の外周水路から水が溢れ出る。これ幸い、土砂を手で掻き分けて川を模し、土砂と小石を集めてきてダムを造る。ダムをせき止めたり開いたり、川と川をつなげたり。こうなるともう夢中になって時間を忘れて遊びにのめり込んでしまう。  噴水から溢れ出た水が大きくどこまでも流れていく様を見て、私は渡良瀬の河を想った。今思えば、…

『洋酒天国』とアメリカ現代文学

当ブログ2011年7月付「開高健と『洋酒天国』」で『洋酒天国』を紹介して以来、4年が経過しているもののまだまだこの本の何たるか、その真髄を紹介し切れていないような気がして、やきもきとしている。  当初はまとめて25冊ほど蒐集された“ヨーテン・ライブラリー”も、焼き鳥屋のつけ樽ヴィンテージの如し、のんびり気儘に継ぎ足し継ぎ足しして、蒐集冊数を増やしてきたが、全61号を踏破するにはまだまだ、今後も気の遠くなるような悪戦苦闘を経験しなければならないのではないかと感じている。古い本を集めるのがいかに難しい所行か。美味い酒を見つけるが如く、である。

 今回紹介する『洋酒天国』(洋酒天国社)第19号は昭和32年11月発行。この号は4年前の25冊の中に含まれていなかった。継ぎ足しコレクションのアイテムの一冊。ちなみに表紙はマサト西村さんのパントマイムなのだが、この表紙を見て最初、私は何のことだかよく分からなかった。
 一見すると男女が踊っているフォト…にしか見えないのだが、よく見ればマサト西村さん一人の演技なのである。女性側の右腕の、男性の肩への絡み、脚のくねり具合、上半身と首の傾き加減など、もうまったく絶妙な体勢であり、見事に男女のしがみついた雰囲気を醸し出している。一発芸の本流とはこういうものを指すのではないか。
 さて第19号は、ややいつものお色気ムードをトーンダウンさせて、個人的には“アメリカ”を意識した構成に感じられた。
 「タイムス・スクェア」。  当時の宣弘社社長・小林利雄氏のルポルタージュに興味が湧く。“ペプシ・コーラ”の王冠が輝くネオンサイン。“BOND CLOTHES”のネオンの上を流れるニュース・フラッシュの電光板など弩級の広告建築物。まさにこれがタイムズ・スクエアなのだが、私はこの頃のタイムズ・スクエアを、ある映画で観た記憶がある。チャールズ・チャップリンが1957年にイギリスで公開した映画『A King in New York』(邦題は「ニューヨークの王様」)だ。
 小林氏がこの世界最大の繁華街の何たるかについて、“ペプシ・コーラ”の電光広告の電力量「100万kw」という言葉にすべて言い尽くしていると思う。そしてそれはチャップリンにとっての、巨人になりすぎたアメリカあるいは文明に対する鋭い風刺映画という形で喜劇化して見せている点では、同じ意味である…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
*
 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …

駅の伝言板

夏休み近し――という巷の風情に少しばかり煽られて、子供の頃に読んだ児童文学をいまおもむろに手にしたりする。そうして不思議とその頃の思い出の風景が蘇り、手元の本を閉じたまま夢想したりする。あっけなく時間が過ぎ、淡い体験にいざなわれた白昼夢のような気分にもなる。  ふと、私の住んでいる町の、昔の駅の姿を思い出した。子供の頃の記憶が蘇る。昭和40年代当時のその駅舎は、木造モルタル建築で古く、なんとなく悪臭が漂う感じの、田舎の小さな駅舎であった。
 その古い駅舎――当時の国鉄古河駅は、東北本線で唯一茨城県内の駅であり、東京は上野駅から、北は栃木県の宇都宮、黒磯方面へと向かう中途にある。今年、古河駅は明治18年の開通から130年を迎え、「古河駅130年とまちのすがた」と題された企画展がこの夏休み期間中に市内の歴史博物館にて催される。この駅を利用してきた市民にとっては、とても興味深い企画展である。
 ここに掲載した写真2点は、古河市の写真集『こが 半世紀―古河市制50周年記念誌―』(2000年発行)によるものだが、昭和40年代の頃の駅舎はまさにこんな感じであった。  乗車券――その頃は“切符”と呼んでいた――は当時、ほとんど窓口を介して駅員に口頭で降車駅を告げ、代金を支払って受け取る仕組みだった。駅ホームへの入場券のみは、古びた粗末な自動販売機で購入できた。私が小学生だった昭和59年には、高架化に伴って駅舎が新築され、もちろん今、その古い駅舎の面影はまったくない。
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 昭和59年のおそらく前の年。私が小学5年生だったかの頃。  学校で必要な文具を買いに、3つ先の駅ビル内の書店へ行こうという話になって、私を含めた男子2名と女子2名が放課後、駅で待ち合わせをするということになった、「子供ながらの事件」の思い出がある。  何せその頃、学区外に子供だけで行ってはいけないという校則があった。駅は学区外にあり、その駅で待ち合わせて3つ先の駅まで電車に乗る、ということがいかに子供にとって大冒険であったか。
 ところがいくら待っても、女子1名が駅にやって来ないのである。事件はしごく簡単な様相である。焦るのである。  夕方5時までに買い物を済ませて戻ってこようよ、と示し合わせていたものだから、なおさら出発時間が遅れることに苛立ちがつのった。しかし、いくら待ってもその子は駅に現れない。
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檸檬とカルピスの包み紙

筑摩書房の高校国語教科書『新現代文』で梶井基次郎の「檸檬」を読んだ。  この教科書は私が高校時代に使ったものではない。まだ10年前の新しい教科書だ。したがって「檸檬」のあちらこちらには、この教科書の以前の持ち主の、傍線やら注釈がこまかく丁寧にいっぱい書き込まれてあって、それこそよく学習した形跡で感心はしたのだが、私が読み返すにはあまりにもゴチャゴチャと――まさにガチャガチャした階調で――読みづらく鬱陶しいので、全集を買う前に角川文庫を買った。私はこちらの文庫版で、「檸檬」を静かに時間を忘れて読むことができた。

 私の好きなバルテュスや中村彝の画を初めて見た時の感動のように、梶井基次郎の「檸檬」は私にとって鮮烈であった。檸檬はレモンである。しかし檸檬をレモンと書いてしまうと、この感動がよく伝わらない気がするから不思議だ。
 実際私はレモンをスーパーで買ってきた。角氷を入れたグラスに鹿児島あたりの芋焼酎を半分ばかり注ぎ、炭酸水を入れ、最後にレモンを握りしめここぞとばかりの握力で果汁を搾り出して加えた。この時のなんとも言えない爽やかな香り。  ――してやったり。どうだ、高校生では味わえぬ感動であろう。どんなに教科書に傍線を引っ張って注釈を書き込んでも、この出来たてのレモン仕立ての焼酎には敵うまい。  そうであった。確かに、《レモンエロウ》の《あの単純な色》とこの爽やかな香りの合致は見事なくらいで、「檸檬」での「私」がこの果物にその五感の刺戟を覚え昂奮したのも頷ける。私もきゅうっとグラスの中の液体を勢いよく口に流し込んだけれど、既製品では決してこうはいかない新鮮な果物の酸味と甘味とその香りと、そして芋焼酎の軽やかな酒精の酒精の苦み。これらの融合一体感は、ゾクゾクとした震えを覚える至福の瞬間である。
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 《えたいの知れない不吉な塊》という表現で始まる「檸檬」は、その冒頭におけるある種の不快な調子がまず渦巻いて、読む人をじっとりと困惑させる。  それを慰める贅沢なものとして、好きであった場所、丸善の商品の美的興奮へと推移する。さらにこまかい場所を挙げ、駄菓子屋であったり乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉をながめる云々、果物屋と場所が移る。これらは、「私」の《えたいの知れない不吉な塊》から逃れるための彷徨だ。この果物屋を、近所の鎰屋の二階のガラス窓からすかして眺めるのが、いいらしい…

檸檬と丸善

京都がすっかり遠くなった。  私自身、2011年以降の音楽制作がかなり熱を帯びたものになってから、それ以前の〈気が向いたら京都へ〉という自然の思考回路がOFFになってしまっているのである。そんな中、丸善の京都本店が10年ぶりに復活(場所は河原町通三条下ル)するという朗報を耳にして、京都での気儘な散策遊行の気分が次第に高まりつつある。さもなければ四条烏丸での文具あさりをしばし夢想していたい。
 京都の丸善と言えば、梶井基次郎の「檸檬」が有名だが、高校時代、国語教科書に出ていた梶井基次郎の「交尾」は、授業ではやらず、当時まったく読まなかった。したがって私は、いつの頃からか彼を“カジイキジロウ”だと勘違いしていた。  高校卒業後、自主制作したラジオドラマの脚本に、熱海の錦ヶ浦という場所を設定して、その関連で“カジイキジロウ”と台詞に書いてしまったことがある。
《…ここはさながら、文士村だったんですよね。川端康成、三好達治、カジイキジロウ、井上靖。本当にいいところだなあ》
 と。高校の国語教科書をよく読んでいない証拠である。不勉強である。ちなみに熱海の錦ヶ浦は、川端康成が居た湯ヶ島とは少しかけ離れてはいる――。
 そうした恥ずかしい間違いだらけの、そのラジオドラマは、部屋のキャビネットの隅にディスク化されてずっと眠っていたりする。なかなか今更聴くに堪えない。  しかしながら、これまたいつの頃だったか“カジイキジロウ”がそうではなく、“カジイモトジロウ”であると気づいた時にも、私は彼の作品を読むことはなかった。間違って覚えていたことのショック。そのめいっぱいに増幅された羞恥心と、梶井基次郎に対する理由なき嫌悪。そうした気持ちが交錯して、彼から遠のいていた。国語教科書に出ていた「交尾」(その二のみ)を初めて読んだのは、さらに後年のことである。
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 ついこのあいだ、「檸檬」を読んだ。別に梶井基次郎が読みたくなったわけではない。ただただ漠然と活字に飢えていたせいで、たまたま手に取った本に「檸檬」があったのだ。  だからそれを読んだ。その本も実は高校の国語教科書だった。それは自分がかつて使っていた昔の教科書ではなく、まだ最近と言っていい10年前の筑摩書房『新現代文』である。やはりそこには漱石の「こころ」があり中島敦の「山月記」があり与謝野晶子や樋口一葉の作品が出ていたりするの…