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『洋酒天国』とメフィストフェレス

『洋酒天国』第34号。イラストは柳原良平氏
 こんなことがあっていいのか、昨夜これを書くために無数の『洋酒天国』を散らかして読んでいたら、“アンクルトリス”の柳原良平氏が亡くなった、という一報を知った。17日、呼吸不全。84歳――。突然の因果で狼狽したけれど、さらに偶然というか故人のお導きというか、今回の話題の伏線となる柳原氏のイラストがめっぽう際立っていて素晴らしく、その稀代の職人芸が偲ばれる。この稿を氏に捧げたい。

 『洋酒天国』(洋酒天国社)第34号は昭和34年3月発行。表紙のヒゲ男はトニー谷さん。
 それまで私は詳しく知らなかったが、このトニー谷という人の様々な史実や噂話を掻き集めていたらあまりにも面白く、この稿の筆が進まなくなってしまった。良からぬほど凄い。尤も、面白いというのはあくまで画一的表面的な意味であり、悉く他人に嫌われていた醜聞のたぐいを読めば読むほど、この人の真の孤独性が露わになる。血の通った芸だ。ともかく芸はしっかりとしていてどんぴしゃりであったことは周知の通りである。

 話は違うが、この号の編集後記に、立派なビルの写真が掲載されていた。これがこの当時の壽屋(現サントリーホールディングス)の新社屋だった。そこの文章に、《御成婚に賑わう街を横目に、我等は新大手町ビルに引越しました。上の写真がそれです。移転記念に奮発して来月は特大号を出します》とある。

 少し調べてみた。
 小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)の“第5章 柳原良平と「アンクルトリス」の軌跡”の中にそのあたりのことが書かれてあった。要約すれば、《茅場町の木造二階建て社屋は手狭》で差し支えるようになったため、《昭和三十三年四月、東京大手町の一等地にある九階建ての新大手町ビルに東京支店を移転》ということらしい。しかし、先の編集後記の文章とは、1年の誤差があるではないか。

 これはつまり、前者は『洋酒天国』の編集部が引っ越した、のが昭和34年3月という解釈で、その前年には既に社屋として移転していた、ということになろうか。いずれにしても昭和33年に“アンクルトリス”のコマーシャルが電通賞などを受賞し、壽屋の洋酒ブームが間違いなく会社のビルドアップに貢献していたことは事実だ。

*

谷譲次著「黄色いメフィストフェレス」
 さてさて、第34号。谷譲次著の短篇小説を読んでみた。ペンネーム違いで“丹下左膳”の作者である戦前の作家・谷氏のめりけんじゃっぷもの。
 『めりけん一代男』より。
 実はこの短篇小説、ヨーテン(洋酒天国の略)としては珍しく、前編と後編に分かれていて、この第34号は「黄色いメフィストフェレス」というタイトル。1号空いて続きの後編は第36号で「マダムを賭ける」。
 今となっては“じゃっぷ”(ジャップ)という言葉さえも死語に近く、若い人は理解が難しいと思われるが、ここでは谷氏の文体を少し真似て示さなければ、この短篇の面白さが伝わらないと思う。

 …アメリカ南部ルイジヤナ(ルイジアナ州のこと)の田舎が舞台。ヌウ・オリインス(ニューオリンズのこと)から隠居して、この田舎に別荘を持って暮らすテイブス・ジェフ夫妻。ところが暴風雨に見舞われ、別荘の近くに雷が落ち、そこを通りかかったジャップ男スズキとその情婦グラデス嬢を乗せた車が横転してしまい、ひょんなことで彼らをテイブス氏は家に招くことになる。

 このスズキという男がくせ者で、博打打ちではコウスト(西海岸)で知られた男で美男子。喧嘩っ早く女に眼がない。情婦のグラデス嬢は秘密酒場の娘でこれまた美しい。この4人の登場人物で話は進行する。

 テイブスとスズキは、食後に歌留多(トランプによるカード博打)を興じる。そこでどういうことかスズキは、ボロ負けする。そうして身持ちの現金をすべて失ってしまう。小切手まで手にかけるが、結果は同じで、歌留多はさんざんな結果でピリオドを打った。

 西洋の社交ではそれぞれ夫婦のパートナーを交換して楽しむ。そんな礼式に倣い、テイブスはグラデス嬢を、スズキはジェフ夫人を相手に、夜の時を過ごした。いつの間にかテイブスは、グラデス嬢の官能的な肉体に惹かれていった。これがスズキとグラデス嬢の罠であることも知らずに。

 テイブスは何を閃いたのか、スズキにもう一度歌留多を申し込んだ。金を既に失ってしまったスズキは応じかねたが、テイブスの態度は堅固だ。こっちはユウから絞った全部を張るから、そっちは君の一番大事なものを賭けろ、と。

 グラデス。こうして二人の男は、金を、女を、掛け合って再び対決した。

 しかし今度は、どうしたことかテイブスはまるで歯が立たない。金はスズキのものとなってかえってきた。
 もう一挺。
 ユウはまたグラデスを張ってくれ。こっちは――。
 ユウは?
 結局スズキにけしかけられ、随分と掛け金が上乗せされてテイブスは5千ドル賭けることになった。

後編の「マダムを賭ける」より
 再び歌留多は始まったが、やはりテイブスは勝てなかった。
 もう一度、5千ドル!
 ノオ。ノオ! 1万ドルでどうだ?
 そんなようなやりとりの末、スズキはこう閃いた。いや、1万ドルの他に、ユウも奥さんを賭けろ、と。

 …この話の結末は簡単である。案の定、テイブスはスズキに完敗した。しかも最もスズキが得意な、ダイスによって。スズキは1万ドルとジェフ夫人を車に押し込んで、ルイジヤナの田舎町を去って行った。戦前の小説である。
 こうした恐ろしきメフィストフェレスの話なのだけれども、谷氏の一風変わった文体で小気味よく、音楽形式の反復のような文章も時折挿入されていて、とてもエスプリが効いている。

 それにしても、この2つの柳原氏のイラストはいつもと違って、何故か描き手の胆力が込められていてエロスの分量が濃厚だ。“アンクルトリス”はどこか可愛げでユーモアがあるけれども、そんな親しみやすさは何のその、ここでのイラストの女の乳房は大きく、尻も張っている。肉感的すぎる。
 いったいぜんたい、このイラストはなんぞや――。

 まるで女こそメフィストそのものだと言いたげな、これは柳原良平氏の実感、経験則でしょうか。失礼。そして合掌。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
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ファミコンの思い出―プロレス

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