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9月, 2015の投稿を表示しています

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酒と女と『洋酒天国』

今年に入って時折、シェリー酒なんていうのを飲んだけれど、その他はほぼ確実に、毎夜、ウイスキー一辺倒である。スコッチとアイリッシュである。スコッチは、シングルモルトのグレンリヴェットが美味かったし、いま飲み続けている12年物のザ・バルヴェニーも、スコッチならではのコクがあって美味い。思わず唸ってしまう。  アイリッシュはオールド・ブッシュミルズのブレンデッド。こちらはつい先日、空瓶になった。酒に関しては、日本酒の地酒よりもアイリッシュのラベルの方が親近感がある。おかげでここ最近は、サントリーのトリスも角瓶も遠のいてしまっていて、ジャパニーズ・ウイスキーを忘れてしまっている。あ? そう、かれこれしばらく飲んでいない「山崎」も「白州」の味も、もうてんで憶えちゃいないんだな、これが…。とここはひとまず、肴にもならぬウイスキー談義で嘯いておこう。
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 お待ちかね壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第4号は、昭和31年7月発行。表紙はお馴染み、坂根進氏作のフォト&イラストのコラージュ。  昭和31年(1956年)は、“太陽族”や“ゲイボーイ”といった言葉が流行った年である。ちなみに“太陽族”(タイヨウゾク)とは何のことでございましょう? もはや死語に近いと思われるので、語源について書いておく。  同年、第34回芥川賞を受賞した石原慎太郎の短篇小説『太陽の季節』が新潮社から刊行された。この短篇小説は大いに物議を醸した。そこから“太陽族”という言葉が生まれたのだけれど、ここでは敢えて、Wikipediaからその意を引用してみる。
《『太陽の季節』の芥川賞受賞を受けて『週刊東京』誌で行なわれた石原慎太郎と大宅壮一の対談で、大宅が「太陽族」との言葉を用いたことから、特に夏の海辺で無秩序な行動をとる享楽的な若者(慎太郎刈りにサングラス、アロハシャツの格好をしている不良集団)のことを指す言葉として流行語化した》 (Wikipedia“太陽の季節”より引用)
 “太陽族”のみならず、社会の乱れた風紀を取り締まる、という公安的気概が、この時代にはあった。時代の要請でもあった。私は溝口健二監督の遺作映画『赤線地帯』(主演は京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子)が好きである。あれも5月に公布された“売春防止法”に絡んだ話であった。この年の7月には、横山光輝の「鉄人28号」が月刊『少年』(…

『洋酒天国』とジンの話

毎度おなじみ『洋酒天国』の話題。
 紹介する今号は、昭和33年6月発行『洋酒天国』第26号(洋酒天国社)。老け込んではいるものの小洒落た給仕を演じる俳優・十朱久雄さんの表紙をめくれば、そこにノールウェイ俚諺《人生は短い しかしその杯を飲みほす時間は まだタップリある》の言葉があって、おもむろに酒を飲む気分に誘われる。
 実はその表紙裏の片隅には、誠に貴重ながら“高円寺トリスバー”と称するゴム印が押してある。「洋酒の壽屋チェーン 高円寺トリスバー 北口駅前」云々。これは『洋酒天国』自体の印刷ではなく、この本を実際に据え置いていた高円寺のトリスバーで押したと思われるゴム印であり、私が所有する『洋酒天国』の半分ほどは、この高円寺トリスバーのゴム印が押されていて、元々の所有者を偲ばせる形見だ。おそらく若い頃高円寺のトリスバー通いをなされた、善良なる小市民であったと、私は勝手に想像する。
 ちなみにというか、そもそも私が初めて“トリスバー”という言葉を知ったのは、野村芳太郎監督の映画『砂の器』(1974年松竹)で出てくる蒲田操車場付近の“トリスバー”だった。もちろんトリスそのものをまだ飲んだことがない学生の頃の話である。  だからしばしトリスバーに憧れた。この壽屋の小冊子『洋酒天国』が当時、そういったトリスバーでどのような場所に据え置かれ、どのようにお客がそれを手に取って読んだか、今となってはなかなか知ることができないのだが、さぞかし明るくて多少猥雑さのある粋な空間ではなかったか。
 さて、ちょっと紹介したいのは、この小冊子の名物コラム「今月のカクテル」。  たびたび眺めてはいるものの、私はあまりカクテルをやらないので、いつもこのコラムはあくまで眼の肥やしにしているだけなのだが、今号の「ホーセス・ネック」(Horse's Neck=馬の首)は度肝を抜かれる造作のカクテルで、これはいつか実践してみたい美味しそうなカクテルである。
 レモン1個分の皮を剥いてらせん状に巻いてグラス全体に浸す。そこに氷を入れ、ウイスキーを注ぎ、ジンジャーエールを加えるだけ。コラムではセオドア・ルーズベルト大統領が馬上で飲んだからこの名が付いたと紹介されており、確かに見た目もレモンの皮が馬の鬣のようにも見える。黄褐色の色合いもいい。
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 向井啓雄著「飲んべえ世界航路⑥」をここで紹介しよ…

漱石山房の香り

ちょうど2年前に漱石の『三四郎』を再読して以来、私の部屋は微かにヘリオトロープ(heliotrope)の香りを漂わせている。私の個人的な香りの好みは別として、ヘリオトロープが『三四郎』の小説の中に登場する。
 ――三四郎は野々宮さんの家を訪ねる途中、襯衣(シャツ)を買いに本郷四丁目の唐物屋へ行くと、偶然美禰子とよし子に会う。よし子が三四郎の襯衣を選び、三四郎は美禰子に香水を選んであげる。いい加減に手に取った罎(びん)こそが、ヘリオトロープの香水であった。美禰子は三四郎が選び取ったヘリオトロープに何ら抵抗を示さずそれに決めた――。  気がつけば私は、それを読んだ後いつだったかヘリオトロープに好奇心を抱いた挙げ句、これのオー・デ・コロンを買ってきて、部屋の香り付けにしてしまったのだった。
 私がまだ夏目漱石についてよく馴染んでいない、むしろ“得体の知れない作家”とぼんやり心の隅に止めていた小学低学年の頃、家の書棚に挟まっていた漱石の『三四郎』の本を何かしら手に取ってめくりめくり眺め、その謎めいた本に対する蠱惑な快感をひっそり愉しんでいた。  最近調べてみると、どうやらそれが1972年頃発行の偕成社ジュニア版日本文学シリーズ『三四郎』であると判明した。今風ではないかなり古臭い、焦茶色の版画風の装幀。年少で最も早く漱石を知った『三四郎』の、こうした過去の曖昧であった記憶の射影が、今頃になって少しばかり輪郭を帯びて先鋭になるのを覚え、本との出会いとは実に不思議なものだと思った。
 私は香水の何たるかについては女性ではないから詳しく知らない。けれどヘリオトロープは甘ったるい香りがする。これだけはよく分かる。もしこれに別の香りが付加すれば、かなり辟易とするような甘ったるさである。  例えば小学低学年の頃に経験した父母参観日の教室――。化粧を白く塗りまくって真っ赤な口紅を付け着飾りすぎた母親達数十人の、なんとも言えない香水のきつい悪臭ブレンド。子供らは敏感にその悪臭ブレンドに反応して我慢して身構える。クスクスと笑い出し、鼻を押さえる。先生の話などまるで聞いていない。  さすがにヘリオトロープはそこまできつくない。が、その頃偕成社版の『三四郎』を眺め愉しんでいた私は、まったく同時期に、“三四郎が手に取った罎”の累乗的悪臭を、知らず知らず体感して嗅いでいたことになるのだ。
 とも…

「ささやかな時計の死」に関するささやかな雑感

またもや“時計”にまつわる話である(当ブログ2013年8月13日付「パタパタ電波時計と学習教材のこと」、同年8月15日付「時計と時刻の話」参照)。

 2005年発行の高校国語教科書『新現代文』(筑摩書房)に村上春樹氏のエッセイが扱われている。「ささやかな時計の死」。普段私は村上春樹氏が書いた小説その他を読んだりしないのだが、教科書のエッセイは文庫版(新潮文庫)の『村上朝日堂 はいほー!』に拠ったとある。先入観なく読めそうな気がしたので、私はこれを読んだ。酒に酔ってジャズやクラシックを聴くまでもない、ありきたりな静寂な時間を過ごすために。
 ともかく時計の話である。彼が子供の頃に体験した時計のねじを巻く行為。かつては、時計を動かすのにねじを巻かなければならなかった。時計が止まると、ねじを巻いてまた動かす。日常的にそれは繰り返され、億劫であっても時計のねじを巻くことは所有者(及びその家族)の日課であったのだ。
 彼はそれが時代と共に電池で動く時計へと変わって、ねじ巻きから解放されたものの、ニ、三年に一度の電池時計の突然の死――突然の電池切れ――を経験するようになって、その時計の死の「冷たく重いもの」に「宿命の避けがたい到来」を思わせる、と述べている。
 私が子供の頃は、既に身近な時計のほぼすべてが乾電池やリチウム電池で動く時計であったし、それがアナログ時計であろうとデジタル数字の時計であろうと同じで、時計が突然止まるということは、電池がなくなって切れてしまったということだと認識できていた。時計の古い電池を取り外して、新しい電池を買ってきて入れさえすれば、時計は再び動き出す。村上氏が仰々しく言うほど、それが「冷たく重いもの」という感覚はない。
 むしろ私は、日常的に何の変哲もない時計が、気がつくと止まっていたり時刻が大幅に狂っていたりすると、あっと思い、まるで日常の天使が一瞬だけ非日常の悪魔を召喚したかのような快感を覚えるのだ。その一瞬の空気が変わる様が、私にとってはとても心地良い気分転換となることが多い。
 ところが、子供の頃から電池時計に馴染みきっていた私が、ある環境下で、訳も分からず古い時代へとタイムスリップしたような状況になってしまったことがある。
 今でもその理由が分からないのだ――。私が小学校を卒業し、中学校へ入学したのは、1985年のことである。増築し…

エンブレムと映画『東京オリンピック』

去る8月31日付朝日新聞朝刊に、1964年の東京五輪エンブレムを手掛けたグラフィック・デザイナー、亀倉雄策氏に関する記事が掲載された。《64年東京五輪 象徴する思想》というサブタイトルがいみじくも躍る。
 5年後の2020年東京五輪を控えた今、何故回顧的に51年前の1964年東京五輪のエンブレムのトピックかと言えば、2020年東京五輪エンブレムの白紙撤回問題が時事として横たわっていたのは明白でありつつ、その背景として、デザインという分野の特殊性に限らずありとあらゆる芸術作品に付随するはずの、クリエイター側の(本質的な)創作信念の喪失という省察課題が浮かび上がってきたからだろう。
 そうしてこの問題が浮上するたびに、あの1964年東京五輪のエンブレムが引き合いに出されるのだ。あの大きな赤い丸の、装飾を一切削ぎ落とした見事なデザインが――。
 ところで私自身、まだ生まれていない1964年の東京五輪そのものを知ったのは、おそらく小学校に入ってからだと推測する。それは何故か。  当時1980年代前半、小学校では恒例行事の運動会を秋に、それも体育の日に因んでおこなっていた。運動会の予行練習では異常なほど開会式の行進と鼓笛パレードの練習及び国旗掲揚の段取りに力を入れ、児童の被る帽子を赤と白に分け紅組白組で競い合うという構図であったし、全競技の中でメイン競技とされたのは、やはり男女それぞれの100メートル走であった。この運動会全体の緻密な演出と装置が、あの1964年東京五輪の模倣であると知り、私は子供ながら愕然としたのだった。
 かつて東京でオリンピックがあったということを、そうした体験をきっかけに後々理解していったのだろうが、それより以前に、幼児の頃に貪り読んでいた(写真や図案に見入っていた)百科事典、学研『原色学習図解百科』第10巻「新しい造形と美術」(大日本印刷・1968年初版)の中に、あのエンブレムの写真があった(この百科事典については当ブログ「新しい造形と美術」参照)。  となると、幼児期にあの赤い丸の特徴的な図案写真を、しばし脳内に刻み込んだ可能性はある。あまりにもシンプルでインパクトがあり、強烈な赤の視覚的パッセージは、観る者の観念と行動を何かしら誘発させる力を秘めていて、じっと落ち着いて見ていられるだけの静謐な受け身の感覚はほぼあり得ない。
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 本題である…

『洋酒天国』とチラリパチリの話

ブルターニュ古諺《パンと酒(ヴァン)なくてなんのおのれが恋かな》で始まる『洋酒天国』(洋酒天国社)第15号は、昭和32年7月発行。酒の瓶をモチーフにした表紙のイラストは、サン・アドの元社長、山崎隆夫氏。  昭和32年(1957年)の大きな出来事は何だったか調べてみると、ソビエトの人工衛星スプートニク打ち上げがこの年。スプートニクの成功によって米ソ冷戦下の宇宙競争時代が幕開けとなる。国内の出来事としては、岸信介内閣成立、茨城県東海村の日本原子力研究所で初めて原子の火が点った、などが挙げられよう。
 戦後まだ12年しか経っていないそんな慌ただしい時代に敢えて“ヨーテン”に読み耽り、粋な酒を愉しむ都会の紳士達は、どこかお気楽な、世相などどこ吹く風と悠々自適ぶりを発揮したサラリーマンであったか否か。少なくともこの時代の“ヨーテン”を読むかぎり、まだ癒し切れていないであろう戦後の生々しさは微塵も感じられない。ところで、ここにもお気楽な人がいた。
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 田口泖(りゅう)三郎。この人の肩書きは、色彩心理研究所長となっている。第15号のエッセイ「チラリパチリ パリはキスの都」の著者である。  色彩心理とはなんぞや? についてはさておき、この人が撮影する写真芸こそ、チラリパチリなのである。
 フランスはパリ。車中の田口氏が森に佇む男女をチラリパチリ。ブローニュの森で彼が“永年芸術”と評するキスのしぐさ、そのアベックのキスの最中をとらえた写真。F2.8、1/50秒。暗い車内に後尾窓から森の光が飛び込んで、まるで映写機のスクリーンのような構図。たった1枚しか撮れなかったと嘆く田口氏。
 コンセプトは、芸術の都パリでエロを写真にすること。調子の狂ったピアノを聴きながら、モンマルトルの丘の小料理屋でぶどう酒と貝料理を召し上がる。続いてピガールの街でストリップを観、そこでもチラリパチリ。F1.4、1/4秒。スロー・シャッターの限界、決定的時間は秘技を要するのだという。  田口氏の写真は確かに限界っぽく、ストロボ無しの室内照明のみのぼんやりした写真ではある。何を模した芝居か分からぬが、さすが芸術の都パリ、ストリップもどこか気品があってフランス的情趣がある。この店でシャンソン歌手の石井好子さんが歌っていたとも田口氏は書いている。日本のストリップ小屋とは大違い、インテリジェンスに富んだ一幕。そ…