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映画『スペースキャンプ』のこと

“少年時代の心を思い起こそう”というのが、ここ最近の私の座右の銘だ。自分が何を見て感動し、何に憧れたのか――。  我がホームページ[Dodidn*]「今月のMessage」は、毎月衣替えしているコラムなのだけれど、今月7月は「『スペースキャンプ』を観た夏」を掲載した。1986年公開のアメリカ映画『スペースキャンプ』を、あの頃中学2年生だった私は、映画館で存分に観た。大いに感動した。サントラ盤のLPも買った。そのことを思い出し、今回再び『スペースキャンプ』を、二十何年ぶりかで観た。少年の心のようにときめかせて――。  すっかり忘れていた感動があった。この映画について書いておきたい。「今月のMessage」は、翌月には上書きされ、文章が変わってしまうので、「『スペースキャンプ』を観た夏」の文章を以下、全文引用しておく。
《7月。文月。子供達の嬉しい(?)夏休み到来。  先月27日、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の小惑星探査機「はやぶさ2」が、小惑星“リュウグウ”に到着したというニュースを知りました。今後、「はやぶさ2」ではいろいろなミッションが始まります。大人だけではなく子供達も関心が高いのではないでしょうか。 
 私が中学2年だった1986年の7月、友達と映画館に行き、2本立ての映画を観たのを憶えています。一つはジム・ヘンソン監督の『ラビリンス/魔王の迷宮』(主演はジェニファー・コネリー、デヴィッド・ボウイ)、もう一つはハリー・ウィナー監督のSF映画『スペースキャンプ』。主演はケイト・キャプショー、リー・トンプソン、そしてリーフ・フェニックス。リーフ・フェニックスはホアキン・フェニックスであり、子役で出演していました。  この映画の音楽を手掛けたのは、“スターウォーズ”や“インディ・ジョーンズ”のテーマを作曲したジョン・ウィリアムズ。莫大な制作費をかけたのですが、当時興行収入はあまり伸びなかったようです。
 ですが、私自身はとても興奮しながら観た映画です。NASAのスペースキャンプにやってきた少年や若者達が、ひょんのことで本当にスペースシャトルで大気圏を突入してしまい、宇宙空間で無重力状態を体験します。講師の女性宇宙飛行士の手腕により、危機一髪で地球に戻ってくるのですが、子どもの夢を掻き立てるSF作品で、この夏はもう一度観てみたいなあと思っています》
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「ささやかな時計の死」に関するささやかな雑感

 またもや“時計”にまつわる話である(当ブログ2013年8月13日付「パタパタ電波時計と学習教材のこと」、同年8月15日付「時計と時刻の話」参照)。

【高校国語教科書の中の「ささやかな時計の死」】
 2005年発行の高校国語教科書『新現代文』(筑摩書房)に村上春樹氏のエッセイが扱われている。「ささやかな時計の死」。普段私は村上春樹氏が書いた小説その他を読んだりしないのだが、教科書のエッセイは文庫版(新潮文庫)の『村上朝日堂 はいほー!』に拠ったとある。先入観なく読めそうな気がしたので、私はこれを読んだ。酒に酔ってジャズやクラシックを聴くまでもない、ありきたりな静寂な時間を過ごすために。

 ともかく時計の話である。彼が子供の頃に体験した時計のねじを巻く行為。かつては、時計を動かすのにねじを巻かなければならなかった。時計が止まると、ねじを巻いてまた動かす。日常的にそれは繰り返され、億劫であっても時計のねじを巻くことは所有者(及びその家族)の日課であったのだ。

 彼はそれが時代と共に電池で動く時計へと変わって、ねじ巻きから解放されたものの、ニ、三年に一度の電池時計の突然の死――突然の電池切れ――を経験するようになって、その時計の死の「冷たく重いもの」に「宿命の避けがたい到来」を思わせる、と述べている。

 私が子供の頃は、既に身近な時計のほぼすべてが乾電池やリチウム電池で動く時計であったし、それがアナログ時計であろうとデジタル数字の時計であろうと同じで、時計が突然止まるということは、電池がなくなって切れてしまったということだと認識できていた。時計の古い電池を取り外して、新しい電池を買ってきて入れさえすれば、時計は再び動き出す。村上氏が仰々しく言うほど、それが「冷たく重いもの」という感覚はない。

 むしろ私は、日常的に何の変哲もない時計が、気がつくと止まっていたり時刻が大幅に狂っていたりすると、あっと思い、まるで日常の天使が一瞬だけ非日常の悪魔を召喚したかのような快感を覚えるのだ。その一瞬の空気が変わる様が、私にとってはとても心地良い気分転換となることが多い。

 ところが、子供の頃から電池時計に馴染みきっていた私が、ある環境下で、訳も分からず古い時代へとタイムスリップしたような状況になってしまったことがある。

 今でもその理由が分からないのだ――。私が小学校を卒業し、中学校へ入学したのは、1985年のことである。増築して3年ほど経過した新しい校舎の小学校を出てその区域の市立中学校へやってきた時、中学校ではまだ木造モルタルの古い校舎であった。つまり新しい校舎の環境から古い校舎の環境へと変わったことになる。
 尤もその年に中学校でも新校舎建築が始まり、2年時にはそちらに移ることになるのだが、中学1年の最初の1年間だけは、その木造モルタル教室での我慢続きの体験であった。夏は蒸し暑く、冬は窓の隙間風がぴゅうぴゅう入り込んで寒い。当然ながら床は板張りで、歩くたびに廊下がドンドンと震え、ギシギシと音を立て、午後の清掃の時に雑巾掛けをしてピカピカに光るまで床板をよく磨け、というような古風なことを先生に言われたりもした。

 そして何故か、時計も古かった。それが何故だか分からない。教室の壁に掛けられていた時計は、紛れもなくねじ巻き式の古い木製時計であった。とっくの昔から身の回りでは電池時計が一般的だったのに、その中学校の古い校舎の内側ではまだねじ巻き式であった。
 すっかり時代がずれていたのだ。古い校舎と古時計という組み合わせ自体は、けっこう見た目の違和感がなく、当時はあまり疑問を感じなかったけれど、明らかに1985年の学校の教室にしてみれば、ねじ巻き式の時計というのは、古すぎた。考えてみればたとえ校舎が古くとも、電池時計に置き換われた時間的猶予は十分あったろうに。

 そういう環境下で奇怪だったのは、ねじ巻き式時計のねじを巻く番人の係がいた、ということだ。クラスメイトの中から1名選出され、ねじを巻く係となった男子がいた。その男子はあらかじめ先生から時計のねじを巻く際の真鍮製の金具が手渡されていた。その金具の形状もまた時代錯誤的で古めかしく、小学校の図書室で読んだシャーロック・ホームズの推理小説に出てきそうなものだった。毎日の日課として決められた時刻に時計の文字盤のカバーを外し、ねじを巻く。ただそれだけの係であったが、さぼると時計が止まってしまうので、止まる前にねじを巻く必要があった。

 そのねじ巻き係の男子は、新校舎へ移るまでの1年間、時計の番をずっとしていたのかどうか、ちょっと思い出せない。もしかすると半年も経たずに解任させられたのかもしれない。何故なら、その後全教室の時計が電池時計に置き換えられた可能性は十分考えられるのだ。そんな一時の事とは言え、私は確かに、時代に逆行した時計のある教室で授業を受けていたし、その時計が錆びついた鋼と鋼を叩き合う古風な音を発して時を刻んでいたのも事実である。

*

【筑摩書房『新現代文』】
 「ささやかな時計の死」の中で村上氏は、死んだ友人の女性からもらった時計が電池切れで止まると、《そういえばあの子も死んじゃってもういないんだなとふと思った》と書いている。その時計を使い続けるかぎり、否応なく電池切れで止まるたびに彼女を思い出すのではないか、ということが感じられる切ない文章だ。しかし同時に、新しい電池を入れて時計を動かせば、彼女が再び呼吸して生きている、という感覚にもなりそうである。私ならそう感じていたい。

 先述した中学校を卒業する以前に私は、自宅で長年使い続けていた鳩時計(定時になると小窓から鳩が飛び出してポッポッポと鳴く)をあっさり処分した。秒を刻むカッカッカという高い音と、定時の時のポッポッポが録音の際にノイズとなってマイクロフォンに混入してしまう、ということが分かって、目覚ましのアラームで使う以外、音のしないデジタル数字の時計に置き換えたのだった。
 少なくとも子供の頃まで愛玩的な存在だった鳩時計はそこで死んで、無機質なデジタルの時計に置き換えられた時、私自身の時計に対する観念が一変したと言っていい。時計は《時》を伝えるある種の鬱陶しさからモノの役割を終え、単に普遍的に時刻を参照するためだけのサブツールとなった。
 それがいったいどういうことなのか。まだ私は人生の半分をようやく通り過ぎようとしているばかりで、《時》を刻むことの喜びと不幸については、まだよく判然としないのである。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

拝啓心霊写真様

私がまだ小学校へ上がらない頃のことだから、1970年代後半の古い話なのだが、幼少だった私はある心霊写真というものを見て、その怖さのあまり、夜な夜な一人で居られなくなるような思いをしたことがあった。それは2つの有名な心霊写真だ。  そもそも、そんな心霊写真をどこで見たのかというと、ある雑誌の付録の、小冊子だったと記憶する。その付録の小冊子はまさしく心霊写真特集となっていて、その中にこの2つの心霊写真が掲載されてあった。  その頃の心霊や超能力ブームは凄まじいもので、その雑誌は“明星”だったか“平凡”だったか、その手のアイドル雑誌だったと思うのだが、そういうスマートな雑誌でも当たり前のように心霊写真を掲載して煽っていた。
 3年前の当ブログ「左卜全と心霊写真」で紹介した本、中岡俊哉編著『続 恐怖の心霊写真集』(二見書房・サラブレッド・ブックス)に再び登場してもらう。  そこにその2つの心霊写真が掲載してあった。当時のこうした心霊・超能力ブームを煽った火付け役が、この本の著者である中岡俊哉先生だったのである。
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 幼少だった私が初めて心霊写真というものに出会った写真が、この「鬼のお面」の写真だ。
 そこは東京・葛飾区の幼稚園。昭和50年に撮られた写真。私とあまり変わらない年頃の子供達が節分の日であろうか、画用紙に鬼の画を描いて切り取って、自慢げに整列した「鬼のお面」の記念写真。
 右側の背景の下駄箱の上の窓ガラスに、中岡俊哉先生が指摘する“霊体”が写っている。中岡先生の説明では、この霊体は園児に関係のある女性、なのだそうだが、私の眼には髭を生やした近所のおじさんにしか見えなかった。
 不気味といえば不気味なのだけれども、さほどではなかった。  むしろ私が震え上がったのは、この近所のおじさんではなく、21人の園児の持つお面の方であった。これはどう見ても霊体の顔より怖い。何故これほどまでにリアリスティックな鬼なのだろうか。  鬼の顔がどの子もほとんど皆同じ作りで、目がつり上がり、口が大きく裂けている。角と角の間には、毛糸のような繊維状のもので見事に鬼の髪の毛を模しているから相乗効果がある。当然、この髪の毛は書き加えたのではなく、繊維をくっつけて立体的にリアルにしたものだ。鬼の顔の大きさも園児の顔より遥かに大きく、21の鬼の顔はこちらを見つめて笑っているかのようである。 …