スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2015の投稿を表示しています

漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
§
 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

ボマルツォの怪物

私は中学生時代に仲間内で、トランスミッターを使ってラジオ放送ごっこをやっていた。
 そもそも当時(1980年代後半)、夏期の海水浴場などでミニFM放送というのが流行っていたのを知って、それを真似て、トランスミッターをラジカセにつなげば、周波数変調方式で微弱の電波を飛ばせられFMラジオで受信できるということで、ディスクジョッキーの番組を自分たちで企画し拵えてラジオ放送ごっこをしていたのだった。私は今になってこれを“少年ラジオ”(の時代)と自称している。その関連において、自らの少年時代の思い出を簡便に括ることができる。

 些か、中学生の熱っぽさというのは、度を超して飛翔し飛躍する。ラジオ放送ごっこでは、ラジオの法則を模倣したマニアックな域に達し、番宣用のスポットなどというものまでテープ編集で拵えたりした。番宣用のスポットとは、いずれ放送するであろう番組の、尺を短くしたスポット・コマーシャルのことだ。
 1985年に自作した番宣スポットを試聴すると、こんなのがあった。以下、そのナレーション。 《夏休みスペシャル「郷土浪漫」。怪奇公園○×神社の歴史と謎。土手の麓に造られたグロテスクな怪奇公園。その中の二つの神社の歴史と謎を二人の男が追う。真夜中に公園のブランコが鳴る。出演者○○○、×××。夏休みスペシャル「郷土浪漫」ご期待下さい》
 低いトーンのナレーションに細野晴臣氏の音楽がBGMとしてかぶされていておどろおどろしい。全体として馬鹿馬鹿しい内容である。が、実はその頃、あるテレビ番組を見ていて、外国にある“怪奇公園”を知って感心したのだった。その森のような場所の公園には、古びたグロテスクな石像群が配置されていて、とても恐ろしい化け物公園のように見えた。
 私はこれに感化されてあの番宣を作ったのだ。当然それは一つの企画であったから、後日そこへ行って(もちろん普通の神社であるけれど)レポーター役を演じて録音するつもりであった。例えば――あまり人の踏み入らない夜の神社の、ブランコが突然動いたり、恐ろしい声が聞こえてきたりとか、そういう心霊現象的なサプライズを煽った内容――。すべて音声のみの演出。
 結局のところ、この企画は実現できず、あの番宣スポットを拵えただけに終わった。少年ラジオはどこまでも一途でマニアックである。
*
 前置きが長くなってしまった。私はずっと“怪奇公園”…

キュレーションの時代とディジー・ミズ・リジー

昭和56年4月23日、プロレスラー・初代タイガーマスクのデビュー戦(対ダイナマイト・キッド戦、場所は東京・蔵前国技館)でタイガーマスクがあるロックバンドの生演奏に合わせてリングに入場した、という衝撃的なシーンを私は忘れない。  小学生だった私は(翌日放送の?)テレビでそれを観たのだった。当時プロレスの試合で観たことがなかった光景――ロックバンドの生演奏でレスラーが入場する――は、衝撃的なイメージとして脳裏に刻まれた。いったいあのロックバンドは何者なのか。何故彼らは蔵前国技館でレスラーの入場シーンを演出しなければならなかったのか。そういう謎めいた疑問もロックバンドの幻想を膨らませる要因となった。
 いつの頃だったか、あの赤い服姿のロックバンドは、“ブレイン・ウォッシュ・バンド”だと分かった。その後何度かデビュー戦の映像を観る機会があったが、奇妙なことに彼らの演奏はまったく別の曲に差し替えられていて、聴くことができなくなっていた(今ではマニアックなプロレス入場テーマ全集CDで“ブレイン・ウォッシュ・バンド”のあの時の演奏を聴くことができるらしい)。
*
 佐々木俊尚著『キュレーションの時代』(ちくま新書)を読んでいて、ふとそんな幻のロックバンドのことを思い浮かべたのだった。現在のインターネットを中核とした情報発信の革新性をどうとらえるべきか知りたくて、私はこの本を買い、読み始めたのだ。
 情報の共有とつながりについての革命、すなわち旧来型のマスメディアの時代が終焉、といった趣旨の内容を理解しつつも、私があの時幻のロックバンドと思い込んだ“ブレイン・ウォッシュ・バンド”のような瑣事は、今の情報発信の時代の、底辺に沈殿した大きな起爆剤となっているのではないかという思いがぬぐい去れない。
 旧来型の一方通行的なメディア戦略では絶対に私が知ることのできなかったバンドの情報を、今やその情報を共有するビオトープにネットワークを通じて赴くことによって、簡単に情報を掴み取ることができる時代。そして反対の立場で情報を開示し発信し拡散させ、アウトサイドのものとインサイドのものとの価値を引き寄せていくキュレーターの存在がそこにあれば、これらの情報共有の世界はより複雑に、広く、深く、浸透していくものだということであろうか。いずれにしてもこの本が出版された2011年以降、さらにこの革新は進…

小学4年社会のハイトップ

学生時代、参考書を買い込んで予習復習の猛勉強した、という経験がほとんどない。不真面目一辺倒。だから成績なんて上がらない。  ただし一時だけ、例外があった。小学4年。その時だけ意欲があって、小学4年時(1982年)に旺文社の『ハイトップ』参考書を買った。その“社会”の参考書が、驚くべきことに今でも手元に残っているのだ。

 私自身の学生時代の不真面目さには波があった。中学校時代は底知れぬ不勉強の毎日であったが、小学4年の時は、クラスメイトの関係に意外にも恵まれ、勉強意欲を大いにそそられたのだった。生活全般でも小学4年の思い出がいちばん深くて濃い。  もっと端的に言ってしまえば、その頃真剣な恋をしていたのである。したがって学校という本来退屈きわまりない環境が、その1年間だけはまるで違った環境に見え、香り豊かな、色鮮やかなと形容すべき毎日を濃厚に体験した。その時の小学4年社会のハイトップ参考書がいまだ現存している理由は単純なことで、俄に思い出が蘇るための装置として、本を残すべく残したものだ、ということなのである。
 そんな個人的な思い出はさておき、旺文社『ハイトップ 小学4年社会』を開いてみる。  初版はどうやら1978年らしい。本のカヴァーはとっくの昔に無くなった。見開きの一色刷の写真では、“新しいまち”として解説された東京の多摩ニュータウンの俯瞰の全景写真が掲載されていて、時代を感じさせる。  多摩ニュータウン。まだ疎らながらも、車両が通行している整備された道路と高架化された美しい歩道。その歩道には、幾組もの家族が写っており、表情まではさすがに見えぬがおそらく満ち足りた幸福感を噛みしめて歩いていたのではないか。そうして丘陵にそびえる団地と高層ビル。何もかも新しい都市といった風情。  この参考書では、社会科すなわち「公共」と「公民」という基本的な概念の学習がねらいであり、その多摩ニュータウンの全景写真からそういった趣旨が透けて見えてくるのだ。
*
 『ハイトップ 小学4年社会』の内容は全4編に分かれている。第1編が「地図の見かた・資料の使いかた」(第1章 地図の見かた、第2章 資料の使いかた)、第2編が「健康で安全な生活」(第1章 健康なくらし、第2章 安全なくらし)、第3編が「生活を高めるために」(第1章 市や県の仕事、第2章 地域の開発と保全)、第4編が「いろい…

われらの小山ゆうえんち

最近手掛けた曲「これぞ運命」の歌詞の中に“小山ゆうえんち”という遊園地の名称が出てくる。
 小山ゆうえんちとは?  それはつまり、かつて栃木県小山市に所在した遊園地、小山ゆうえんちのことである。そこは私が幼少の頃の、電車に乗って行ってもさほど遠くない所にある憧れのアミューズメント・パークであった。観覧車やジェットコースター、メリーゴーランドにお化け屋敷、夏はお決まりのプール。地方の遊園地としては比較的規模の大きい商業施設であった。
 全国的な知名度で言えば、その昔、名称が桜金造さんのギャグにもなったことから、案外知られた遊園地であったかも知れない。  この小山ゆうえんちは、「これぞ運命」のオリジナル・ヴァージョンが作られた2005年に閉園となり、およそ45年続いた歴史に幕を下ろしている。すっかり忘れかけていた小山ゆうえんちについて、今更ながら只々個人的な思い出を書く以外にない。
*
 家の、数十年間の生活史が詰まった古い写真アルバムの中に、時折小山ゆうえんちで遊んだスナップ写真が紛れ込んでいる。その中で、ひょっとするとこれが最後の小山ゆうえんちだったかも知れないと思える写真が、あった。
 それは1984年の夏。小学6年生だった私が父に連れられて行った小山ゆうえんちでの写真。目的はプール。  写真をじっくり刮目してみると、小山タワーが写っている。小山タワー? あんな目立つ大きなタワーがあったのかと、その存在を私は憶えていない。だがおそらくあそこの大食堂で、当然のように昼ご飯をなにか食べたのかも知れない。タワーの外では赤や黄色のダリアが咲き乱れている。黄色いヒマワリや他の花々も見られる。私は水着を入れたバッグを左手に、漠然と佇立して被写体となっている。
 もう一つの写真は観覧車――。鬱陶しい灰色の雲。なんとなく人気の少ない感じの園内。  はっきり言ってしまえば、もうこの頃の小山ゆうえんちは斜陽であった。何故か冴えない表情をしている私の心は、まったく間に合いそうもない夏休みの宿題のことで落ち込んでいるのか、あるいはこの園内の、密度のうすい落ち着かない空間のざわめきの、そのどうしようもない不均衡を感じたのか。
 不均衡。そもそも遊園地とは、どこか陰のある不均衡な場所である。人気が少ないことで余計にそれを感じてしまうことがある。
 そうした気持ちがたまらなくなってか、や…

『洋酒天国』とパリの饒舌

前回の第26号で高円寺のトリスバーについて触れたが、同様にして今号には、“トリスバー 港”のゴム印が押されてある。豊島区池袋の2-1、144番地と所在地も明確で、あの時代のトリスバーの痕跡記録としてここに明示しておく。
 E・H・エリックさんが表紙の『洋酒天国』(洋酒天国社)第25号は昭和33年5月発行。懐かしいコメディアンとしての印象が強いエリックさんだが、子供の頃、よくテレビで見かけた“イー・エイチ・エリック”さんについて、“イー・エイチ”とはどんな名前の頭文字? と親に訊いても答えてくれず、岡田眞澄さんのお兄さんよ、としか教えてくれなかったりして、大人をからかったことになってしまい、やはり“ヘンな外人”という触れ込みを真に受けてしまったこともある。  ともあれ、フランス生まれの日本人であるエリックさんは、今号の重要なキーパーソンでもある(日劇ミュージックホール出身ということも)。
 「酔って件の如し③」は写真家・田沼武能氏の撮影による、作家・吉田健一氏のスナップ。モノクロームに印画されたその紳士の姿はどこか飄々としていてとらえどころがない。彼の「戯れに」という文章を読んでも焦点が暈けて判然としないが故に、この人らしいということである。  私自身、彼の作品を読んだことがあるか否か。英文学の訳本を何かしら読んだ可能性はあるかも知れないが、以前、平塚らいてうと森田草平のことを調べていて彼の評論文に出くわしたのを思い出した(当ブログ「『煤煙』と平塚らいてうのこと〈二〉」参照)。言わずもがな、酒に酔っていない彼の評論は明晰だ。
*
 美術評論家の瀬木慎一著「パリの饒舌と酒」。標題を砕けば、これは“パリ人の1日の生活”ということになる。パリ人はのんびりとながらも昼間はよく働き、夜は映画や芝居やショウを愉しむ。もちろん1日の生活で酒は絶対と言っていいくらいに欠かせない。
 地下鉄に乗ると節酒のポスターが方々に掲げられていた、という瀬木氏の話が面白い。  「一日一リットル以上のむな」の文句。日本であればこれはジョークのたぐいかと思われがちだがどうやら大真面目らしい。彼らは一日平均2リットル飲むのだとか。おそらく日本人なら酒をガバガバ飲む姿をイメージするのだろうがそうではなく、食前食中食後を通じて一定の量をちびりちびりと飲むという。だから昼間からとろっとしている。その1日…