映画『ヘアー』のこと

映画『ヘアー』ブルーレイ版
 幼心にも“センソウ”だとか“フンソウ”という言葉が、何か暗いどんよりとした嫌な言葉であることを、ベトナム戦争の(政治的にはパリ協定後の)時々刻々を伝えるテレビ報道のアナウンサーの口調から感受した、と言えるかどうか、今となっては判然としないものがあるにせよ、私は幼少の拙い感覚から、周囲の大人達がそれを噂している何とも言いようのないこわばった表情と、その重々しい話し声を耳にして、“ベトナムセンソウ”という音声だけはしっかりインプットされていた。

 私がベトナム戦争が悪であることを明確に感じたのは、ベトちゃんとドクちゃんの報道があちこちで流れた1980年代以降であった。生まれてきたことがまるで真逆の、悲劇と不幸をもたらすという惨い理不尽さに震えが止まらなかった。これこそが戦争の悪の性質を物語っていると思った。
 しかしながらそれは、私自身にとってもう一つの自己悪――すなわち遠いベトナム戦争の悲劇と不幸を忘れ去っていった自らの精神の《忘却》という堕落でもあった。

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 学生時代のある時、まったく唐突にミロス・フォアマン監督のアメリカ映画『ヘアー』(“Hair”1979年公開)をテレビで観たのだ。
 忘れ去っていた“ベトナムセンソウ”をそこで思い出したかといえばそうではなく、ガルト・マクダーモットのあまりにも鮮烈な音楽の数々に耳を奪われ、戦争はもとより、ストーリーや主題が頭の中でほとんど相殺されてしまった。つまりそこでは、ガルト・マクダーモットの音楽とダンスしか記憶に残らなかったのである。

 改めていま、映画『ヘアー』を鑑賞してみると、“ラブ・ロック・ミュージカル”という見栄の副題に隠れてしまって見えづらい、様々な事柄が浮かび上がってきて昂奮を覚えた。
 ベトナム戦争への徴兵という主人公の動機とヒッピーとの遭遇。ヒッピーのアメリカ社会における位置づけ。そのヒッピー“部族”の中での人種問題あるいは男女関係、親子関係。社会的節度と自由の問題。戦争に対する精神的反抗と服従。ミロス・フォアマン監督の映画『ヘアー』は、単なるミュージカル映画ではなく、単なる反戦映画ではなかった。

 私はもともとのブロードウェイでの「ヘアー」を観ていないので、脚本と歌詞を手掛けたジェームズ・ラドとジェローム・ラグニのそれが本映画の結末とどう違うのか、その差異について意見を述べることができない。

 しかしながら映画での結末は、実に謎に満ちている。
 主人公クロードとヒッピー“部族”バーガーの、《友情》ととるべきか《友愛》ととるべきかその似たようなものの観念表現を飛び越えてしまい、最も二人がとるべき道ではなかった方向へ(ある意味この映画がとるべき道ではなかった方向へ)、人生の転換を余儀なくされるという皮肉な結果に終わることは、まったくもって注目に値する。
 これはつまり、ミロス・フォアマン監督が決死の覚悟でアメリカ軍基地のリアリティーを映像化したことによる、思わぬ事態の“amendment”と言えるべきもので、その演出意図や政治的配慮云々を別にしても、おそらくブロードウェイでの「ヘアー」では到底描けない、巨大なものの恐ろしさが秘されていると私は感じた。

 いずれこの「ヘアー」の舞台を観る機会があればと思っているが、単なるミュージカルではない映画『ヘアー』には独特の雰囲気があり、私はこれをミュージカル「ヘアー」とは別物ととらえるようにしている。
 今こそ、この映画を多くの人に観てもらいたいと願う。何度観ても色褪せない、かつての純アメリカ的熱気とパワーがあり、自らが社会的精神的困難に立ち向かう際の、手がかりが掴めるからだ。純アメリカ的というのを否定して観ても、まだ何か手がかりが残されるに違いない。
 ベトナム戦争を背景にした『ヘアー』は、忘れてはならない語り継がなければならない多くの要素を含んだ映画である。

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