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マン・レイとジョンヴェル

別冊宝島『現代写真・入門』
 家電量販店で買った二束三文のコンパクトカメラで手短な被写体を写し、35mmフィルム撮影を楽しんでいた20代前半。もともと写真が好きであった。次第にコンパクトカメラ特有の弱点、パララックスの壁にぶち当たり、なんとか資金を遣り繰りして一眼レフカメラを買ったのが20台後半。1990年代の話である。

 その頃はフィルムの現像とプリントは、カメラ屋や写真屋以外の小売店、例えばコンビニだとか書店だとかクリーニング屋などでもフィルムを持っていけば、提携の業者でプリントしてもらえた。なかには格安でプリントしてもらえる業者もあり、私はわざわざ遠出してそういう業者と提携している小売店を選んでフィルムを持参し、趣味としての写真撮影の修練を楽しんでいた。

 ある日の夜、プリントした写真が盗まれた。
 現像を頼んでいた店で出来上がった写真を受け取り、自転車のカゴに入れたまま、近くの書店で立ち読みに耽っていた。しばし時間が経過した…。外へ出て自転車に戻ってみると、受け取った写真の入った状袋が無くなっていたのである。周辺をくまなく探し回ったのだけれど見つからず、どうも盗まれたのだということに思いが至った。

 その時私は、警察に届け出ようという気にならなかった。
 財布ならともかく、下手くそな写真を取り戻すために、わざわざ交番に赴き、あれやこれやと面倒な手続きをして帰ったとして、その労力を考えるとどうも割に合わない。後日誰かがそれをどこかで発見して警察に届け出られたとして、当然私のところに連絡が入ってまた面倒な手続きをし、誰にも見せたくない下手くそな写真を受け取って意気消沈し、帰るなり惨めさが増幅するのを考えると、これは悪の仕打ち、やるせない結末だと思った。
 いっそ、盗まれたままの方がいい。盗んだ奴が悪いに決まっているが、私にとってはこのままでいる方が、どうやら心理的には“好ましい”判断のように感じられた。実際、その通り交番には行かなかった。

 ところが翌日、意に反して事態が展開した。見知らぬ某会社を名乗る人から電話連絡があったのだ。会社の敷地内に、あなたの持ち物が落ちていた、という。私はすぐにその会社に赴き、写真の入った状袋を受け取って、親切なその方にお礼を言った。

 おそらくこういうことだ。私の自転車のカゴから遊び半分で状袋を盗んだ誰かは、中身を見てひどくがっかりしたに違いない。くだらない写真とネガフィルム。見るも無残な下手くそな写真。それもまったく面白みのない仏殿仏堂のたぐいの風景写真。
 気分を害して歩き途中、捨てたのだろう。翌朝、会社の人が敷地内に捨てられていたゴミに気づいて、そこに記されてあった氏名と電話番号を知って連絡をしてきてくれた、という顛末。ゴミならともかく、それが単なるゴミではなくて所有者が明記されていたのだから、向こうは迷惑厄介だったはずである。

 しかしこうして写真は、皮肉にも私のところへ戻ってきた。するとつまらぬ写真にもわずかに愛おしさが感じられた。
 こうしたことから私は何か、写真に対する愛着感が持てるような気がした。写真だって命だ。どんな写真であろうと、自分で撮った写真は生き物を飼うのと同様、所有者として最後まで面倒を見なければならない。それができないのなら、写真を撮る資格はない――。
 ほんの少し目が冷めた。それ以来、カメラと写真への接し方が変わった。もっと背筋を伸ばした、毅然たる態度に。そして自身に対する愛着に対して。

*

マン・レイのレイヨグラフが触れられたページ
 それからしばらく経ったある日のこと。駅前の書店では、当時、JICC出版局の別冊宝島ムック本を大量に並べていた。どういうわけか私は、それらを立ち読みする癖がついていた。そこである本に出会う。
 別冊宝島『現代写真・入門』(1989年刊)。それまでも写真関連の本はいろいろ読んでいたのだけれど、『現代写真・入門』は特に出典写真が多く、興味津々の内容であった。とくに立ち読みの際、釘付けになったのは、マン・レイの「レイヨグラフ」とジョンヴェル(ジャン=フランソワ・ジョンヴェル)の「ミストレス」だ。

 私はその本で初めてマン・レイを知った。
 もしこの本に出会わなかったならば、私はマン・レイもジョンヴェルの名前も、レイヨグラフやソラリゼーションも知らずに来てしまっただろう。すぐに斬新と分かる写真ではないにせよ、じわり心を動かされる写真とでも言うべきもの、つまり写真とはこういうものなのか、という発見の意味合いで、私にとってそれらは衝撃的なページ(写真)であった。

 『現代写真・入門』は全体が写真世界通史となっており、個々の主題の考古学的論説が先導的でとても良かった。その時の私には必ず買い求めるべき本であったはずなのに、何故か断続的に立ち読みを繰り返した末、わずか千円足らずのこの本を、買わなかった。欲しい意思はあったにもかかわらず、買わなかった。

 そこに心理的な溝が生じて、買う意思を損ない、敢えてこの本を避けたせいもある。
 ネット通販や書籍量販店の拡充がまだ十分に行き届いていない90年代、この本で出典されているような洋書を、自分の足で歩き、専門店を探索して購入するのはなかなか困難であった。少なくとも私は、洋書の写真集は敷居が高いと思っていた。容易に手が出せない。
 やがて『現代写真・入門』のことはすっかり忘れ去り、21世紀を迎えた。世はデジタルカメラ謳歌の時代となった。

 ――最近になって私はこの本のことをようやく思い出したのである。自身の創作に関係して、マン・レイのレイヨグラフの概要とソラリゼーションの効果についてを繙いている最中に。
 本のタイトルすら覚えていなかったので、間違って同じ別冊宝島の『現代美術・入門』を古書店で買ってしまい大失敗した(失敗が講じてこの本もなかなか面白いことに気づいた)。ともかく本の内容がまったく違うこと気づき、すぐさま『現代写真・入門』をあらためて買い求めた。
 そうしてあの時釘付けになったマン・レイとジョンヴェルのページが、そこにあった。本に対する強い郷愁の念が、忘れていたこの本を手元に引き寄せたのだ。

*

 ここではジョンヴェルの「ミストレス」については割愛するとして、マン・レイの「レイヨグラフ」とソラリゼーションについて簡単に説明しておく。ちなみに『マン・レイ自伝―セルフポートレイト』(美術公論社・1981年刊)を読んでも、レイヨグラフとソラリゼーションについては専門的なことはあまり書かれていない。
 『現代写真・入門』では「前衛写真の冒険」という括りになっていて、マン・レイの写真が解説されている。1921年の「レイヨグラフ」である。

《1922年のある日、現像液につけた未露光の印画紙の上に、何げなくガラスのロートや温度計を置いて灯りをつけたところ、彼の目の前で像が形成されていくのに気づいた。彼がのちに自分の名前をもじってレイヨグラフと呼んだ技法の発見である。印画紙に過度に光を与えることで、画像の一部の白黒が反転するソラリゼーションの技法の発見も、偶然の産物であった》
(別冊宝島『現代写真・入門』「前衛写真の冒険」より引用)

タイガー商会の「地球ゴマ」
 『マン・レイ自伝―セルフポートレイト』の略歴によると、マン・レイがはじめてレイヨグラフを作ったのは1917年となっており、上記の西暦年は明らかに事実誤認か記述ミスだ。
 それはそれとして、これは蛇足になるのだが、今回この本を入手して、その「レイヨグラフ」の写真で気づいたことがある。推測するにその被写体は、ジャイロスコープの科学教育玩具、名古屋のタイガー商会の商品「地球ゴマ」ではないか、ということだ。

 偶然ながら地球ゴマの現物をいま、私は持っている。あの写真の被写体の形状と比較して、まったく同じであることが分かった。
 したがってあれは、どう見ても地球ゴマだ。マン・レイがレイヨグラフの被写体にタイガー商会の地球ゴマを被写体に選んでいるという面白さ。当時パリにいたマン・レイが、日本の玩具である地球ゴマを持っていたということに稀有な印象を受ける。しかし地球ゴマはちょうどその頃、タイガー商会で開発され諸外国に輸出されていたというから、マン・レイが所有していたとしてもおかしくはない(その当時のパリに画家・藤田嗣治もいた)。

 『現代写真・入門』の出典以外で、マン・レイのレイヨグラフ写真をいくつか散見しても、この地球ゴマを被写体にしたレイヨグラフほど美しく幾何学的で神秘的な写真はない。まるで宇宙空間に漂う宇宙ステーションもしくは想像上の宇宙コロニーではないか。私はこの写真に酔った。

 ところでソラリゼーションの技法については、『世界大百科事典』(平凡社・1966年初版)が詳しかった。一部省略して引用する。

《超感光ともいう。写真感光材料の写真効果(露光してから現像処理してえた黒化度)すなわち現像濃度は、露光量が増すと増加する。露光量が大きくなってくると写真効果の増加が少なくなり極大値に達する。常温で露光したときさらに露光量が多くなると、写真効果がかえって減少することが多い。この現象をソラリゼーションという》
(『世界大百科事典』初版より引用)

 デジタル画像編集のソフトウェアを使えば、今日簡単にソラリゼーションが再現できる。私はこの技法を用いて今、自身の音楽に関わるプロダクトの、視覚的効果を上げようと試みるわけだが、そんなマン・レイのソラリゼーションについては、個人的にここまで記してきたような書籍との出会いから始まって、ある種の思い入れが講じた部分があり、こうして書くに至った。あくまで備忘録のたぐいとして。実はジョンヴェルの作風や技法についても同じような思い入れがある(これは別の稿に書きたい)。

 出会った物事の記憶は頼りないものの、曖昧さの中にも必ずどこかに宿命的なパッションが潜んでいる。時間と空間を隔てた点と点が、思いがけず一本の線となって大きなヒントとなることがある。本との出会いは、それが楽しい。
 ソラリゼーションという化学的概念を、音楽的な思惟に当てはめることはできないか。こうした探究心も芽生えてきたという意味において、写真的効果のつながりを私はここで留保しておきたいと思った。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…