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プロレスラーになった天龍源一郎

笑顔の天龍源一郎
 先月11月15日両国国技館にて、“ミスター・プロレス”ことプロレスラー天龍源一郎が引退試合をおこなった。
 万感溢れるものがあった。ファンとして、コップ一杯からドボドボこぼれる勢いの思いの数々。テレビ中継でその「オカダ・カズチカ対天龍源一郎戦」を観終わった後、私はふうっと息が漏れ、高鳴る鼓動が徐々にゆっくりとした脈に変化していくのを感じた。それはかつてプロレスファンであった証のスイッチが、パチンとOFFに切り替わって、静寂な日常に戻りつつある身体への浄化の、一瞬一瞬でもあった。

 そう、かつては熱狂的なプロレスファンであったけれど、今では宙ぶらりんな、時折懐かしんで昔のプロレス試合を動画で楽しむ程度の、もはやプロレスファンとは言えない自分自身が、あの天龍の最後の試合を見届けたのだから、これから語る天龍源一郎の思い出話は、今の現役の熱狂的なファンからすれば、かなり古風で時代錯誤な、焦点の暈けた戯言と思えるかも知れないが、ご勘弁願いたい。

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天龍のインタビュー記事が載った『Number』892号
――何はともあれ、文藝春秋発行の雑誌『Number』892号を読んだ。表紙には、“天龍源一郎”の名が無い。しかし本を開けば、あの門間忠雄氏のインタビュー記事で「安住の地を求めて」という見出しで全4ページが構成されていた。真っ青な空を背景に、笑顔の天龍の表情がそこにあった。ある意味、この表情を見ただけで十分であった。

 インタビューは相撲時代の話から、修業時代のこと、ジャンボ鶴田との出会い、SWSの話、フリーになってからのこと、そして引退の話と推移するのだが、私が読んでいて最も揺さぶられたのは、《本当の意味でプロレスの奥深さ、楽しさに目覚めたのは'90年のランディ・サベージ戦です》と語った箇所だ。

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 1990年と言えば、私はまだ高校3年生であった。あれは非常にファンのあいだで関心の高かったプロレス興行だったのだ。「日米レスリング・サミット」。場所は東京ドーム。1990年4月13日。

 いわゆる黒船来襲的な興行で、アメリカのメジャー団体WWF(現WWE)の選手がごっそりと日本にやってきて、当時の全日本プロレスの選手と全面対決するというコンセプト(興行自体には新日本プロレスの選手も参戦)。ちなみにメインイベントはハルク・ホーガン対スタン・ハンセン戦で、それはもう巨漢の二人の度肝を抜く大迫力な試合展開だったのを憶えている。

 おそらくファンのあいだではそのメインの試合と、天龍対サベージ戦が注目の試合ではなかったかと思われる。当時のランディ・サベージは大人気のヒールであったし、言わばドル箱のスター選手であった。ドームの花道にサベージとその女マネージャーのシェリー・マーテルが現れた時、どれだけ館内がざわめき、ヴォルテージが最高潮に達したことか。

 そもそもあの頃、格闘技色の濃いプロレスが主流の時代だった。そういう選手どうしの試合では、スタンドでの打撃系の技の攻防、レスリング系のタックルからの展開、そしてグラウンドでのサブミッションの応酬などが、観る側に好まれた。例えば私も当時、入手の難しいベ・エヌ・ポリヴィンスキー著の『サンボ入門』(ベースボール・マガジン社)を書店で取り寄せてもらって買って読み、未来のプロレスはこういう難易度の高い格闘技スタイルにすべて変わるのではないかということを夢想したりした。

 言うなれば、天龍のプロレスも、アメリカン・スタイルのWWFも古い時代遅れのプロレスではないか、という旧態侮蔑の観念が頭の片隅にあって、多くのプロレスファンがあの日米レスリング・サミットを“待ち望んだ”。それは矛盾した様相ではあったが、“プロレス不信”症候群に伴った待ち侘びた興行だった。

 これからは格闘技の時代だ…時代遅れの古いプロレスを馬鹿にしよう…丁々発止で技の応酬だけのプロレスなんて観たくもない…フェイクだ…ショーアップされすぎたWWFのレスラーより、全日本プロレスの鶴田や天龍の方が強いに決まっている…。鶴龍は最強なのだ…!。

 アメリカのプロレスラーが強いのか、全日本のプロレスラーが強いのか、という一元論――。こういった一元論の潮流が、イベント名の「日米レスリング・サミット」によく表れている。

 天龍はそれに対してあのサベージ戦で、それすらも意味のない観念であることを、ファンにまざまざと見せつけてくれた。天龍流の、ベビーフェース対ヒールの王道プロレス。先のインタビュー記事を読んでようやくそのことが分かった。喉のつかえが取れた。

 東京ドームが興奮のるつぼと化したあの試合。天龍自身もサベージを相手にすることによって、持って生まれた天賦の才を引き出され、身体全体でめいっぱいにそれを表現した。どちらのプロレスラーが強いのかではなく、もっと単純な、おれはおまえより強いんだよ、という魂から沸き立つ剥き出しの表現。あの時、サベージをコーナーに追い込んで倒した、天龍の本能に任した物凄い水平チョップの連打には、そういう己の根本の力が込められていたように思われる。ああ、おれのプロレスはこれなんだ、と天龍自身も気づいたに違いない。天龍はそこで本当のプロレスラーになった。

 私もずっと、天龍源一郎というプロレスラー人生の最大の事件は、あのサベージ戦だと思っていた。あれで天龍が天龍になったのだ。ジャイアント馬場やジャンボ鶴田の背中を見ていた天龍が、あの試合をきっかけに、一匹の魂の天龍源一郎になったのだから。プロレスを知りたければ、天龍が体現した過去のプロレスを観ればいい。

 私はこんなことを思いながら、雑誌を閉じた。天龍の笑顔が忘れられない。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…