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漱石山房にたたずむ

東京はうららかな日和だった一昨日、今年9月24日に開館したばかりの――とは言いつつ、それから2ヵ月以上経過しているが――「新宿区立漱石山房記念館」(新宿区早稲田南町)を訪れることができた。  振り返れば2年前の秋、新聞の記事を見て、記念館の整備計画途中で発見された屋敷の礎石が、没後改築された屋敷(1920年)のものであることが分かった云々(当ブログ「漱石山房の香り」参照)をきっかけに、今年秋(漱石生誕150周年)の開館をどれだけ待ち望んでいたことか。この2年の歳月は実に感慨深いものであった。
 ところで、津田青楓が大正7年に描いた「漱石先生閑居読書之図」で見るような、木造屋敷及びその庭風景は、ここにはない。いや実際には、館内に漱石山房が復元され、記念館の窓ガラスからその特徴的な和洋折衷の平屋建ての外観がうかがい見ることができるのだけれど、あの山水画風の絵の中の長閑な風景は、あくまで津田青楓の虚構の世界であって、エッセンシャルなセザンヌの濃厚さが色めき立ったものである。しかし、庭には、「猫の墓」が遺されていた。石塚、あるいは猫塚と言いかえていい。  これは、漱石の次男である夏目伸六氏の著書の『猫の墓』(文藝春秋新社)の装幀写真で見られるのと同じものであり、もともとは形として石塔であった。夏目家で飼われていたペットの供養塔(九重塔)は1920(大正9)年に建てられていたものの、昭和20年の空襲で損壊。現在遺っている「猫の墓」は、昭和28年に残石を積み直して再興したものだという。ちなみにもともとの供養塔の台石には、津田青楓の描いた猫と犬と鳥の三尊像が刻まれていたらしい。
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 それはいつの頃だったのか――。正岡子規が漱石と、夏目坂のある早稲田から関口を歩いた“田園風景”を今、ここでそれらしく想像することはひどく難しい。私はこの日、原町一丁目から弁天町に向かう外苑東通りを歩いて記念館を訪れた。この外苑東通りの両側の趣が、今ではすっかり都会的に洗練されてしまっているけれど、それでもなんとか、空間の雰囲気と呼べるものは慎ましやかな感じがあり、決して嫌いではない。  かといって昔ながらの風情があるとか、お洒落なショップが建ち並んでいるという極端さはなく、言うなればかなり地味な通りなのだが、もし、長きにわたって住まいを構える場所として考えてみたら、案外こんなところがいいのでは…

FMラジオ音楽悦楽主義

果敢に、とりとめのないラジオと音楽の話で文字を埋め尽くしてみたい。脈絡がないから、話がどこからどこへ飛ぶのかさえ分からないけれども――。
 今年の4月、私が専門学校生だった頃に講師をしていたジャズ評論家・いソノてルヲ先生について、当ブログの「いソノてルヲ先生―わが青春の日々」を書いた。その時の参考資料として、いくつか学校時代の古い冊子から先生の文章を見つけて読んだり、先生がラジオ番組のDJをしていた頃の音声をYouTubeで試聴したり、例えば先生にとって思い入れのある懐かしいドリス・デイの曲、「Sentimental Journey」を聴いたりと、かつて講師だった頃の壇上の先生の“肉声”を思い出すべく、多少の下調べをしたのであった。
 そんな中で見つけたのは、先生がDJをしていた「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」(これは1980年夏、平日2週間にわたってNHK FMで夜枠放送された全10回のジャズ特集番組で、楽器別に曲をセレクトしていたという)という番組に詳しい“個人サイト”で、私の好きなレイ・ブライアントやコルトレーン、マイルス・デイヴィス、ジミー・スミスなどの名演奏もいソノ先生は挙げられており、これらの曲をどのような口調で解説・紹介したのか、大変興味が持ち上がった。
 そのサイトのオーサーは、全10回をすべてテープに録音していて、今でも大切な宝物として持っていると、“個人サイト”に書いていた。いソノ先生のDJ(音声)は確かにYouTubeで聴けるのだけれど、残念ながら多くを見つけることができない。そこで私は思い切って、これは今年の5月のことになるのだが、そのオーサーにメールを送り、できれば「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の音声をデジタル・メディアにコピーしていただけないかとお願いしてみたのだ。もし1回分でもその半分でも音声を聴くことが可能になれば、私にとってこれは、いソノ先生からの最高の形見分けになると思ったのだ。
 ところがいくら待てども、返信メールはやって来なかった。2ヵ月後の7月にメールを再送、今月の初旬にも再送。しかし、User unknownのMAILER-DAEMONすら受信されず、なしのつぶて。オーサーはこちらが送ったはずのメールを、まったく閲覧することができないようだった。  そして気がつけば既に、その「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」の…

『洋酒天国』とバッカス礼讃〈2〉

前回に引き続き、『洋酒天国』第50号を紹介。  「東京ジェンヌ」のピンアップの裏は、「洋天ジョークス」。これもヨーテンの名物コーナーになっていて、柳原良平氏のアダルトなイラストと共に、そのエロティックなジョークで笑いを誘う。以下。2つばかり抜粋してみた。
《大晦日…大晦日の夜、上きげんで、A君が細君に言った。 「今年はいい年だったね。ボーナスはたっぷり出たし、旅行も四回もしたし、君の好きなものも、ずいぶん買って上げられたからね。思えば、結婚以来のいいほうの新記録を作った年じゃないか。」 「あら、それをおっしゃるなら、ちょっと待ってね」  細君は家計簿を取り出すと、なにやらパチパチとそろばんを入れはじめた。そして、計算が終わると、勝ち誇ったように言った。 「ほらごらんなさい。私の思った通りだわ。去年よりも二十八回、結婚した一昨年にくらべると四十二回もいちばん肝心なことが少ないわよ。…この赤字は来年どうしてもうめてくれなければ困るわ」》
《拳斗家の妻…プロ・ボクサーのA君は大事なタイトル・マッチをひかえて、トレーナーから厳重な禁欲生活を申し渡された。幸いA君の細君は、良妻の誇れが高い。夫君にこのきびしい戒律を立派に守らせた様子だった。その故か、試合はわずか三ラウンドで、A君のKO勝ちだった。  さて、その夜、A君の寝室から、A夫人のこんな声が聞えて来た。 「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、…さあ、立上って!…まだ三ラウンドの途中なのよ」》 (『洋酒天国』第50号より引用)
 「私のお気に入り 8人のカメラマンのお気に入り特集」は、それぞれのプロ・カメラマンの妖艶合戦である。艶めかしい女性たちをとらえた写真が、10ページにわたって掲載されている。8人のカメラマンとは、秋山庄太郎、稲村隆正、大竹省二、杵島隆、田沼武能、中村正也、中村立行、早田雄二。どれも個性的なカットばかりで、女性の色気がそれぞれのセンスで縦横無尽に引き出されている。  ここでは、早田雄二の写真を紹介しておく。早田氏は『映画の友』のカメラマンとして有名で、昭和の名女優の写真を数多く撮られたプロフェッショナルである。ちなみに2016年は、早田氏の生誕100年の年であったとか。今年、生誕100年を記念して、早田氏撮影のスター写真による“美しき昭和の名女優”なるカレンダーが発売されていたようだ(1月は原節…

『洋酒天国』とバッカス礼讃〈1〉

洋酒の壽屋(サントリー)のPR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)を今月も紹介。昭和31年4月発行の創刊号から昭和39年2月の第61号まで、すべて紹介したいと私は意気揚々、今や当ブログではそのほとんどを網羅したかと自負するが、まだまだ入手していない号もあってなかなかヨーテンは手強い。完結には程遠い。継続あるのみ。今回は、記念すべき第50号を2回に分けて紹介してみたい。50号とあってなかなか内容が充実している。エロティックな画像も含まれるので、殿方以外はしばし、ご留意を…。
 『洋酒天国』第50号は昭和35年10月発行。昭和35年(1960年)と言えば、どんな出来事があったか。国内では、日米新安保条約の調印により、岸信介首相が辞任。池田勇人内閣誕生。三井三池炭鉱の労働争議があり、テレビのカラー放送が始まる。海外の出来事としては、チリ地震、ローマ五輪開催、チャップリンの映画『独裁者』公開、などであろうか。ちなみに昭和35年のヨーテン各号は、第43号から第50号まで8冊も好調に発行しており、大豊作。しかし、この50号で一区切りついたせいか、翻って翌年の昭和36年は寡少。第51号と第52号のたった2冊のみの発行となっている。
 第50号の表紙(背表紙を含む)は見ての通り、これまで発行された号の表紙を順に並べた、豪快かつ壮麗なビジュアル。まさに記念の号であり、感慨深げな揮毫である。表紙を開くと、大阪の山崎蒸留所を空撮した写真が載っていて、撮影に金をかけたなと思う。山間に囲まれた蒸留所とその南側の町は、当時国鉄であった東海道本線によって境界線となり、その鉄道のカーブに沿って西国街道が並行に通っているのが分かる。町の方は田畑が目立つが、現在そのあたりにはサントリーの社宅の建物があるらしい。
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 さて、本の中身。まずは、並木康彦著「ルイ・ジューヴェのバッカス礼讃」。ヨーテンのライブラリーをあちこち眺めていると、この“バッカス”という言葉がたびたび出てくる。バッカスとは、Bacchusすなわちローマ神話の酒の神である。筆者・並木康彦氏は当時中央大学の講師という肩書きで、このエッセイを書いている。  エッセイの内容はたいへん興味深いものだ。フランスの名優、ルイ・ジューヴェの演技論とも言うべきもので、彼はメチエ(métier)という言葉を愛したと筆者は記す。酒に酔う、つまり酩酊こそ、演技…

「グリーン グリーン」とA先生のこと

小学校時代の懐かしい教科書を眺めるのは、私の生活習慣のうちの一つの楽しみとなっている。かつて学校で何を学び、それにまつわる出来事の何を思い出すのか、忘れていた意外な記憶が甦ってくることもあって、古い教科書には眺めるだけの価値と味わいがある。
 音楽の教科書の思い出については、2年前に当ブログ「音楽の教科書―歌と音の悦楽」で触れた。小学5年生の時に使用していた「改訂 小学音楽5」(教育出版)の話である。ちょうど寒い冬の今頃、母校の小学校の3階にあった音楽室の窓から、渡良瀬川の遙か向こうに、澄んだ青空に映えた富士山がくっきりと見えて、それがなんとも情緒を掻き立てて美しかった。校舎の最上階の教室からそういう風景を眺めつつ、音楽の授業に勤しんだなんとも言えない懐かしい感覚は、生涯忘れることはない。
 その教科書をいま眺めていて、思い出した。70年代生まれの我々の世代が、80年代半ばの小学校時代、音楽の授業で習った曲で鮮烈な印象にとどめられているのが、片岡輝作詞、バリー・マクガイアとランディ・スパークス作曲の「グリーン グリーン」ではないだろうか。  原曲はニュー・クリスティ・ミンストレルズの「Green,Green」だそうで、日本で有名になった《あるひ パパと ふたりで かたりあったさ》の歌詞で始まる8ビートのこの曲には、それまで教科書で習ってきた唱歌や童謡とは違い、いわゆるメロディーの“サビ”があって、この心地良い高音の“サビ”に、子供達は新鮮な感動を覚えたのだった(この曲の原曲が1963年、アメリカのフォーク・グループ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズによって歌われたベトナム戦争の“反戦歌”であったことなど、当時知る由もなかった。しかし、日本語訳で7番まで作詞した片岡輝氏は、それをどことなく匂わせる歌詞を、5番と6番に残している)。
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 我々子供達はこの「グリーン グリーン」を、しっかり理解していたとは言えなかった。地球又は自然に対する讃歌、あるいは人々の(大袈裟に解釈すれば全人類の)未来への、希望の歌――という程度で認識していた。確かに3番の歌詞がきな臭く、
《あるあさぼくは めざめて そしてしったさ このよにつらい かなしいことが あるってことを》
 を、世の中には良いことも悪いこともあるのさ、と、子供ながら浮き世の有様として受け取ることもできた。だが、朝…

鶏の画の話

年賀状を書く時期になった。来年の干支はトリである。偶然、本を読んでいてニワトリの水彩画を見つけた。こんな感じの絵が描けたら、どんなに気持ちいいだろう――。
 トリは鳥ではなく酉、つまり鶏であるということが、WWFジャパン(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)の会報誌『地球のこと』の「いきもの徒然草」というコラムの冒頭で書かれている(「継ぐべし、鶏卵の環」)。十二支の動物はほぼ半分が家畜で些か野性味がない、というような書き出しである。いかにもWWFらしい視点だと思った。それにしてもニワトリの絵が立派。  干支、十二支。そもそも個人的にはあまりピンとこない。例えば話し相手の「生まれた年の干支」で盛り上がれるだけの知識がない。私はネズミ年、あなたは?ほう、ウマ年。丙午の女は男を食うと言いますな。食う?なぜ?…なぜって言われても…。おそらくそれ以上話が進まないだろう。年賀状のモチーフに十二支の動物が用いられること以外、普段あまり十二支を話題にしたり、「生まれた年の干支」を気にしたりしない。
 古来、十二支は中国の天文学で天を十二分にした呼び名だということらしいが、確かに子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥が書かれたカレンダーがあったりして、馴染みがないわけではない。が、それって何?っていうところで、干支について詳しく誰にも教わったことがなかった。子供の頃、年賀状に十二支以外の動物を描こうとして親に怒られた、という程度の事柄しかなく、干支だとか十二支は、私にとってかなり生活感の乏しい、雑学の範疇に追い遣られてしまっている。
 それはそうと、「継ぐべし、鶏卵の環」では、干支の話から離れて、野生の「鶏」について書かれてあった。ニワトリが家畜化されたのは6千年以上前。アジア南部発祥らしく、ヤケイの類、キジ目キジ科の野鳥が原種、だとか。そこで私も安直にウィキペディアにアクセスして、ニワトリの原種ヤケイ(野鶏)の、セキショクヤケイ(赤色野鶏)を調べてみた。  セキショクヤケイ。なるほど、これが原種なのか。画像でセキショクヤケイの容姿を見ると、どことなく野性味があり、原種っぽい古風な“威厳”があるではないか。家畜化されたニワトリが人間の生活圏に囲まれてどこかのほほんとしているのと比べ、セキショクヤケイの佇まいは周囲の敵の索敵能力に長けているかのようで、実に精悍としてい…

サシャ・ヴァルツのnoBody

ベルリンの女性アーティスト、サシャ・ヴァルツ(Sasha Waltz)とそのグループのダンス公演。サシャ・ヴァルツの三部作に括られる『noBody』(2002年)をDVDで鑑賞した。公演会場は三部作の『Körper』や『S』と同じ、ドイツ・ベルリンのシャウビューネ。コンクリート壁剥き出しの半円形大ホール(当ブログ「サシャ・ヴァルツの舞踏的世界へ」「サシャ・ヴァルツのS」参照)。
 三部作を見るにつけ、まず何より、劇場という空間の必然的な意義について考えさせられる。  劇場は、壁と床と天井によって自然環境を意図的に疎外した「人工的な空間」であり、観客と舞台空間との直接的な関係を構築する。劇場の基本的な条件は、自然光が入り込まないことである。ほぼ完全な闇が舞台を支配し、一方の神となる。もう一つの神は、言うまでもなく人工的な光である。この2つの神によって、舞台は劇として成立する。  以前、大駱駝艦の長野県白馬村での野外ステージ公演をDVDで観たが、これは言わば原初的な劇場の形態であり、太陽光、月光、夜の闇、風や雨、雪などの気象現象が舞台の進行に大きな影響を及ぼす。これらの自然現象を制御することはできないが、自然界の神と一体になって演出に相乗効果をもたらすことができる。祭りや祭事がこれである。ここから一歩踏み出して、「人工的な空間」を創造し得たところに、人類の芸術性への高い理念がある。  そうしてとらえてみると、ベルリンのシャウビューネの劇場は、何と理想的な空間であろうか。半円形のコンクリート剥き出しの壁。とてつもなく突き抜けた高い天井。その堅固な遮蔽空間。照明を含めたあらゆる機械装置がこの空間のあちこちに張り巡らされており、全体として異様なほど無機質で質実剛健な空間である。その人工的な無機質さが、果てしなく広がる宇宙の深遠さと同化し、劇場という器の何物をも許容しそうな、巨大な創造実験場の役割を担う。ここで表される劇の一部始終は、《事件》のデフォルメもしくは《事件》そのものであって、観客は閉ざされた空間における《事件》の目撃者となり、同時に共犯者ともなる。
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 無論、ここでいう《事件》とは、悪事のことではない。観客という目撃者が、シャウビューネでおこなわれたサシャ・ヴァルツの『noBody』で何を見たのか。事件性で言うと、もしかすると『Körper』や『S』よりも刺…

オフライン男子

「どうってことはないありふれた光景」であるにもかかわらず、それが「ほぼ毎日」続いて、次第に何やら意味深な、やはり特異なことのような光景に出くわしている。私は何を感じたというのか。何を知ってしまったというのか。その謎めいた光景は、今の時代の混沌とした世の中の、一つの象徴的な現象ではなかったか。自ら投げかけた思索でありながら、人間心理に絡められた深い謎としか、今は言いようがない――。  「ほぼ毎日」――ということがここでは重要なのである。ほぼ毎日、ある食事処での私の昼食は、隅の壁際に近い席に陣取るというのが決まっている。その席が私にとって最も落ち着く場所であった。  私は昼食がてら、この取るに足らない退屈な十数分間に、スマートフォンをいじくる。メールやLINEをチェックしたり、ニュースサイトで最新のニュースやコラムを乱読したりする。窓ガラスの向こうは空が見えるが、あまり審美眼に適った町並みの風景ではないので、すぐに飽きる。そこでの窓の風景は、どこか脆く、整っていない。しかも静止画のように、動いて見えるものが僅かしかない。面白みがない。風が吹いて枝葉が揺れようが、鳥が電線に止まろうが、視界的に遠くの“ミリ単位”のうごめきになってしまうから、眺めていてもあまり休息、癒やしにならないのだ。やはりここは、食べながらスマートフォンをいじくるのが最適のようであった。
 ある青年が入ってきて、私の隣の席に着く。そうでなければ私の近いところの席に着く。いつもそうである。青年は、ひょろ長い木訥とした20代で、卵形の顔はまだ少年の幼さが残っている。  青年の声は一度も聞いたことがない。もちろん名前も知らない。「ほぼ毎日」、彼もその食事処にやって来るので、そういう意味で顔見知りなだけである。そして青年の昼時の行動は、動画の複製再生のように決まり切っている。  青年は、まるで台本のト書き通りの、寸分違わない動作でその時間を締め括る。つまりこうだ。…勢いよく席を陣取ると、リュックサックの中から、まずカップラーメンを取り出す。その次に、ステンレス製のボトル、箸(割り箸ではなく家から持参した自前の箸)、そしてポータブルな「端末」をテーブルに広げる…。  私はいちいち青年の方を見ない。「ほぼ毎日」同じだから。青年のその行動のジャカジャカとした騒々しい音で、来たなというのが分かる。私の《音》認証で…

岡本舞子―ファッシネイション

前回までで、80年代のアイドル、岡本舞子が出演していた1986年のテレビ番組「うるとら7:00」(うるとらセブン・オクロック)と彼女のシングル・レコード「ナツオの恋人ナツコ」のB面「ファッシネイション」に関する話題を綴ってきた(当ブログ「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈前編〉」「ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉」参照)。その面影は、中学2年生だった私にとって、まさにそのシングル・レコードのジャケットに表された通りの、初々しい彼女の姿に凝縮されており、頭の片隅に残る“一輪の花”の記憶とも言うべきものであった。
 思い起こせばその頃、私はまだレコードとカセットテープの連携を主体にしてオーディオ・ライフを満喫していたのだが、86年あたりで念願の、据え置き型CDプレーヤーを購入している。東京・秋葉原の電気街におもむき、“決死の覚悟”で買ったのだ。それはNECのCD-610という機種で、当時の価格は59,800円であった。ちなみにこのプレーヤーは2003年まで“現役”で使用した。  高価なCDプレーヤーは買ったものの、CD自体も高価で、なかなか買えるものではなかった。当時のCDの価格は3,200円ほどであり、よほど欲しいアーティスト以外は800円程度で買えるシングル・レコードで我慢していた時代である。だから、「ファッシネイション」がどんなにカッコイイと思っていても、岡本舞子のアルバムをCDで買おうなどという発想は、一切よぎりはしなかった。そこに山川恵津子が編曲するいくつかのハイセンスな曲が収まっていることを、中学生だった私は知る由もなかったのだ。
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 そうして今更ながら、岡本舞子のアルバム『FASCINATION』のCDを入手した。数日かけて全曲を試聴。  それにしても、『FASCINATION』のジャケットの岡本舞子は、大人びている。きりりとした瞳、少し開いた唇の輝きの恍惚感。当時17歳くらいだった彼女の表情というものは、これほど変わるものであろうか。あの“一輪の花”としての記憶にあった印象ががらりと覆り、もはや私は彼女の印象を、スニーカーにジーンズ姿のそれとして振り返ることができなくなってしまった。
 アルバムのジャケットのせいだけではない。強いて言えば、ここに収録された冒頭の「L.A.LOVER」(松井五郎作詩、久保田利伸・羽田一郎作曲、山川恵津子編曲)、そ…

ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈後編〉

岡本舞子に関する〈前編〉の続きである。こちらは「ファッシネイション」の曲に集中して書いてみたい。彼女のプロフィールにも少し触れておかなければならないだろう。
 80年代のアイドル・岡本舞子は、東京出身の1970年生まれ。1985年、ビクター音楽産業より「愛って林檎ですか」でレコード・デビュー。「第4回メガロポリス歌謡祭」優秀新人エメラルド賞、「第18回新宿音楽祭」銀賞、「第16回日本歌謡大賞」新人賞など数々の音楽賞を受賞し、華々しいアイドル時代を謳歌した。  私が中学2年生で観ていたテレビ番組「うるとら7:00」、そしてそこでプッシュ・プロモートされた「ナツオの恋人ナツコ」のシングル・レコードを買ったのは、その翌年の1986年のことである。ウィキペディアによると、さらにその翌年の87年に松竹の映画『舞妓物語』(監督は皆元洋之助)に出演するが、秋に引退。わずか3年のアイドル時代であった。  蛇足になるが、1984年の日テレ系のアニメ『魔法の妖精ペルシャ』は当時、私は小学6年生でよく観ていた。金曜日の夕方枠で心地良いアニメ・タイムでもあった。このアニメ『魔法の妖精ペルシャ』のオープニング曲「見知らぬ国のトリッパー」を岡本舞子が歌っていたとは、いま初めて知った。私にとって懐かしい、子供時代の郷愁をそそられる歌であるが、「見知らぬ国のトリッパー」は岡本舞子のデビュー前のシングルだったようで、何と彼女はまだ14歳であった。
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 そんな順当な、実力派アイドルの道を駆け出した岡本舞子が、作曲家・山川恵津子とタッグを組み、そのコンテンポラリーな数々のナンバーに支えられていた背景を知るには、「ファッシネイション」を聴けば充分である。ギターのリフとパーカッションのカウベルでイントロが始まり、当時はまだ斬新であったタイトなリズム・マシンによる軽快なリズム、ドスの効いたシンセ・ベース、エレピ、シンセ・ブラス、その他シンセサイザーによって加えられた装飾的ないくつかのサウンドのディレイ・モーション。  推測するに、これらはFairlight CMI(当時のコンピューター・マシーンによるサンプラー&シンセサイザー。非常に高価な電子楽器だった)のサウンドではないかと私は思った。であるならば、実力派アイドルと実力派アレンジャーによる、相当な制作費をかけた大プロジェクトだったことが想像できる。

ナツオの恋人ナツコじゃなくて〈前編〉

とりとめもなく、昔のアイドルの音楽の話をしたい。少しミステリアスな部分もあって、個人的には頭の片隅に残って妄想が妄想を呼び、消えることがなかったのだけれど――。
 そもそもこの話を最初に書こうと思ったのは、数年前のことだ。ただその時は、どうしても書けなかった。理由は、話の中心となる肝心なレコードが、自宅に残っているのか否かの“家宅捜査”で手間取ってしまったためだ。  このことに触れるのに、数年も経過してしまった。しかし今、ようやくこれを書くことができる。つまりは、かつて所有していたはずのそのアイドルのレコードが、“家宅捜査”の結果、ついに見つかったのである。何を隠そう、そのレコードとは、1986年発売の7インチ・シングル・レコード、岡本舞子の「ナツオの恋人ナツコ」(ビクター音楽産業)である。  このことは別に、私が当時のアイドルだった岡本舞子のファンだった、というたぐいの話ではない。それから「ナツオの恋人ナツコ」の曲の話をするのでもない。結論を先に書くと、そのシングルのB面の、「ファッシネイション」の話をしたいのである。この曲が何故か、とびきり格好良かった、のである。ちょっとびっくりするくらいに、本当に、異常なくらいに――。
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 その話をする前に、まず私がこのレコードに出合った経緯について、書いておこうと思う。  あれは日本テレビ系列の番組、「うるとら7:00」(うるとらセブン・オクロック)であった。あの番組を憶えている人は少ないかも知れない。土曜日の朝の情報番組で、時代は1986年に遡る。  もはや遠い記憶の彼方にあったため、この番組のタイトルの正確な表記及び番組内容等は、ウィキペディアの助けが必要だった。そう、確かに声に出せば、“うるとらセブン・オクロック”なのだが、表記すると「うるとら7:00」である。そんな番組名でウルトラセブンなんかが出ていたのかい、と思う方もいるかと思うが、冗談ではなく本当に、ごく希にウルトラセブンが出ていた…と記憶する。しかし基本的には情報バラエティなので、ウルトラセブンとは直接関係ない。モロボシダンやアンヌは登場しなかったと思う(ウルトラマンの隊員だった二瓶正也氏は出たことがあるらしい)。
 1986年と言えば、私がまだ中学2年生だった。  少しずつ記憶がよみがえる――。怠惰に満ちていた中学2年の土曜の朝、眠いまなこを擦って黒…

暗黒舞踏と土方巽

1990年代前半、私がまだ20代で演劇に携わっていた頃、役者の基礎稽古やワークショップとして、発声や「マイム」(パントマイム、黙劇)というのは当たり前のように取り入れられていた。「マイム」ではあまり凝ったことはしなかったけれど、一般的には動物や鳥や虫の真似をするところから始まって、その「マイム」によって「何か」に「なる」ことを身体で覚え、段階的に人間のしぐさや手振りへの基礎とする傾向がある。  人間は時に嘘をつく。言葉に裏表があったりする。動作も、意識的に感情とは別のしぐさをすることがある。嘘をつくという意味が極端であれば、「取り繕う」と言い換えていい。人間の営みとは、自然発生的言動と「取り繕う」言動とが複雑に絡められて他者とコミュニケーションが取られるから、そうした人間らしい営みをリアルに芝居すること、すなわち人間の役を「演じる」というのは、実際的にはとても難しい技術なのだ。だから役者の基礎稽古の場では、「取り繕う」ことの少ない人間以外のもので基本形の動きを学び、「何か」に「なる」ことに段階的に慣れておく(身体を慣らしていく)必要があるのである。
§
 暗黒舞踏の話をしたい。  私がそうした基礎稽古の経験を日々繰り返していたある時、暗黒舞踏の話題になって一場が笑いに包まれたことがあった。それは暗黒舞踏を揶揄した、嘲笑に近いものだった。暗黒舞踏あるいはアングラの舞台を実際に観たことがなく、まったくの想像上のジャンルに感じられ、実体を掴めていなかったせいもあるのだが、心のどこかで西洋式の演劇に対する優越感があったのも事実である。  暗黒舞踏という言葉から感じられた、ある種の暗いイメージとおどろおどろしいイメージは、それ自体を舞踊としてとらえることができなかった。舞踊として考えるとまるで滑稽な、不自然な(何が自然であるのかさえ理解できておらず)、踊りとはとても思えない感覚があって、むしろあれは「卑俗な演劇である」ととらえることしかできなかった。  人間の営みや日常的に結び付いたものとはいったい何か。何が自然であるのか。そもそも人間とはいったい何であるか。何をもって生きていると言えるのか。我々はいったい、どんな世界に生きているというのか。  暗黒舞踏を「訳の分からない意味不明な身体表現」と定義するためには、それ以外の身体表現が「訳の分かる意味の分かる身体表現」である…

『洋酒天国』とアメリカの古い家

酒の善き友、壽屋(現サントリー)のPR誌“ヨーテン”。《女房は死んだ、おれは自由だ! これでしこたま飲めるというもの。 今までは一文無しで帰ってくると 奴の喚きが骨身にこたえた》というボードレールの「悪の華―人殺しの酒」の散文詩で始まる『洋酒天国』(洋酒天国社)第20号は昭和32年12月発行。表紙はどうやら、1925年T型フォード車らしい。残念ながらというか申し訳ないことに、その図体の大きいボディの先頭は裏表紙の方になってしまっていて、ここでは見られず。しかしぼんやりと小さく、木箱の上に置かれた瓶はやはり、トリスの白ラベルであり、ヨーテン定番のフェイバリット・アイコンである。
 さて、本の中身。まずはヌード・フォト。  ――ここで“ヨーテン”に関する面白い話を、思い出した。小玉武著『「洋酒天国」とその時代』(ちくま文庫)の解説を書いた評論家・鹿島茂氏は、昭和37年の中学1年生の時、既に“ヨーテン”の愛読者だったという。  無論、未成年の彼がトリス・バーの客だったわけではない。鹿島氏の実家は横浜の金沢区で、酒屋を営んでいた。当時サントリーはビール販売の促進のために、いわゆる営業目的で、どうやら酒屋の主人らに“ヨーテン”を配布していたらしいのだ。販売促進の切り札として、“ヨーテン”のヌード・グラビアが武器になったと、鹿島氏は書いている。つまり鹿島氏本人も、そんなオトナの小冊子の魅惑に惹かれ、愛読者になったというわけだ。
 閑話休題。今号のヌード・フォト。2ページを割いた長い黒髪の女性の肢体は中村正也氏の作品。モデルは誰かというのは不明で、どこのページを開いてもその名前は載っていない。モデルが無記名であることを考えると、いつものヨーテン“御用達”日劇ヌード・ダンサーではないと思われる。  それにしても、この肢体のしなやかさはなんとも美しい。絶妙な露光量で黒髪が引き立ち、肌のコントラストが中和され、モノクロームのグラデーションがなめらかに収められている。これぞ中村氏の現像魔術とでも言うべきか。この時代の日本の、モノクローム・フィルムによるヌード・フォトは、そのテクニックにおける一つの芸術的頂点に達した最盛期であったに違いない。
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 香料研究の著書の多い國學院大學の文学博士、山田憲太郎の「ミイラ造りと酒」というエッセイも、読んでみるとなかなか面白い。ここでは匂いや香り…

『洋酒天国』と活動屋放談

三日三晩、ジョルジ・シフラが演奏するリストのピアノ曲「リゴレット・パラフレーズ」を聴いているのだけれど、記憶がない。導入部の演奏からいつも記憶が飛んでいる。スコッチのオールド・パー12年物のせいだ。これを飲んで音楽を聴くと、瞬く間に瞼がとろんとしてプレーヤーの電源が付いたまま朝を迎える。オールド・パーは好きだし、これがまた部類なく心地良いのだが、いっこうにシフラの「リゴレット・パラフレーズ」は謎のままで、私はあの曲を、優しい夜のしじまに語ることができない。
 『洋酒天国』(洋酒天国社)第56号は昭和38年1月発行。映画特集号となっている。昭和38年と言えば、鉄腕アトムが始まり、力道山逝去、アメリカのケネディ大統領暗殺、梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」が大流行した年であり、レナウンのニット商品のヒットと共に“ワンサカ娘”のコマーシャル・ソングが流行りだしたのは、確かこの頃ではなかったか。  ちなみに映画の話に絡めると、この年の暮れに、私の大好きなサスペンス映画、スタンリー・ドーネン監督の『シャレード』が公開されている。主演はケーリー・グラント、そしてヘップバーン。おそらく私はこの映画を、テレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」(解説は淀川長治)で初めて観たのだと思う。「日曜洋画劇場」(当初は「土曜洋画劇場」)が始まったのは昭和41年からで、子供の頃すなわち昭和50年代頃、この日曜洋画劇場のスポンサーだったレナウンのコマーシャルで、“ワンサカ娘”の歌を覚えた。
 たまには検索ワードのために、“サントリー”のPR誌『洋酒天国』と記しておかなければならない、と気を遣ってみる。  第56号の裏表紙は壽屋「赤玉ポートワイン」のおしゃれな広告。壽屋は現在のサントリー。Suntory。サントリーホールディングス。又は燦鳥。これだけワードを並べておけばよかろう。それにしても当時の「赤玉ポートワイン」のコピーがまた甘ったるい。
《野菊の如き君におくってください 甘い生活が始まります 土曜の夜と日曜の朝にはこれです 唇によだれです 赤玉ポートワイン!》《おくりものに 赤・白詰合せ(グラス付き)500円》
 野菊の如き君とは。唇によだれ、とは…。日本の国旗の日の丸を見て赤玉ポートワインを思い浮かべ、急に赤玉が飲みたくなれば、あなたは立派な赤玉通。今宵は赤玉に決まり。キャビネットに3本か4…

ゴジラというポリティカル・レガシー

去る8月28日、朝日新聞朝刊にゴジラが現れた。編集委員・曽我豪の「日曜に想う」の「ゴジラと保守 破壊と創造」の記事である。その頃熱狂的な評判となっていた映画『シン・ゴジラ』にあやかっての、ゴジラがテーマとなった日曜版コラムだ。  とは言え、それを読んでみると、初代ゴジラの映画が引き合いに出された、政治の、55年体制に絡んだ論説であり、映画の特撮の話にはなっていない。しかしこれはこれで興味深く、初代ゴジラが公開された1954年(昭和29年)の吉田内閣の話から、造船疑獄の影響による総辞職、保守合同、左派と右派の社会党統一などといった戦後政治史の流れを汲んでいる。現今の政治のおける要諦も、時代を正しく読み取り、確かな采配が求められていることに変わりない、と結んでいて大変読み応えがあった。
 私が子供の頃にテレビの放映で観ていたゴジラ映画は、『メカゴジラの逆襲』(公開は1975年)の印象しかない。もっと古い、ザ・ピーナッツの“モスラの歌”で有名な『モスラ対ゴジラ』(1964年)などはあまり知らず、第16作目にあたる1984年の『ゴジラ』(橋本幸治監督)で初めてゴジラ映画を映画館で観た。特撮モノが好きだった私はむしろゴジラ映画には疎く、子供の頃にメカゴジラの超合金のオモチャを親に買ってもらったくらいでゴジラとはあまり縁がなく、ゴジラより大映のガメラ、ガメラより大魔神の方が映画としては好んで観ていた。
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 1954年の初代ゴジラ――『ゴジラ』(東宝作品・本多猪四郎監督)はかなり後になってテレビ放映だったかビデオ・レンタルだったかで観た気がする。モノクロームでおどろおどろしい。それまで“特撮の子供向け大怪獣映画”としか印象がなかったゴジラ映画だったが、初代ゴジラの映画を観てこれは違うと思った。特撮の大怪獣映画の仮面を装った、完全なる政治風刺映画であった。
 いま考えるとそれは、とてつもないエネルギーと熱意で制作された映画だと分かる。  1954年の3月、アメリカのビキニ環礁水爆実験で、マグロ漁船第五福竜丸の乗組員23人が死の灰を浴び被爆する。ゴジラという空想怪獣の映画は、この現実に起きた事件に端を発し、そこから「水爆実験によって海底から目覚めた古代怪獣」というモチーフが生まれ、同じ年に完成して11月3日には封切りになっている。いかに急ピッチで制作されたか。  しかもこの間…

石内都―Infinity∞

私がトノ・スタノの作品が観たく、『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』が催された東京・銀座の資生堂ギャラリーへ訪れたのは、もう6年も前のこと。それは2010年8月であった(当ブログ「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」参照)。それから今年の夏、『Frida is 石内都展』 を観ようと、同じく資生堂ギャラリーを訪れたのだけれど、ギャラリーの手前まで来て急に、“突発”の用事に襲われ、泣く泣く引き返して地下鉄の銀座駅へ落ちていったのである。つまり、私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかった――。
 石内都という写真家の特徴的な作品を、過去、しばし眺める度に、ある2つの作品を必ず思い出す。  一つは映画である。1966年に公開された勅使河原宏監督の『他人の顔』(原作・脚本は安部公房)。そしてもう一つは、文芸雑誌『群像』の2008年3月号に初めて掲載された、大庭みな子著の短篇小説『痣』。これらには共通項があって、それは《喪失》であったり、《傷》といったモチーフで括ることができるだろう。  『他人の顔』は、顔に大きな《傷》を負った男が、別の男の顔の仮面を秘密裡に拵えさせ、他人になりすまし、自分の妻を誘惑するというストーリー。自分が自分という存在を《喪失》し、仮面をかぶってまったく別の人となった時、《喪失》した自分は、その劣等感の反動であらゆる欲望を満たそうと際限なく暴走してしまう悲劇。  『痣』は、原爆が投下された直後の広島の町にて、無残な顔になった友人の恋人に声をかけられず、戦後、友人に再会しても恋人を見かけたことをとうとう告げることができなかった主人公の懺悔。痣とは、ここでは主人公が精神的に負った《傷》と受け取ることができる。
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 私は『Frida is 石内都展』を観ることができなかったので、彼女の写真集『石内都 Infinity∞ 身体のゆくえ』(求龍堂)を眺めることにした。この写真集は2009年、群馬県立近代美術館にて催された同題の個展をカタログ化したもので、彼女の80年代後半からの作品が数多く収録されている。
 彼女の作品を眺める時、私はどうしてもそこから、《花の匂い》を感じてしまう。それはまったくの気のせいであろうか。  写真集の中で、「1906 to the skin」(1994年)と「A to A」(2006年)の作品について考えてみ…

『洋酒天国』と歓楽の果てに

私事で恐縮だが、「二日酔い」という経験が乏しい。翌日まで「二日酔い」になるほど、酒を飲まない。悪酔いはあまりしない。だから「二日酔い」の経験について何か書こうと思ったのだけれど、どうも自分の身の話になってくれない。とりあえず辞書を引いてみた。
《二日酔い、宿酔。飲んだ酒の酔いの悪い影響が翌日まで持ち越される苦しい状態》 (『岩波国語辞典』第七版より引用)
 頭痛、胃痛、吐き気などが翌日の朝にもたらされる、ことが二日酔いだ。でも、一般常識としてそれを知っていても、ああこれが二日酔いなのだ、という実感的苦しみをいまだ味わったことがない(味わいたいとも思わないが)。覆水盆に返らずならぬ、“宿酔盆に返らず”と嘆く輩はちらちらと、周りにはいたりする。
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 『洋酒天国』(洋酒天国社)第53号は昭和37年2月発行。表紙にもあるように、ヨーテンおなじみのイラストレーター柳原良平氏に対し、今号はアメリカのイラストレーター、ヴァージル・パーチが軽妙洒脱な画で対抗するという図式になっており、あらゆるページにパーチのイラストが挿入されている。
 ところでヨーテンは、第51号から冊子のサイズが変わってA5判となった。この第53号もそのA5判の少し大きめのサイズであり、ページ数も大幅に増えてそれなりに分厚い。内容もジョーク&エロで濃くなった、と言いたいところなのだが、この53号はかなり趣向が違う。ヌード・フォトのような“慎ましやかな”ものがない。今号はジョン・アームストロング&ヴァージル・パーチの『VIP'S ALL NEW BAR GUIDE』の本の中身に拠っているらしい。したがって、内容的には全面的に、酒に関する含蓄集、知識集のようなものになっている。
 一つ一つその内容を紹介できないけれども、第一章は「酒の歴史」(History of Drinking - and Drinks)と題され、ジョン・アームストロング氏の《はじめに男と処女と蜂蜜酒があった。男が処女をつくり――そして、女が蜂蜜酒をつくり、かくて歓喜が生れたのである》という優雅な文章で書き出される(これを誰がどんなかたちで翻訳したのかは不明)。それはそうと他のヨーテンを読んでいても、たびたび「処女」――ヴァージンという語が飛び交うが、どうも酒と「処女」とは深い関係の仲なのだろう。人類の文明の歴史と酒の醸造は切って…

チチ、カエルの想い出

文化祭シーズンたけなわと言うべきなのだろうか。先日、新聞で茨城県の「県高校総合文化祭」開会式が水戸の県民文化センターでおこなわれたという記事を読んだ。  総合文化祭いわゆる総文祭は、10月から11月にかけて、県内の各高校文化部が水戸市やつくば市、小美玉市などで創作物の展示や発表、音楽や演劇の上演をおこなうというもので、その10月8日の開会式典では、高校生ら100人による構成劇「真綿のような白雲がみえる」が披露されたという。  この構成劇は、高校生が過去にタイムスリップし、旧日本海軍の海軍飛行予科練習生(予科練生)と出会うというストーリー。丸刈り頭に白い予科練の制服姿で凛々しく佇立する二人の若者を中心に、もんぺを穿いた女子らが取り囲むという劇の一場面の写真が掲載されていて、私は胸が熱くなるのを感じた。予科練というのは、かつて茨城県阿見町に海軍航空隊があり、今の中学生くらいの少年達が航空技術の基礎を習得するために入隊した練習生部隊である。総文祭で戦争と平和をテーマにした、このような劇に取り組んだ今の若い人達の、真剣な眼差しと情熱とを、紙面から想像しないわけにはいかなかった。
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 翻って、自分が10代の頃経験した淡い、演劇の想い出について書いてみたい、と思った。言わば照明を当てられた側の、ゾクゾクするような体験、を思い出そうとしたのだけれど、私が真っ先に思い出したのは、実はそういうものではなくて、中学校の演劇部で文化祭のために上演した古典劇、菊池寛の『父帰る』なのであった。
 これは、舞台の上の経験というものではない。当時私は中学1年生で、演劇部に入ったばかりの1年生は、役がもらえる状況になかった。したがって私はその舞台に立っていない。仮初めにも“照明係兼大道具係”という裏方があてがわれ、その文化祭での本番では舞台の袖から「芝居を見守る」という、まったく役に立たない体たらくなポジションにあった。
 戯曲『父帰る』を古い新潮文庫版で読み直してみた。いや、台本ではなく菊地寛の戯曲を直に読んだのは、これが初めてである。  その情景は《中流階級のつつましやかな家》となっており、時代は《明治40年頃》、場所は《南海道の海岸にある小都会》とある。幾分イメージと違っていた。私の記憶に残っていた演劇部の舞台装置の印象としては、もっと田舎の、貧しい家というふうに、かなり錯誤していた…

ミスター・グレイが持っていた『巡礼の年』

村上春樹氏の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)で、灰田文紹という大学生が登場する。主人公・多崎つくるが通う工科大学の学生で、多崎つくるより2歳年下ということになっている。彼らは大学のプールで知り合う。  灰田文紹はまだ若いのに、ひどく物知りで哲学的なのである。工科大学では物理専攻で、多崎つくるとは違い、ものを“作る”ことが不得手だと自ら述べている。ものを“考える”のは好きらしい。多崎つくると、ちょっとした哲学的な問答をする場面も出てくる。
 小柄でハンサムで、哲学書やシェイクスピアなどの戯曲を愛読するという灰田。能や文楽にも詳しいらしい。とりわけ、クラシック音楽が好きで、多崎つくるが住む自由が丘のマンションに出入りし、図書館で借りてきたCDや自前のLPレコードを持ってくる。  そんな灰田が持参してきたのが、ロシアのピアニスト、ラザール・ベルマンが演奏するフランツ・リストの『巡礼の年』(Années de pèlerinage)というLPアルバムである。その中の「ル・マル・デュ・ペイ」という曲に、多崎つくるは反応を示す。高校時代のあるクラスメートの女性の記憶が喚起され、もはや多崎つくるは以後、この「ル・マル・デュ・ペイ」の旋律(=記憶の喚起を含めた想念)から離れることができなくなる。
 灰田は、自分の父親の、ある不可思議な“体験談”を多崎つくるにする。大分県の山中の温泉で出会ったジャズ・ピアニストの話。そしてそれを聞いた多崎つくるは、何らかの心理的影響を受けて、現実なのか夢なのか判然としない不思議な“体験”をする。  ――かつて高校時代に同じ仲間だった二人の女性。彼女らは乳房を剥き出しにした全裸で自分の目の前に現れる。二人は多崎つくるの肉体を愛撫し、それから一方の女性と重なり合う。そうした性的な行為の最後の射精を受け止めたのは、なんと灰田であった。多崎つくるはその現実とも夢とも分からない“体験”から覚醒した後、何故そんな“体験”をしたのかと混乱に陥る――。いずれにせよ、その“体験”の中で流れていたメロディが、「ル・マル・デュ・ペイ」である。
 灰田はその後、姿を消してしまうのだった。『巡礼の年』のレコードは多崎つくるのもとに残った。彼は灰田という親しい友人を失い、しばし空虚な気持ちに駆られる。  ところが程なくして、灰田は大学へ戻ってく…

大駱駝艦―白馬の舞踏

舞踏家・麿赤兒率いる舞踏カンパニー大駱駝艦の合宿ドキュメンタリー映画をDVDで観た。タイトルは『裸の夏 The Naked Summer』である。
 このDVDのパッケージがとてもシンボリックで美しい。何ら装飾を施さない背景。身体の直立。その《裸》の身体が視覚に飛び込んでくる。金色に塗られ、顔と首が白く塗られた無表情の女性。顔をよく見ると紅のアイラインがペインティングされ、狐のお面を想起させる。金色(金粉)は程よく輝いているが、メタリックな機械の冷たさはどこにも感じられない――。  実はこれがいわゆる大駱駝艦スタイルなのだ。舞踏だとか大駱駝艦が何であるかまったく知らない人に映画の内容を説明するならば、「この映画は、若者達が一生懸命這いつくばって汗を掻き、金粉白塗りのニンゲンになるまでの合宿物語です」と答えるのが簡単でいい。要は、何故若者達が「金粉白塗りのニンゲン」にならなければならないのか、である。これが本当の命題だ。
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 岡部憲治監督のドキュメンタリー映画『裸の夏 The Naked Summer』は、麿赤兒が演じる妖しい人物を所々、映像的に点在させつつ、男女の若者達の“1週間合宿”を親密な目線で追いかけている。映画の公開年は2008年。合宿自体は2003年8月、長野県白馬村にておこなわれた。  ドキュメンタリーの中心となっているのは、言うまでもなく、長野県白馬村という風景である。白馬村というフィールドに、集まった男女の若者達の動く姿が描かれている。白い雲が映える夏の青空の下、まず何より若者達がよく走る。走ることが若者達の特権である。そうして熱を帯びた身体から汗がほとばしるのを、想像する。「逞しさ」と「弱さ」と「倦怠」とが、一人一人の身体から伝わってくる。彼らは《無垢》な美しさを、纏っている。  ここに集まった若者達は、まだ自分らが“何者”になるのか、想像すらしていない。それでいて今、何かしたい。何かになりたい。できれば格好良くなりたい…。若い頃は誰しもそう思うのだけれど、物事は《衝動》と《欲望》だけでは成り立たない。  とどのつまり、大駱駝艦の演者や麿赤兒をどこかで観てしまって、ああ格好いい、憧れる…、漠然とそう思ってしまった人達が集まってきた、そんな雰囲気である。この時点で私は羨む気持ちを覚えた。そんな若い頃に戻ってみたい――。漠然と、漠然と、漠然の中…

舞踏そしてアラーキーの「顔」論

先週の当ブログ「写真集『nude of J.』」の中で、写真家スペンサー・チュニックの「老若男女の大集団全裸」パフォーマンスについて僅かに言葉をかすめている。そこで述べたヌード・モデルの《表情》の問題とスペンサー・チュニックの身体表現とは、実に対照的な芸術の方向性を示しており、写真という形態での視覚性は、片や無数の人間達による、もはや個々の表情や肉体の性差すらもとらえることのできないマクロな眼差しがあり、一方で純粋に個々の肉体を精細にとらえ、その人間の《表象》や《表情》を炙り出した等身大の眼差し、というのがある。  さらに広範な視覚性について述べるとすれば、肉眼を超えた小さな、虫眼鏡や顕微鏡のような極微の眼差しがあり、可視光の限界までをとらえた電子的な眼差しなどもある。身体表現のレベルで視覚性を考えた時、スペンサー・チュニックのマクロの造形から、等身大の眼差しによる肉体の《表象》《表情》までがその範囲に収まるであろうし、舞踏としての身体表現もその範疇のものと定義したい。
 「顔」についてはどうだろうか。私が舞踏というものを探ろうとした矢先、肉体的なdanceの観点ですべてを切り取ろうとしていたことにハッとなった。重大な部分を欠落させていたのだ。「顔」である。舞踏にとって人間の「顔」はどんな意味をもつのだろうか。あるいはどんな意味すらももたぬものなのだろうか。
 ――あらためて宣言する。私はいま“舞踏”(BUTOH)という身体表現の可能性の、虜になっている。この舞踏とやらを単にdanceと訳してしまった場合、それに秘められた「重大な何か」を欠落させてしまうのではないかという不安があった。それはいみじくも的中した。したがってここは、danceではなく、“BUTOH”と記しておいた方が良さそうだとも思える。  しかしながらもし、danceというものの中に、同じ「重大な何か」が根源的に含まれているのだとすれば、私の一抹の不安は杞憂にすぎなくなる。ただしそれをまだ証明することができない。果たして、私の思い描く“舞踏”とはいったい何だろうか。ともかくそこに秘められた可能性を創造しつつ、音楽(又は音響的表現)の問題を絡ませながら、新しい表現への欲求を膨らまそうとしていることは確かなのだ。
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 そんな中、偶然、荒木経惟の『いい顔してる人』(PHP研究所)のエッセイ本をめくる…