☞最新の投稿

写真小説『サーカスの少年』のこと

イメージ
中学を卒業してからの高校の3年間は、あっという間に過ぎようとしていた。かろうじてその時、まだ17歳だった。私と友人は、あと数ヶ月で卒業という只中に、こんな会話をしたのである。「俺たちって、もうすぐ18歳になるけど、18歳ってさ、もうオッサンだよな」――。
 部屋の中で一瞬、会話が途切れたのを憶えている。17歳と18歳はやはり根本から違うのだということを、友人は溜息を漏らしながら暗い口調でリアルに告げるのだった。  17歳までは子供として扱ってくれる…。が、さすがに18歳ともなると、既にボクたちは、心も体もすり切れて《少年》ではなくなる。虚栄心が強かった《少年》としての今までとは違い、18歳の“オッサン”になるとは、いったいどういうことなのだろうか。  それは漠然とした不安であった。そうした最後の高校生活をやり過ごそうとしていた頃、ミュージシャンで作詞家の松本隆氏がストーリーを創作した、写真小説『サーカスの少年』刊行の“噂”を、どこからともなく耳にしたのだった。やがて、私と友人は、同じ時期に誕生日を迎え、実体としてとうとう18歳という“オッサン”になっていった。そうなると自ら観念し、その事実に屈伏せざるを得なかったのである。
§
 まさに私が、《少年》と訣別を果たした直前の、1990年春。リアリスティックに刊行された『サーカスの少年』(東京書籍)という写真小説の“噂”は、おそらくラジオかなにかで知り得た、些細な話題の一片だったのだろう。  『サーカスの少年』――。モデルから転身し、写真家デビューを果たした安珠氏の純真なるフォトグラフが濃密に収録された写真小説本。松本隆氏が綴った軽いタッチの小説の内容は、そうした風の“噂”で耳にしていたのかも知れなかった。
 ――都会の沿線のとある町。両親を交通事故で失い、ひとりぼっちになった少女“そよぎ”が、学校にも行かず、この町にひっそりと暮らしている。電車の操車場に面した家には、父親がかつて集めていた骨董の古時計があちらこちらにちらばってある。
 ある日、湯船に浸かっていた“そよぎ”は、線路の上の電線が見える天窓から、浴室にいる自分の顔を覗き込む不思議な“少年”と出会う。“少年”は、この町にやって来たサーカス団の一員で、綱渡りの芸の練習のために電線の上を歩いていたのだ。駅の近くの空き地には、サーカス団の巨大なテントが張られ、…

安井誠一郎像と校歌

【東京文化会館の安井誠一郎像】
 上野の恩賜公園を訪れれば、東京文化会館のロビーで休憩がてら、おもむろにコンサートのフライヤー群を漁るというのが、その都度の自分の音楽的昂揚度を測るバロメーターになってしまっている。要するに其所は自分にとって落ち着く場所である。

 そのくせ、文化会館の公演にはすっかり縁遠くなった。以前、素晴らしい演奏を聴かせてくれた東京都交響楽団を鑑賞したのは、もう何年前になるだろうか。――自らを顧みる。文化会館では、小一時間クラシックの演奏が楽しめる「モーニングコンサート」という定例の催し物がある。したがって今年は、これを何回か都合して聴くつもりである。ショパンなどがいい。

 文化会館の入口に、一体の銅像がある。数え切れないくらい訪れている場でありながら、あまりこの銅像には何故か関心がなかった。いや、一時の関心は過去にあったかも知れないが、銅像たる風格所以に、私の記憶にはとどめられていない(私にとってはむしろ同じ公園内の“ボードワン博士”の方が印象が濃い)。よく見ればなかなか恰幅のある銅像である。そこで、少し銅像の主について調べてみたのだった。

 銅像の主は、政治家・安井誠一郎氏。初代東京都知事。のちに名誉都民となる。昭和20年代から30年代にかけて、知事として東京文化会館の建設事業に携わった。ホールの音響工学としての名声が高いこの文化会館は、昭和36年4月完成(竣工は3月)。安井氏は戦災復興や東京オリンピックの招致にも労した人物であり、そうした数々の業績が讃えられて昭和41年、この銅像が造られた。作は長崎の彫刻家・北村聖望。

 渋谷のハチ公像が待ち合わせスポットの定番、これをJR山手線駅・西陣の定番とするならば、東陣は上野駅公園口、東京文化会館の安井誠一郎像である、と私は勝手に推したい。実際、安井誠一郎の銅像はどこにありますかと道行く人に訊いても、答えられる人はほとんどいないのではないかと思うが、誰もが知っているであろう上野の西郷隆盛像前は、いまや待ち合わせスポットとして相応しくない。公園口を出て信号を渡り、その大きな東京文化会館の建物の真下に、安井誠一郎像はある。ここは待ち合わせる場所として、まったく相応しいのである。

*

 さて、この東京文化会館ができる以前のこの土地は、なんであったか。
 そもそも上野公園の敷地は江戸時代、寛永寺の境内であったが、どうもそのあたりは凌雲院(寛永寺の子院)の墓所だったらしく、徳川御三卿の墓があったようだ。
 昭和10年、そこに東京市立第四高等女学校がつくられる。のちに東京都立竹台高等学校と校名が変わる。現在の都立竹台高校は、谷中霊園のさらに東側の、荒川区東日暮里にある。男女共学。何故学校がそちらに移ったか、戦災の影響かどうか、私の調べが非力で及ばないのだけれど、ともかく文化会館建設が着工される以前は、そこは竹台高校の跡地であった。

 音楽家・加藤和彦さんが竹台高校出身と知って、なるほどと思った。この高校は吹奏楽部の活動が目覚ましい。数々のコンクールで主要な賞を受賞している。この学校の校歌の作曲を手掛けたのが、芥川也寸志氏である。彼らしいゆったりとして荘厳な楽曲だ。音楽的水準が高いのも頷ける。

 竹台の高校跡にして、東京の文化会館あり。これほどの奇遇なれば、音楽に通ずる知己と言えよう。憩いの場として、サロンとして、東京文化会館が果たす役割に、私は大きなときめきを覚えて已まない。

コメント

過去30日間の人気の投稿

五味彬の『Yellows MEN Tokyo 1995』

人生ゲームと約束手形

YELLOWSという裸体

樋口可南子と篠山紀信

さようならヨーカドー