舞踏への興味、その嗅覚

【2015年1月28日付朝日新聞朝刊】
 私はどうも生まれた時からの資質として、一般的に“理解しがたい”ものや事象に、本能的に加担してしまったり、引き寄せられてしまう傾向があるらしい。誰も見ていなかったり、見ようとしないものに対して、私は逆に注意深くそれを観察して、自分なりに何かを得ようとする。またそうした行為を周囲に勘づかれることもあまりない。私自身、観察したことは、口外しないで秘密にしておくことが多い。

 それは幽霊を見たとか、UFOを見たというオカルトの話とは違う。そのものの現存は誰しもが認知できるもの、しかし限りなく無価値とされ、矮小化され侮蔑され、理解されないものに対して、私の本能が加担する。理解したいという欲求と五感が働き出す。

 匂いに対する敏感さは挙げられると思う。幼少の頃、母に連れられて街に出掛けた時に、鼻をつく臭気を覚えた。街がいやな臭気に覆われていると感じた。一般に光化学スモッグは眼に刺激を感じたり、呼吸が苦しくなって感知されるが、私の場合嗅覚がまず刺戟された。それとは別に――これは科学的なことは定かではないが――周囲にいる者のちょっとした口臭で、その人が風邪をひいているのを感知することがある。大抵の場合手遅れで、その後うがいをしても自分も風邪をひいてしまうことが多い。

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 一般的に“理解しがたい”ものへの入口が、私の場合視覚より嗅覚が先なのである。ある空間に立ってそこが安全な空間かどうかを、まず嗅覚が訴えてくる。ちょっとした異臭で落ち着かなくなり、場所を変えるということがたびたびある。
 少し変な話になるが、小学生の頃、映画館の匂いが好きであった。とても落ち着く。レコーディング・スタジオの匂いも好きで、ずっとそこに居たくなる。
 プロレス会場の独特の匂いというのを感じた人はどれだけいるだろうか。プロレス会場の匂いも好きである。そう言えば、プロレスというジャンルと暗黒舞踏は、“理解しがたい”ものとして、よく似ている。

 プロレスは、一般的に“理解しがたい”ものと蔑まされている。「総合格闘技には興味があるが、プロレスにはあまり興味がない」と、世間でよく言われる。身の回りでもそういう話を聞いたことがある。一方で女性の総合格闘技への関心の高まりは、かなり感じられる。
 かつて90年代のプロレス・ブームの、ドラマチックで摩訶不思議だったイデオロギー闘争の中で、“総合的な”格闘技へのロマンチシズムが発酵培養され、それが今日の総合格闘技のかたちを形成していることは、果たして多くの人に理解されているだろうか。プロレスにおいて、今でこそ“格闘エンターテイメント”という言葉が便宜的に用いられて、特異なジャンルを説明しやすくしているが、純格闘技ではないプロレスをよく知らない者にプロレスとは何かを説明するのが非常に難しい、と感じるのと同様、「演劇は観るが舞踏は知らない」、「ミュージカルは観るがダンスは観ない」、「ダンスは観るが舞踏は観ない」といった鑑賞者の棲み分けがはっきりしている演劇と舞踊の世界で、「舞踏は観るが演劇は観ない」とする人が極端に少ないから、舞踊なのか演劇なのかよく分からないアングラと一言で括られてしまう昭和の暗黒舞踏を説明するのは、とても難しい。

 “理解しがたい”難しさを解いて、それを理解してもらおうと努力する自己そのものが、まだそれを探求し切れていないのではないかという観念に陥り(これはずばり理解していないということだ)、むしろ他者への説明を疎かにしても、自己が理解することを優先して努めるから、余計秘密のたぐいとなる。

 プロレスというジャンルと暗黒舞踏は、個々の(鑑賞者の)秘密めいた興味関心と研究による吸引力によって守られ、地下深く眠り続けながら、市民権を得ずに今日に至っている。しかし、プロレスは今や“格闘エンターテイメント”と比較的広く認知され、片や暗黒舞踏は舞踏と変わり、BUTOHと称されて国際的な一つのダンスとして感受されるようになった。
 この劇的な変化は一体何であるか。私は何かこうした“理解しがたい”ものへの関心の強まりが、世界通念として共通項の、今日の時代を暗示しているのではないかと思うのだが、インターネットによる情報の拡散と共有というインフラがそれを広く推し進めていることは言うまでもないだろう。

 インターネットの情報の記号化によって、そうした“理解しがたい”ものと事象に対し、私の嗅覚は殊更鈍ってきた。昨年1月、室伏鴻の鉛色に塗られた身体の舞踏ポスター写真が、忽然と新聞に掲載された。
 舞踏とは何か。それはきわめて自由な、森羅万象の静と動の身体表現であると私は解釈している。しかもあの鉛色の身体がそれを見事に表している。あるいは山海塾の白塗りの複数の身体が、さも人間本来の身体を喪失し、自然の一部となって舞い、舞踏が森羅万象のダンスであることを表した。

 この新聞記事「グローバル化する舞踏」(舞踏評論家・石井達朗)を読んでみると、舞踏が国際的な広がりを見せ、かつて前衛と揶揄された舞踏が今や西洋のモダンダンスと肩を並べつつある、というような論旨となっていて、グローバル化した“日本発の”舞踏を讃えている。
 鋭敏な嗅覚よりも、記号化された情報。舞踏に関しては私の嗅覚はもはや必要なくなってしまった。情報を掴み取ることで“理解しがたい”ものが理解しやすいものと変容したのだ。

 それはそうとして、私は今、何故自分自身が舞踏に関心を寄せているのかを探ろうとしている。時代を読み取ろうという趣旨ではなく、あくまで自分本来の、嗅覚によってそれを感知しようとした“理解しがたい”ものとは、一体何であるのか。この追求は当分続くであろう。

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