スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2月, 2016の投稿を表示しています

☞最新の投稿

「ひだまりのうた」について

2018年1月、私は「ひだまりのうた」という歌を作る。作り始める――。これについて二三、作る際のまえおきとして書き残しておきたいことがある。この曲のテーマは、“どこへ行ってしまったか分からない《昔》の友に贈るブルース=応援歌”ということになっているが、個人的に、この曲を作ろうと思ったきっかけとなった、「ある友人」について(充分考えた末に思い切って)書いておきたいのである。  実際のところは――「失踪」ではないのだろう。だが私にとって、この長い年月の果て、友人=彼が居なくなった状況を「失踪」ととらえて今日まで認識している。昔からの仲間であった周囲とのネットワークを断ち、結局ほとんど誰も彼の居場所を知らない有様なのだから、ある意味において「失踪」と言えるだろう。彼は私のかつての「友人」であったし、その昔所属していた劇団のリーダーでもあった。
§
 10年前の秋に発刊された、ある演劇雑誌の取材記事には、当時の彼の飄々としたプロフィール写真が掲載されている。無論、その記事は劇団のプロモーションを目的とした内容である。母体の劇団のリーダーとして座し続けた余裕と自信に満ちた態度が、そのプロフィール写真に滲み出ていた。雑誌の取材を受け、とうとうとした語り口であったろうことが想像される彼の言葉には、劇団に対する「情熱」と「希望」と「夢」と、底知れぬユーモアのセンスが鏤められ、「ナンセンス・コメディ」を標榜する劇団の旗印としてのイメージは、すこぶる健やかなものであった。  10年前といえば、私はとうの昔に劇団を脱退した人間だったので、彼と会う機会はまったくなく、こうした業界雑誌を通じての所見ではあるものの、その頃の彼は元気そうで紛れもなく絶頂期の「演劇人」であったろうし、「信念」を変わらず貫いているという感があった。  それから数年後、彼は劇団とメンバーとのあいだで「いざこざ」を起こす。そしてまもなく「失踪」してしまった。6年ほど前のツイッターの書き込みを最後にして以降、彼はほとんどすべてのSNSの更新を断絶し、ネット上から姿を消した。だから、仲間内でも彼の居場所を知らない――と私は認識している。この認識が間違っているかどうか分からないが、少なくとも今、彼という存在が周囲からいっさい消えた「空白」の、途上の最中にあって、双方にとってとても穏やかな、波風の立たない期間が経過してい…

芥川龍之介の『蜜柑』を読んで

芥川龍之介という人の作品は、それこそ太宰治と同じくこぞって学生に読まれやすい性質がある。この知名度の大きさは、作家にとって、いや作家とその作品を十分に理解する上で、ある種の先入観に侵されやしないか。  近代小説家の著名人であるという点から、芥川や太宰は良くも悪くもスターなのである。そのスターに群がり、その作品とやらを食してみたいと思う若気の好奇心こそが、学生に読まれやすい理由である。ほとんどの場合、先入観に侵されながら。

 私も高校時代にそのスター・芥川に出会い、若気の好奇心で『羅生門』を読んでしっぺ返しを食らった一人である。とても読みづらく、難解だった。他の芥川の小説を読みたいとも思わなかった。  近現代の小説を好んでいた私の頭には、あの平安時代の今昔物語の、朱雀大路の羅城門という設定がえらく仰々しく思われ、女の死骸から髪を抜く老婆というインパクトが強すぎたせいか、老婆の着物を剥ぎ取って去って行ってしまう下人の行動性がこの小説の肝であることに気づかなかった。少なくとも高校の国語の授業では、その肝の部分が読解できるか否かが問われた。  尤も、そんなエゴイズムの問題より、芥川が描き出すべき羅城門の荒廃した様子の筆致、その描写の巧拙にも言及すべきだと、私はだいぶ経ってから考えるようになった。
*
 さて、高校時代に私が出会った芥川の作品が『羅生門』ではなく、もしも『蜜柑』だったとしたら、私はおそらく何ら先入観に侵されず、その時から猛烈に芥川の小説を読み始めたに違いない――。
 12年前のとある雑誌で、評論家・川本三郎氏が横須賀について書いたエッセイがあり、私は最近それを読み返していた。横須賀は軍港のイメージが強い。が、実はトンネルの多い山に囲まれた長閑な町なのだ、と説いている。  そのトンネルの多いJR横須賀線に絡まって、芥川龍之介の『蜜柑』を川本氏は挙げていた。私は急に興味が湧き、書棚の『筑摩全集類聚 芥川龍之介全集』(筑摩書房)を引っ張りだしてきて、その『蜜柑』を読んでみることにした。
 大正8年4月発表の短篇作『蜜柑』は、芥川が横須賀の海軍機関学校の教師をしていた頃の作品である。同年3月に学校を辞め、大阪毎日新聞社の嘱託社員として、同社に小説を送っていた。ちなみに『蜜柑』は書き出しが『羅生門』とよく似ている。《ある曇った冬の日暮れである》(『羅生門』の書き出…

『洋酒天国』と野球が俺を呼んでいる

当ブログで数多く紹介している“ヨーテン”コレクション。かつての壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)の本。今回の昭和35年8月発行の第48号は、私にとって鬼門中の鬼門の号。何故なら…。
 理由はしごく簡単。この号は野球特集号だからだ。野球が苦手な私にとって、この号を解説するのはかなり難儀。  とにかく、隅から隅まで、隙間さえないほど野球、野球、野球の記事ばかりで驚く。ちょっとくらい小休止的にお色気コーナーがあるかなと思いきや、そんなものはどこにも無い。なんとなく本の厚みも増している気がする。
 しかもこれら野球の内容が、ジョーク一つない大真面目の連続ときているから困る。困り果てた。いつもの調子であれば、柳原良平氏や杉木直也さんらが描く裸ん坊のお嬢さんに野球帽を被らせ、バットを振るくらいのイラストがあっても良さそうなのに、この号にはそれが皆無である。これほどお色気もジョークもない“ヨーテン”は非常に珍しく、むしろ洋酒のPR誌として常軌を逸していると言っていいだろう。
 16ページにわたる「野球講談 ある大試合の顛末」(草柳大蔵述、土井栄絵)がめっぽう硬い。大真面目。まったくもって硬派な読み物となっている。  《昭和11年12月9日の朝、東京巨人軍の監督・藤本定義は、首に白い包帯をまいたまま家を出た》――という一文で始まる話なのだが、最近ではオコエ瑠偉の名前くらいしか知らない野球素人の私にとって、昭和の読売巨人軍の黄金時代を築いたという藤本監督や沢村栄治投手の繰り出す、その大試合の一挙手一投足が何であるかなど、語るのは言語道断。さっぱり訳が分からぬ難解きわまりない“社会派推理小説”に思えてくる。  結局、この「ある大試合の顛末」に書かれてある野球の内容というのは私にとって、難解な評論で有名な小林秀雄の作品やジョイスの小説を読むより難しく、その機微をとらえきれず、オスカー・ワイルドの『サロメ』が恋しくなるほどなのである。
*
 逃げるようにしてページをめくれば、そこも野球。「HOW TO PLAY BASEBALL?」。  「HOW TO PLAY…」なんて、医学博士・奈良林祥先生の名著『HOW TO SEX』の間違いなんじゃないの? と突っ込みを入れたくなるくらい、かなり誌面を割いて真剣に大真面目に、野球とはなんぞやをレクチャーしてしまっている。練習、投手、捕手、1…

冬牡丹への懸想

真新しい新潮文庫で漱石の『行人』を読んだのは、“昨年”のこと――と思い込んでいて直ちにツイッターで確認したところ、それは間違いで一昨年の秋であったことに気づいた。
 時間経過の感覚が歳をとる毎に短くなっていくようだ。新潮文庫の真新しさがそれを狂わせたのかも知れない。10年前などつい最近。20年前などほんの少し前のこと、といった具合に過去の感じ方が実際とはずれてしまう。2週間前のことが、5日くらい前のことのように感じることもある。  そのうち、ふと目が覚めれば3年が過ぎていた――というような三年寝太郎の真逆的感覚が、我が身にやって来るとも限らない。

*
 ところで、『行人』をほんの少し読み返したかったのは、「塵労」の章で主人公・長野二郎が父に連れられ、上野の表慶館から東照宮へ向かうまでの数十行を確認したかったからである。ちなみに『行人』は、大正元年から翌年にかけて朝日新聞で連載された長編小説だ。
 小説に出てくる表慶館とは、今も現存する東京国立博物館内の建物のことであり、明治42年に建てられた洋風建築の美術館。小説では父と二郎がそこで利休の手紙を観たり、王羲之の書や応挙の画を観たりしている。《父は玉だの高麗焼だのの講釈をした》とあって二人が出会った本意は本当は別のところにあったにもかかわらず、それなりに館内を堪能した記述となっている。  表慶館を出た後、東照宮の前まで二人は歩く。この間、かなり長い道程での会話なり描写はさっ引かれている。《精養軒で飯でも食うか》と父は言ったものの、あいにくそこは結婚披露宴客で混雑していて、場所を変えて広小路あたりの洋食屋で昼飯、というふうになる。
 ――今月の初め、私は上野の東照宮を訪れた。上野東照宮は1627年創建の、徳川家康を祀った神社。上野動物園近く、恩賜公園にある東照宮第一売店の隣に大石鳥居があり、その先の赤い水舎門をくぐると、灯籠が続く参道がある。ここは野村芳太郎監督の映画『鬼畜』のロケとなった場所であるが、その奥に唐門及び社殿がある。『行人』の二郎と父親はここを訪れていない。
 近年の長い修復工事により、唐門と社殿は金色の輝きの度合いが増し、それまでとは印象が異なる造形となった。私も久しぶりにここを訪れて、それに気がついた。特に各部の彫刻が修復によって実に鮮明になって炙り出されていたので、今までの、少々見窄らしかった東…

板橋文夫のピアノ曲「渡良瀬」

北関東を流れる渡良瀬川についてまず触れておく。

《足尾山地の北西縁と南縁に沿って流れる利根川の支流。全長109キロメートル、流域面積約2,745平方キロメートル。水源は栃木・群馬両県境にある皇海山(2,144メートル)の東ろくにあり、足尾町で多くの支流を集め、南西流して群馬県に入り、花輪(はなわ)の山間盆地をへて大間々で関東平野に出る。これから南東流して足尾山地の南西縁に沿い、桐生・足利・佐野市をへて赤麻(あかま)の遊水池に達し、古河(こが)市をへて栗橋の鉄橋の上流で利根川に合流する。山地の荒廃と急流から直ちに低湿地に流出するため洪水がしばしば起り、古くから有名である。発電所は福岡、大間々などがあるが、いずれも規模は大きくない。なお現在建設省と群馬県の手で多目的の神戸(ごうど)ダムが建設されつつある》 (平凡社『世界大百科事典』1968年初版より引用)
 古い『世界大百科事典』の渡良瀬川についての記述が、ここでは有用であるかと思われる。赤麻の遊水池とは、渡良瀬遊水池のことで、現在は渡良瀬貯水池(谷中湖)を含む。(遊水池は2012年ラムサール条約に登録された)。神戸ダムは1977年に完成した草木ダムを指し、これら遊水池やダムは主に治水目的で建設されたが、明治の足尾鉱毒事件に端を発していることは頭の片隅に置いておかなければならない。
*
 ジャズ・ピアニスト板橋文夫さんが1981年、日本コロムビアのスタジオにてデジタル録音したアルバム『わたらせ』の収録曲のうち、7分35秒にわたるピアノ・ソロを「渡良瀬」と命名したことの由来について、私は少しも存じ得ていない点を恥じている。それを承知でこれを書こうと思っている。
 以前、佐伯一麦氏の小説『渡良瀬』に出会った(当ブログ「『渡良瀬』とわたし」参照)際に、板橋さんの「渡良瀬」も知った。ちなみにあの小説では、配電盤茨城団地のことが書かれているが、渡良瀬川とは地理的に少し距離がある。ただ、著者の家族が引っ越しのために川の鉄橋を渡り、川を渡りきったことによる運命的な人生の分岐をひどく観念したような話が出てきて、渡良瀬川とはそういう川なのかということをまざまざと感じた。
 板橋文夫さんがピアノ・ソロ「渡良瀬」で表現した渡良瀬は、暗い川ではない。1949年生まれ栃木県の足利出身で、先述した渡良瀬川の古い変遷こそが、彼が見ていたであろ…

司法試験とゴウカクリカタと漱石

昨年の12月。新聞を読んでいてたまたま目に付いた青年の服装が、実に清廉さを帯びていて美麗だと思った。カジュアルなのかフォーマルなのか。ちょうどそんなようなカジュアルの黒色のテーラードジャケットを探していたので、こういう型のジャケットもいいのではないかと、その青年の写真を一つの参考とすることにした。
 記事を切り抜いて眺めているうちに、司法試験というものにも少し興味を覚えた。司法試験はおろか、これまで学生時代に受けてきた試験の数々は、私にはとてもしんどい、いい思い出がまったくない。私は「出来損ない」なのである。  しかしながら何故か、司法試験という未開の領域に興味を覚えてしまって、今年になって漱石の『彼岸過迄』を読み始めたのも、その新聞記事がきっかけであった。  漱石についてはあとで書く。まず何より、その記事を紹介しておきたい。12月28日付朝日新聞朝刊の“ひと”というコラム「日刊両国の司法試験に合格した趙友相さん」。美麗な服装が目に付いたついでに、私はその記事を読んでみた。
 まとめるとこうなる。趙友相(ジョ ウサン)さんはソウル出身で、父は日韓の貿易業を営んでいた。父親のように、日韓を行き来する仕事がしたい。そうして彼は、慶應大の法学部を経て東大法科大学院を卒業。一発で司法試験に合格。さらに韓国の法律も学び、4度目の挑戦で韓国の司法試験にも合格。大まかな経歴になるが、趙友相さんは韓国で兵役に就いてから除隊後に、日韓の司法修習を受けるのだという。  司法の道はなかなか険しそうだ。が、これを読んで俄然、司法試験とはどんな仕組みなのか、私は調べてみたくなった。
*

 ちょうどそんな時にめぼしい本が見つかった。『工藤北斗の司法試験予備試験最速の合格り方』(慶應義塾大学出版会)。本の帯には、「カリスマ司法試験講師が語るその勉強法!」とある。   工藤北斗さんは1984年生まれである。書かれている文章もなんとなく若々しい。ついつい私は、〈ちょっと司法試験を受けてみようか〉と、ほんの一瞬、妄想に駆られてしまった。それくらい、文章の説明の具合が柔らかくて読みやすい。  ところで私は最初、本の題を“ゴウカクリカタ”と頭の中で読んでしまったが、“ウカリカタ”が正しい。でも、この本は“ゴウカクリカタ”だ。そういう感じの本なのである。
 司法だとか法曹だとか、その分野の門外漢の私で…

レンブラントを愛した中村彝

いきなり蛇足になるが、昨年の夏、梶井基次郎の「闇の絵巻」を読んでいて、私自身の幼い頃のある記憶が甦ってきたことがあった。

 ――虫のざわめきが微かに聞こえる夜。踏切の前で停止する母の自転車の後部に乗っていた幼少の私は、ふと見上げた。踏切の電灯があたりを明るく照らしている。その電灯に、蛾や小さな虫が群がってかけっこをしている。私は吸い込まれるようにしてその高く設置された電灯をずっと見ていた。音を感じなくなった。夜を感じた。それは毎週同じ夜に眺めていた光景――。
 今思えば、それがレンブラントの絵で見られるような、光の明暗の仕業だったのだ。  絵画にしろ舞台にしろ、あるいは写真や映画にしろ、真の闇そのものは描くことができない。えがくというのは、可視光の色の調子の観察だからである。月の光そして人がもたらす人為的人工的な源光。ロウソクの炎、松明、ガス灯、電灯。真の闇があってそこに光が投射される。  人の顔が浮かび上がる。光の白い、明るい領域。影の黒い、暗い領域。人工的な光を見て、相対的に闇や夜を感じる。それが画としてきわめて印象的な、何かを訴えてくるような神妙な雰囲気に包まれることがある。
*
 閑話休題。私は昨日、“中村彝”が気がかりで、六本木の森アーツセンターギャラリーの『フェルメールとレンブラント 17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展』を観に行った。  純粋な気持ちでフェルメールとレンブラントあるいは17世紀オランダの画家たちの画を観に行くのではない。あくまで中村彝という日本の洋画家を慮ってそれを観に行く。おそらくそんな理由でレンブラントの画を観に行く人は、一人もいないのではないだろうか。
 明治・大正時代の洋画家、中村彝(つね)。彼は1887年(明治20年)茨城県の水戸に生まれ、1924年(大正13年)喀血による窒息で死去。享年37歳。生涯結核に苦しみながら絵を描き続けた画家である(当ブログ「下落合のアトリエ」「中村屋サロンと中村彝」参照)。
 中村家はもともと軍人気質の家柄で、長兄は1904年に日露戦争で戦死している。病弱だった彝は各地で療養しながら大好きな絵を描き、若い頃は白馬会だとか太平洋画会といった研究所で画を学んだ。それから新宿・中村屋の相馬愛蔵氏と出会い、援助を受ける。  ところが愛蔵の娘・俊子との恋に破れた後、中村屋のアトリエを離れることになる。…