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冬牡丹への懸想

水舎門をくぐれば東照宮。そしてぼたん苑
 真新しい新潮文庫で漱石の『行人』を読んだのは、“昨年”のこと――と思い込んでいて直ちにツイッターで確認したところ、それは間違いで一昨年の秋であったことに気づいた。

 時間経過の感覚が歳をとる毎に短くなっていくようだ。新潮文庫の真新しさがそれを狂わせたのかも知れない。10年前などつい最近。20年前などほんの少し前のこと、といった具合に過去の感じ方が実際とはずれてしまう。2週間前のことが、5日くらい前のことのように感じることもある。
 そのうち、ふと目が覚めれば3年が過ぎていた――というような三年寝太郎の真逆的感覚が、我が身にやって来るとも限らない。

*

 ところで、『行人』をほんの少し読み返したかったのは、「塵労」の章で主人公・長野二郎が父に連れられ、上野の表慶館から東照宮へ向かうまでの数十行を確認したかったからである。ちなみに『行人』は、大正元年から翌年にかけて朝日新聞で連載された長編小説だ。

 小説に出てくる表慶館とは、今も現存する東京国立博物館内の建物のことであり、明治42年に建てられた洋風建築の美術館。小説では父と二郎がそこで利休の手紙を観たり、王羲之の書や応挙の画を観たりしている。《父は玉だの高麗焼だのの講釈をした》とあって二人が出会った本意は本当は別のところにあったにもかかわらず、それなりに館内を堪能した記述となっている。
 表慶館を出た後、東照宮の前まで二人は歩く。この間、かなり長い道程での会話なり描写はさっ引かれている。《精養軒で飯でも食うか》と父は言ったものの、あいにくそこは結婚披露宴客で混雑していて、場所を変えて広小路あたりの洋食屋で昼飯、というふうになる。

金色に輝く上野東照宮の唐門
 ――今月の初め、私は上野の東照宮を訪れた。上野東照宮は1627年創建の、徳川家康を祀った神社。上野動物園近く、恩賜公園にある東照宮第一売店の隣に大石鳥居があり、その先の赤い水舎門をくぐると、灯籠が続く参道がある。ここは野村芳太郎監督の映画『鬼畜』のロケとなった場所であるが、その奥に唐門及び社殿がある。『行人』の二郎と父親はここを訪れていない。

 近年の長い修復工事により、唐門と社殿は金色の輝きの度合いが増し、それまでとは印象が異なる造形となった。私も久しぶりにここを訪れて、それに気がついた。特に各部の彫刻が修復によって実に鮮明になって炙り出されていたので、今までの、少々見窄らしかった東照宮に慣れていた眼が痛く感じられたほどだ。いずれにせよここへは後々、じっくりと工芸のすべてを拝観しに来なければ、と思っている。

 東照宮ぼたん苑の冬牡丹。「上野・東照宮冬ぼたん」は毎年1月2月に開催され、私は前回、2011年にここを訪れている(当ブログ「冬ぼたんと木下杢太郎」参照)。ぼたん苑では200株もの冬牡丹(春咲きの牡丹を人工的に促成栽培したもの)が観られ、花の少ない冬の、公園内のアイドル的スポットとなっている。
 ともかくここへ来てカメラを向けるのが私の楽しみなのだ。たまたま手に取ったぼたん苑のパンフレットが中国語だったので、それを読み下すのに苦労する。諸説牡丹は奈良時代に中国から日本に伝わり、江戸時代には盛んに栽培された云々、とだけは読めた。平安時代の『枕草子』だとか『蜻蛉日記』云々とも書いてあった。

 ぼたん苑に「島錦」という品種がある。そのうちの一つにカメラを向けた。花弁の巧みが高貴を漂わせ、紫色と言っても赤に近い紫と青に近い紫とがあり、その彩色の対照がたまらなく艶やかで心を和ませてくれる。

手前の冬牡丹「島錦」
 どの品種でも、どの島錦でも良い――というのではない。花は所詮花だ、とはどうも思えなくなった。
 恐るべきことに、この一傘の下で花開いた紫の牡丹は、まるで木漏れ日の陰に佇んだ美しい三姉妹のようである。私は思った。花への懸想。花に恋するという実感を、この瞬間に噛みしめた。

 私も、そこで味わった情感を大きくさっ引いて割愛することにする。要するに恋するとは、時空を超越すること。漱石の『夢十夜』で、墓の前で一輪の百合の花に出くわす話がある。花に出くわした時、既に100年が経過していた、という世にも恐ろしい夢である。

 〈どうか、そっとしておいて下さい〉。
 紫の牡丹の三姉妹が、私にそっと呟いた。これ以上、何もしまい。が、私は立ち去るのが億劫になった。

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YELLOWSという裸体

ざっくりと大まかに言ってしまえば、まだ1990年代初頭の頃は、テレビのワイドショーでも“ヌード”が“語られる”大らかな時代であった。五味彬氏の“YELLOWS”シリーズがテレビで話題になると、私自身も単純な興味本位から、風雅書房出版のそれらの写真集をなんとか入手しようと躍起になった。しかし、都内の紀伊國屋であるとか丸善であるとか、あるいは神保町界隈の美術書専門書肆で、あの大判の写真集を直に買い求めることは、私には到底できなかったのである。

 “YELLOWS”とは一体どんなシリーズであったか。

 いわゆるシロウト、プロのモデルではない一般の若い女性達を100名募り、一人ずつスタジオの中で蝋人形のように無機質に直立させて、その全裸姿を、正面、背面、側面のアングルから写真に収めるといった国内では前代未聞の画期的な企画であり、若い日本人女性を美術解剖学的に標本化しようとした大真面目なプロジェクトであった。
 ただし、ワイドショーその他のメディアでは、全裸しかも女性のピュービック・ヘアを露出させた「衝撃の」写真集としてのみ話題になって、それが黄色人種の日本人であろうとなかろうと、身体を写真として標本化し、それぞれの女性の体型を比較対照するといった科学的な見地と関心は、まったく度外視されてしまったのだ。

 後年、私はこのシリーズのうちの『YELLOWS 2.0 Tokyo 1993』を入手することができた。が、実際に本を開いて写真を見たところ、想像していた写真とはだいぶ違ってリアリティがなく、100名の女性の全裸に圧倒されることはなかった。それは何故か。

 この写真集の冒頭には、11人もの錚錚たる著名人が解説を寄稿している。飯沢耕太郎氏の解説の中に、そのヒントが隠されていた。

《どこにでもある撮影現場の雰囲気なのだが、やや変わっているのは三脚に据えられたカメラからコードが伸びて、ビデオ・モニターやパソコンと接続していること。電子スチルカメラのシステムを使っているため、シャッターを切るとその瞬間の映像がモニターの画面に出てくる。わずらわしいポラロイド撮影などする必要がなくて便利である。デジタル化して記録された情報は、あとでプリント・アウトすることもできる》

 写真集の巻末ページに記されていたシューティング・データに、“Kodak DCS3 Camera”とあった。そうなの…

人生ゲームと約束手形

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月1日付「人生ゲームと約束手形」より)。

 学生時代までに所有していた無数の古いボードゲームは、以前オークションなどでほとんど売却したものの、前に紹介した「シークレットポリス」や「人生ゲーム」の各種(ヴァージョン違い)はなかなか手放すことができず、今でも眠った状態になっています。  ミルトン・ブラッドレー社の「GAME OF LIFE」(=人生ゲーム)の初代盤が私にとって生涯初めてプレイしたボードゲームで、アート・リンクレター氏の肖像写真がとても印象に残っています。彼の肖像は備品のドル札の顔写真にも登場しています。
《2,500ドルをもって人生のコースをスタートし、さまざまな成功、失敗、仕返しを繰りひろげながら早く億万長者になったひとが勝つゲームです》
 子供から大人まで楽しめるボードゲームとは言うけれど、いま考えてみれば、「人生ゲーム」はかなり大人びた内容になっていて、小学生が「楽しむ」には、それなりの金銭感覚や経済、その他の知識が必要であったように思われます。
 実際、当時小学生であった我々が「人生ゲーム」で遊ぶとき、いちばんわからなかった、わかりづらかったのが、“約束手形”の切り方。  少なくとも我々がプレイしたときは、〈金が無いなら無いでいいじゃん〉という暗黙の方式をとりました。つまりどこかのマスに止まって、請求が生じた際、金が無いなら払わなくてもいい、という独自の子供らしい(ある意味安直な)ルールでした。  確かに、プレイ中に他人のドル札が次第に“赤く”染まっていくのを見ればゲームとしては盛り上がる反面、どこか悲壮感が漂うのも事実です。子供時代に「手形を切る」ルールを採用しなくて正解だった――とも思います。
 ちなみに、1980年の2代目「人生ゲーム」のルールでは、「借金」について以下のようになっていました。
《●銀行からの借金 必要に応じて20,000ドル単位として借りることができます。ただし次の場合は例外として借り出せません。
a 賭けをするとき、b 誰かから仕返しをされて100,000ドル払えないとき。
銀行家は20,000ドルごとに赤い約束手形と一緒にドルを貸しだします。借金を返済するときは20,000ドルのおさつに約束手形をつけて銀行に返します。500ドルの利息をとられ…

武満徹―暗い河の流れに

先月末の当ブログ「大阪万博と音響彫刻のこと」で記した、1970年大阪万博・鉄鋼館におけるフランソワ・バシェの「音響彫刻」に関して、あらためてここでご報告したいことがある。「音響彫刻」復元に向けてのクラウドファンディングの資金総額が先日、なんと目標金額200万円を上回ったとのこと(※現時点で300万円を超えた)。その急報を受け、復元実現への大きな一歩となることに安堵を覚え、何よりも喜びが絶えない。これも多くの方々の趣旨賛同の協力と支援による成果であり、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思う。今後とも、さらにこのプロジェクトの経過を見守っていただければ幸いである。 §
 さてこうして、当時バシェの「音響彫刻」を依頼した音楽家・武満徹氏の過去の作品や活動について、個人的な興味が近頃熱を帯びてきたため、彼の諸々の作品に出合う機会が多くなってきている。
 彼の映画音楽以外で、音楽CDを初めて聴いたのは、確か12年前のことである。東京都交響楽団・外山雄三指揮の「地平線のドーリア」。私がその時、どのような理由でそれを買い求め、彼の作品をとらえようとしていたのか、今となっては判然としない。が、その前提にあったのは、これはおそらく間違いないことであろうけれども、高校の国語教科書(筑摩書房)にあった彼の随筆「暗い河の流れに」の木訥とした文章の記憶と、そこに掲載されていたアメリカ出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)の、まるで精彩を欠いたリリーフ画のような古いモノクロ写真の印象とが、あまりにも憂鬱な記憶の陰にあったからだろう。再び私は随筆「暗い河の流れに」を読み、武満徹氏の思想的感覚の在処を考えてみることにした。
 私が高校時代に使用していた筑摩書房の国語教科書は、今でも時折開くことがあるのだけれど、美術家イワサキ・ミツル氏の抽象画の装幀がなんとも不気味で謎めいていて、本を開く前の心が落ち着かなくなる。この一つの抽象画の存在によって、教科書に出てくる様々な作品に対するイメージが、ほとんどすべて、暗がりの木に潜む孤高な梟と化し、その印象は一つ一つ暗い。武満徹の随筆「暗い河の流れ」は最も孤高とも思え、当時私はこれを読むことを避けた。この随筆は教科書の中で「評論」の章題に属しているが、授業のテーマに挙げられることはなかったのである。
 「暗い河の流…

ファミコンの思い出―プロレス

深田洋介編『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を読んでみると、その熱い思い出を語るほとんどの方々が、1970年代生まれであるという事実に、言葉では言い尽くせない共時性の発見があって面白い。
 ファミコンすなわち任天堂の8ビットテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」の歴史を簡単にたどってみる。  小豆色がイメージカラーの華奢な本体が1983年夏に発売開始され、徐々にヒット商品となり、85年までに650万台以上が販売されたという。ちなみに、1983年はどんな年であったかというと、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』の大ブーム、東京ディズニーランドの開園、そして田原俊彦の「さらば…夏」が第14回日本歌謡大賞のグランプリを受賞した年だ。  ファミコンの全盛期はおそらく86年頃だと思われるが、発売開始から約10年後の1994年に新作ソフトの発売が終了されるまでの期間は、まさに70年代生まれの世代が小学生から成人になるまでの成長期とほぼ合致しており、この団塊ジュニアと言われる世代の、衣食住に浸透しきったファミコン依存度は頗る夥しいと言わざるを得ず、極論すればファミコンは、70年代生まれの世代にだけ付与された電子玩具信仰だったわけである。
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 閑話休題。ファミコンのゲームで私が最も熱狂したのは、任天堂のディスクシステムで1986年に発売された、『プロレス』だった。当時の熱狂的なプロレスファンであればこのゲームにかじりつくのは自明で、これ以前に発売されていた『キン肉マン マッスルタッグマッチ』だとか『タッグチームプロレスリング』でなんとなく消化不良を感じていたプロレスファンは、この『プロレス』の発売で誰しもが溜飲を下げたことだろうと思う。
 このゲームの取扱説明書の表紙を最初に見た時、それがチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木似のキャラクターであることに、まず大きな感動を覚えた。これはもしかすると、テレビゲーム史上初めてアントニオ猪木似のキャラクターが登場したゲームソフトだったのではないかと思うのだが、確かなことはよく分からない。いずれにしても、キン肉マンや長州力やストロングマシンではない、マット界の真打ちの登場には拍手喝采だった。
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 『プロレス』は、1人プレイモードと2人プレイモードが用意されていて、1人プレイモードは5分1本勝負のランキング制であった。勝ち抜けば…